三酒は物分かりのいい子です。
米倉酒造という酒屋の跡取りであることを理解し、跡取りとして何を為さねばいけぬのか、理解して実行していらっしゃる。店の手伝いをする風にして、間違えて店番のお姉様方からご寵愛を受ける。それが円満に店を存続させていく術であることを理解してしまっているのでございます。
さて、私はというと、あまり店には顔を出しておりません。若女将としての勤めが無いわけではございませんが、あえて店から離れているのです。主人である一精さんと決めたのです。
「三酒坊ちゃんって、一精さまのお子さまですよね。あんまり似てないですよね、ほら眉毛が太めなところとか。」
「あぁ、妻に似ているんですよ。ちょっと店には出られませんが。」
表向きには産後の肥立が悪く、店に出られないことにしてあります。本当は三酒を私似ということにするため、なのです。
私も眉は太くありません。細身のまっすぐな眉が伸びています。自分で言うのも気が引けますが、人気の女郎だったくらいの見た目はあります。太い眉は、三酒の父親がそうだったのでしょう。今となっては誰なのかもわかりません。三酒の一精さに似ていない部分を全て私が吸収するため、こうして家に籠ることにしたのでした。
「お母さま、ただいま帰りました。」
「おかえりなさい。今日はどうでした?」
「はい。新しく橋の薬屋さんで酒を置いてもらうことになりました。あとは園田さんのお宅で宴会があるそうで、よく売れましたよ。」
「そう。じゃあ三酒も頑張って運ばなくてはね。」
三酒はニコッと返事をすると、手を洗いに流しへ行きました。三酒がいた玄関には一精さんが立ち尽くしています。
「あら、早いのね。」
「ああ、ちょっと。」
一精さんはそう言いながら三酒が風呂を済ませ、夕食をとるまでずっとそこに立っていました。
「一精さん、夕食は?」
「うん、今日はいい。なあ三酒。明日、牛でも食べないか?」
「お父さま、牛ですか? 僕、大好きです! 嬉しい。」
三酒は小躍りをしながら部屋に戻って寝る支度を始めます。一精さんの口元はその様子を見て笑っているのに、目には光がありません。
「どうなさいました? 牛だなんて、何かいいことありましたの?」
米倉酒造は大きな酒屋ではありません。飲んでもらえる分だけ作って売る。だから牛とか鰻とか、いいものを食べるのも特別な時だけだったのです。
「いや、いや。」
そのとき初めて、私は一精さんの目に光るものを認めたのでした。
三酒が寝付くまで、一精さんは何もしゃべらずにいました。三酒が寝付くと私の前に七輪を出して見せたのです。
「これで牛を焼くのですか?」
一精さんは目をつぶって横に首を振るばかり。よく見てみると中に入っているのは歪な形の木炭ではなく規則正しい形をした練炭でした。
「明日、牛を食べて、そのまま。」
一精さんの震える指先を、温かい私の手で包みます。
「それでは三酒を跡取りにできません。どうなさったのですか?」
一精さんの言うには、もう店が立ち行かないのだそうです。お給金も先月から払えず、今月の支払いも待ってもらっているものの、払えるめどもなく。これしか詫びる方法がないのだと。
「一精さん。『お詫び』というのは道を断つことではございませぬ。次を見つけることなのです。ここは私にお任せくださいませ。」
私はありったけの「温」を一精さんの手に込めました。すると真っ白になっていた腕やら首やらに、血の気が戻ってきたのでした。
翌る日。私は一精さんの代わりに店の朝会に出向きました。
「あれ? 今日、若旦那は?」
「こういうことは主人の口から申し上げるのは酷でございますゆえ。」
真っ先に口を開いたのは、一番の古株、杜氏のおカツさんでした。
「若旦那に言わせるのが酷って、まさか倒産かい? そういえばお給金遅れてるし。でも、前もそんなことあったじゃないか!」
みなおカツさんの声に賛同します。まさか倒産とは、望んではいなくとも、脳裏をよぎる伏線はたくさんあったようです。
「倒産は致しません。ただ、少しばかり店を小さくしましょうと。」
「少しって、一畳? 一坪?」
女性の最古参、店番娘の長女おマツさんが声を上げました。
「いえ、店の広さは変えませぬ。みなさんを、よりみなさんでいられる所にお送りしたいと存じております。」
へえ。私たちが考えたのは後の世に言う「リストラ」です。ただ、先祖代々のこの店を守ってきてくださったみなさまもまた、先祖代々お勤めいただいている方々なのでした。なので、みなさまの希望を聞き、より良きところにお送りしようと考えたのでした。
「わ、若女将? 本当に私なんかがこんなところに来ていいのかい?」
