これでいいのかな。
髪型も服装もいつもよりちゃんとしたつもりだけど、ちゃんと出来てるかな。
よくよく考えると家族以外の誰かと出かけることがなかった僕が、クラスの中心的存在の柏木瑛汰とふたりで遊びに行く、なんてことは非日常以外のなんでもなくて、僕は正解がわからず、ひたすら、これでいいのかな、ってそわそわしていた。
出かけるとき、お母さんにどこ行くのって聞かれて、クラスの友達と遊びに行く、って答えたら、喜んでくれた。いままで僕は友達とかいなかったから。消極的すぎるのかもしれないし、協調性がないせいかもしれないし、自分から話しかけることがないせいかもしれないけど、僕には友達がいなかった。柏木だって友達と言っていいのかわからない。
だって柏木は僕のことを好きだって言ってくれた。
そして僕はこのところ柏木の気持ちに応えたいって思うようになっている。
僕が柏木を好きかどうかはわからない。
わからないけど、大事にしたい存在。
笑ってほしい。喜んでほしい。柏木が笑ったり喜んでくれたりすると僕は嬉しい。そう思う存在。
それが僕にとっての柏木瑛汰だ。
「おはよう」
おまたせ、と言う前に、柏木におはようと言われた。
甘く優しく整った顔立ちを彩る爽やかな微笑み。僕はその眩しさにあてられて、またとくんと胸を高鳴らせる。もうずっとこうだけど、これはなんなんだろうな。
学校で見慣れたブレザーの制服姿とは全然違って、柏木の私服は半袖のTシャツに半袖のシャツを重ね着して、下は黒のチノパンにオシャレなスニーカーで、どこからどう見てもキラキラしてます! という光をまとっていた。
いつもはすとんとしている髪型もワックスか何かで毛先を遊ばせていて、学校にいるときと雰囲気が違う。三倍増しくらいにかっこよかった。
僕はなぜかドキドキしながら柏木に向かって、ぎこちなく笑いかける。
「おまたせしました」
「なんで敬語」
「だいぶ待ってくれた?」
「まあ、二十分くらい。でもまだ五分前だし」
待ち合わせ二十五分前に来てくれたということか。
「一之瀬の私服、かわいい」
嬉しそうに頬をゆるめる柏木。
半袖パーカにゆるめのジーンズ、履き古したハイカットのスニーカーという僕の格好がかわいいかどうかは別として、柏木が喜んでくれると僕も嬉しい。たくさん考えて服を選んで良かった。
「じゃあとりあえず電車乗ろっか」
僕の家と柏木の家は駅を挟んで北側と南側にあって、ちょうどいいから駅で待ち合わせて出かけようということになった。
目的地は映画館。
映画は柏木が選んでくれた。僕の好きなバンドが主題歌を歌っている恋愛映画だ。僕はめったに映画は観ないけど、柏木と一緒に観るってなるとどうしてだかわくわくした。緊張していると言ってもいいかもしれない。とくんとくんと胸が高鳴っている。
五分ほど待って電車に乗って、空いていた席に座って、落ち着いたところで柏木が言った。
「一之瀬、今日もイヤホン持ってきてる?」
はじめて家族以外の誰かと出かける! という一大事にガチガチになっている僕に柏木がやわらかな笑顔を見せる。
「今日のためのプレイリストとか作ってない?」
「あ、作ってきた。昨日。寝る前」
「聴かせて」
でもちょっと恥ずかしかった。自分のなかで決めた選曲のテーマが「はじめての恋」だったから。
ショルダーバッグからガサゴソとワイヤレスイヤホンケースを取り出して、いつものように片方を僕の左耳に、もう片方を柏木に渡してスマホを操作する。右耳にイヤホンをつけた柏木が嬉しそうな顔をする。
「あ。この曲、好き」
「知ってるの?」
「はじめて聴いたけど、なんか好き」
君のことが好きすぎて何も手につかない、という恋心を歌っているアップテンポなポップソング。
