母さんが倒れた。貧血もちで身体が弱く、無理をすると倒れる。俺の高校入学を機に、張り切ってパートのシフトをたくさん入れたのが原因らしい。新人の教育係も任されていたので、つかれがたまって動けなくなってしまった。そういう兆候はあったのに、俺がちゃんと気づいてやれなかった。もっと気遣ってあげればよかった。
ウチは父さんが単身赴任で、最近はあまり帰れていない。だから、母さんを守るのは俺の役目だと幼いころから自覚があった。家事をするのも、母さんの看病をするのも、俺にとっては当たり前で苦じゃなかった。なのに母さんはいつも『ごめんね』と申し訳なさそうに謝る。謝られると、こっちも申し訳ない気持ちになる。
母さんが頼れるような男にならなきゃ……俺の正義感が強すぎる所以はこれかもしれない。
ピーンポーン。間延びしたインターホンの音に、ゆっくりとソファから立ちモニターを確認する。そこには、少し緊張した面持ちでそわそわして立っている音無が映っていた。
「え、なんで?」
どうして音無が訪ねてきたのかわからないけど、とりあえず玄関の鍵を開けた。
「どした?」
「あ、瀬川くん。久しぶりだね。ずっと休んでるから、様子見にきた」
「あぁ、身体は元気だから、心配すんな」
「うん、元気そうでよかった。これ、先生に頼まれてたやつ」
音無がカバンから大きな封筒を取り出して俺に差しだした。
「なに?」
「大事な書類だって。提出期限が来週だから、今日中に渡したかったみたい」
「そっか。わざわざ悪かったな」
「ううん、少しでも顔見れてよかったよ。じゃあーー」
手を振り、音無が帰ろうと踵を返したその時ーー
「ちーくん? お友達?」
母さんが様子をみに顔を出した。
「母さん、なんで起きてんだよ。まだ熱あるんだから寝てろって」
「大丈夫よ。もう微熱だし、ずっと寝てたら腰が痛くなるのよね~もう歳かしら~」
「あ、こんにちは。瀬川くんと同じクラスの音無です」
母さんの姿を目にした途端、背筋を伸ばして深々とお辞儀をする音無。育ちのよさがでている。
「あら~まぁ~イケメンね! もしかして入学式の時に……?」
「あ、そうです。挙動不審に瀬川くんに声をかけたの、俺です」
「やっぱり! どこかでみたと思ったのよね~」
急ににこにこと上機嫌になり、遠慮する音無を無理やり家に上がらせようとする母さん。やめろと言っても、聞く耳をもたない。音無に謝って少しだけ上がってもらうことにした。リビングに音無を通したが、母さんが音無をずっとみつめているので、俺の部屋へ移動した。
「ふふふ、ごゆっくり~」
母さんがお茶とお菓子を持ってきてくれたが、そのままじっと俺の部屋に居座ろうとするので、無理やり部屋から追い出した。
「ふぅ~……ごめん」
「かわいらしいお母さんだね、ちーくん?」
「やめろ」
「わぁ~ここがちーくんの部屋かぁ~。エッチな本とかないの?」
「だから、その呼び方やめろ。エッチな本はない」
「そっか~ちーくんは動画派なんだね~。ちなみに俺はーー」
熱い紅茶が注がれたティーカップを手に持ち、音無の目の前に持っていく。
「まだその呼び方続けるんなら、これをお前の顔面に注いでやるからな」
「……それはちょっとご遠慮します。火傷しちゃうので」
「さっさと紅茶飲んで帰れ」
「え~せっかく来たんだからもう少しおしゃべりしようよ~。卒アルとかないの?」
「卒アル? そんなもん見てどうすんだよ」
「昔の瀬川くんがみたい!」
両手を組み目をウルウルさせて懇願するようにみつめてくるので、しかたなく物置と化しているクローゼットの中を探した。十分後にようやくみつかり、小学生の時のものと中学生の時のものを音無にわたしてやったらわくわくしながら卒アルを開く。
