黒城家に来てから、数か月が過ぎた。
千鶴はもう、屋敷の中で「客人」ではなくなっていた。
最初の頃、使用人たちは彼女にどこか遠慮していた。
当然だった。
彼女は黒城朔夜の契約花嫁。
鬼神と呼ばれる男に血を与えるためだけに迎えられた女性。
そう思われていたからだ。
しかし、そんな気配は既に微塵もない。
「奥方様、お茶の準備ができました」
「ありがとうございます」
「……あの、こちらも」
「これは?」
「庭で採れた薬草です。奥方様が以前、興味を持たれていたので」
千鶴は目を丸くする。
「覚えていてくださったのですか?」
「はい」
女中は少し照れたように笑った。
「奥方様は、私たちの名前を覚えてくださいますから」
千鶴は不思議そうに首を傾げる。
「名前を覚えることは普通のことではありませんか?」
その言葉に、女中は少し寂しそうに笑った。
「……黒城家では、そうではありませんでした」
千鶴は何も言わなかった。
けれど、その日の夕食で朔夜の前に座った時。
ふと、口にした。
「使用人の方々は、とても優しいですね」
朔夜は箸を止める。
「そうか?」
「はい」
「以前とは違う気がします」
朔夜は少し考えた。
「お前が変えたのだろう」
「私が?」
「俺には分からなかった」
朔夜は淡々と言う。
「人間は、命令すれば動くものだと思っていた」
千鶴は少し驚く。
「……」
「だが、お前は違う。相手が使用人だろうと、身分の低い者だろうと、同じように接する」
朔夜は千鶴を見る。
「なぜだ」
千鶴は少し考えた。
「……昔の自分を思い出すからです」
「昔?」
「誰にも見てもらえなかった頃の私です」
朔夜の表情がわずかに曇る。
千鶴は笑った。
「だからでしょうか。誰かを無視することが、できないのです」
その笑顔を見て朔夜は思った。
この娘は優しいのではない。
強いのだ。
翌日、帝都から客人が訪れた。
黒城家と付き合いのある名家の者たちだった。
「これはこれは」
客人の一人が千鶴を見る。
「黒城様の奥方ですか」
「はい」
千鶴が頭を下げる。
男は笑った。
「噂とは違いますな」
「噂?」
「ええ」
男は悪意なく言った。
「もっと強い霊力を持つ、美しい姫君を迎えたのかと思っておりました」
空気が止まる。
千鶴の表情は変わらなかった。
しかし、朔夜の手が止まった。
「……」
男は続ける。
「まあ、黒城様のお身体を支える役目を果たせるなら、それで十分でしょう」
その瞬間。
部屋の空気が震えた。
朔夜から鬼の霊気が漏れる。
「朔夜様」
千鶴が静かに呼ぶ。
その一言で朔夜は力を抑えた。
客人は青ざめる。
「も、申し訳ありません……」
朔夜は冷たい目で見る。
「帰れ」
「しかし――」
「俺の妻を侮辱する者と話すことはない」
男は慌てて頭を下げ、部屋を出ていった。
静かになった部屋。
千鶴は朔夜を見る。
「ありがとうございました」
「礼など言う必要はない」
「でも」
千鶴は微笑む。
「私のために怒ってくださったのでしょう?」
朔夜は黙った。
図星だった。
以前なら何を言われても気にしなかった。
自分がどう見られているかなど、興味がなかった。
鬼として恐れられることには慣れていた。
だが、千鶴が傷つけられることだけは許せなかった。
「……あいつの言葉は気にするな」
ぶっきらぼうに朔夜が言う。
「お前の価値は、霊力でも血でも決まらない」
千鶴は目を見開く。
その言葉は昔から一番欲しかったものだった。
誰かにそう言ってほしかった。
「朔夜様」
「何だ」
「少し変わりましたね」
朔夜は眉をひそめる。
「俺が?」
「はい」
千鶴は笑う。
「以前なら、こんなことで怒らなかったと思います」
「……」
「今は、私のことを考えてくださる」
朔夜は視線を逸らした。
自分でも分かっていた。
変わった。
千鶴が来てから。
その夜、朔夜は一人、庭にいた。
月を見上げる。
「……おかしいな」
自分でも理解できない。
最初は。
血が必要だった。
身体を治すため。
それだけだった。
なのに。
今は。
千鶴が笑っていると安心する。
千鶴が悲しそうな顔をすると苦しい。
千鶴が他人に傷つけられると怒りが湧く。
「……これは何だ」
胸に手を当てる。
鬼の血の暴走とは違う。
もっと別のもの。
そこへ。
「朔夜様」
千鶴の声。
振り返る。
「また一人で悩んでいましたか?」
「……」
「顔に出ています」
朔夜は少し驚いた。
「俺の顔が?」
「はい」
「そんなもの、誰にも言われたことはない」
千鶴は笑う。
「では、私が初めてですね」
その言葉に朔夜は何も言えなかった。
翌朝。
屋敷の者たちは気づいた。
最近、若様が少し変わったことに。
以前は冷たい目をしていた。
誰も近づけなかった。
しかし今は。
朝食の席で。
「千鶴」
「はい?」
「今日は身体の調子が良い」
「それは良かったです」
そんな何気ない会話をしている。
契約で結ばれた夫婦。
偽物の関係。
そのはずだった。
けれど。
二人の間には。
少しずつ。
契約書には書かれていないものが生まれ始めていた。