最初に僕のプレイリストを聴きたいって言ってくれたとき、落ち着く曲がいいって言ってたのに、柏木はこういう明るいポップな曲が好きなのだ。この数週間で知った。
喜んでくれたのが嬉しくて僕は左隣に座る柏木の顔を見上げて、それからこぼれる笑みをとめられなかった。
「柏木くん、僕もこの曲、好き」
と僕が言ったところで、電車の扉が開いて何人か乗り込んできた。すこし車内が狭く感じるくらいには乗客が増えた。人混みが苦手な僕はむせかえるような気持ちになった。
「瑛汰、どこ行くの?」
真正面に立った見知ったクラスメイトに声をかけられる。
「よく見たら一之瀬と一緒じゃん! なんで? 本気で好きなの? 付き合ってるの?」
そのクラスメイトはあからさまな敵意のこもった視線を僕に向ける。僕の方を向いていた柏木はにこやかな表情を一変させて、不機嫌な眼差しをそのクラスメイトの女子に投げつけた。もう取り繕う気もないのかもしれない。
「一之瀬と一緒だとなんかまずいことでもあんの?」
冷ややかな声音だ。柏木は怒っているのかもしれない。
「いつもそうやってはぐらかしてるけど、片想いなんでしょ? 一之瀬の何がいいの。地味だし、いつもイヤホンで何か聴きながらひとりでにやにやしてるし、私だったら絶対好きにならない」
女子がわめくから、僕はもう消えてしまいたくなった。ごめん。柏木。ごめん。僕と一緒にいるせいで柏木まで侮辱される。ごめん。
「ごめん」
僕の声じゃない。ごめん。そう言ったのは柏木だった。
僕はいたたまれなくて柏木の顔を見られなかった。
あからさまな敵意が怖くて女子の顔も見られなかった。
ただうつむいて、明るく元気に恋を歌うポップな流行曲を左耳から聴いていた。
「ごめん。一之瀬。俺のせいで一之瀬まで悪く言われる。ごめん」
悲痛な声だった。
「一之瀬、次の駅で降りよう」
そう言って柏木は僕の手をひいて立ち上がった。
「逃げるの?」
背中に女子の声がかかる。僕は、僕らは、何か悪いことをしてしまったのだろうか。だからこんなに責められるんだろうか。好きっていう気持ちはこんなにも崩されやすくて脆いものなんだろうか。
「逃げない。俺は一之瀬を守りたいだけ。逃げたって思われてもいい。好きなだけ俺を罵って、嫌ってくれていいから」
柏木が女子を振り返って言った。
背筋が凍るくらいに冷たい微笑みを向けていた。愛想笑い。そんなものじゃなかった。
誰とでも仲良くなれるのは柏木の長所だと思う。たとえ作り笑いでつくりあげた関係だとしても、誰とでも親しくなれる、みんなとわいわい騒いで、クラスの中心にいることは悪いことじゃないと思う。柏木たちを自分で輝ける恒星みたいな存在、だと僕は思っていた。
憧れていた。
羨ましいなんていうのはおこがましいから、ただ憧れていた。
自分で輝けない惑星は適度な距離をもって恒星のまわりをまわって、ただ憧れつづけるだけにしておけば良かったんだろうか。
僕は自分では輝けない。それはわかっている。受け入れている。
わかっているからこそ、柏木の輝きを失わせることは僕にはできない。
「柏木くん」
目の前で電車の扉が開く。
「僕ひとりで降りる」
柏木がこちらを向く。
「一之瀬?」
柏木の身体を車内の中程にぐいぐいと両手で押しやるようにして、それから僕は駆け足で扉の外に出た。
背後で扉が閉じられる。
僕は振り向いて笑った。それこそ作り笑いだった。力のない笑みになっていたと思う。
僕を追いかけてこようとしたのかもしれない。
柏木は扉の向こうで困惑したような表情で僕を見ている。
ごめん。柏木、ごめん。僕は逃げる。柏木から逃げる。クラスメイトの女子からも、男子からも、みんなから逃げる。
そうしないと柏木はひとりになる。僕以外のみんなを失う。僕はひとりだって構わない。構わないから、柏木には笑っていてほしい。
