酒。それは精を帯びた清きもの。無駄なものはいらぬ。米と水と麹。それだけで作る酒は、美味い。

 「一精(かずきよ)、あれは見たかい? 見合い写真。」

 「あー。」

 店の方から母が叫ぶように聞き、気の抜けた生返事をする。今まさに酒樽の上で酒の出来具合を見ているのだから。きちんとするべきは、酒に向かう姿勢のみ。

 「あーってあんた。じゃあ返事は? 会う? どうする?」

 「あーん、もー! うるさいな。」

 酒樽の壁を棒で叩くと、水面の泡が2つ弾けた。

 「もーはこっちのセリフだい。もう今月で5件目だよ。あんたのためなのに。」

 「どうしたんだ、こんなところで。」

 父親が入ってきた。母は聖域である酒蔵の柱から覗き込むように父親に言いつけ始める。

 「あなたも何とか言ってください。もう、一精がちっとも見合いに向かってくれなくて。」

 「そうだな。一精は酒一筋だからな。」

 女と話したのは尋常小学校の女教師が最後だ。もちろん母を除いて。

 「あー、今度遊びに行くといい。橋の薬屋の次男が遊び好きなはずだ。学校でも一緒だったろ?」

 橋の薬屋の次男。あー、草二(そうじ)。確かに草二は川遊びが好きだったが、一緒に川へ行って何になるのやら。

 *

 「遅いじゃないか、遅刻遅刻!」

 草二は懐中時計を扇子でバタバタたたきながら笑っている。いまだ時計を持ち合わせておらず、「6時に橋で」と言われても、だいぶ橋から離れている我が家からはかかる時間の検討もつかない。そもそもそこまで時間を気にしていない。

 「遅いか? でも今日はこれで(しま)いだろ? こんな暗くなっちゃ川なんか無理だろ。」

 「は? かず、おまえどうやって遊ぶつもりなんか?」

 草二は軽蔑の笑みを浮かべつつ、行き先も告げずに手を引き出した。いい歳の男2人。手を引かれてやってきたのは遊郭だった。

 「は? おまえ、こんなところ…。」

 「おれからしたら、おまえが『は?』だい。こんな歳にもなって女を知らんとはねぇ。」

 草二がグイグイ前に進むと、雪藤(ゆきふじ)と看板を下げた女が手を振ってきた。草二も手をあげてこたえる。

 「今日は? 寄ってかないの?」

 「ああ。今日はこいつの付き添いで。どうだ? 酒屋の跡取りなんだが。」

 ナチュラルに掴まれた肩の手を振り払う。「付き添い」って、おれはそんなこと頼んでいない。おれは、ここに居るのが、心底嫌だ。
 誰とも顔を合わせぬよう、下を向いて小走りに駆け出すと、上質の紬を着た紳士にぶつかった。

 「すみません。」

 彼は太い眉の眉間にシワを寄せ、くっつきそうなくらいの不機嫌だった。

 「すみません。本当にそんなつもりはなく。前を見ていなかったのが悪かったです。申し訳ありません。」

 ーー月影ちゃ〜ん!

 園田(そのだ)の旦那さまが呼びかけながら雪藤の居た長屋に入っていく。太眉の彼はため息をつきながら去っていった。

 「かず、気にすんな。あいつ、この辺じゃ有名な不機嫌おやじだから。きっと好みの女の子でも取られたんだろ。」

 今度は草二が肩に手を載せるのを甘んじて受け入れる。草二によると彼はカフェーをやってるらしい。

 「店は持ってるけど、全部女給に任せきりみたいだ。宝の持ち腐れだよ。まったく。」

 「有能な女給さんなのかも知れないし。」

 「そうかもな。『宝』って言える店かも怪しいが。」

 文明開花以後、街にカフェーが次々とできているが、そのチカとかいう店は流行っているとは言い難い人の入りのようだ。

 「まあ、いきなり遊郭に連れてきたのも悪いが、親父さんたちの気持ちも考えてやれよ。」

 「は? だからおれは酒一筋で。」

 「そっちじゃなくて…、はぁ。」

 草二は肩を落として遊郭を出たところの石に腰掛けた。

 「兄貴もかずも、どうも長男ってやつは。なんでわからんかな? 跡継ぎを産むには嫁さんがいるだろ? おれが25ならおまえも25。いい歳なんだよ、世の中的には。安心させてやれよ。」

 *

 あの晩以降、草二の言葉が離れない。おれは25。いい歳。跡継ぎには嫁が必要。安心させてやれ…。

 「一精。ちょっと店番お願いできる?」

 「いや、麹見てるから。」

 いつも店番は母がしている。おれにはおれの、母には母の、店を守るためすべきことがある。おれにとっては酒蔵の一角で麹と向き合うこと。少なくとも今は。そうだと思っていた。

 「麹使うのなんてまだ先でしょ! 草二くんが結婚するからお祝い買いに行くの。見ててくれない。」

 はあ。

 あからさまにため息をついて酒蔵から店に向かう。母も父親も、おまけに草二も。みんなそのつもりなんだ。5人姉妹の長女の家に婿入りして、武家の跡取りになる草二を見れば、おれも跡取りを意識して縁談を真剣に考えると。
 おれはただ酒が作りたいのに、そんなこと考えるひまはない。店番だって、するひまはないのに。

 カランカラン。

 「こら! 待て!」

 盗まれた。しかも大吟醸(かがやき)の一升瓶。うちで1番美味く、高い酒。

 「こら! 待て!」

 時は未の刻。外は雨。1番人通りの少ない時間。盗っ人の女以外に歩いている人はない。捕まえてくれる人もいないが邪魔になる人もなく、少し走ったところで女、というか輝を捕まえることができた。

 「名はなんと申す。」

 「本当の名前にございますか? 由二(ゆに)と申します。」

 「本当の」というあたり、この女、訳ありに違いない。

 「では、なにゆえ?」

 「はぁ。あたしの1円が。」

 女はこの輝を金に変えるつもりだったらしい。

 「大きな酒が1番でございましょう? 確実に高く売れます。しかも酒しか考えていないあなたの店番なら気づかぬと思いましたのに。」

 「なぜ金が必要なのだ? 困っているようには見えぬが。」

 女は上等の淡い桃色の着物を着ている。きちんと足袋も履いて、とても金に困っているようには見えない。

 「逃げてきましたのです。遊郭で女郎しておりんした。赤子が、もう誰の子かぁわからない赤子がここに。」

 ピカッ。

 ゴロゴロ。

 どこか遠くで雷が鳴ったようだ。自分の腹をさするこの女はすでに子を身ごもっている。言われてみれば腹が目立つ。

 「その子、どうするんだい?」

 「どうするもなにも、1人で育てますわ。幸せを望むのは親の常にございますが、なんせ女郎の子にございます。どうなることやら。」

 「なあ。」

 ピカッ、ゴロゴロ。

 今度は近くに落ちたようだ。

 「その子、うちの跡取りにしないか? 結婚して米倉酒造の子として育てないか?」