「お前には、嫁に行ってもらう」
父の言葉を聞いた時。
千鶴は、驚かなかった。
いつか、この日が来ると思っていたからだ。
神代家の屋敷。
かつては名門公家として栄えた家だったが、今では見る影もない。
広い庭には雑草が増え、廊下の柱には古い傷が残っている。
家に残っている価値あるものなど、もうほとんどなかった。
そんな中で。
父が最後に売れると思ったもの。
それが――千鶴だった。
「相手はあの黒城家の若様だ」
父は満足そうに笑った。
「鬼神の血を引く、由緒正しい一族だ。帝都を妖から守る立派なお役目を代々こなす名家。しかも、こちらに十分な支度金を出してくださる」
「……そうですか」
千鶴は静かに返事をした。
父はその反応を気に入らなかったのか、少し眉をひそめる。
「嬉しくないのか?」
「いいえ」
千鶴は首を振った。
「ただ、驚かなかっただけです」
その言葉に、父は不機嫌そうな顔をする。
「お前は昔から可愛げがないな」
その言葉にも。
千鶴は傷つかなかった。
もう、慣れていた。
幼い頃から。
何度も言われてきた言葉だったから。
――姉の美琴は、本当に美しい娘だ。
――霊力も強く、神様に愛されたような子だ。
――それに比べて、お前は……。
姉の美琴は、神代家の自慢だった。
美しい顔立ち。
人を惹きつける笑顔。
そして、強い霊力。
両親は何かにつけて姉を褒めた。
新しい着物は姉へ。
美味しい食事も姉へ。
家族の時間も姉へ。
千鶴はいつも、その後だった。
「でも、黒城家なら悪い話ではない」
父は続ける。
「鬼神の血を持つ家だ。お前のような娘でも、高く買ってくださる」
その瞬間だけ。
胸の奥が、少し痛んだ。
お前のような娘。
それはつまり。
価値のない娘。
そう言われているのと同じだった。
けれど。
千鶴は笑った。
「分かりました」
「……本当にいいのか?」
「はい」
父が少し驚いた顔をする。
千鶴は静かに頭を下げた。
「今まで育てていただいた恩がありますから」
嘘ではなかった。
愛されていたとは思わない。
でも。
この家で生まれ。
この家で育った。
ならば最後くらい。
役に立てるなら。
それでいい。
数日後、千鶴は黒城家へ向かった。
黒城家。
帝国でもっとも恐れられる一族。
鬼の血を引き、強大な霊力を持つ者たち。
その当主候補、黒城朔夜。
彼の名を知らない者はいない。
戦場では鬼神そのもの。
敵兵からは「黒鬼」と呼ばれる男。
けれど。
屋敷の奥にある部屋で、その男は一人鏡を見つめていた。
「……またか」
黒城朔夜は、震える手を握りしめた。
息が苦しい。
身体の奥から、何かが暴れ出そうとしている。
喉が焼けるように熱い。
血が欲しい。
鬼の血が濃く出た者にだけ訪れる苦しみ。
吸血衝動。
幼い頃から続いている。
最初は耐えられた。
しかし成長するにつれて、鬼の力は強くなり。
人の身体では、その力を支えきれなくなっていた。
「……俺は、やはり鬼なのか」
鏡に映る自分を見る。
青白い顔。
やせ細った身体。
昔、恐れられた鬼神の姿はそこにはない。
あるのは壊れかけた身体を持つ男だけだった。
しかし。
朔夜には、ひとつの希望があった。
霊力の強い女性の血。
それを定期的に飲むことができれば身体は回復する。
ただし、黒城家には古い掟がある。
――妻となった女性以外の血を飲んではならない。
鬼の血を持つ者は、魂を結んだ相手の血だけで力を安定させる。
だから朔夜は妻を求めた。
愛など必要ない。
必要なのは自分を生かす血。
それだけだった。
「初めまして」
婚礼の日、千鶴は朔夜の前に座った。
目の前の男は、噂通りだった。
黒い髪。
鋭い瞳。
近づくだけで、空気が重くなるような威圧感。
けれど、千鶴が最初に気づいたのは。
彼が怖い人だということではなかった。
(……苦しそう)
顔色が悪い。