「わぁ~~!! かわいい! 目がくりくりしてる! 写真撮っていい?」
「いいけど」
「大丈夫。俺だけの宝物にするから」
うれしそうに写真を撮りながら、小学生時代のことを聞いてくる音無。負けず嫌いで運動が好きだったとか、母さんの手伝いをしようとして失敗したとか、漢字の書き取りが苦手だったとか。他愛ないエピソードを興味津々に聞いている。
「こっちは中学時代だね。おもかげある~丸刈りだ~かわいい~!」
「野球部だったからな」
「うん、知ってる。電車の中でみた時も丸刈りだったから」
「……なんか、答え合わせされてるみたいだな」
次に中学生の時の卒アルを開き、次々と写真を撮っている。中学時代のエピソードを聞いてきたので、俺は話すのに飽きてきて音無のことを聞いてみた。写真を撮る手が止まり、目を伏せて黙ってしまった。俺はそれ以上聞かない方がいい気がして、話題を変えた。
「……これ、甘すぎる」
紅茶と一緒に母が持ってきた焼き菓子を口にする。パート仲間からもらった高級焼き菓子らしいけど、俺にはスナック菓子の方が口に合う。
「中学の時は、とにかくモテてたかな……」
ぽつりと呟いた言葉には、あまり感情がのっていない気がした。
「俺に関心を持ってくれる人がいてうれしかったんだけど、俺はどうしてもその子たちに心を開けなかったんだよね」
俺は口の中に残る焼き菓子の甘さを流し込むように紅茶をすする。
「その子たちが悪いんじゃなくて、俺の問題なんだけど」
音無は苦笑しながらパタンと卒アルを閉じだ。具体的なことはわからないけど、音無がその子たちに申し訳なく思っていることはわかる。
「でも中学時代の一番の思い出は、瀬川くんに出会えたことかな」
「会ってねぇだろ」
「まぁ、正しくは一方的に知ってただけだけど」
途端にぱああと表情が明るくなった。
「困ってる人を見かけるたびに、瀬川くんのこと思い出して、あの子ならどうするかなって考えてお手本にしてた」
「どんだけだよ」
「それくらい、俺にとっては衝撃的な出会いだったから」
この話をする時の音無は本当にうれしそうで、俺はそれを見るたびに少し胸が痛む。俺は本当は音無が思っているような人間じゃない。
いじめのことを音無に話そうと決意してから、3日間も学校を休んでしまった。先延ばしにしてしまったことを仕方ないと頭の隅に追いやっていたけど、今なら言えるかもしれない。俺はカップに残っていた紅茶を飲み干して、音無をまっすぐにみて姿勢を正す。そんな俺を、音無は不思議そうにみている。
「あのさ、音無に聞いてほしい話があるんだけど」
急に心臓が早なり、落ち着かせるようにゆっくりと息を吐いた。音無は「なに~改まって」と笑ってはいるが、俺の緊張が伝染したのか同じく姿勢を正した。
「……音無は俺のこと、妊婦を助けたヒーローみたいに思ってるかもしんねぇけど、本当の俺はそんな人間じゃない」
まだ話し始めたばかりなのにもう喉が渇いた。相変わらず心臓はバクバクとうるさく音を立てている。
「どういうこと?」
音無から笑顔が消えた。一気に緊張感が走り、自分の部屋にいるのに落ち着かない。
「……中学の時、俺は一人の生徒を不登校に追いやったんだ」
声が震え、背中に汗が伝う。音無は怪訝な表情をしている。できればここから逃げ出したいけれど、膝の上でぎゅっと拳を握り締めてなんとか留まった。
そこから、思い出すように記憶を辿りながらぽつぽつと話し始めた。緊張で、どもったりたどたどしい言い方になってしまったけど、音無はまっすぐに俺をみて真剣に話を聞いてくれた。時々、俺が言葉に詰まると、心配そうに眉を下げて泣きそうな顔をする。それを目にするたびに、しっかりしなきゃと自分を奮い立たせて、なんとか最後まで話し終えた。