数日後。おマツさんを連れて、街のカフェーにやって来ました。
「あぁ、あんた!」
「へぇ。お世話になりんした。」
カフェーから出て来たのは私といくらも歳の違わない女給でした。彼女は女郎のころ世話になった雪藤。無事にカフェーの店主に身請けが決まり、今はここで細々と働いていると聞いていたのです。
「やっぱ月影よね? やー、無事だったなら言ってちょうだいな。で、そちらは?」
「こちら今お世話になっているおマツさん。すごく品のいい看板娘で、うちには勿体なくなってしまって。このカフェーならおマツさんの丁寧な接客が生きるかなって思ったんだけど。」
雪藤は二つ返事で首を縦に振りながら、おマツの手を引いてカフェーに入って行きました。
「じゃあ、また来てよ。待ってるからね!」
こうして心当たりを頼っているうちに、ほとんどの「次」が決まりました。あとは杜氏のおカツさんを残すのみ。
「亀吉? んなところ行くわけなかろうが!」
おカツさんには名のある酒蔵を何軒かご紹介しました。この亀吉だって、この辺りでは一番の名もあり酒もうまい酒屋だったのです。
「若女将、あんたなーんにもわかっちゃいない。おれは、おれの酒が作りたいんじゃ。他人の酒蔵で、他人の言うこときいてなんて、おれにはできねぇ。」
たしかに、おカツさんはワンマンで米倉酒造を支えているお方。他人の下で酒を作らされる、なんてことは許さぬのでしょう。
「ではおカツさんの酒蔵なら良いのですね。」
「ああ。」
「それがたとえ売れぬ酒だとしても。」
「ああ。」
そうなると私にはひとつだけ、心当たりがありました。
押入れの奥に昔着ていた着物がしまってあります。それを引き出しました。その中でも上等の、金の糸で小さな月が刺繍されているものを選びました。勝負服というやつです。着付けと化粧を終えて最後に口に紅を差しました。初めての客にもらった上等品です。
「うん。」
私はいつものわら草履の隣に置いた革張りの草履を履きました。そしてあのお方のところへ、です。
「月影、どうしたんだい? 全然連絡もよこさないで。」
「へぇ。こう、なんと申してよいやら、というような人生を送っていますゆえ、なんと申してよいやらなのです。」
約束したお茶屋にいらしたのは、園田さまの旦那でした。いつか三酒が「宴会をする」と言っていた園田さまです。かつて私をご贔屓にしてくださった方なのでした。
「この俺に話せぬことがあるとは。月影も大人になったよのぉ。」
愛想笑いで応対していると、園田さまはゴツゴツと骨ばった手で私の膝をさすります。昔の合図がそうであったように。
「園田さま。おりいってお願いがございます。その、杜氏を1人、園田さまのお宅においてはいただけませんでしょうか?」
「はあ? 杜氏? なんでまた。」
「私、米倉酒造の経営に関わる立場の方と近いのですが、どうも間もなく蔵を閉めることになりそうなのです。杜氏の腕はピカイチですから、1番の取引がある園田さまのお宅でと思いまして。」
園田さまの手が私の膝から離れました。
「月影、お前、米倉酒造のなんなんだい?」
私は耳元の毛をかき上げながら申し上げます。
「へぇ。若女将をつとめております。」
「若女将、ってことは一精坊ちゃんの。」
「へぇ。妻にございます。」
園田さまはその場で2、3歩、膝立ちの後退りをなさいます。園田さまにも妻子があり、私にも家庭がある。そしてこの場はかつて逢瀬を重ねた茶屋なのです。
「ここに呼び出したってことは、わかってるよな?」
「へぇ。」
私は正座の膝を崩して湯呑みを取るため、左手をついて右手を伸ばします。すると右の襟元から冷たい風が入ってくるのを感じました。自然と左手で落ちた襟を正します。
「何恥ずかしがってんだ。わかってるよな?」
「園田さまもわかっておいでてございましょうか?」
「は?」
左手を元に戻し、襟も元通り落ちています。その着崩れたまま、四つん這いで一歩一歩園田さまに近づきます。
「園田さまにも妻子があります。いまは私にも主人と子がおります。そんな2人がここで相引きしていると。言うは易しでございます。もしお引き受けいただけなければ、若旦那にこのことを…。」
言い淀む頃には園田さまの頬に吐息が当たるほど近く、赤の長襦袢が顔を覗かせるほど、襟は緩んでおりました。
「ああ、わかったわかった。だがこちらもこちらで、希望は通させていただかねば、同じことよの。今宵はいつまで?」
園田さまは少しだけ首を後ろにもたげました。
「へぇ。いつまでも。今宵は帰れぬと家を出ましたゆえ…。」
最後まで言い終えぬうちに、首に手を回されました。その後のことは、とても言葉にはなりませぬ。
