あれから、明鈴と麗莎は時折文を交わすようになった。
初めは季節の挨拶ばかりだった便りも、次第に互いの日常を綴るものへと変わっていったそうだ。
『今日は庭の花が咲きました』
『ようやく幼馴染とゆっくり話すことができました』
何気ない文を嬉しそうに翔瑶へ見せることもあった。
崔家はあれ以来、麗莎との縁談を持ちかけなくなった。間柄も、互いに疑い合うような空気は多少なり消えている。懇意とまではいかないが、一定の敬意を払う関係へと落ち着いていた。
その変化を生み出したのが、茶会で交わされた二人の娘の言葉だったことを知る者は少ない。
⁑
崔家との件から半月ほど過ぎた、ある日の夜。
政務をひと段落させた翔瑶は椅子にもたれかかり、小さく息を吐いた。
「陛下、お茶をお待ちしました」
執務室の扉がノックされ、控えめな声とともに明鈴が茶を運んで入ってきた。手際よく机に湯呑みを置く仕草は、もうすっかり馴染んだものになっている。
「お疲れ様です。あんまり頑張り過ぎてはダメですよ」
「役目だからな」
「だからって無理をしていい理由にはなりません。今日だって、会議中はずっと“皇帝陛下”のお顔をしてたじゃないですか」
湯呑みを差し出す明鈴。
「今日は、少し濃いめに淹れてみました」
立ち上る湯気とともに、いつもよりはっきりとした茶の香りが漂う。疲れたときほど濃くする。それもまた、いつの間にか明鈴の習慣になっていた。
「……うまい」
「よかったです」
ぱっと花が咲くように笑う。
「今日はもう、ご無理なさらないでくださいね。では、失礼します」
一礼して離れていく背中を見送る。
このまま行かせればいい──そう思ったはずなのに。
「……明鈴」
気づけば、呼び止めていた。
「はい?」
振り返った明鈴は、不思議そうに小首を傾げた。
「この契約の期間を、覚えているか」
「はい。今ある縁談が片付くまで、と」
「崔家は退いた。他の家からの縁談も、もう来ていない」
「……はい」
その先の言葉を言わなければ。
始めたのが自分なら、終わらせるのもまた、自分の役目だ。契約とは、そういうものなのだから。
わかっているはずなのに、言葉は喉のあたりで重く沈んでいた。
「これで……契約は終わりだ」
口にした瞬間、なにか大切なものを手放したような気がした。
胸が強く締めつけられる。執務室から音が消えた。流れる沈黙は、ひどく長く感じられる。
やがて先に口を開いたのは、翔瑶の宣言を受け入れたように頷いた明鈴のほうだった。
「陛下には、感謝してもしきれません」
穏やかに微笑んだ彼女からは、心からの感謝だけが伝わってくる。
「父はちゃんと薬を飲めるようになって、容体も安定しています。弟も、『立派な医師になって、今度は俺が人を助ける番だ』って、毎日勉強を頑張っているみたいです」
嬉しそうに語る表情を見て、翔瑶は今さらながらに実感した。あの日交わした契約は、彼女を縛るためのものではなく──彼女を救うものだったのだ、と。
その事実が、不思議なほど胸を満たしていく。誰かの喜びが自分のことのように嬉しだなんて、今まで感じたことがなかった。
「全部、陛下のおかげです。本当に、ありがとうございました」
深々と頭を下げる明鈴を前に、翔瑶は焦りにも似た感情を抱いた。
このまま「ご苦労だった」と言えば、契約は本当に終わる。そして明鈴は、この瞬間を区切りとして、また宮女だった頃の日常へ戻っていくのだろう。晴れやかに、何の未練もなく。この契約を、「恩人との思い出」として胸にしまいながら。
自分へ向けるのは感謝だけ。きっと、それ以上でも、それ以下でもない。
──それでいいのか。
己に問う前から、答えは出ていた。
いいはずがない。嫌だ。
自分でも驚くほど、その想いは鮮明だった。
共に夜空を見上げたこと。卵粥を運んでくる足音。疲れた日は少しだけ濃く淹れられる茶。失敗するたびに反省することろも。思ったことを、そのまま口にしてしまうところも。陽だまりのように笑う、その笑顔も──全部、失いたくない。
今さら気づいた。
終わらせたくなかったのは、契約ではなかった。明るくて、賑やかで、飾らない彼女が隣にいてくれる日常だったのだ。
「明鈴」
「はい」
顔を上げた彼女が、まっすぐに翔瑶を見つめる。
翡翠色の瞳に映る自分は、一人の男として、一人の女性を引き留めようとしている顔をしていた。