「ーーまぁ、そんな感じ」
再びゆっくり息を吐いてから下を向く。音無のため息が聞こえて、俺はきゅっと口を引き結んだ。音無の顔を見るのが怖い。
「瀬川くん、話してくれてありがとう」
予想外の言葉に、俺は恐る恐る顔を上げる。音無は苦しそうな泣きそうな顔をしながら静かにため息をこぼす。
「……すごく辛かったよね」
音無のその一言で、奥の方から涙がこみ上げてきた。胸が痛くなって呼吸が苦しい。だんだん視界が滲んでいき、気づけばぽろぽろと涙がこぼれていた。
「……はは、こんな奴で幻滅した?」
頭の中が真っ白になって自分がなにを言っているのかわからない。
「俺のこと、舐めないでくれる?」
音無は苦笑しながら手を伸ばし、親指の腹でそっと涙を拭ってくれた。
「え……?」
音無の言葉の意味を理解できず呆けていると、また手を伸ばし穏やかに笑いながら頭を撫でられる。
「俺の激重感情はこんなことで揺らがないから」
なぜか勝ち誇ったように胸を張っている音無。あぁ、そっか。こいつはこういう奴だ。
「だから、どんだけだよ」
体中から力が抜けて、堰を切ったように涙があふれだす。
「泣きながら笑ってる」
音無が呆れたように笑って、ティッシュで涙を拭ってくれた。
否定も肯定もせず、ただただ俺の感情に寄り添ってくれた。それが俺にとってどれだけ救いになったかわからない。
「お前も少し泣いてんじゃん」
「瀬川くんのせいだからね」
「えーー」
ティッシュで涙を拭い合っていると、コンコンとノックの音が聞こえた。俺たちはなぜか慌てて姿勢を正す。お茶のおかわりを持って母さんが部屋に入ってきた。
「だから、寝てなきゃだめだろ」
「ふふっ、楽しそうな声が聞こえたから母さんも混ざりたいなぁって思って」
「どうぞどうぞ、混ざってください」
「いや、混ざってくださいじゃねぇから」
突然ゴホンと咳払いして姿勢を正す母さん。
「えっと、音無くん。いつも息子と仲良くしてくれてありがとう。これからもどうか、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
母親と友達が三つ指をついて頭を下げている。俺はこの状況をどういう心境で見守ればいいんだろう。
しばらくして二人同時に頭を上げて、ふふふと微笑み合っている。この二人、似た者同士かもしれない。
「じゃあね」
母さんが部屋から出ていき、俺は新しく淹れてくれた緑茶をすする。
「いいお母さんだね」
音無も同じく緑茶の入った湯呑を手に取り、ふーふーと息を吹きかけて冷ましている。
「ふわふわおっとりしてるけど、意外と芯が通っててしっかりしてるんだよな。そういうとこ、おまえに似てるかも」
「え、そっか~似てるんだ。うれしいかも」
「うれしいのかよ」
「瀬川くんが大好きなお母さんに似てるってことは、俺のことも大好きってことでしょ?」
「……っ、いや、なんでそうなるんだよ」
「なに、その間は」
「なんでもねぇよ」
今は冗談でも”大好き”だなんて口にできない。本当に音無のことを好きになってしまったんだから。ふいに、音無のスマホが震える。実はさっきから何度かヴーヴー鳴っているのだが、音無は全く気にしていない。
「スマホ、いいのか?」
「え、ごめん。気になるよね。電源きっておけばよかった」
「いや、大事な連絡かもしれねぇし」
俺がこう言ったことでやっとスマホに手を伸ばし、通知をチェックし始めた。俺の家に来ているから遠慮していたのだろうか。そんなのいいのに。
母さんがお茶うけに持ってきた煎餅に手を伸ばし、バリバリ食べていると、スマホをチェックしている音無の表情が曇った。じっと、画面を凝視している。
「どうした?」
画面を見たままで俺の呼びかけにも答えない。