米倉酒造という酒屋の跡取りであることを理解し、跡取りとして何を為さねばいけぬのか、理解して実行していらっしゃる。店の手伝いをする風にして、間違えて店番のお姉様方からご寵愛を受ける。それが円満に店を存続させていく術であることを理解してしまっているのでございます。
さて、私はというと、あまり店には顔を出しておりません。若女将としての勤めが無いわけではございませんが、あえて店から離れているのです。主人である一精さんと決めたのです。
「三酒坊ちゃんって、一精さまのお子さまですよね。あんまり似てないですよね、ほら眉毛が太めなところとか。」
「あぁ、妻に似ているんですよ。ちょっと店には出られませんが。」
表向きには産後の肥立が悪く、店に出られないことにしてあります。本当は三酒を私似ということにするため、なのです。
私も眉は太くありません。細身のまっすぐな眉が伸びています。自分で言うのも気が引けますが、人気の女郎だったくらいの見た目はあります。太い眉は、三酒の父親がそうだったのでしょう。今となっては誰なのかもわかりません。三酒の一精さに似ていない部分を全て私が吸収するため、こうして家に籠ることにしたのでした。
「お母さま、ただいま帰りました。」
「おかえりなさい。今日はどうでした?」
「はい。新しく橋の薬屋さんで酒を置いてもらうことになりました。あとは園田さんのお宅で宴会があるそうで、よく売れましたよ。」
「そう。じゃあ三酒も頑張って運ばなくてはね。」
三酒はニコッと返事をすると、手を洗いに流しへ行きました。三酒がいた玄関には一精さんが立ち尽くしています。
「あら、早いのね。」
「ああ、ちょっと。」
一精さんはそう言いながら三酒が風呂を済ませ、夕食をとるまでずっとそこに立っていました。
「一精さん、夕食は?」
「うん、今日はいい。なあ三酒。明日、牛でも食べないか?」
「お父さま、牛ですか? 僕、大好きです! 嬉しい。」
三酒は小躍りをしながら部屋に戻って寝る支度を始めます。一精さんの口元はその様子を見て笑っているのに、目には光がありません。
「どうなさいました? 牛だなんて、何かいいことありましたの?」
米倉酒造は大きな酒屋ではありません。飲んでもらえる分だけ作って売る。だから牛とか鰻とか、いいものを食べるのも特別な時だけだったのです。
「いや、いや。」
そのとき初めて、私は一精さんの目に光るものを認めたのでした。
三酒が寝付くまで、一精さんは何もしゃべらずにいました。三酒が寝付くと私の前に七輪を出して見せたのです。
「これで牛を焼くのですか?」
一精さんは目をつぶって横に首を振るばかり。よく見てみると中に入っているのは歪な形の木炭ではなく規則正しい形をした練炭でした。
「明日、牛を食べて、そのまま。」
一精さんの震える指先を、温かい私の手で包みます。
「それでは三酒を跡取りにできません。どうなさったのですか?」
一精さんの言うには、もう店が立ち行かないのだそうです。お給金も先月から払えず、今月の支払いも待ってもらっているものの、払えるめどもなく。これしか詫びる方法がないのだと。
「一精さん。『お詫び』というのは道を断つことではございませぬ。次を見つけることなのです。ここは私にお任せくださいませ。」
私はありったけの「温」を一精さんの手に込めました。すると真っ白になっていた腕やら首やらに、血の気が戻ってきたのでした。
翌る日。私は一精さんの代わりに店の朝会に出向きました。
「あれ? 今日、若旦那は?」
「こういうことは主人の口から申し上げるのは酷でございますゆえ。」
真っ先に口を開いたのは、一番の古株、杜氏のおカツさんでした。
「若旦那に言わせるのが酷って、まさか倒産かい? そういえばお給金遅れてるし。でも、前もそんなことあったじゃないか!」
みなおカツさんの声に賛同します。まさか倒産とは、望んではいなくとも、脳裏をよぎる伏線はたくさんあったようです。
「倒産は致しません。ただ、少しばかり店を小さくしましょうと。」
「少しって、一畳? 一坪?」
女性の最古参、店番娘の長女おマツさんが声を上げました。
「いえ、店の広さは変えませぬ。みなさんを、よりみなさんでいられる所にお送りしたいと存じております。」
へえ。私たちが考えたのは後の世に言う「リストラ」です。ただ、先祖代々のこの店を守ってきてくださったみなさまもまた、先祖代々お勤めいただいている方々なのでした。なので、みなさまの希望を聞き、より良きところにお送りしようと考えたのでした。
「わ、若女将? 本当に私なんかがこんなところに来ていいのかい?」
