血盟の花嫁

黒城家に嫁いで一か月。

千鶴は、すっかり屋敷の者たちに受け入れられていた。

最初の頃、使用人たちは千鶴にどう接していいのか分からなかった。

なにしろ彼女は鬼神と呼ばれる黒城朔夜の妻。

しかも、夫の身体を支えるために血を与える花嫁。

「お気の毒な方だ」

「若様のために、自分を犠牲にしている」

そんな陰での声もあった。

けれど、千鶴は気にしなかった。

「この薬草は、こちらに置いておきますね」

「奥方様、そんなことは使用人が……」

「でも、あなたは昨日からずっと咳をしています」

「……」

「無理をしてはいけませんよ」

千鶴はそう言って笑う。

身分で人を見ることをしない。

自分自身が、誰にも大切にされなかったから。

だからこそ、誰かを雑に扱うことが嫌だった。

そんな千鶴を見て、少しずつ屋敷の者たちの態度も変わっていった。

「奥方様は、本当に不思議なお方ですね」

ある女中が言った。

「普通なら、もっと贅沢を求めるでしょうに」

千鶴は首を傾げる。

「贅沢ですか?」

「はい」

「でも……」

千鶴は庭を見る。

「温かいご飯があって、安心して眠れる場所があって、優しく話してくれる人がいるなら。それだけで十分幸せです」

その言葉を。

偶然、廊下から聞いていた人物がいた。

黒城朔夜だった。

「……欲がないのか」

夜、朔夜は千鶴に尋ねた。

千鶴は不思議そうな顔をした。

「何がですか?」

「金も、宝も、地位も。妻という立場を利用すれば、いくらでも手に入る」

千鶴は少し考える。

「欲しいものがないわけではありません」

「なら何だ」

「普通の生活です」

朔夜は黙る。

「朝起きて、誰かと食事をして、今日あったことを話して、明日も同じように過ごせること」

千鶴は微笑んだ。

「私は、そういうものが欲しかったです」

その言葉に朔夜の胸が痛んだ。

彼女が望むものは。本当なら、誰もが当たり前に持っているもの。

千鶴には、それすら与えられなかったのだ。

(……俺と同じなのかもしれない)

自分もそうだった。

鬼の血を持つせいで。

普通の生活とは無縁だった。

恐れられ。

避けられ。

一人で生きてきた。

だから。

千鶴が少しだけ近く感じた。

それから数日後、体調が回復してきた朔夜はお役目を仰せつかった。

妖退治の任務。

本来なら問題なく終わるはずだった。

事実、朔夜は人を襲う怪異を容易に退けてみせた。想定外だったのはその後だった。

鬼の血を持つ彼の力は、戦闘で大きく揺さぶられた。

屋敷に戻った瞬間。

「……っ」

朔夜の身体から黒い霊気が溢れる。

「朔夜様!」

千鶴が駆け寄る。

「来るな!」

朔夜は叫んだ。

しかし遅かった。

鬼の力が暴走する。

額から角が現れる。

瞳が赤く染まる。

人ならざる姿。

それが本当の彼だった。

「……見るな」

朔夜は低く呟いた。

「これが俺だ。鬼の血を持った化け物だ」

千鶴は動きを止める。

朔夜は目を閉じた。

また同じだ。

皆、この姿を見ると怯える。

母も。

周囲の人間も。

だから。

これでいい。

嫌われるなら。

最初から近づかなければいい。

そう思っていた。

「……やっぱり」

千鶴の声がした。

朔夜は目を開ける。

「何だ」

千鶴はじっと彼を見る。

鬼の姿。

鋭い爪。

赤い瞳。

普通なら恐怖する姿。

なのに千鶴は悲しそうな顔をしていた。

「やっぱり、です」

「何がだ」

「朔夜様は鬼になった時ほど、寂しそうな顔をするのですね」

朔夜は言葉を失った。

「……何を言っている」

「私は、鬼の姿が怖くないと言っているわけではありません」

千鶴は正直に言う。

「怖いです」

朔夜の表情が少し揺れる。

「でも」

千鶴は一歩近づいた。

「怖いから、離れる必要はないと思います」

「……」

「朔夜様。あなたは、鬼ではありません。鬼の力を持った、人です」

その瞬間。

朔夜の中で何かが崩れた。

「……なぜだ」

朔夜は呟く。

「なぜ、お前はそんなことを言える」

「分かりません」

千鶴は少し困ったように笑う。

「でも、朔夜様が苦しんでいるなら。助けたいと思うのは、普通ではありませんか?」

朔夜は目を伏せる。

普通。

その言葉が胸に刺さった。

自分にとって誰かに心配されることなど、普通ではなかったから。

その夜。

朔夜の暴走は、千鶴の霊力によって静まった。

しかし。

いつものように血を飲んだからではない。

千鶴がただ傍にいたから。

「……千鶴」

朔夜が初めて名前を呼ぶ。

「はい?」

「俺の姿を見ても本当に恐ろしくないのか」

千鶴は少し考えた。

そして。

「恐ろしいです」

また正直に答えた。

朔夜は苦笑する。

「そうか」

「でも」

千鶴は続ける。

「恐ろしいものを持っている人が、恐ろしい人とは限りません」

朔夜は黙った。

長い間、誰にも言われなかった言葉だった。

その日から、また朔夜は少しずつ変わり始めた。

以前なら、弱さを隠した。

苦しみも一人で抱えた。

しかし。

「今日は少し身体が重い」

「この薬を飲んでください」

「……分かった」

そんな小さな会話が増えた。

千鶴は知らない。

彼女が救っているものが、朔夜の身体だけではないことを。

そして朔夜自身も、まだ気づいていなかった。

自分が本当に求めていたものは、鬼の血を癒す花嫁ではなく。

孤独だった自分を見つけてくれる――たった一人の女性だったことを。