電車が動き出す。僕と柏木の距離が離れていく。柏木の右耳にはまったままのワイヤレスイヤホンはどこまでスマホの電波を受け取って、音楽を拾いつづけるのだろう。もう聞こえていないだろうか。
僕の耳には柏木に聴いてほしかった音楽が流れている。
好きだから。僕だけのひとになって。そう歌っている曲。
歌詞をなぞるように、僕の気持ちが柏木のもとに向かっていく。
笑ってくれて嬉しかった。僕の好きな曲を好きだと言ってくれて嬉しかった。僕を好きだと言ってくれた。嬉しかった。目立たない、誰にも見つけられないような僕を見つけてくれた柏木。一目惚れ。そんな言葉は信じていないけど、それでも柏木の気持ちは嘘じゃない。きっと嘘じゃない。
君の笑顔を見るたびに胸が高鳴る。恋している。そう歌っている。左耳から聞こえるその歌詞が僕の気持ちを柏木につなげる。
笑った柏木の顔を見るたびに胸が高鳴るのは、恋をしているからなんだろうか。
柏木のことを考えるたびに胸が苦しくなるのは、恋をしているからなんだろうか。
これが恋だって言うなら、こんな苦しい気持ちが恋だって言うなら、柏木はどれくらい苦しんだのだろう。
「柏木くん、ごめん」
僕はつぶやいて涙が出そうになるのをこらえた。
何があっても、月曜日は来る。
教室に入るとき、緊張した。クラスメイトたちに土曜日の出来事が広まっていて、柏木の立場が危うくなっているんじゃないかと心配していた。地味で目立たない僕をかばって女子と喧嘩みたいになって、それでみんなが女子の味方をして、柏木が孤立していたりしたら胸が痛い。僕のせいだから。
それは杞憂だった。
柏木はいつものようにクラスの中心にいて、教室に入ってきた僕には誰も目を向けなかった。柏木だけはこちらを見たけど、それも僕は無視した。それに傷ついている僕は矛盾している。
これでいいんだって思うことにした。
柏木との時間は楽しかった。僕の胸の奥にある柏木への気持ちが何であろうとも、この気持ちは届くことがないほうがいいのだ。僕はひとりでいい。柏木には輝いていて欲しい。
これでいい。これでいいんだ。
僕は昼休みにまた屋上へつづく階段に向かう。誰にも見つからないように、誰にも迷惑をかけないように、ひとりで音楽を聴く。片方だけになったワイヤレスイヤホンで。
スマホの画面をつけるとメールが何件か来ていた。柏木からのメールだと思う。僕はそれを見ないようにしていた。つらいから。柏木のことを考えると苦しくて、どうしようもなくて、柏木と向き合う勇気なんてなかった。電話も何度かかけてくれたようだけど、おなじ理由で出られなかった。
プレイリストを再生する。
柏木が「うっわ刺さる」と言った曲が流れる。
僕の好きなバンドの明るくてポップで前向きな恋の歌。
柏木とまた聴きたかったな。
誰も僕のことなんて見ない。
僕の本当の気持ちなんてわかってくれない。
そんなのわかっていたけど、でも。
君はわかってくれた。僕の好きっていう気持ちを。
知らなかった、この気持ち。
柏木を好きだっていうこの気持ち。
誰にも知られたくない、誰も知らなくていい、でも。
君には聞いてほしかったな。
柏木に「僕も君が好き」って言いたかったな。
「一之瀬」
プレイリストを聴きながら感傷的な気分になっていたせいか、ぼんやりしていて、気がつくと階段の踊り場に柏木が立っていた。
右耳に僕のイヤホンの片割れをつけているのが見える。
この距離なら、聞こえているだろうか。イヤホンの充電が切れていなかったら、聞こえているかもしれない。前向きで明るくてポップな恋の歌。この曲のように恋が出来たら良かった。柏木に向き合えたら良かった。好きって言えたら良かった。
