黒城家に嫁いでから三日。
千鶴は、少しずつ屋敷の生活に慣れ始めていた。
とはいっても。
華やかな花嫁生活を送っているわけではない。
広い屋敷。
高価な調度品。
何人もの使用人。
すべてが、千鶴にとっては初めて見るものだった。
しかし。
「奥方様はこちらの部屋をお使いください」
案内された部屋を見て、千鶴は少し驚いた。
「……私が、この部屋を?」
そこは、以前の家で使っていた部屋とは比べものにならなかった。
柔らかな布団。
美しい着物。
綺麗に整えられた庭が見える部屋。
「はい」
使用人の女性は頭を下げる。
「黒城様のご命令です」
「そうですか」
千鶴は小さく呟いた。
あの冷たい人が。
自分のために部屋を用意してくれた。
意外だった。
もっと質素な部屋でも構わないと思っていた。
むしろ血を提供するだけの存在なら、物置のような場所でも不思議ではないと思っていた。
(……優しい人なのかもしれない)
そう思った自分に、千鶴は少し驚いた。
まだ会って数日。
契約だけの関係。
なのに朔夜のことを悪い人だとは思えなかった。
一方、朔夜は自室で苦しんでいた。
「……っ」
机に手をつく。
身体の奥から、鬼の力が湧き上がる。
喉が渇く。
血を求める本能が騒ぐ。
これまで何度も耐えてきた。
ただし、今夜は特にひどかった。
「朔夜様」
部屋の外から声がする。
千鶴だった。
「入るな」
朔夜はすぐに答えた。
今の自分を見せたくなかった。
鬼の血が暴走した姿など誰にも見せたくない。
「失礼します」
扉が開いた。
朔夜は驚く。
「なぜ入った」
「苦しそうでしたので」
「……出ろ」
氷のように冷たい声。
常人なら怯えるような迫力だが、千鶴は逃げなかった。
「血が必要なのですよね」
朔夜の目が鋭くなる。
「分かっているなら、なぜ近づく」
「契約したからです」
「……」
「私は朔夜様に血を提供するために、この家へ来ました」
千鶴は静かに言う。
「なら、必要な時に逃げるわけにはいきません」
その言葉に朔夜は少し黙った。
彼女は義務感だけで言っている。
そう思った。
間違いではないだろう。
ないはずなのだが。
その声には嫌悪がなかった。
「本当にいいのか」
朔夜は尋ねた。
「俺の血脈は人のものとは違う。痛みもある。怖くないのか」
千鶴は少し考えた。
そして正直に答えた。
「怖いです」
朔夜の表情が少し曇る。
やはり、そうだ。
鬼は恐れられる存在。
自分も分かっている。
千鶴は続けた。
「でも、怖いことと、嫌うことは違います」
朔夜は目を見開いた。
「……」
「朔夜様は、私を一人の人間として扱ってくださいました。だから、怖いと思っても……嫌いにはなれません」
その言葉は。
朔夜には理解できなかった。
鬼の姿を見ても、自分を恐れながらも、拒絶しない。
そんな人間がいるとは思わなかった。
千鶴は椅子に座る。
朔夜はゆっくり近づいた。
鬼の本能が騒ぐ。
目の前の血。
強い霊力。
それを求める本能。
千鶴の表情を見て、朔夜は一瞬動きを止めた。
怯えている。
でも、決して逃げようとはしない。
「……すまない」
小さく呟く。
そして、千鶴の首筋に口づけする。
契約通り、血を受け取った。
その瞬間。
朔夜は驚いた。
温かい。
ただ力が満たされるだけではない。
身体の痛みが薄れていく。
鬼の血が静まる。
今まで感じたことのない感覚だった。
「……なんだ、これは」
思わず声が漏れる。
千鶴は不思議そうに見る。
「苦しくなくなりましたか?」
「ああ」
朔夜は答える。
「まさか、ここまでの効果があるとは思わなかった。お前の血と相性が良いだろうか」
「分かりません」
千鶴は首を傾げる。
「ただ……」
「朔夜様が少し楽になったなら、良かったです」
その言葉にまた胸が揺れた。
普通なら自分を利用しようとする。
高い地位を求める。
金を求める。
そう思っていた。
だが。
この娘は。
ただ、自分が苦しんでいないことを喜んでいる。
「……悪かった」
突然、朔夜が言った。
千鶴は驚く。
「何がですか?」