「契約は、今日で終わりだ」
「……はい」
「だが」
翔瑶は息を吸う。
「これは皇帝としてではない。李翔瑶の意思として告げる」
今まで、幾度となく国を動かす決断をしてきたが。この一言だけは、どんな勅命よりも慎重だった。
「隣にいてくれないか。契約ではなく……俺の妻として」
明鈴の目が大きく見開かれた。
「陛下……?」
「聖君の仮面を守るためでも、皇后という肩書きのためでもない。俺が、お前を必要としている」
声は不格好に震えていた。こうやって飾らずに本心を口にしたのは、生まれて初めてかもしれない。
「お前と出会うまで、俺は役目を果たすことだけを考えて生きていた。星を見上げることも、温かい粥を食べることも……そんな当たり前のことが、こんなにも心を満たすものだと知らなかった」
「……はい」
「全部、お前が教えてくれたんだ」
明鈴は翔瑶を見つめたまま、何も言わずにいた。
揺れる翡翠の瞳。何かを考えるように、わずかに伏せられる睫毛。
──困らせたか。
あの背を引き止めなければよかったのかもしれない。
想いを告げてしまえば、もう以前のような関係には戻れない。今さらになって、その重さを思い知る。
ふと、茶会の日のことが脳裏をよぎった。麗莎へ向けて、明鈴が口にした言葉。
──『あのとき言えばよかった』と思い続けるほうが、もっと悲しくて苦しい。気持ちを伝えたことを後悔する人は、きっと少ない。
思わず胸の内で苦笑する。あれは、麗莎だけに向けた言葉ではなかったらしい。明鈴の言葉は、巡り巡って今の自分を支えていた。
「……陛下」
見上げた瞳は、春の空のように澄み切っていた。
「契約を交わしたときに言った私の条件、覚えていますか?」
「ああ」
「私は、私のままでいさせてくださいって言いました」
「覚えている」
明鈴は少し照れくさそう笑って、胸の前で手を重ねた。
「これからも、そのままの私で、陛下のおそばにいてもいいですか」
そんなもの、問われるまでもなく決まっている。
「これからも、お前のままでいてくれ」
明鈴は、嬉しそうに頷いた。
翔瑶もまた微笑む。初めての、心からの笑顔だった。
初めは季節の挨拶ばかりだった便りも、次第に互いの日常を綴るものへと変わっていったそうだ。
『今日は庭の花が咲きました』
『ようやく幼馴染とゆっくり話すことができました』
何気ない文を嬉しそうに翔瑶へ見せることもあった。
崔家はあれ以来、麗莎との縁談を持ちかけなくなった。間柄も、互いに疑い合うような空気は多少なり消えている。懇意とまではいかないが、一定の敬意を払う関係へと落ち着いていた。
その変化を生み出したのが、茶会で交わされた二人の娘の言葉だったことを知る者は少ない。
⁑
崔家との件から半月ほど過ぎた、ある日の夜。
政務をひと段落させた翔瑶は椅子にもたれかかり、小さく息を吐いた。
「陛下、お茶をお待ちしました」
執務室の扉がノックされ、控えめな声とともに明鈴が茶を運んで入ってきた。手際よく机に湯呑みを置く仕草は、もうすっかり馴染んだものになっている。
「お疲れ様です。あんまり頑張り過ぎてはダメですよ」
「役目だからな」
「だからって無理をしていい理由にはなりません。今日だって、会議中はずっと“皇帝陛下”のお顔をしてたじゃないですか」
湯呑みを差し出す明鈴。
「今日は、少し濃いめに淹れてみました」
立ち上る湯気とともに、いつもよりはっきりとした茶の香りが漂う。疲れたときほど濃くする。それもまた、いつの間にか明鈴の習慣になっていた。
「……うまい」
「よかったです」
ぱっと花が咲くように笑う。
「今日はもう、ご無理なさらないでくださいね。では、失礼します」
一礼して離れていく背中を見送る。
このまま行かせればいい──そう思ったはずなのに。
「……明鈴」
気づけば、呼び止めていた。
「はい?」
振り返った明鈴は、不思議そうに小首を傾げた。
「この契約の期間を、覚えているか」
「はい。今ある縁談が片付くまで、と」
「崔家は退いた。他の家からの縁談も、もう来ていない」
「……はい」
その先の言葉を言わなければ。
始めたのが自分なら、終わらせるのもまた、自分の役目だ。契約とは、そういうものなのだから。
わかっているはずなのに、言葉は喉のあたりで重く沈んでいた。
