黒城家の屋敷に、穏やかな時間が流れていた。
千鶴が嫁いできてから、一年が近づいている。
最初はただの契約だった。
朔夜は身体を治すため。
千鶴は家から離れるため。
互いに利害が一致しただけの関係。
それ以上のものは、何もないはずだった。
しかし、今の二人は朝になれば自然と食卓を共にし。
庭を歩けば、並んで季節の移り変わりを見る。
言葉にしなくても、相手が何を考えているのか、少しずつ分かるようになっていた。
「朔夜様」
ある日の朝、千鶴が声をかける。
「今日は少し無理をされていますね」
朔夜は眉をひそめた。
「また分かるのか」
「はい」
「なぜだ」
千鶴は少し笑う。
「毎日見ていますから」
その答えに朔夜は何も言えなくなった。
毎日、その言葉が。
以前よりもずっと特別に聞こえる。
しかし、穏やかな日々には終わりが近づいていた。
契約期間の一年。
その期限があと一ヶ月で訪れる。
「……」
朔夜は一人、机の前に座っていた。
目の前には、一年前に交わした契約書。
そこには書かれている。
――一年後、契約を終了する。
――双方の意思により離縁を認める。
最初に自分が決めた条件。
血をもらうためだけの関係。
それが、今になって重く胸にのしかかっていた。
「……馬鹿らしい」
朔夜は呟く。
自分で決めたことだ。
千鶴は自由になる。
それが彼女のためだ。
彼女はもともと。
望んでこの結婚をしたわけではない。
家族に売られる形で嫁いできた。
ならば、一年という約束を守るべきだ。
そう思う。
だが。
胸の奥では別の声が叫んでいた。
――行かせたくない。
「朔夜様」
振り返る。
千鶴が立っていた。
「どうした」
「お茶を持ってきました」
「……ありがとう」
以前なら礼など言わなかった。
今では。自然に口から出る。
千鶴は机の上を見る。
そこにあったもの。
契約書。
その瞬間。
朔夜は隠そうとした。
しかし遅かった。
「……期限が近いですね」
千鶴が静かに言った。
「ああ」
短い返事。
「もうすぐ一年です」
「そうだな」
「……」
二人の間に沈黙が流れる。
千鶴は微笑んだ。
「朔夜様は、安心してください」
「何をだ」
「私は契約通りにします」
その言葉に朔夜の胸が痛む。
契約通り。
それは自分が望んだことだった。
なのに今は聞きたくなかった。
「黒城家には、たくさんお世話になりました」
千鶴は続ける。
「朔夜様にも」
「だから」
「契約が終わっても、感謝しています」
朔夜は拳を握る。
なぜだ。
なぜ。
感謝だけなのだ。
なぜ。
彼女は寂しそうな顔をしない。
「千鶴」
「はい」
「お前は」
言葉が止まる。
「……」
聞きたい。
ここに残りたいと思わないのか。
俺といたいと思わないのか。
しかし。
言葉にならない。
その夜、朔夜は眠れなかった。
鬼の血が騒いでいるわけではない。
身体の痛みでもない。
ただ胸が苦しい。
「……これが失う恐怖なのか」
今まで。
何かを失うことなど考えたこともなかった。
最初から何も持っていなかったから。
だが、千鶴と出会って。
初めて手に入れた。
安心できる場所。
温かい時間。
自分を鬼ではなく、人として見る存在。
それを手放そうとしている。
数日後。
黒城家に珍しい客が訪れた。
「若様」
重々しく使用人が報告する。
「鬼祓いの一族から使者が来ています」
朔夜の表情が険しくなる。
鬼祓い。
人ならざる力を持つ者を退治する一族。
黒城家とは古くから因縁がある。
「用件は」
「奥方様についてです」
朔夜の目が変わった。
通された使者は言った。
「神代千鶴様の力について調べさせていただきました。彼女の霊力は特殊です。鬼神の血を持つ黒城家と結びつけば大きな力になるでしょう」
朔夜は冷たく答える。
「それが何だ」
「彼女は黒城家の宝となります」
その言葉に。
朔夜の顔が険しくなる。
「違う」
「……」
「千鶴は物ではない」
使者は驚いた。
以前の朔夜なら。
力の価値だけを見ていただろう。
しかし。
今は違う。
「彼女の意思を無視するなら」
「誰であろうと許さない」
その夜。
千鶴は偶然、その会話を聞いていた。
胸が温かくなる。
昔。
誰も自分の意思など聞いてくれなかった。
父も。
母も。
姉も。
けれど。
この人は違う。
「……朔夜様」
小さく呟く。
そして。
契約終了まで、残り一週間。
朔夜はまだ決められずにいた。
契約を終わらせるべきか。
新しい関係を望むべきか。
だが。
一つだけ分かっていた。
千鶴がいなくなれば。
自分はまた。
孤独な鬼に戻ってしまう。
そして千鶴も。
まだ気づいていなかった。
自分が黒城家に残したものが。
血や霊力だけではないことを。
――二人の契約結婚は。
終わりを迎えようとしていた。
しかし。
本当の物語は。