「お前を……血を提供するためだけの存在として扱った」
千鶴は少し目を丸くした。
まさか、謝られるとは思わなかった。
「私は契約で来た身ですから」
「それでもだ」
朔夜は目を伏せる。
「お前にも心があることを忘れていた」
その言葉を聞いて千鶴は微笑んだ。
「では、ひとつお願いがあります」
「何だ」
「次から血を飲む時は……必ず、先に声をかけてください」
朔夜は眉をひそめる。
「それだけか?」
「はい」
千鶴は頷いた。
「私の身体は、道具ではありませんから」
朔夜は息を止めた。
責められたわけではない。
怒られたわけでもない。
ただ、当たり前のことを言われただけだった。
自分でも忘れていたことを。
それから数ヶ月。
朔夜の身体は少しずつ変化していった。
以前なら歩くことも辛かった。
今では剣を握れる。
鬼の力も安定する。
黒城家の者たちは驚いた。
「奥方様の霊力は、本当に素晴らしい」
「さすが黒城家に選ばれた方です」
そう言われても朔夜だけは分かっていた。
千鶴の価値は、血だけではない。
彼女は誰にでも分け隔てなく接する。
立場の低い者にも態度を変えない。
そして、鬼である自分にも普通の人間と同じように接する。
ある夜。
朔夜は庭で月を見ていた。
すると。
「朔夜様」
振り返る。
千鶴がいた。
「何をしているのですか?」
「月を見ているだけだ」
「私も一緒に見てもいいですか?」
「……好きにしろ」
千鶴は隣に座った。
しばらく沈黙が続く。
月が雲に隠れると朔夜は聞いた。
「怖くないのか」
「何がですか?」
「俺が」
千鶴は少し考える。
「怖いですよ」
正直な答え。
朔夜は目を伏せる。
「でも」
千鶴は手を合わせて続けた。
「朔夜様は、怖い鬼ではなく寂しい鬼だと思います」
朔夜の胸が大きく揺れた。
誰にも言われたことのない言葉。
鬼神と呼ばれた男に、初めて向けられた新しい理解だった。
この日、朔夜は初めて気づいた。
千鶴は自分の身体を救っているだけではない。
長い間凍っていた心まで、少しずつ溶かしているのだと。
千鶴は、少しずつ屋敷の生活に慣れ始めていた。
とはいっても。
華やかな花嫁生活を送っているわけではない。
広い屋敷。
高価な調度品。
何人もの使用人。
すべてが、千鶴にとっては初めて見るものだった。
しかし。
「奥方様はこちらの部屋をお使いください」
案内された部屋を見て、千鶴は少し驚いた。
「……私が、この部屋を?」
そこは、以前の家で使っていた部屋とは比べものにならなかった。
柔らかな布団。
美しい着物。
綺麗に整えられた庭が見える部屋。
「はい」
使用人の女性は頭を下げる。
「黒城様のご命令です」
「そうですか」
千鶴は小さく呟いた。
あの冷たい人が。
自分のために部屋を用意してくれた。
意外だった。
もっと質素な部屋でも構わないと思っていた。
むしろ血を提供するだけの存在なら、物置のような場所でも不思議ではないと思っていた。
(……優しい人なのかもしれない)
そう思った自分に、千鶴は少し驚いた。
まだ会って数日。
契約だけの関係。
なのに朔夜のことを悪い人だとは思えなかった。
一方、朔夜は自室で苦しんでいた。
「……っ」
机に手をつく。
身体の奥から、鬼の力が湧き上がる。
喉が渇く。
血を求める本能が騒ぐ。
これまで何度も耐えてきた。
ただし、今夜は特にひどかった。
「朔夜様」
部屋の外から声がする。
千鶴だった。
「入るな」
朔夜はすぐに答えた。
今の自分を見せたくなかった。
鬼の血が暴走した姿など誰にも見せたくない。
「失礼します」
扉が開いた。
朔夜は驚く。
「なぜ入った」
「苦しそうでしたので」
「……出ろ」
氷のように冷たい声。
常人なら怯えるような迫力だが、千鶴は逃げなかった。
「血が必要なのですよね」
朔夜の目が鋭くなる。
「分かっているなら、なぜ近づく」
「契約したからです」
「……」
「私は朔夜様に血を提供するために、この家へ来ました」
千鶴は静かに言う。
「なら、必要な時に逃げるわけにはいきません」
その言葉に朔夜は少し黙った。