「これで……契約は終わりだ」
口にした瞬間、なにか大切なものを手放したような気がした。
胸が強く締めつけられる。執務室から音が消えた。流れる沈黙は、ひどく長く感じられる。
やがて先に口を開いたのは、翔瑶の宣言を受け入れたように頷いた明鈴のほうだった。
「陛下には、感謝してもしきれません」
穏やかに微笑んだ彼女からは、心からの感謝だけが伝わってくる。
「父はちゃんと薬を飲めるようになって、容体も安定しています。弟も、『立派な医師になって、今度は俺が人を助ける番だ』って、毎日勉強を頑張っているみたいです」
嬉しそうに語る表情を見て、翔瑶は今さらながらに実感した。あの日交わした契約は、彼女を縛るためのものではなく──彼女を救うものだったのだ、と。
その事実が、不思議なほど胸を満たしていく。誰かの喜びが自分のことのように嬉しだなんて、今まで感じたことがなかった。
「全部、陛下のおかげです。本当に、ありがとうございました」
深々と頭を下げる明鈴を前に、翔瑶は焦りにも似た感情を抱いた。
このまま「ご苦労だった」と言えば、契約は本当に終わる。そして明鈴は、この瞬間を区切りとして、また宮女だった頃の日常へ戻っていくのだろう。晴れやかに、何の未練もなく。この契約を、「恩人との思い出」として胸にしまいながら。
自分へ向けるのは感謝だけ。きっと、それ以上でも、それ以下でもない。
──それでいいのか。
己に問う前から、答えは出ていた。
いいはずがない。嫌だ。
自分でも驚くほど、その想いは鮮明だった。
共に夜空を見上げたこと。卵粥を運んでくる足音。疲れた日は少しだけ濃く淹れられる茶。失敗するたびに反省することろも。思ったことを、そのまま口にしてしまうところも。陽だまりのように笑う、その笑顔も──全部、失いたくない。
今さら気づいた。
終わらせたくなかったのは、契約ではなかった。明るくて、賑やかで、飾らない彼女が隣にいてくれる日常だったのだ。
「明鈴」
「はい」
顔を上げた彼女が、まっすぐに翔瑶を見つめる。
翡翠色の瞳に映る自分は、一人の男として、一人の女性を引き留めようとしている顔をしていた。
「契約は、今日で終わりだ」
「……はい」
「だが」
翔瑶は息を吸う。
「これは皇帝としてではない。李翔瑶の意思として告げる」
今まで、幾度となく国を動かす決断をしてきたが。この一言だけは、どんな勅命よりも慎重だった。
「隣にいてくれないか。契約ではなく……俺の妻として」
明鈴の目が大きく見開かれた。
「陛下……?」
「聖君の仮面を守るためでも、皇后という肩書きのためでもない。俺が、お前を必要としている」
声は不格好に震えていた。こうやって飾らずに本心を口にしたのは、生まれて初めてかもしれない。
「お前と出会うまで、俺は役目を果たすことだけを考えて生きていた。星を見上げることも、温かい粥を食べることも……そんな当たり前のことが、こんなにも心を満たすものだと知らなかった」
「……はい」
「全部、お前が教えてくれたんだ」
明鈴は翔瑶を見つめたまま、何も言わずにいた。
揺れる翡翠の瞳。何かを考えるように、わずかに伏せられる睫毛。
──困らせたか。
あの背を引き止めなければよかったのかもしれない。
想いを告げてしまえば、もう以前のような関係には戻れない。今さらになって、その重さを思い知る。
ふと、茶会の日のことが脳裏をよぎった。麗莎へ向けて、明鈴が口にした言葉。
──『あのとき言えばよかった』と思い続けるほうが、もっと悲しくて苦しい。気持ちを伝えたことを後悔する人は、きっと少ない。
思わず胸の内で苦笑する。あれは、麗莎だけに向けた言葉ではなかったらしい。明鈴の言葉は、巡り巡って今の自分を支えていた。
「……陛下」
見上げた瞳は、春の空のように澄み切っていた。
「契約を交わしたときに言った私の条件、覚えていますか?」
「ああ」
「私は、私のままでいさせてくださいって言いました」
「覚えている」
明鈴は少し照れくさそう笑って、胸の前で手を重ねた。
「これからも、そのままの私で、陛下のおそばにいてもいいですか」
そんなもの、問われるまでもなく決まっている。
「これからも、お前のままでいてくれ」
明鈴は、嬉しそうに頷いた。
翔瑶もまた微笑む。初めての、心からの笑顔だった。



