血盟の花嫁

黒城家に春が訪れた。

庭の桜が咲き始め、冷たかった風も少しずつ柔らかくなる。

千鶴は縁側に座り、舞い落ちる花びらを眺めていた。

「綺麗ですね」

隣に座る朔夜が、静かに答える。

「ああ」

「朔夜様が桜を見るなんて、少し意外です」

「なぜだ」

「もっと興味がないと思っていました」

朔夜は少し考える。

以前の自分なら。

確かに、花を見る余裕などなかった。

ただ生きることだけで精一杯だった。

鬼の血に蝕まれ。

いつ暴走するか分からない身体。

誰かに近づけば傷つけるかもしれない恐怖。

だから、美しいものを見る資格などないと思っていた。

「……最近は」

朔夜は桜を見る。

「悪くないと思う」

千鶴は微笑んだ。

「それは良かったです」

その笑顔を見ると、朔夜の胸は不思議と穏やかになる。

そんな穏やかな日々は、一通の知らせによって終わった。

「神代家の長女が、黒城家への訪問を希望しています」

使用人から報告を受けた朔夜は、眉をひそめた。

「神代家?」

千鶴の手が止まる。

「……姉です」

「姉?」

「はい」

千鶴は静かに答える。

「美琴という姉がいます」

その名前を聞いた瞬間。

朔夜は以前、千鶴から聞いた話を思い出した。

家族に愛された姉。

何もかも持っていた姉。

そして、何も持たなかった妹。

「会いたいのか」

朔夜が尋ねる。

千鶴は少し迷った。

「分かりません」

正直な答えだった。

嫌いではない。

会いたいとも言えない。

姉は何も悪くない。

けれど、姉の隣にいることで自分がどれだけ小さく扱われてきたかを思い知らされた。

数日後、神代美琴は黒城家へやってきた。

「お久しぶりです、千鶴」

美しい女性だった。

長い黒髪。

整った顔立ち。

優雅な仕草。

そして、強い霊力。

誰が見ても分かる。

「特別な人間」だと。

美琴は微笑む。

「元気そうで安心しました」

「姉様もお元気そうですね」

二人は穏やかに挨拶を交わす。

千鶴の胸には、少しだけ苦いものが残っていたけれども。

「それにしても」

美琴は朔夜を見る。

「黒城様」

「ああ」

「妹がお世話になっております」

その言葉は丁寧だった。

丁寧ではあるが、どこか引っかかる。

「妹は昔から不器用な子でしたから。人付き合いも苦手で。ご迷惑をおかけしていませんか?」

朔夜の表情がわずかに変わる。

千鶴を心配しているようで。

どこか見下している。

そんな調子だった。

「迷惑などない」

朔夜は即答した。

美琴は少し驚く。

「そうですか?」

「千鶴は黒城家に必要な存在だ」

その言葉に美琴の目が細められた。

夜になると、美琴は朔夜に二人だけで話したいと申し出た。

「黒城様」

「何だ」

「妹ではなく、私を選ぶべきではありませんか?」

朔夜の目が冷たくなる。

「……何?」

美琴は続ける。

「私は千鶴より強い霊力を持っています。鬼神の血を持つ黒城様には、その方が相応しいはずです」

「黙れ」

朔夜の声が響いた。

美琴は言葉を失う。

「千鶴を何だと思っている」

「え?」

「血の強さ、霊力の大きさ、そんなものでしか、人の価値を見ないのか」

美琴は少し顔を曇らせる。

「ですが、黒城様も最初は……」

その言葉に朔夜は黙った。

確かに最初の自分はそうだった。

千鶴を血を得るための存在として見ていた。

だが、今は違う。

「……最初はそうだった」

朔夜は認めた。

「俺も、お前と同じだった。必要な力だけを見ていた。だが」

「……」

「千鶴と過ごして分かった、人間の価値は、持っている力で決まらない」

翌日。

美琴は千鶴に向き合った。

「あなた、幸せなの?」

突然の質問。

千鶴は少し驚く。

「はい」

「本当に?」

美琴は言う。

「あなたは昔から、我慢ばかりしていた。今回もそうなのではないかと思ったの」

千鶴は黙る。

姉の言葉。

そこには少しだけ、本当の心配があった。

「姉様」

千鶴は言った。

「私は昔、家族に必要とされていませんでした」

美琴の表情が揺れる。

「でも」

千鶴は続ける。

「今は違います。黒城家では、私の名前を呼んでくれる人がいます。私がいることを喜んでくれる人がいます」

その言葉に美琴は何も言えなかった。

帰る前、美琴は朔夜に頭を下げた。

「失礼なことを言いました」

朔夜は静かに頷く。

「もういい」

美琴は少し迷ってから言った。

「黒城様。妹を……よろしくお願いします」

朔夜は答える。

「ああ、言われなくても」

その返事に美琴は少し微笑んだ。

その夜、千鶴は庭で朔夜と並んでいた。

「ありがとうございました」

「何がだ」

「私のことを、守ってくださったことです」

朔夜は首を振る。

「違う」

「え?」

「守ったのではない。本当のことを言っただけだ」

千鶴は微笑む。

「それでも嬉しいです」

朔夜は黙る。

それから小さく呟いた。

「……千鶴」

「はい?」

「もう二度と、自分を価値のない人間だと思うな」

千鶴の目が少し潤む。

昔。

何度も言われた。

価値がない。

役に立たない。

いらない子。

その言葉を。

たった一人の人が否定してくれる。

それだけで。

胸がいっぱいになった。

一方、朔夜も確信した。

千鶴を失いたくない。

血をくれるからではない。

黒城家のためでもない。

ただ。

千鶴だから。

彼女がここにいてくれることが。

何より大切なのだと。