千鶴はもう、屋敷の中で「客人」ではなくなっていた。
最初の頃、使用人たちは彼女にどこか遠慮していた。
当然だった。
彼女は黒城朔夜の契約花嫁。
鬼神と呼ばれる男に血を与えるためだけに迎えられた女性。
そう思われていたからだ。
しかし、そんな気配は既に微塵もない。
「奥方様、お茶の準備ができました」
「ありがとうございます」
「……あの、こちらも」
「これは?」
「庭で採れた薬草です。奥方様が以前、興味を持たれていたので」
千鶴は目を丸くする。
「覚えていてくださったのですか?」
「はい」
女中は少し照れたように笑った。
「奥方様は、私たちの名前を覚えてくださいますから」
千鶴は不思議そうに首を傾げる。
「名前を覚えることは普通のことではありませんか?」
その言葉に、女中は少し寂しそうに笑った。
「……黒城家では、そうではありませんでした」
千鶴は何も言わなかった。
けれど、その日の夕食で朔夜の前に座った時。
ふと、口にした。
「使用人の方々は、とても優しいですね」
朔夜は箸を止める。
「そうか?」
「はい」
「以前とは違う気がします」
朔夜は少し考えた。
「お前が変えたのだろう」
「私が?」
「俺には分からなかった」
朔夜は淡々と言う。
「人間は、命令すれば動くものだと思っていた」
千鶴は少し驚く。
「……」
「だが、お前は違う。相手が使用人だろうと、身分の低い者だろうと、同じように接する」
朔夜は千鶴を見る。
「なぜだ」
千鶴は少し考えた。
「……昔の自分を思い出すからです」
「昔?」
「誰にも見てもらえなかった頃の私です」
朔夜の表情がわずかに曇る。
千鶴は笑った。
「だからでしょうか。誰かを無視することが、できないのです」
その笑顔を見て朔夜は思った。
この娘は優しいのではない。
強いのだ。
翌日、帝都から客人が訪れた。
黒城家と付き合いのある名家の者たちだった。
「これはこれは」
客人の一人が千鶴を見る。
「黒城様の奥方ですか」
「はい」
千鶴が頭を下げる。
男は笑った。
「噂とは違いますな」
「噂?」
「ええ」
男は悪意なく言った。
「もっと強い霊力を持つ、美しい姫君を迎えたのかと思っておりました」
空気が止まる。
千鶴の表情は変わらなかった。
しかし、朔夜の手が止まった。
「……」
男は続ける。
「まあ、黒城様のお身体を支える役目を果たせるなら、それで十分でしょう」
その瞬間。
部屋の空気が震えた。
朔夜から鬼の霊気が漏れる。
「朔夜様」
千鶴が静かに呼ぶ。
その一言で朔夜は力を抑えた。
客人は青ざめる。
「も、申し訳ありません……」
朔夜は冷たい目で見る。
「帰れ」
「しかし――」
「俺の妻を侮辱する者と話すことはない」
男は慌てて頭を下げ、部屋を出ていった。
静かになった部屋。
千鶴は朔夜を見る。
「ありがとうございました」
「礼など言う必要はない」
「でも」
千鶴は微笑む。
「私のために怒ってくださったのでしょう?」
朔夜は黙った。
図星だった。
以前なら何を言われても気にしなかった。
自分がどう見られているかなど、興味がなかった。
鬼として恐れられることには慣れていた。
だが、千鶴が傷つけられることだけは許せなかった。
「……あいつの言葉は気にするな」
ぶっきらぼうに朔夜が言う。
「お前の価値は、霊力でも血でも決まらない」
千鶴は目を見開く。
その言葉は昔から一番欲しかったものだった。
誰かにそう言ってほしかった。
「朔夜様」
「何だ」
「少し変わりましたね」
朔夜は眉をひそめる。
「俺が?」
「はい」
千鶴は笑う。
「以前なら、こんなことで怒らなかったと思います」
「……」
「今は、私のことを考えてくださる」
朔夜は視線を逸らした。
自分でも分かっていた。
変わった。
千鶴が来てから。
その夜、朔夜は一人、庭にいた。
月を見上げる。
「……おかしいな」
自分でも理解できない。
最初は。
血が必要だった。
身体を治すため。
それだけだった。
なのに。
今は。
千鶴が笑っていると安心する。
千鶴が悲しそうな顔をすると苦しい。
千鶴が他人に傷つけられると怒りが湧く。
「……これは何だ」
胸に手を当てる。
鬼の血の暴走とは違う。
もっと別のもの。
そこへ。
「朔夜様」
千鶴の声。
振り返る。
「また一人で悩んでいましたか?」
「……」
「顔に出ています」
朔夜は少し驚いた。
「俺の顔が?」
「はい」
「そんなもの、誰にも言われたことはない」
千鶴は笑う。
「では、私が初めてですね」
その言葉に朔夜は何も言えなかった。
翌朝。
屋敷の者たちは気づいた。
最近、若様が少し変わったことに。
以前は冷たい目をしていた。
誰も近づけなかった。
しかし今は。
朝食の席で。
「千鶴」
「はい?」
「今日は身体の調子が良い」
「それは良かったです」
そんな何気ない会話をしている。
契約で結ばれた夫婦。
偽物の関係。
そのはずだった。
けれど。
二人の間には。
少しずつ。
契約書には書かれていないものが生まれ始めていた。


