契約終了まで、残り七日。
その事実は。
二人の間に、今までなかった距離を作っていた。
千鶴は変わらず優しかった。
朝になれば朔夜の体調を気遣う。
食事の席では穏やかに話しかける。
血を分ける時には、必ず微笑む。
何も変わっていない。
だからこそ。
朔夜には分かってしまった。
千鶴は。
いつでも出ていけるように準備している。
「千鶴」
ある日の夜。
朔夜は彼女を呼び止めた。
「はい?」
「……荷物をまとめているのか」
千鶴の手が止まる。
「見ていたのですか」
「偶然だ」
嘘だった。
何度も見ていた。
千鶴が箪笥の中を整理している姿。
黒城家で贈られた着物を丁寧に畳んでいる姿。
まるで。
ここでの時間を大切な思い出に変えようとしているようだった。
「契約が終わりますから」
千鶴は静かに答える。
「当然のことです」
「……当然?」
朔夜の声が低くなる。
「お前はここを出たいのか」
千鶴は少し驚いた顔をした。
「出たいというより……戻る場所が必要ですから」
その言葉に。
朔夜の胸が締め付けられた。
戻る場所。
千鶴には、帰る場所があるのだろうか。
いや。
違う。
彼女は以前言っていた。
普通の生活が欲しかった、と。
家族に必要とされなかった少女が。
ようやく見つけた居場所。
それを自分は失わせようとしている。
「神代家に戻るのか」
朔夜が尋ねる。
千鶴は少し黙った。
「……分かりません」
「え?」
「以前のようには戻れないと思います」
千鶴は笑う。
「私はもう、昔の私ではありませんから」
朔夜はその言葉を聞いて。
少しだけ安心した。
しかし。
同時に。
胸が痛んだ。
彼女が変わった理由。
その一部には自分も関係している。
三日後、黒城家で小さな騒ぎが起きた。
「奥方様が倒れられました!」
使用人の声。
朔夜はすぐに駆けつけた。
「千鶴!」
部屋に入る。
そこには青白い顔で横になる千鶴がいた。
「……朔夜様」
「何をしている」
思わず強い声になる。
「血を与えすぎたのではないか」
「違います」
千鶴は首を振る。
「少し疲れただけです」
「疲れただけ?」
朔夜の表情が険しくなる。
「お前はいつもそうだ。自分のことを後回しにする」
千鶴は黙った。
朔夜は気づく。
怒っているのではない。
怖いのだ。
彼女がいなくなることが。
「……なぜだ」
朔夜は呟いた。
「なぜ、お前はそこまで他人のために動ける」
千鶴は少し考える。
「たぶん、自分がそうしてほしかったからです」
朔夜は黙る。
「誰かに心配してほしかった。誰かに必要だと言ってほしかった」
千鶴は目を伏せる。
「だから……私は、誰かが寂しそうにしていたら放っておけないのだと思います」
その言葉を聞いて朔夜は拳を握った。
同じだった。
自分もずっと欲しかった。
誰かに必要とされること。
「千鶴」
「はい」
「もし」
朔夜は言葉を探す。
「もし契約が終わった後、お前が望むなら黒城家に残ってもいい」
千鶴は目を見開く。
「……」
「ここにいることを、誰にも強制はしない。ただ」
朔夜は続ける。
「俺は」
一瞬。
鬼神と呼ばれた男が。
迷うような顔をした。
「お前がいなくなることを望んでいない」
千鶴の胸が大きく揺れた。
初めてだった。
誰かに。
「いてほしい」
と言われたのは。
家族からではない。
血や力を求められたのではない。
ただ。
自分自身を求められた。
「朔夜様」
「何だ」
「それは……」
千鶴は少し笑った。
「契約条件の変更ですか?」
朔夜は一瞬、固まった。
その言い方。
初めて出会った日のようだった。
契約書を前に。
彼女が言った言葉。
「条件を追加します」
あの日。
彼女は自分に人として接することを求めた。
そして今。
また。
自分の心を試されている気がした。
「……そうだな」
朔夜は言う。
「契約ではない」
千鶴を見る。
「俺の願いだ」
その言葉に。
千鶴は目を伏せた。
その夜。
朔夜は一人、古い契約書を見ていた。
一年間だけの婚姻。
血の提供。
互いの自由。
すべて。
自分が決めた条件。
だが。
最後の一文を書き換える。
――契約終了後も、互いの意思によって関係を続ける。
筆を止める。
そして。
初めて自分自身の気持ちを書き加えようとして。
手が震えた。
「……愛している、か」
まだ。
その言葉を口にする覚悟はない。
けれど。
少なくとも。
もう分かっている。
千鶴を失いたくない。
彼女の血ではなく。
彼女の笑顔を。
彼女の声を。
彼女がいる日々を。
千鶴の体調はすぐに良くなった。ただ、無理はしないように指示すると彼女は庭で桜をぼんやり見るようになった。
その横顔を見ながら。
朔夜は思う。
一年間だけの花嫁。
そう思って迎えたはずだった。
しかし。
いつの間にか彼女は自分の世界に咲いた。
唯一の花になっていた。
契約終了まであと三日。
鬼神と呼ばれた男は、初めて誰かを失う恐怖と誰かを守りたいという願いを知った。