「……音無?」
名前を呼んだところでやっとこっちを見た。
「え? あ、ごめん。なんだっけ?」
「なんかあった?」
「いや、べつになにもないけど。そろそろ帰ろうかな」
さっとスマホをポケットにしまい、おもむろに立ち上がる。絶対になにかあったのだろうが、深く追求していいのかわからず、とりあえず無言で睨みつけておいた。
「瀬川くん、怖いよ」
苦笑するだけで、なにも言わない。母さんに一言だけ挨拶をし、そそくさと帰っていった。その後、すぐに母さんに牛乳を買ってきてと頼まれて、俺はカーディガンを羽織って音無の後を追った。
コンビニに行くという理由をつけて、家に帰る音無と並んで歩く。いつも俺が通っている道を一緒に歩くなんて、そわそわして落ち着かない。なにか話題を探すようにきょろきょろと周りを見る。焼き芋屋の軽トラックがゆっくりと横を通り過ぎ、おいしそうな甘く香ばしい匂いにホッとして息を吐く。すると、音無が控えめなトーンで静かに話し始めた。
「お母さんにはどういう風にみえたかな? 俺たちの関係」
「そりゃあ、まぁ、普通に友達だろ」
「そうだよね~普通に考えたら友達だよね」
「……俺はそう思ってないから」
「え?」
「あの時、オリエンテーション合宿の時は、おまえのこと友達だって言ったけど、今は違う」
「えっと、それはつまりーー」
「じゃあな!」
コンビニに着いたので逃げるように中に入った。背後で「そこ詳しく聞きたいんだけど」と音無の声が聞こえたが無視した。コンビニのドア越しに手を振る音無。シッシッと追い払うように手を振ると、余計に大きく手を振ってきたのでふき出してしまった。レジにいる店員に冷ややかな目でみられたので、店の奥に逃げた。
初めて人を好きになって、恋って苦しくてめんどくさいものだと思っていたけど、それだけじゃなかった。今日、音無のことを好きになって幸せだと感じることができたんだ。まだまだ気持ちは伝えられないけれど、いつか好きだって言いたい。そしたら音無はどんな反応をするだろうか。
ウチは父さんが単身赴任で、最近はあまり帰れていない。だから、母さんを守るのは俺の役目だと幼いころから自覚があった。家事をするのも、母さんの看病をするのも、俺にとっては当たり前で苦じゃなかった。なのに母さんはいつも『ごめんね』と申し訳なさそうに謝る。謝られると、こっちも申し訳ない気持ちになる。
母さんが頼れるような男にならなきゃ……俺の正義感が強すぎる所以はこれかもしれない。
ピーンポーン。間延びしたインターホンの音に、ゆっくりとソファから立ちモニターを確認する。そこには、少し緊張した面持ちでそわそわして立っている音無が映っていた。
「え、なんで?」
どうして音無が訪ねてきたのかわからないけど、とりあえず玄関の鍵を開けた。
「どした?」
「あ、瀬川くん。久しぶりだね。ずっと休んでるから、様子見にきた」
「あぁ、身体は元気だから、心配すんな」
「うん、元気そうでよかった。これ、先生に頼まれてたやつ」
音無がカバンから大きな封筒を取り出して俺に差しだした。
「なに?」
「大事な書類だって。提出期限が来週だから、今日中に渡したかったみたい」
「そっか。わざわざ悪かったな」
「ううん、少しでも顔見れてよかったよ。じゃあーー」
手を振り、音無が帰ろうと踵を返したその時ーー
「ちーくん? お友達?」
母さんが様子をみに顔を出した。
「母さん、なんで起きてんだよ。まだ熱あるんだから寝てろって」
「大丈夫よ。もう微熱だし、ずっと寝てたら腰が痛くなるのよね~もう歳かしら~」
「あ、こんにちは。瀬川くんと同じクラスの音無です」
母さんの姿を目にした途端、背筋を伸ばして深々とお辞儀をする音無。育ちのよさがでている。