彼女は義務感だけで言っている。
そう思った。
間違いではないだろう。
ないはずなのだが。
その声には嫌悪がなかった。
「本当にいいのか」
朔夜は尋ねた。
「俺の血脈は人のものとは違う。痛みもある。怖くないのか」
千鶴は少し考えた。
そして正直に答えた。
「怖いです」
朔夜の表情が少し曇る。
やはり、そうだ。
鬼は恐れられる存在。
自分も分かっている。
千鶴は続けた。
「でも、怖いことと、嫌うことは違います」
朔夜は目を見開いた。
「……」
「朔夜様は、私を一人の人間として扱ってくださいました。だから、怖いと思っても……嫌いにはなれません」
その言葉は。
朔夜には理解できなかった。
鬼の姿を見ても、自分を恐れながらも、拒絶しない。
そんな人間がいるとは思わなかった。
千鶴は椅子に座る。
朔夜はゆっくり近づいた。
鬼の本能が騒ぐ。
目の前の血。
強い霊力。
それを求める本能。
千鶴の表情を見て、朔夜は一瞬動きを止めた。
怯えている。
でも、決して逃げようとはしない。
「……すまない」
小さく呟く。
そして、千鶴の首筋に口づけする。
契約通り、血を受け取った。
その瞬間。
朔夜は驚いた。
温かい。
ただ力が満たされるだけではない。
身体の痛みが薄れていく。
鬼の血が静まる。
今まで感じたことのない感覚だった。
「……なんだ、これは」
思わず声が漏れる。
千鶴は不思議そうに見る。
「苦しくなくなりましたか?」
「ああ」
朔夜は答える。
「まさか、ここまでの効果があるとは思わなかった。お前の血と相性が良いだろうか」
「分かりません」
千鶴は首を傾げる。
「ただ……」
「朔夜様が少し楽になったなら、良かったです」
その言葉にまた胸が揺れた。
普通なら自分を利用しようとする。
高い地位を求める。
金を求める。
そう思っていた。
だが。
この娘は。
ただ、自分が苦しんでいないことを喜んでいる。
「……悪かった」
突然、朔夜が言った。
千鶴は驚く。
「何がですか?」
「お前を……血を提供するためだけの存在として扱った」
千鶴は少し目を丸くした。
まさか、謝られるとは思わなかった。
「私は契約で来た身ですから」
「それでもだ」
朔夜は目を伏せる。
「お前にも心があることを忘れていた」
その言葉を聞いて千鶴は微笑んだ。
「では、ひとつお願いがあります」
「何だ」
「次から血を飲む時は……必ず、先に声をかけてください」
朔夜は眉をひそめる。
「それだけか?」
「はい」
千鶴は頷いた。
「私の身体は、道具ではありませんから」
朔夜は息を止めた。
責められたわけではない。
怒られたわけでもない。
ただ、当たり前のことを言われただけだった。
自分でも忘れていたことを。
それから数ヶ月。
朔夜の身体は少しずつ変化していった。
以前なら歩くことも辛かった。
今では剣を握れる。
鬼の力も安定する。
黒城家の者たちは驚いた。
「奥方様の霊力は、本当に素晴らしい」
「さすが黒城家に選ばれた方です」
そう言われても朔夜だけは分かっていた。
千鶴の価値は、血だけではない。
彼女は誰にでも分け隔てなく接する。
立場の低い者にも態度を変えない。
そして、鬼である自分にも普通の人間と同じように接する。
ある夜。
朔夜は庭で月を見ていた。
すると。
「朔夜様」
振り返る。
千鶴がいた。
「何をしているのですか?」
「月を見ているだけだ」
「私も一緒に見てもいいですか?」
「……好きにしろ」
千鶴は隣に座った。
しばらく沈黙が続く。
月が雲に隠れると朔夜は聞いた。
「怖くないのか」
「何がですか?」
「俺が」
千鶴は少し考える。
「怖いですよ」
正直な答え。
朔夜は目を伏せる。
「でも」
千鶴は手を合わせて続けた。
「朔夜様は、怖い鬼ではなく寂しい鬼だと思います」
朔夜の胸が大きく揺れた。
誰にも言われたことのない言葉。
鬼神と呼ばれた男に、初めて向けられた新しい理解だった。
この日、朔夜は初めて気づいた。
千鶴は自分の身体を救っているだけではない。
長い間凍っていた心まで、少しずつ溶かしているのだと。