「俺は一之瀬の好きな曲も一之瀬も大好きだから!」
屋上まで聞こえるような大きな声で柏木が言った。
僕は震える。大好きだから。その澄んだ声が僕の身体の中心を駆け抜ける。そのひと言以外に大事なものなんてあるだろうか。
逃げ出したい気持ちは、ある。
この気持ちから、柏木の気持ちから、逃げ出したい気持ちは、まだある。
でも溢れそうなこの好きっていう気持ちを抑えつけつづけることはできそうにない。
「この曲も大好き! これからも一之瀬の好きなもの教えてほしい!」
聞こえてるよ、とでも言うように自身の右耳を指さして、柏木がくしゃりと笑う。
胸がとくんと高鳴る。太陽みたいな、眩しい笑顔。見ていると鼓動が速くなるのはきっとそうだ。もう僕は惑ったりしない。
「僕も好き! この曲も柏木くんも好き!」
叫んだつもりだけど、踊り場まで聞こえていなかったのかもしれない。
「一之瀬、ごめん。もう一回言って!」
僕は立ち上がってスマホをズボンのポケットに入れて、それから階段を一段一段下りていく。
踊り場にたどり着いて柏木の目の前に立つ。身長差がだいぶあるから、思いっきり見上げるかたちになる。僕はこわごわと手を伸ばし、柏木が右耳につけているイヤホンを取り外す。それを僕の左耳のイヤホンと一緒にポケットに仕舞う。
柏木と向き合って。
「好き。柏木くんが好き」
ちいさな声しか出なかった。けど。
途端、柏木が泣きそうな顔をした。
「聞こえた?」
僕が恐る恐る聞くと柏木が僕をぎゅっと抱きしめた。
「一之瀬」
「うん」
「抱きしめてもいい?」
「もう抱きしめてるけど」
「うん。このままちょっと抱きしめてていい?」
僕らの間にはいま音楽はない。僕らをつないだ音楽はいまポケットのなかでシャカシャカ鳴っているだけ。ざわざわとした喧噪が遠くに聞こえる。
「いいけど、でも、僕といたらまた柏木くんが悪く言われるかもしれない」
「クラスメイトにはもう邪魔するなって言っといた。ひとりになってもいい。一之瀬がそばにいてくれるなら、それでいい」
「駄目だよ。友達は大事にしなきゃ」
「一之瀬を悪く言うやつは友達でもなんでもない」
また柏木が怒っている。怒っているのに僕を抱きしめる腕は優しくて温かくて、僕は涙が出そうになる。こんなにも柏木のぬくもりが心地いいなんて知らなかった。
「大丈夫だよ」
柏木が僕の背中をやわらかく撫でる。
「俺、打たれ強いから」
「僕は小心者だよ」
「一之瀬が落ち込んだら、俺も一緒に落ち込むから」
耳元で笑う柏木の吐息が僕の耳をくすぐる。
「一之瀬が楽しいときは、俺も一緒にめいっぱい楽しむ」
一喜一憂をともにする。それは励ましでも何でもないかもしれないけど、でも、僕は柏木なら大抵のことは乗り越えていくんだろうな、と思う。そんな柏木と一緒にいたら、僕も、僕も変われるだろうか。
「だから一之瀬は一之瀬のままでいて。そのままの一之瀬が好き」
僕の心を読んだみたいな柏木の言葉に僕は泣きそうになった。
「僕も柏木くんのそういう優しいとこ好き」
「優しさじゃないから!」
「優しさじゃないなら、何?」
「あ、愛、とか……」
柏木が照れている。かわいい。僕は思わず、柏木の背中に手をまわし、ぎゅっとしていた。僕を抱きしめる柏木の力が強くなる。
「俺と付き合ってくれる……?」
自信がなさそうな柏木。
「僕で良かったら」
僕だって自信があるわけじゃないけど。
聞いてほしいから。まだまだ柏木と一緒に聴きたい曲があるから。
春が終わって、夏がはじまる、曲と曲をつなぐように、音と音をつなぐように、君を好きになって、恋がはじまる、そんな風にしてすべては流れていく。
僕らのプレイリストはまだ終わっていない。どこまでもエンドレスでつづく。
「俺は一之瀬じゃなきゃ嫌だ」