「あら~まぁ~イケメンね! もしかして入学式の時に……?」
「あ、そうです。挙動不審に瀬川くんに声をかけたの、俺です」
「やっぱり! どこかでみたと思ったのよね~」
急ににこにこと上機嫌になり、遠慮する音無を無理やり家に上がらせようとする母さん。やめろと言っても、聞く耳をもたない。音無に謝って少しだけ上がってもらうことにした。リビングに音無を通したが、母さんが音無をずっとみつめているので、俺の部屋へ移動した。
「ふふふ、ごゆっくり~」
母さんがお茶とお菓子を持ってきてくれたが、そのままじっと俺の部屋に居座ろうとするので、無理やり部屋から追い出した。
「ふぅ~……ごめん」
「かわいらしいお母さんだね、ちーくん?」
「やめろ」
「わぁ~ここがちーくんの部屋かぁ~。エッチな本とかないの?」
「だから、その呼び方やめろ。エッチな本はない」
「そっか~ちーくんは動画派なんだね~。ちなみに俺はーー」
熱い紅茶が注がれたティーカップを手に持ち、音無の目の前に持っていく。
「まだその呼び方続けるんなら、これをお前の顔面に注いでやるからな」
「……それはちょっとご遠慮します。火傷しちゃうので」
「さっさと紅茶飲んで帰れ」
「え~せっかく来たんだからもう少しおしゃべりしようよ~。卒アルとかないの?」
「卒アル? そんなもん見てどうすんだよ」
「昔の瀬川くんがみたい!」
両手を組み目をウルウルさせて懇願するようにみつめてくるので、しかたなく物置と化しているクローゼットの中を探した。十分後にようやくみつかり、小学生の時のものと中学生の時のものを音無にわたしてやったらわくわくしながら卒アルを開く。
「わぁ~~!! かわいい! 目がくりくりしてる! 写真撮っていい?」
「いいけど」
「大丈夫。俺だけの宝物にするから」
うれしそうに写真を撮りながら、小学生時代のことを聞いてくる音無。負けず嫌いで運動が好きだったとか、母さんの手伝いをしようとして失敗したとか、漢字の書き取りが苦手だったとか。他愛ないエピソードを興味津々に聞いている。
「こっちは中学時代だね。おもかげある~丸刈りだ~かわいい~!」
「野球部だったからな」
「うん、知ってる。電車の中でみた時も丸刈りだったから」
「……なんか、答え合わせされてるみたいだな」
次に中学生の時の卒アルを開き、次々と写真を撮っている。中学時代のエピソードを聞いてきたので、俺は話すのに飽きてきて音無のことを聞いてみた。写真を撮る手が止まり、目を伏せて黙ってしまった。俺はそれ以上聞かない方がいい気がして、話題を変えた。
「……これ、甘すぎる」
紅茶と一緒に母が持ってきた焼き菓子を口にする。パート仲間からもらった高級焼き菓子らしいけど、俺にはスナック菓子の方が口に合う。
「中学の時は、とにかくモテてたかな……」
ぽつりと呟いた言葉には、あまり感情がのっていない気がした。
「俺に関心を持ってくれる人がいてうれしかったんだけど、俺はどうしてもその子たちに心を開けなかったんだよね」
俺は口の中に残る焼き菓子の甘さを流し込むように紅茶をすする。
「その子たちが悪いんじゃなくて、俺の問題なんだけど」
音無は苦笑しながらパタンと卒アルを閉じだ。具体的なことはわからないけど、音無がその子たちに申し訳なく思っていることはわかる。
「でも中学時代の一番の思い出は、瀬川くんに出会えたことかな」
「会ってねぇだろ」
「まぁ、正しくは一方的に知ってただけだけど」
途端にぱああと表情が明るくなった。
「困ってる人を見かけるたびに、瀬川くんのこと思い出して、あの子ならどうするかなって考えてお手本にしてた」
「どんだけだよ」
「それくらい、俺にとっては衝撃的な出会いだったから」