呼吸も少し乱れている。
まるで、ずっと何かに耐えているようだった。
「契約内容を説明する」
朔夜は感情のない声で言った。
「一年。一年だ。一年間、俺と形だけで良いから婚姻関係を結ぶこと」
一枚の紙を机に置く。
「一年間、お前は俺に血を提供する。定期的に血を飲ませてもらう。そうすれば俺の体も安定するはずだ。その代わり」
朔夜は続ける。
「黒城家では好きに生きろ。俺の妻という立場を利用しても構わない。欲しいものがあるなら、できる限り用意する。契約期間が満了したら自由にしてくれてよい。相応の謝礼も用意する」
千鶴は契約書を見る。
そこには。
婚姻期間。
血の提供。
互いに干渉しないこと。
細かな条件が書かれていた。
まるで。
夫婦ではなく、取引だった。
しかし、千鶴は怒らなかった。
「……それだけですか?」
朔夜は眉をひそめた。
「何?」
「もっと厳しい条件を言われると思っていました」
「血を提供しろと言っているんだぞ」
「はい」
千鶴は頷く。
「でも」
顔を上げる。
「朔夜様は、私に自由をくださるのですよね」
「……」
「なら、悪い契約ではありません」
朔夜は言葉を失った。
予想していた反応と違った。
泣くと思った。
怯えると思った。
自分を化け物を見るような目で見ると思った。
だが、この娘は違った。
自分が売られたことを理解している。
それでも誰かを憎んでいない。
「……変わった女だな」
思わず口に出た。
千鶴は少し笑う。
「よく言われます」
その笑顔を見た瞬間。
朔夜の胸が、わずかに揺れた。
理由は分からなかった。
ただ、その笑顔だけが。
鬼として生きてきた彼の世界で初めて温かいものに見えた。
「あ、でも一つだけ条件を追加していいですか?」
「なんだ?」
「どうか、私を人として扱ってください」
千鶴は真っすぐな目をして微笑む。
虚を突かれた朔夜は咳払いをしてから深く頷いた。
「……当然だ。言われるまでもない」
父の言葉を聞いた時。
千鶴は、驚かなかった。
いつか、この日が来ると思っていたからだ。
神代家の屋敷。
かつては名門公家として栄えた家だったが、今では見る影もない。
広い庭には雑草が増え、廊下の柱には古い傷が残っている。
家に残っている価値あるものなど、もうほとんどなかった。
そんな中で。
父が最後に売れると思ったもの。
それが――千鶴だった。
「相手はあの黒城家の若様だ」
父は満足そうに笑った。
「鬼神の血を引く、由緒正しい一族だ。帝都を妖から守る立派なお役目を代々こなす名家。しかも、こちらに十分な支度金を出してくださる」
「……そうですか」
千鶴は静かに返事をした。
父はその反応を気に入らなかったのか、少し眉をひそめる。
「嬉しくないのか?」
「いいえ」
千鶴は首を振った。
「ただ、驚かなかっただけです」
その言葉に、父は不機嫌そうな顔をする。
「お前は昔から可愛げがないな」
その言葉にも。
千鶴は傷つかなかった。
もう、慣れていた。
幼い頃から。
何度も言われてきた言葉だったから。
――姉の美琴は、本当に美しい娘だ。
――霊力も強く、神様に愛されたような子だ。
――それに比べて、お前は……。
姉の美琴は、神代家の自慢だった。
美しい顔立ち。
人を惹きつける笑顔。
そして、強い霊力。
両親は何かにつけて姉を褒めた。
新しい着物は姉へ。
美味しい食事も姉へ。
家族の時間も姉へ。
千鶴はいつも、その後だった。
「でも、黒城家なら悪い話ではない」
父は続ける。
「鬼神の血を持つ家だ。お前のような娘でも、高く買ってくださる」
その瞬間だけ。
胸の奥が、少し痛んだ。
お前のような娘。
それはつまり。
価値のない娘。
そう言われているのと同じだった。
けれど。
千鶴は笑った。
「分かりました」
「……本当にいいのか?」
「はい」
父が少し驚いた顔をする。
千鶴は静かに頭を下げた。