髪型も服装もいつもよりちゃんとしたつもりだけど、ちゃんと出来てるかな。
よくよく考えると家族以外の誰かと出かけることがなかった僕が、クラスの中心的存在の柏木瑛汰とふたりで遊びに行く、なんてことは非日常以外のなんでもなくて、僕は正解がわからず、ひたすら、これでいいのかな、ってそわそわしていた。
出かけるとき、お母さんにどこ行くのって聞かれて、クラスの友達と遊びに行く、って答えたら、喜んでくれた。いままで僕は友達とかいなかったから。消極的すぎるのかもしれないし、協調性がないせいかもしれないし、自分から話しかけることがないせいかもしれないけど、僕には友達がいなかった。柏木だって友達と言っていいのかわからない。
だって柏木は僕のことを好きだって言ってくれた。
そして僕はこのところ柏木の気持ちに応えたいって思うようになっている。
僕が柏木を好きかどうかはわからない。
わからないけど、大事にしたい存在。
笑ってほしい。喜んでほしい。柏木が笑ったり喜んでくれたりすると僕は嬉しい。そう思う存在。
それが僕にとっての柏木瑛汰だ。
「おはよう」
おまたせ、と言う前に、柏木におはようと言われた。
甘く優しく整った顔立ちを彩る爽やかな微笑み。僕はその眩しさにあてられて、またとくんと胸を高鳴らせる。もうずっとこうだけど、これはなんなんだろうな。
学校で見慣れたブレザーの制服姿とは全然違って、柏木の私服は半袖のTシャツに半袖のシャツを重ね着して、下は黒のチノパンにオシャレなスニーカーで、どこからどう見てもキラキラしてます! という光をまとっていた。
いつもはすとんとしている髪型もワックスか何かで毛先を遊ばせていて、学校にいるときと雰囲気が違う。三倍増しくらいにかっこよかった。
僕はなぜかドキドキしながら柏木に向かって、ぎこちなく笑いかける。
「おまたせしました」
「なんで敬語」
「だいぶ待ってくれた?」
「まあ、二十分くらい。でもまだ五分前だし」
待ち合わせ二十五分前に来てくれたということか。
「一之瀬の私服、かわいい」
嬉しそうに頬をゆるめる柏木。
半袖パーカにゆるめのジーンズ、履き古したハイカットのスニーカーという僕の格好がかわいいかどうかは別として、柏木が喜んでくれると僕も嬉しい。たくさん考えて服を選んで良かった。
「じゃあとりあえず電車乗ろっか」
僕の家と柏木の家は駅を挟んで北側と南側にあって、ちょうどいいから駅で待ち合わせて出かけようということになった。
目的地は映画館。
映画は柏木が選んでくれた。僕の好きなバンドが主題歌を歌っている恋愛映画だ。僕はめったに映画は観ないけど、柏木と一緒に観るってなるとどうしてだかわくわくした。緊張していると言ってもいいかもしれない。とくんとくんと胸が高鳴っている。
五分ほど待って電車に乗って、空いていた席に座って、落ち着いたところで柏木が言った。
「一之瀬、今日もイヤホン持ってきてる?」
はじめて家族以外の誰かと出かける! という一大事にガチガチになっている僕に柏木がやわらかな笑顔を見せる。
「今日のためのプレイリストとか作ってない?」
「あ、作ってきた。昨日。寝る前」
「聴かせて」
でもちょっと恥ずかしかった。自分のなかで決めた選曲のテーマが「はじめての恋」だったから。
ショルダーバッグからガサゴソとワイヤレスイヤホンケースを取り出して、いつものように片方を僕の左耳に、もう片方を柏木に渡してスマホを操作する。右耳にイヤホンをつけた柏木が嬉しそうな顔をする。
「あ。この曲、好き」
「知ってるの?」
「はじめて聴いたけど、なんか好き」
君のことが好きすぎて何も手につかない、という恋心を歌っているアップテンポなポップソング。