この話をする時の音無は本当にうれしそうで、俺はそれを見るたびに少し胸が痛む。俺は本当は音無が思っているような人間じゃない。
いじめのことを音無に話そうと決意してから、3日間も学校を休んでしまった。先延ばしにしてしまったことを仕方ないと頭の隅に追いやっていたけど、今なら言えるかもしれない。俺はカップに残っていた紅茶を飲み干して、音無をまっすぐにみて姿勢を正す。そんな俺を、音無は不思議そうにみている。
「あのさ、音無に聞いてほしい話があるんだけど」
急に心臓が早なり、落ち着かせるようにゆっくりと息を吐いた。音無は「なに~改まって」と笑ってはいるが、俺の緊張が伝染したのか同じく姿勢を正した。
「……音無は俺のこと、妊婦を助けたヒーローみたいに思ってるかもしんねぇけど、本当の俺はそんな人間じゃない」
まだ話し始めたばかりなのにもう喉が渇いた。相変わらず心臓はバクバクとうるさく音を立てている。
「どういうこと?」
音無から笑顔が消えた。一気に緊張感が走り、自分の部屋にいるのに落ち着かない。
「……中学の時、俺は一人の生徒を不登校に追いやったんだ」
声が震え、背中に汗が伝う。音無は怪訝な表情をしている。できればここから逃げ出したいけれど、膝の上でぎゅっと拳を握り締めてなんとか留まった。
そこから、思い出すように記憶を辿りながらぽつぽつと話し始めた。緊張で、どもったりたどたどしい言い方になってしまったけど、音無はまっすぐに俺をみて真剣に話を聞いてくれた。時々、俺が言葉に詰まると、心配そうに眉を下げて泣きそうな顔をする。それを目にするたびに、しっかりしなきゃと自分を奮い立たせて、なんとか最後まで話し終えた。
「ーーまぁ、そんな感じ」
再びゆっくり息を吐いてから下を向く。音無のため息が聞こえて、俺はきゅっと口を引き結んだ。音無の顔を見るのが怖い。
「瀬川くん、話してくれてありがとう」
予想外の言葉に、俺は恐る恐る顔を上げる。音無は苦しそうな泣きそうな顔をしながら静かにため息をこぼす。
「……すごく辛かったよね」
音無のその一言で、奥の方から涙がこみ上げてきた。胸が痛くなって呼吸が苦しい。だんだん視界が滲んでいき、気づけばぽろぽろと涙がこぼれていた。
「……はは、こんな奴で幻滅した?」
頭の中が真っ白になって自分がなにを言っているのかわからない。
「俺のこと、舐めないでくれる?」
音無は苦笑しながら手を伸ばし、親指の腹でそっと涙を拭ってくれた。
「え……?」
音無の言葉の意味を理解できず呆けていると、また手を伸ばし穏やかに笑いながら頭を撫でられる。
「俺の激重感情はこんなことで揺らがないから」
なぜか勝ち誇ったように胸を張っている音無。あぁ、そっか。こいつはこういう奴だ。
「だから、どんだけだよ」
体中から力が抜けて、堰を切ったように涙があふれだす。
「泣きながら笑ってる」
音無が呆れたように笑って、ティッシュで涙を拭ってくれた。
否定も肯定もせず、ただただ俺の感情に寄り添ってくれた。それが俺にとってどれだけ救いになったかわからない。
「お前も少し泣いてんじゃん」
「瀬川くんのせいだからね」
「えーー」
ティッシュで涙を拭い合っていると、コンコンとノックの音が聞こえた。俺たちはなぜか慌てて姿勢を正す。お茶のおかわりを持って母さんが部屋に入ってきた。
「だから、寝てなきゃだめだろ」
「ふふっ、楽しそうな声が聞こえたから母さんも混ざりたいなぁって思って」
「どうぞどうぞ、混ざってください」
「いや、混ざってくださいじゃねぇから」
突然ゴホンと咳払いして姿勢を正す母さん。
「えっと、音無くん。いつも息子と仲良くしてくれてありがとう。これからもどうか、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