そこから始まろうとしていた。
千鶴が嫁いできてから、一年が近づいている。
最初はただの契約だった。
朔夜は身体を治すため。
千鶴は家から離れるため。
互いに利害が一致しただけの関係。
それ以上のものは、何もないはずだった。
しかし、今の二人は朝になれば自然と食卓を共にし。
庭を歩けば、並んで季節の移り変わりを見る。
言葉にしなくても、相手が何を考えているのか、少しずつ分かるようになっていた。
「朔夜様」
ある日の朝、千鶴が声をかける。
「今日は少し無理をされていますね」
朔夜は眉をひそめた。
「また分かるのか」
「はい」
「なぜだ」
千鶴は少し笑う。
「毎日見ていますから」
その答えに朔夜は何も言えなくなった。
毎日、その言葉が。
以前よりもずっと特別に聞こえる。
しかし、穏やかな日々には終わりが近づいていた。
契約期間の一年。
その期限があと一ヶ月で訪れる。
「……」
朔夜は一人、机の前に座っていた。
目の前には、一年前に交わした契約書。
そこには書かれている。
――一年後、契約を終了する。
――双方の意思により離縁を認める。
最初に自分が決めた条件。
血をもらうためだけの関係。
それが、今になって重く胸にのしかかっていた。
「……馬鹿らしい」
朔夜は呟く。
自分で決めたことだ。
千鶴は自由になる。
それが彼女のためだ。
彼女はもともと。
望んでこの結婚をしたわけではない。
家族に売られる形で嫁いできた。
ならば、一年という約束を守るべきだ。
そう思う。
だが。
胸の奥では別の声が叫んでいた。
――行かせたくない。
「朔夜様」
振り返る。
千鶴が立っていた。
「どうした」
「お茶を持ってきました」
「……ありがとう」
以前なら礼など言わなかった。
今では。自然に口から出る。
千鶴は机の上を見る。
そこにあったもの。
契約書。
その瞬間。
朔夜は隠そうとした。
しかし遅かった。
「……期限が近いですね」
千鶴が静かに言った。
「ああ」
短い返事。
「もうすぐ一年です」
「そうだな」
「……」
二人の間に沈黙が流れる。
千鶴は微笑んだ。
「朔夜様は、安心してください」
「何をだ」
「私は契約通りにします」
その言葉に朔夜の胸が痛む。
契約通り。
それは自分が望んだことだった。
なのに今は聞きたくなかった。
「黒城家には、たくさんお世話になりました」
千鶴は続ける。
「朔夜様にも」
「だから」
「契約が終わっても、感謝しています」
朔夜は拳を握る。
なぜだ。
なぜ。
感謝だけなのだ。
なぜ。
彼女は寂しそうな顔をしない。
「千鶴」
「はい」
「お前は」
言葉が止まる。
「……」
聞きたい。
ここに残りたいと思わないのか。
俺といたいと思わないのか。
しかし。
言葉にならない。
その夜、朔夜は眠れなかった。
鬼の血が騒いでいるわけではない。
身体の痛みでもない。
ただ胸が苦しい。
「……これが失う恐怖なのか」
今まで。
何かを失うことなど考えたこともなかった。
最初から何も持っていなかったから。
だが、千鶴と出会って。
初めて手に入れた。
安心できる場所。
温かい時間。
自分を鬼ではなく、人として見る存在。
それを手放そうとしている。
数日後。
黒城家に珍しい客が訪れた。
「若様」
重々しく使用人が報告する。
「鬼祓いの一族から使者が来ています」
朔夜の表情が険しくなる。
鬼祓い。
人ならざる力を持つ者を退治する一族。
黒城家とは古くから因縁がある。
「用件は」
「奥方様についてです」
朔夜の目が変わった。
通された使者は言った。
「神代千鶴様の力について調べさせていただきました。彼女の霊力は特殊です。鬼神の血を持つ黒城家と結びつけば大きな力になるでしょう」
朔夜は冷たく答える。
「それが何だ」
「彼女は黒城家の宝となります」
その言葉に。
朔夜の顔が険しくなる。
「違う」
「……」
「千鶴は物ではない」
使者は驚いた。
以前の朔夜なら。
力の価値だけを見ていただろう。
しかし。
今は違う。
「彼女の意思を無視するなら」
「誰であろうと許さない」
その夜。
千鶴は偶然、その会話を聞いていた。
胸が温かくなる。
昔。
誰も自分の意思など聞いてくれなかった。
父も。
母も。
姉も。
けれど。
この人は違う。
「……朔夜様」
小さく呟く。
そして。
契約終了まで、残り一週間。
朔夜はまだ決められずにいた。
契約を終わらせるべきか。
新しい関係を望むべきか。
だが。
一つだけ分かっていた。
千鶴がいなくなれば。
自分はまた。
孤独な鬼に戻ってしまう。
そして千鶴も。
まだ気づいていなかった。
自分が黒城家に残したものが。
血や霊力だけではないことを。
――二人の契約結婚は。
終わりを迎えようとしていた。
しかし。
本当の物語は。
そこから始まろうとしていた。