最初に僕のプレイリストを聴きたいって言ってくれたとき、落ち着く曲がいいって言ってたのに、柏木はこういう明るいポップな曲が好きなのだ。この数週間で知った。
喜んでくれたのが嬉しくて僕は左隣に座る柏木の顔を見上げて、それからこぼれる笑みをとめられなかった。
「柏木くん、僕もこの曲、好き」
と僕が言ったところで、電車の扉が開いて何人か乗り込んできた。すこし車内が狭く感じるくらいには乗客が増えた。人混みが苦手な僕はむせかえるような気持ちになった。
「瑛汰、どこ行くの?」
真正面に立った見知ったクラスメイトに声をかけられる。
「よく見たら一之瀬と一緒じゃん! なんで? 本気で好きなの? 付き合ってるの?」
そのクラスメイトはあからさまな敵意のこもった視線を僕に向ける。僕の方を向いていた柏木はにこやかな表情を一変させて、不機嫌な眼差しをそのクラスメイトの女子に投げつけた。もう取り繕う気もないのかもしれない。
「一之瀬と一緒だとなんかまずいことでもあんの?」
冷ややかな声音だ。柏木は怒っているのかもしれない。
「いつもそうやってはぐらかしてるけど、片想いなんでしょ? 一之瀬の何がいいの。地味だし、いつもイヤホンで何か聴きながらひとりでにやにやしてるし、私だったら絶対好きにならない」
女子がわめくから、僕はもう消えてしまいたくなった。ごめん。柏木。ごめん。僕と一緒にいるせいで柏木まで侮辱される。ごめん。
「ごめん」
僕の声じゃない。ごめん。そう言ったのは柏木だった。
僕はいたたまれなくて柏木の顔を見られなかった。
あからさまな敵意が怖くて女子の顔も見られなかった。
ただうつむいて、明るく元気に恋を歌うポップな流行曲を左耳から聴いていた。
「ごめん。一之瀬。俺のせいで一之瀬まで悪く言われる。ごめん」
悲痛な声だった。
「一之瀬、次の駅で降りよう」
そう言って柏木は僕の手をひいて立ち上がった。
「逃げるの?」
背中に女子の声がかかる。僕は、僕らは、何か悪いことをしてしまったのだろうか。だからこんなに責められるんだろうか。好きっていう気持ちはこんなにも崩されやすくて脆いものなんだろうか。
「逃げない。俺は一之瀬を守りたいだけ。逃げたって思われてもいい。好きなだけ俺を罵って、嫌ってくれていいから」
柏木が女子を振り返って言った。
背筋が凍るくらいに冷たい微笑みを向けていた。愛想笑い。そんなものじゃなかった。
誰とでも仲良くなれるのは柏木の長所だと思う。たとえ作り笑いでつくりあげた関係だとしても、誰とでも親しくなれる、みんなとわいわい騒いで、クラスの中心にいることは悪いことじゃないと思う。柏木たちを自分で輝ける恒星みたいな存在、だと僕は思っていた。
憧れていた。
羨ましいなんていうのはおこがましいから、ただ憧れていた。
自分で輝けない惑星は適度な距離をもって恒星のまわりをまわって、ただ憧れつづけるだけにしておけば良かったんだろうか。
僕は自分では輝けない。それはわかっている。受け入れている。
わかっているからこそ、柏木の輝きを失わせることは僕にはできない。
「柏木くん」
目の前で電車の扉が開く。
「僕ひとりで降りる」
柏木がこちらを向く。
「一之瀬?」
柏木の身体を車内の中程にぐいぐいと両手で押しやるようにして、それから僕は駆け足で扉の外に出た。
背後で扉が閉じられる。
僕は振り向いて笑った。それこそ作り笑いだった。力のない笑みになっていたと思う。
僕を追いかけてこようとしたのかもしれない。
柏木は扉の向こうで困惑したような表情で僕を見ている。
ごめん。柏木、ごめん。僕は逃げる。柏木から逃げる。クラスメイトの女子からも、男子からも、みんなから逃げる。
そうしないと柏木はひとりになる。僕以外のみんなを失う。僕はひとりだって構わない。構わないから、柏木には笑っていてほしい。
