契約終了の日が来た。
一年。
長いようで。
短い時間だった。
千鶴が黒城家へ来た日。
朔夜は思っていた。
この結婚は、ただの取引だと。
自分の身体を治すため。
黒城家を守るため。
それ以上の意味などないと。
しかし。
今。
目の前にある契約書を見ると。
胸が苦しくなった。
「……」
朔夜は机の前に座っていた。
契約書の最後の欄。
そこには二人の署名を書く場所がある。
契約を終えるためのもの。
「若様」
執事が声をかける。
「本当に……離縁されるのですか」
朔夜は黙った。
以前なら迷うことなく答えていた。
契約通りに終わらせる。
それが正しい。
正しいはずだった。
「……千鶴の意思を尊重する」
それが、朔夜の答えだった。
自分の気持ちを押し付けることはできない。
彼女は一度、家族に人生を決められた。
売られるように嫁がされた。
だから今度こそ自分の意思で選んでほしい。
その頃。
千鶴は自室で最後の荷物を整理していた。
「これで全部ですね」
使用人が寂しそうに言う。
「はい」
千鶴は笑った。
「本当にお世話になりました」
「奥方様……」
女中は目を潤ませる。
「行ってしまわれるのですか?」
千鶴は少し困ったように笑う。
「契約ですから」
その言葉を口にした瞬間。
胸が少し痛んだ。
契約。
最初は。
その言葉が自分を救った。
自由をくれるものだった。
でも今は。
少し寂しい言葉に聞こえる。
正午、二人は正式に契約終了の場へ向かった。
黒城家の面々が見守る中。
朔夜と千鶴は向かい合って座る。
「一年間の契約は、本日をもって終了する」
朔夜が告げる。
「あとは双方に異議はないか確認するだけだ」
朔夜は千鶴を見る。
千鶴は朔夜を見る。
「……」
沈黙。
そして。
千鶴が口を開こうとした瞬間。
「待ってくれ」
朔夜が言った。
全員が驚く。
千鶴も目を見開いた。
「朔夜様……?」
朔夜は立ち上がった。
そして、新しい契約書を取り出した。
「これは」
「契約変更の書類だ」
千鶴は驚く。
「変更?」
「ああ」
朔夜は千鶴を見る。
「ただし、これは命令ではない。お前が嫌なら、破棄してくれて構わない」
その言葉に千鶴は息を止めた。
以前の朔夜なら絶対に言わなかった言葉。
朔夜は続ける。
「一年間。俺は、お前を血をくれる相手として迎えた。それは事実だ」
周囲がざわめく。
朔夜は目を逸らさない。
「だが、この一年で変わった。俺はもうお前の血だけを必要としているのではない」
千鶴の瞳が揺れる。
「お前が笑うこと。お前が庭を見ること。お前が誰かを思いやること。そのすべてが俺にとって大切になった」
鬼神と呼ばれた男。
誰も近づけなかった男。
その男が。
大勢の前で。
自分の弱さをさらけ出していた。
「千鶴」
朔夜は静かに言う。
「俺ともう一度、契約を結んでほしい。今度は血のためではなく俺自身と共に生きる契約を」
千鶴は契約書を見る。
そこには以前とは違う条件が書かれていた。
・互いを尊重すること。
・相手の意思を何より優先すること。
・苦しい時は一人で抱え込まないこと。
そして最後。
――二人が望む限り、夫婦でいること。
千鶴は少し笑った。
「朔夜様」
「何だ」
「ひとつ、条件を追加してもいいですか?」
朔夜は目を細めた。
「……やはり言うと思った」
初めて出会った日と同じだった。
千鶴は契約書に指を置く。
「私の前では無理に強い鬼でいないでください」
朔夜の目が揺れる。
「……」
「辛い時は辛いと言ってください。寂しい時は寂しいと言ってください。私は、朔夜様の妻ですから」
その言葉に。
朔夜はしばらく黙った。
そして。
小さく笑った。
「敵わないな」
「え?」
「お前は最初からそうだった。俺が作った契約条件を」
いつも。
予想外の形で変えてくる。
千鶴は契約書に署名した。
朔夜も続ける。
二人の名前が並ぶ。
一年間だけの契約。
偽物の夫婦。
そう始まった関係。
しかし今。
そこに書かれているのは。
互いが望んだ未来だった。
その夜。
庭で二人は桜を見ていた。
「契約、終わりましたね」
千鶴が言う。
「ああ」
「寂しくありませんか?」
朔夜は少し考える。
「以前なら終わって楽になると思っていた」
千鶴を見る。
「だが今は終わらなくてよかったと思っている」
千鶴は微笑んだ。
「私もです」
月明かりの下。
朔夜は初めて。
自分から千鶴の手を取った。
「千鶴」
「はい」
「ありがとう」
短い言葉。
けれど。
その中には。
一年分の感謝と。
言葉にできない想いが込められていた。
まだ。
朔夜は「愛している」とは言わない。
千鶴も。
自分がどれほど大切にされているのか、完全には理解していない。
けれど。
二人の契約結婚は。
終わったのではない。
本当の夫婦になるための。
新しい始まりを迎えたのだった。