母親と友達が三つ指をついて頭を下げている。俺はこの状況をどういう心境で見守ればいいんだろう。
しばらくして二人同時に頭を上げて、ふふふと微笑み合っている。この二人、似た者同士かもしれない。
「じゃあね」
母さんが部屋から出ていき、俺は新しく淹れてくれた緑茶をすする。
「いいお母さんだね」
音無も同じく緑茶の入った湯呑を手に取り、ふーふーと息を吹きかけて冷ましている。
「ふわふわおっとりしてるけど、意外と芯が通っててしっかりしてるんだよな。そういうとこ、おまえに似てるかも」
「え、そっか~似てるんだ。うれしいかも」
「うれしいのかよ」
「瀬川くんが大好きなお母さんに似てるってことは、俺のことも大好きってことでしょ?」
「……っ、いや、なんでそうなるんだよ」
「なに、その間は」
「なんでもねぇよ」
今は冗談でも”大好き”だなんて口にできない。本当に音無のことを好きになってしまったんだから。ふいに、音無のスマホが震える。実はさっきから何度かヴーヴー鳴っているのだが、音無は全く気にしていない。
「スマホ、いいのか?」
「え、ごめん。気になるよね。電源きっておけばよかった」
「いや、大事な連絡かもしれねぇし」
俺がこう言ったことでやっとスマホに手を伸ばし、通知をチェックし始めた。俺の家に来ているから遠慮していたのだろうか。そんなのいいのに。
母さんがお茶うけに持ってきた煎餅に手を伸ばし、バリバリ食べていると、スマホをチェックしている音無の表情が曇った。じっと、画面を凝視している。
「どうした?」
画面を見たままで俺の呼びかけにも答えない。
「……音無?」
名前を呼んだところでやっとこっちを見た。
「え? あ、ごめん。なんだっけ?」
「なんかあった?」
「いや、べつになにもないけど。そろそろ帰ろうかな」
さっとスマホをポケットにしまい、おもむろに立ち上がる。絶対になにかあったのだろうが、深く追求していいのかわからず、とりあえず無言で睨みつけておいた。
「瀬川くん、怖いよ」
苦笑するだけで、なにも言わない。母さんに一言だけ挨拶をし、そそくさと帰っていった。その後、すぐに母さんに牛乳を買ってきてと頼まれて、俺はカーディガンを羽織って音無の後を追った。
コンビニに行くという理由をつけて、家に帰る音無と並んで歩く。いつも俺が通っている道を一緒に歩くなんて、そわそわして落ち着かない。なにか話題を探すようにきょろきょろと周りを見る。焼き芋屋の軽トラックがゆっくりと横を通り過ぎ、おいしそうな甘く香ばしい匂いにホッとして息を吐く。すると、音無が控えめなトーンで静かに話し始めた。
「お母さんにはどういう風にみえたかな? 俺たちの関係」
「そりゃあ、まぁ、普通に友達だろ」
「そうだよね~普通に考えたら友達だよね」
「……俺はそう思ってないから」
「え?」
「あの時、オリエンテーション合宿の時は、おまえのこと友達だって言ったけど、今は違う」
「えっと、それはつまりーー」
「じゃあな!」
コンビニに着いたので逃げるように中に入った。背後で「そこ詳しく聞きたいんだけど」と音無の声が聞こえたが無視した。コンビニのドア越しに手を振る音無。シッシッと追い払うように手を振ると、余計に大きく手を振ってきたのでふき出してしまった。レジにいる店員に冷ややかな目でみられたので、店の奥に逃げた。
初めて人を好きになって、恋って苦しくてめんどくさいものだと思っていたけど、それだけじゃなかった。今日、音無のことを好きになって幸せだと感じることができたんだ。まだまだ気持ちは伝えられないけれど、いつか好きだって言いたい。そしたら音無はどんな反応をするだろうか。