電車が動き出す。僕と柏木の距離が離れていく。柏木の右耳にはまったままのワイヤレスイヤホンはどこまでスマホの電波を受け取って、音楽を拾いつづけるのだろう。もう聞こえていないだろうか。
僕の耳には柏木に聴いてほしかった音楽が流れている。
好きだから。僕だけのひとになって。そう歌っている曲。
歌詞をなぞるように、僕の気持ちが柏木のもとに向かっていく。
笑ってくれて嬉しかった。僕の好きな曲を好きだと言ってくれて嬉しかった。僕を好きだと言ってくれた。嬉しかった。目立たない、誰にも見つけられないような僕を見つけてくれた柏木。一目惚れ。そんな言葉は信じていないけど、それでも柏木の気持ちは嘘じゃない。きっと嘘じゃない。
君の笑顔を見るたびに胸が高鳴る。恋している。そう歌っている。左耳から聞こえるその歌詞が僕の気持ちを柏木につなげる。
笑った柏木の顔を見るたびに胸が高鳴るのは、恋をしているからなんだろうか。
柏木のことを考えるたびに胸が苦しくなるのは、恋をしているからなんだろうか。
これが恋だって言うなら、こんな苦しい気持ちが恋だって言うなら、柏木はどれくらい苦しんだのだろう。
「柏木くん、ごめん」
僕はつぶやいて涙が出そうになるのをこらえた。
何があっても、月曜日は来る。
教室に入るとき、緊張した。クラスメイトたちに土曜日の出来事が広まっていて、柏木の立場が危うくなっているんじゃないかと心配していた。地味で目立たない僕をかばって女子と喧嘩みたいになって、それでみんなが女子の味方をして、柏木が孤立していたりしたら胸が痛い。僕のせいだから。
それは杞憂だった。
柏木はいつものようにクラスの中心にいて、教室に入ってきた僕には誰も目を向けなかった。柏木だけはこちらを見たけど、それも僕は無視した。それに傷ついている僕は矛盾している。
これでいいんだって思うことにした。
柏木との時間は楽しかった。僕の胸の奥にある柏木への気持ちが何であろうとも、この気持ちは届くことがないほうがいいのだ。僕はひとりでいい。柏木には輝いていて欲しい。
これでいい。これでいいんだ。
僕は昼休みにまた屋上へつづく階段に向かう。誰にも見つからないように、誰にも迷惑をかけないように、ひとりで音楽を聴く。片方だけになったワイヤレスイヤホンで。
スマホの画面をつけるとメールが何件か来ていた。柏木からのメールだと思う。僕はそれを見ないようにしていた。つらいから。柏木のことを考えると苦しくて、どうしようもなくて、柏木と向き合う勇気なんてなかった。電話も何度かかけてくれたようだけど、おなじ理由で出られなかった。
プレイリストを再生する。
柏木が「うっわ刺さる」と言った曲が流れる。
僕の好きなバンドの明るくてポップで前向きな恋の歌。
柏木とまた聴きたかったな。
誰も僕のことなんて見ない。
僕の本当の気持ちなんてわかってくれない。
そんなのわかっていたけど、でも。
君はわかってくれた。僕の好きっていう気持ちを。
知らなかった、この気持ち。
柏木を好きだっていうこの気持ち。
誰にも知られたくない、誰も知らなくていい、でも。
君には聞いてほしかったな。
柏木に「僕も君が好き」って言いたかったな。
「一之瀬」
プレイリストを聴きながら感傷的な気分になっていたせいか、ぼんやりしていて、気がつくと階段の踊り場に柏木が立っていた。
右耳に僕のイヤホンの片割れをつけているのが見える。
この距離なら、聞こえているだろうか。イヤホンの充電が切れていなかったら、聞こえているかもしれない。前向きで明るくてポップな恋の歌。この曲のように恋が出来たら良かった。柏木に向き合えたら良かった。好きって言えたら良かった。
