猫をかぶる皇帝陛下は仮初の妻から愛を知る

 三人だけになったことを確かめた後、麗莎は静かに息をついた。張り詰めていた空気が、吐息とともにほどけていく。

「申し訳ございませんでした」

 麗莎は深々と頭を下げた。

「崔家の者たちが、お二人に大変失礼をいたしました。代表する者として、お詫び申し上げます」
「頭を上げてください……!」

 間髪入れずに明鈴が声を上げる。

「麗莎様が謝る理由なんてありません」

 恐る恐る顔を上げる麗莎。上向いた表情にはまだ、どこか躊躇いの色が残っていた。
 翔瑶は黙ってその様子を見つめていた。
 崔家の令嬢として振る舞う麗莎なら、この場でも完璧な笑みを崩さないはずだ。けれど今、目の前にいる彼女はそれとは違っていた。

「……ありがとうございます」

 呟く声は、先ほどまでより幾分柔らかかった。

「これでやっと、本当のお話ができます」

 こわばっていた麗莎の表情が、ふっとほどける。長い冬を越え、ようやく花が綻んだような──年相応の娘らしい笑みだった。

「先ほどまでの私は、崔家の娘でした。ですが……今からは、一人の“崔麗莎”として、お話しさせてください」

 翔瑶と明鈴は互いに目を合わせ、頷く。二人とも黙って続きを待った。

「私……誰にも、ずっと言えずにいたことがあるんです」

 自嘲するように小さく笑って、麗莎は続けた。

「好きな人が、いるんです」
「好きな人……!」
「はい、幼馴染です。幼い頃は、毎日のように一緒に遊んでいました。でも、年を重ねるにつれて、少しずつ距離ができてしまって……」
「何かあったんですか?」
「身分が……違うのです。私は崔家の娘。あの人は……崔家に仕える家臣の息子でした」

 わずかに声が震えていた。

「叶うはずがないと、ずっと自分に言い聞かせてきました。崔家の娘として生まれた以上、家に相応しい令嬢となり、望まれる縁談を受け入れるのが務めなのだと」

 翔瑶は黙ったまま、麗莎を見つめ続けていた。

 ──これが、本当の麗莎か。
 
 彼女の気持ちは、痛いほどによくわかった。
 翔瑶もそうだったのだ。生まれた瞬間から「皇帝」という役目と期待を背負わされ、望むものより、望まれるものを選び続けてきた。感情を殺し、仮面を被ることが正しさだと信じてきた。
 麗莎の言葉は、かつての翔瑶そのものだった。
 
 底なし沼にひとり、抜け出そうとしても、もがけばもがくほど沈んでいく。誰かが手を伸ばしてくれない限り、そこから出る術などない。だが、手を伸ばしてくれる人など、誰もいない。そんな人生だった。
 何もかも諦めていた中、現れたのは──凍てついていた世界を目覚めさせる、陽だまりのような光の存在。
 
「そんなの、誰が決めたんですか?」
「……え」

 麗莎が目を見開いた。
 まただ、と翔瑶は胸の内で呟く。彼女は、誰にも開けられなかった心の扉へ躊躇いもなく手をかけ、光を差し込ませる。
 それが今度は、自分ではなく麗莎へ向けられていた。

「叶うはずがないって。麗莎様がお決めになったんですか。それとも、誰かに言われたんですか」
 
 麗莎は一瞬言葉に詰まった。実際、誰にもそんな風に問われたことはなかったのだろう。
 
「……わかりません。気づいたら、そう思うようになっていました。崔家に生まれたときから、決まっていることなんだと」
「なら、誰にも駄目だとは言われてないんですよね」

 息を呑んだ麗莎は少しだけ間を置いてから、たどたどしく頷いた。

「でしたら、『無理だ』と決めてしまうのは、少し早いような気がします」
「早い……ですか?」
「はい」

 明鈴が照れくさそうに笑う。

「私、後悔するのが嫌なんです。だから、もし私だったら、ちゃんと気持ちを伝えて、聞いてみます」

 その言葉に、麗莎はハッと息を止めた。

「私の想いを……彼の気持ちを、聞いてもいいのでしょうか」
「もちろんです。だって気持ちを伝えることも、相手の気持ちを知りたいと思うことも、悪いことじゃありませんから」
「明鈴様……」

 にこりと微笑む明鈴の顔につられるよう、一度は笑みを浮かべた麗莎だったが。すぐに俯き、固く手を握り締めた。

「……でも、もし断られたら。身分だって……」
「そうですね。断られたら悲しいし、苦しいです。麗莎様が身分の違いを気にされるのもわかります。でも」

 明鈴は少しだけ目を伏せ、それから穏やかに微笑んだ。

「この先、何十年も『あのとき伝えていたら』『ちゃんと聞いていたら』と思い続けるほうが、私はもっと悲しくて、苦しいと思います」

 麗莎は何も言わずにいた。明鈴の言葉が胸の奥深くまで届き、響いている。そのことだけは翔瑶の位置からも見て取れた。

「結果はわかりません。でも、気持ちを伝えたことを後悔する人は、きっと少ないはずです」

 麗莎の目から、一筋の涙が零れた。長い間、外せずにいた仮面が音もなく落ちていくように。

「……明鈴様のおっしゃる通りですね」

 涙を拭い、麗莎は小さく笑う。

「どうなるかは、わかりません。崔家の娘である以上、簡単なことではないでしょう。ですが……このまま何も伝えず、何も変わらないまま終わるのだけは、もう嫌です」

 凛とした表情。一人の女性として、自らの足で未来を選ぼうとしている強さでもあった。

「ありがとうございます、明鈴様」
「そんな、私は何も。むしろ、でしゃばりすぎたかなと、今になって少し反省しているくらいで」

 苦笑いを浮かべる明鈴に、麗莎は「いいえ」と静かに首を横へ振った。

「『人との繋がりや絆は、生まれた場所や立場だけで決まるものではない』……。あのお言葉を聞いた瞬間から、押し込めていた想いが堰を切ったようにあふれていたんです」

 麗莎が自分の胸元へ手を添える。

「初めて、自分の心に正直になれそうな気がします」
「麗莎様……」

 穏やかに微笑む麗莎の視線が、翔瑶へと向けられた。

「陛下も、本日はありがとうございました」
「礼を言われるようなことはしていない」
「いいえ。このような席を設けていただいたこと。そして何より、崔家からの縁談をずっと断り続けてくださったこと。おかげで、今日まで自分の心を捨てずに済みました」

 麗莎は、いらずらっぽく目を細めてみせた。

「もし陛下が縁談をお受けになっていたら、今頃私は陛下のお隣で完璧な皇后を演じていたことでしょう。本当の想い人を胸に抱いたまま、この一生を終えていたかもしれません」

 翔瑶は思わず目を見張った。
 なるほど、これが一人の“崔麗莎”の姿なのだろう。よほど、人間らしいではないか。

「明鈴様のようなお方が、陛下のお隣にいらっしゃること。心から、よかったと思います」

 二人を見比べた麗莎は、心から安堵したように微笑んだ。
 ほどなくして、麗莎は東屋を後にする。彼女の足取りは、来たときよりもいくらか軽く見えた。