数日後。おマツさんを連れて、街のカフェーにやって来ました。
「あぁ、あんた!」
「へぇ。お世話になりんした。」
カフェーから出て来たのは私といくらも歳の違わない女給でした。彼女は女郎のころ世話になった雪藤。無事にカフェーの店主に身請けが決まり、今はここで細々と働いていると聞いていたのです。
「やっぱ月影よね? やー、無事だったなら言ってちょうだいな。で、そちらは?」
「こちら今お世話になっているおマツさん。すごく品のいい看板娘で、うちには勿体なくなってしまって。このカフェーならおマツさんの丁寧な接客が生きるかなって思ったんだけど。」
雪藤は二つ返事で首を縦に振りながら、おマツの手を引いてカフェーに入って行きました。
「じゃあ、また来てよ。待ってるからね!」
こうして心当たりを頼っているうちに、ほとんどの「次」が決まりました。あとは杜氏のおカツさんを残すのみ。
「亀吉? んなところ行くわけなかろうが!」
おカツさんには名のある酒蔵を何軒かご紹介しました。この亀吉だって、この辺りでは一番の名もあり酒もうまい酒屋だったのです。
「若女将、あんたなーんにもわかっちゃいない。おれは、おれの酒が作りたいんじゃ。他人の酒蔵で、他人の言うこときいてなんて、おれにはできねぇ。」
たしかに、おカツさんはワンマンで米倉酒造を支えているお方。他人の下で酒を作らされる、なんてことは許さぬのでしょう。
「ではおカツさんの酒蔵なら良いのですね。」
「ああ。」
「それがたとえ売れぬ酒だとしても。」
「ああ。」
そうなると私にはひとつだけ、心当たりがありました。
押入れの奥に昔着ていた着物がしまってあります。それを引き出しました。その中でも上等の、金の糸で小さな月が刺繍されているものを選びました。勝負服というやつです。着付けと化粧を終えて最後に口に紅を差しました。初めての客にもらった上等品です。
「うん。」
私はいつものわら草履の隣に置いた革張りの草履を履きました。そしてあのお方のところへ、です。
「月影、どうしたんだい? 全然連絡もよこさないで。」
「へぇ。こう、なんと申してよいやら、というような人生を送っていますゆえ、なんと申してよいやらなのです。」
約束したお茶屋にいらしたのは、園田さまの旦那でした。いつか三酒が「宴会をする」と言っていた園田さまです。かつて私をご贔屓にしてくださった方なのでした。
「この俺に話せぬことがあるとは。月影も大人になったよのぉ。」
愛想笑いで応対していると、園田さまはゴツゴツと骨ばった手で私の膝をさすります。昔の合図がそうであったように。
「園田さま。おりいってお願いがございます。その、杜氏を1人、園田さまのお宅においてはいただけませんでしょうか?」
「はあ? 杜氏? なんでまた。」
「私、米倉酒造の経営に関わる立場の方と近いのですが、どうも間もなく蔵を閉めることになりそうなのです。杜氏の腕はピカイチですから、1番の取引がある園田さまのお宅でと思いまして。」
園田さまの手が私の膝から離れました。
「月影、お前、米倉酒造のなんなんだい?」
私は耳元の毛をかき上げながら申し上げます。
「へぇ。若女将をつとめております。」
「若女将、ってことは一精坊ちゃんの。」
「へぇ。妻にございます。」
園田さまはその場で2、3歩、膝立ちの後退りをなさいます。園田さまにも妻子があり、私にも家庭がある。そしてこの場はかつて逢瀬を重ねた茶屋なのです。
「ここに呼び出したってことは、わかってるよな?」
「へぇ。」
私は正座の膝を崩して湯呑みを取るため、左手をついて右手を伸ばします。すると右の襟元から冷たい風が入ってくるのを感じました。自然と左手で落ちた襟を正します。
「何恥ずかしがってんだ。わかってるよな?」
「園田さまもわかっておいでてございましょうか?」
「は?」
左手を元に戻し、襟も元通り落ちています。その着崩れたまま、四つん這いで一歩一歩園田さまに近づきます。
「園田さまにも妻子があります。いまは私にも主人と子がおります。そんな2人がここで相引きしていると。言うは易しでございます。もしお引き受けいただけなければ、若旦那にこのことを…。」
言い淀む頃には園田さまの頬に吐息が当たるほど近く、赤の長襦袢が顔を覗かせるほど、襟は緩んでおりました。
「ああ、わかったわかった。だがこちらもこちらで、希望は通させていただかねば、同じことよの。今宵はいつまで?」
園田さまは少しだけ首を後ろにもたげました。
「へぇ。いつまでも。今宵は帰れぬと家を出ましたゆえ…。」
最後まで言い終えぬうちに、首に手を回されました。その後のことは、とても言葉にはなりませぬ。