「俺は一之瀬の好きな曲も一之瀬も大好きだから!」
屋上まで聞こえるような大きな声で柏木が言った。
僕は震える。大好きだから。その澄んだ声が僕の身体の中心を駆け抜ける。そのひと言以外に大事なものなんてあるだろうか。
逃げ出したい気持ちは、ある。
この気持ちから、柏木の気持ちから、逃げ出したい気持ちは、まだある。
でも溢れそうなこの好きっていう気持ちを抑えつけつづけることはできそうにない。
「この曲も大好き! これからも一之瀬の好きなもの教えてほしい!」
聞こえてるよ、とでも言うように自身の右耳を指さして、柏木がくしゃりと笑う。
胸がとくんと高鳴る。太陽みたいな、眩しい笑顔。見ていると鼓動が速くなるのはきっとそうだ。もう僕は惑ったりしない。
「僕も好き! この曲も柏木くんも好き!」
叫んだつもりだけど、踊り場まで聞こえていなかったのかもしれない。
「一之瀬、ごめん。もう一回言って!」
僕は立ち上がってスマホをズボンのポケットに入れて、それから階段を一段一段下りていく。
踊り場にたどり着いて柏木の目の前に立つ。身長差がだいぶあるから、思いっきり見上げるかたちになる。僕はこわごわと手を伸ばし、柏木が右耳につけているイヤホンを取り外す。それを僕の左耳のイヤホンと一緒にポケットに仕舞う。
柏木と向き合って。
「好き。柏木くんが好き」
ちいさな声しか出なかった。けど。
途端、柏木が泣きそうな顔をした。
「聞こえた?」
僕が恐る恐る聞くと柏木が僕をぎゅっと抱きしめた。
「一之瀬」
「うん」
「抱きしめてもいい?」
「もう抱きしめてるけど」
「うん。このままちょっと抱きしめてていい?」
僕らの間にはいま音楽はない。僕らをつないだ音楽はいまポケットのなかでシャカシャカ鳴っているだけ。ざわざわとした喧噪が遠くに聞こえる。
「いいけど、でも、僕といたらまた柏木くんが悪く言われるかもしれない」
「クラスメイトにはもう邪魔するなって言っといた。ひとりになってもいい。一之瀬がそばにいてくれるなら、それでいい」
「駄目だよ。友達は大事にしなきゃ」
「一之瀬を悪く言うやつは友達でもなんでもない」
また柏木が怒っている。怒っているのに僕を抱きしめる腕は優しくて温かくて、僕は涙が出そうになる。こんなにも柏木のぬくもりが心地いいなんて知らなかった。
「大丈夫だよ」
柏木が僕の背中をやわらかく撫でる。
「俺、打たれ強いから」
「僕は小心者だよ」
「一之瀬が落ち込んだら、俺も一緒に落ち込むから」
耳元で笑う柏木の吐息が僕の耳をくすぐる。
「一之瀬が楽しいときは、俺も一緒にめいっぱい楽しむ」
一喜一憂をともにする。それは励ましでも何でもないかもしれないけど、でも、僕は柏木なら大抵のことは乗り越えていくんだろうな、と思う。そんな柏木と一緒にいたら、僕も、僕も変われるだろうか。
「だから一之瀬は一之瀬のままでいて。そのままの一之瀬が好き」
僕の心を読んだみたいな柏木の言葉に僕は泣きそうになった。
「僕も柏木くんのそういう優しいとこ好き」
「優しさじゃないから!」
「優しさじゃないなら、何?」
「あ、愛、とか……」
柏木が照れている。かわいい。僕は思わず、柏木の背中に手をまわし、ぎゅっとしていた。僕を抱きしめる柏木の力が強くなる。
「俺と付き合ってくれる……?」
自信がなさそうな柏木。
「僕で良かったら」
僕だって自信があるわけじゃないけど。
聞いてほしいから。まだまだ柏木と一緒に聴きたい曲があるから。
春が終わって、夏がはじまる、曲と曲をつなぐように、音と音をつなぐように、君を好きになって、恋がはじまる、そんな風にしてすべては流れていく。
僕らのプレイリストはまだ終わっていない。どこまでもエンドレスでつづく。
「俺は一之瀬じゃなきゃ嫌だ」