「今まで育てていただいた恩がありますから」
嘘ではなかった。
愛されていたとは思わない。
でも。
この家で生まれ。
この家で育った。
ならば最後くらい。
役に立てるなら。
それでいい。
数日後、千鶴は黒城家へ向かった。
黒城家。
帝国でもっとも恐れられる一族。
鬼の血を引き、強大な霊力を持つ者たち。
その当主候補、黒城朔夜。
彼の名を知らない者はいない。
戦場では鬼神そのもの。
敵兵からは「黒鬼」と呼ばれる男。
けれど。
屋敷の奥にある部屋で、その男は一人鏡を見つめていた。
「……またか」
黒城朔夜は、震える手を握りしめた。
息が苦しい。
身体の奥から、何かが暴れ出そうとしている。
喉が焼けるように熱い。
血が欲しい。
鬼の血が濃く出た者にだけ訪れる苦しみ。
吸血衝動。
幼い頃から続いている。
最初は耐えられた。
しかし成長するにつれて、鬼の力は強くなり。
人の身体では、その力を支えきれなくなっていた。
「……俺は、やはり鬼なのか」
鏡に映る自分を見る。
青白い顔。
やせ細った身体。
昔、恐れられた鬼神の姿はそこにはない。
あるのは壊れかけた身体を持つ男だけだった。
しかし。
朔夜には、ひとつの希望があった。
霊力の強い女性の血。
それを定期的に飲むことができれば身体は回復する。
ただし、黒城家には古い掟がある。
――妻となった女性以外の血を飲んではならない。
鬼の血を持つ者は、魂を結んだ相手の血だけで力を安定させる。
だから朔夜は妻を求めた。
愛など必要ない。
必要なのは自分を生かす血。
それだけだった。
「初めまして」
婚礼の日、千鶴は朔夜の前に座った。
目の前の男は、噂通りだった。
黒い髪。
鋭い瞳。
近づくだけで、空気が重くなるような威圧感。
けれど、千鶴が最初に気づいたのは。
彼が怖い人だということではなかった。
(……苦しそう)
顔色が悪い。
呼吸も少し乱れている。
まるで、ずっと何かに耐えているようだった。
「契約内容を説明する」
朔夜は感情のない声で言った。
「一年。一年だ。一年間、俺と形だけで良いから婚姻関係を結ぶこと」
一枚の紙を机に置く。
「一年間、お前は俺に血を提供する。定期的に血を飲ませてもらう。そうすれば俺の体も安定するはずだ。その代わり」
朔夜は続ける。
「黒城家では好きに生きろ。俺の妻という立場を利用しても構わない。欲しいものがあるなら、できる限り用意する。契約期間が満了したら自由にしてくれてよい。相応の謝礼も用意する」
千鶴は契約書を見る。
そこには。
婚姻期間。
血の提供。
互いに干渉しないこと。
細かな条件が書かれていた。
まるで。
夫婦ではなく、取引だった。
しかし、千鶴は怒らなかった。
「……それだけですか?」
朔夜は眉をひそめた。
「何?」
「もっと厳しい条件を言われると思っていました」
「血を提供しろと言っているんだぞ」
「はい」
千鶴は頷く。
「でも」
顔を上げる。
「朔夜様は、私に自由をくださるのですよね」
「……」
「なら、悪い契約ではありません」
朔夜は言葉を失った。
予想していた反応と違った。
泣くと思った。
怯えると思った。
自分を化け物を見るような目で見ると思った。
だが、この娘は違った。
自分が売られたことを理解している。
それでも誰かを憎んでいない。
「……変わった女だな」
思わず口に出た。
千鶴は少し笑う。
「よく言われます」
その笑顔を見た瞬間。
朔夜の胸が、わずかに揺れた。
理由は分からなかった。
ただ、その笑顔だけが。
鬼として生きてきた彼の世界で初めて温かいものに見えた。
「あ、でも一つだけ条件を追加していいですか?」
「なんだ?」
「どうか、私を人として扱ってください」
千鶴は真っすぐな目をして微笑む。
虚を突かれた朔夜は咳払いをしてから深く頷いた。
「……当然だ。言われるまでもない」