その事実は。
二人の間に、今までなかった距離を作っていた。
千鶴は変わらず優しかった。
朝になれば朔夜の体調を気遣う。
食事の席では穏やかに話しかける。
血を分ける時には、必ず微笑む。
何も変わっていない。
だからこそ。
朔夜には分かってしまった。
千鶴は。
いつでも出ていけるように準備している。
「千鶴」
ある日の夜。
朔夜は彼女を呼び止めた。
「はい?」
「……荷物をまとめているのか」
千鶴の手が止まる。
「見ていたのですか」
「偶然だ」
嘘だった。
何度も見ていた。
千鶴が箪笥の中を整理している姿。
黒城家で贈られた着物を丁寧に畳んでいる姿。
まるで。
ここでの時間を大切な思い出に変えようとしているようだった。
「契約が終わりますから」
千鶴は静かに答える。
「当然のことです」
「……当然?」
朔夜の声が低くなる。
「お前はここを出たいのか」
千鶴は少し驚いた顔をした。
「出たいというより……戻る場所が必要ですから」
その言葉に。
朔夜の胸が締め付けられた。
戻る場所。
千鶴には、帰る場所があるのだろうか。
いや。
違う。
彼女は以前言っていた。
普通の生活が欲しかった、と。
家族に必要とされなかった少女が。
ようやく見つけた居場所。
それを自分は失わせようとしている。
「神代家に戻るのか」
朔夜が尋ねる。
千鶴は少し黙った。
「……分かりません」
「え?」
「以前のようには戻れないと思います」
千鶴は笑う。
「私はもう、昔の私ではありませんから」
朔夜はその言葉を聞いて。
少しだけ安心した。
しかし。
同時に。
胸が痛んだ。
彼女が変わった理由。
その一部には自分も関係している。
三日後、黒城家で小さな騒ぎが起きた。
「奥方様が倒れられました!」
使用人の声。
朔夜はすぐに駆けつけた。
「千鶴!」
部屋に入る。
そこには青白い顔で横になる千鶴がいた。
「……朔夜様」
「何をしている」
思わず強い声になる。
「血を与えすぎたのではないか」
「違います」
千鶴は首を振る。
「少し疲れただけです」
「疲れただけ?」
朔夜の表情が険しくなる。
「お前はいつもそうだ。自分のことを後回しにする」
千鶴は黙った。
朔夜は気づく。
怒っているのではない。
怖いのだ。
彼女がいなくなることが。
「……なぜだ」
朔夜は呟いた。
「なぜ、お前はそこまで他人のために動ける」
千鶴は少し考える。
「たぶん、自分がそうしてほしかったからです」
朔夜は黙る。
「誰かに心配してほしかった。誰かに必要だと言ってほしかった」
千鶴は目を伏せる。
「だから……私は、誰かが寂しそうにしていたら放っておけないのだと思います」
その言葉を聞いて朔夜は拳を握った。
同じだった。
自分もずっと欲しかった。
誰かに必要とされること。
「千鶴」
「はい」
「もし」
朔夜は言葉を探す。
「もし契約が終わった後、お前が望むなら黒城家に残ってもいい」
千鶴は目を見開く。
「……」
「ここにいることを、誰にも強制はしない。ただ」
朔夜は続ける。
「俺は」
一瞬。
鬼神と呼ばれた男が。
迷うような顔をした。
「お前がいなくなることを望んでいない」
千鶴の胸が大きく揺れた。
初めてだった。
誰かに。
「いてほしい」
と言われたのは。
家族からではない。
血や力を求められたのではない。
ただ。
自分自身を求められた。
「朔夜様」
「何だ」
「それは……」
千鶴は少し笑った。
「契約条件の変更ですか?」
朔夜は一瞬、固まった。
その言い方。
初めて出会った日のようだった。
契約書を前に。
彼女が言った言葉。
「条件を追加します」
あの日。
彼女は自分に人として接することを求めた。
そして今。
また。
自分の心を試されている気がした。
「……そうだな」
朔夜は言う。
「契約ではない」
千鶴を見る。
「俺の願いだ」
その言葉に。
千鶴は目を伏せた。
その夜。
朔夜は一人、古い契約書を見ていた。
一年間だけの婚姻。
血の提供。
互いの自由。
すべて。
自分が決めた条件。
だが。
最後の一文を書き換える。
――契約終了後も、互いの意思によって関係を続ける。
筆を止める。
そして。
初めて自分自身の気持ちを書き加えようとして。
手が震えた。
「……愛している、か」
まだ。
その言葉を口にする覚悟はない。
けれど。
少なくとも。
もう分かっている。
千鶴を失いたくない。
彼女の血ではなく。
彼女の笑顔を。
彼女の声を。
彼女がいる日々を。
千鶴の体調はすぐに良くなった。ただ、無理はしないように指示すると彼女は庭で桜をぼんやり見るようになった。
その横顔を見ながら。
朔夜は思う。
一年間だけの花嫁。
そう思って迎えたはずだった。
しかし。
いつの間にか彼女は自分の世界に咲いた。
唯一の花になっていた。
契約終了まであと三日。
鬼神と呼ばれた男は、初めて誰かを失う恐怖と誰かを守りたいという願いを知った。