一年。
長いようで。
短い時間だった。
千鶴が黒城家へ来た日。
朔夜は思っていた。
この結婚は、ただの取引だと。
自分の身体を治すため。
黒城家を守るため。
それ以上の意味などないと。
しかし。
今。
目の前にある契約書を見ると。
胸が苦しくなった。
「……」
朔夜は机の前に座っていた。
契約書の最後の欄。
そこには二人の署名を書く場所がある。
契約を終えるためのもの。
「若様」
執事が声をかける。
「本当に……離縁されるのですか」
朔夜は黙った。
以前なら迷うことなく答えていた。
契約通りに終わらせる。
それが正しい。
正しいはずだった。
「……千鶴の意思を尊重する」
それが、朔夜の答えだった。
自分の気持ちを押し付けることはできない。
彼女は一度、家族に人生を決められた。
売られるように嫁がされた。
だから今度こそ自分の意思で選んでほしい。
その頃。
千鶴は自室で最後の荷物を整理していた。
「これで全部ですね」
使用人が寂しそうに言う。
「はい」
千鶴は笑った。
「本当にお世話になりました」
「奥方様……」
女中は目を潤ませる。
「行ってしまわれるのですか?」
千鶴は少し困ったように笑う。
「契約ですから」
その言葉を口にした瞬間。
胸が少し痛んだ。
契約。
最初は。
その言葉が自分を救った。
自由をくれるものだった。
でも今は。
少し寂しい言葉に聞こえる。
正午、二人は正式に契約終了の場へ向かった。
黒城家の面々が見守る中。
朔夜と千鶴は向かい合って座る。
「一年間の契約は、本日をもって終了する」
朔夜が告げる。
「あとは双方に異議はないか確認するだけだ」
朔夜は千鶴を見る。
千鶴は朔夜を見る。
「……」
沈黙。
そして。
千鶴が口を開こうとした瞬間。
「待ってくれ」
朔夜が言った。
全員が驚く。
千鶴も目を見開いた。
「朔夜様……?」
朔夜は立ち上がった。
そして、新しい契約書を取り出した。
「これは」
「契約変更の書類だ」
千鶴は驚く。
「変更?」
「ああ」
朔夜は千鶴を見る。
「ただし、これは命令ではない。お前が嫌なら、破棄してくれて構わない」
その言葉に千鶴は息を止めた。
以前の朔夜なら絶対に言わなかった言葉。
朔夜は続ける。
「一年間。俺は、お前を血をくれる相手として迎えた。それは事実だ」
周囲がざわめく。
朔夜は目を逸らさない。
「だが、この一年で変わった。俺はもうお前の血だけを必要としているのではない」
千鶴の瞳が揺れる。
「お前が笑うこと。お前が庭を見ること。お前が誰かを思いやること。そのすべてが俺にとって大切になった」
鬼神と呼ばれた男。
誰も近づけなかった男。
その男が。
大勢の前で。
自分の弱さをさらけ出していた。
「千鶴」
朔夜は静かに言う。
「俺ともう一度、契約を結んでほしい。今度は血のためではなく俺自身と共に生きる契約を」
千鶴は契約書を見る。
そこには以前とは違う条件が書かれていた。
・互いを尊重すること。
・相手の意思を何より優先すること。
・苦しい時は一人で抱え込まないこと。
そして最後。
――二人が望む限り、夫婦でいること。
千鶴は少し笑った。
「朔夜様」
「何だ」
「ひとつ、条件を追加してもいいですか?」
朔夜は目を細めた。
「……やはり言うと思った」
初めて出会った日と同じだった。
千鶴は契約書に指を置く。
「私の前では無理に強い鬼でいないでください」
朔夜の目が揺れる。
「……」
「辛い時は辛いと言ってください。寂しい時は寂しいと言ってください。私は、朔夜様の妻ですから」
その言葉に。
朔夜はしばらく黙った。
そして。
小さく笑った。
「敵わないな」
「え?」
「お前は最初からそうだった。俺が作った契約条件を」
いつも。
予想外の形で変えてくる。
千鶴は契約書に署名した。
朔夜も続ける。
二人の名前が並ぶ。
一年間だけの契約。
偽物の夫婦。
そう始まった関係。
しかし今。
そこに書かれているのは。
互いが望んだ未来だった。
その夜。
庭で二人は桜を見ていた。
「契約、終わりましたね」
千鶴が言う。
「ああ」
「寂しくありませんか?」
朔夜は少し考える。
「以前なら終わって楽になると思っていた」
千鶴を見る。
「だが今は終わらなくてよかったと思っている」
千鶴は微笑んだ。
「私もです」
月明かりの下。
朔夜は初めて。
自分から千鶴の手を取った。
「千鶴」
「はい」
「ありがとう」
短い言葉。
けれど。
その中には。
一年分の感謝と。
言葉にできない想いが込められていた。
まだ。
朔夜は「愛している」とは言わない。
千鶴も。
自分がどれほど大切にされているのか、完全には理解していない。
けれど。
二人の契約結婚は。
終わったのではない。
本当の夫婦になるための。
新しい始まりを迎えたのだった。


