猫をかぶる皇帝陛下は仮初の妻から愛を知る

「崔家より、正式な文が届いております」

 宦官が差し出した書状を受け取った翔瑶は、気怠げな手つきで文を広げて目を通した。

『皇后陛下へ、ご挨拶申し上げたく存じます』

 一見すれば、何の問題もない申し出だ。重臣の娘が、新たに迎えられた皇后へ表敬の挨拶をする。ごく自然な話である。

 ──しかし、これは。
 
 丁重な文面の行間から、否応なしに滲み出ている意図。本当の狙いなど、火を見るより明らかだ。
 皇后は本当に実在するのか。どこの馬の骨とも知れぬ女を、形だけ皇后に据えたのではないか──噂の真偽を確かめに来るつもりなのだ。

「断りになりますか」

 宦官が控えめに訊ねる。翔瑶は文を閉じ、小さく首を振った。

「断れば『やましいことがある』と言われるだけだ」

 崔家がこの程度で引き下がるとは思えない。これまでも幾度となく理由を変えては文を寄越し、縁談を持ちかけてきた。今回だけ大人しく引き下がるとは考えにくい。
 ならば、受けて立つしかない。

「日取りを決めよ。茶会の席を設ける」
「かしこまりました」

 宦官が一礼して退出する。静まり返った執務室で、翔瑶はもう一度、閉じた文に視線を落とした。

 ──崔 麗莎(リーシャ)、か。

 崔家の一人娘。かつて、何度も翔瑶との縁談が持ち上がった令嬢だ。
 家柄も、教養も、礼儀作法だって申し分ない。実際に顔を合わせたのは、数えるほどしかないが。それでも印象に残っているのは、手本をなぞるように完璧な立ち居振る舞いだった。
 柔らかな笑み。穏やかな言葉遣い。品のある所作。誰から見ても理想の令嬢。
 だが、その笑顔の奥には、どこか張り詰めたものがあった。それは少しだけ、自分と似ている気がしていた。

 ⁑

 数日後。
 約束の日、後宮には翔瑶の胸中とは反対に、木漏れ日のような陽射しが降り注いでいた。
 茶会の席は、庭園を望む東屋に設けられている。茶器も菓子もすでに並べられ、あとは客を迎えるばかりだった。

「……緊張します」

 小さくこぼしたのは、隣に腰を下ろした明鈴。いつもより豪奢な衣を身にまとい、落ち着かない様子で指先をもじもじと動かしている。彼女にしては珍しく、今日は肩に力が入っていた。

「今さらだな」
「今さらだからですよ」

 明鈴は困ったように笑った。
 やがて、一人の女官が静かに頭を下げる。

「崔家の方々がお見えになりました」
「通せ」

 足音がゆっくりと近づいてくる。

「崔家の娘、崔麗莎にございます。本日はお目通りの機会を賜り、誠に光栄に存じます」

 麗莎は優雅に一礼した。わずかな乱れもない。背筋は伸び、指先の角度一つまで計算され尽くしているようだ。

 ──やはり変わらんな。

 そう思いながら、翔瑶は隣へ視線を向ける。
 明鈴はというと、目を見開いたまま麗莎に見入っていた。緊張していたはずの肩から、いつの間にか力が抜けている。

「お綺麗な方ですね……!」

 場をわきまえない、素直すぎる感嘆だった。
 翔瑶は内心で小さく息を吐く。

 ──変わらないのは、こいつもか。

 緊張していたと思えば、次の瞬間には別のことに気を取られている。相変わらず読めない。だが、その飾らなさこそが明鈴なのだ。

「お会いできて嬉しいです!」

 屈託なく笑う明鈴に、麗莎はほんのわずか目を見開いた。予想していた反応ではなかったのだろう。
 
「そのように言っていただけるとは思いませんでした」

 麗莎は、すぐに口元へ穏やかな笑みを浮かべた。いつも見せてきた完璧な笑みとは、わずかに違う。相手に合わせて作った表情ではなく、ほんの少しの戸惑いと興味のように見えた。
 翔瑶は小さく咳払いをして、改めて麗莎へ向き直った。

「紹介しよう。我が妻、姜明鈴だ」
「はじめまして、姜明鈴も申します。よろしくお願いいたします、麗莎様」

 麗莎は微笑み返しただけだった。

 ⁑

 席に着いてから、麗莎自らが口を開くことはほとんどなかった。整えられた笑みだけを浮かべ、静かに茶を口へ運ぶ。まるで精巧に作られた人形のようだった。
 代わりに口を開いたのは、傍らに控えていた崔家の者たちだ。

「皇后陛下は、とある村のご出身と伺っておりますが。琴などはお弾きに?」
「いいえ。まだ弾けません」
「では、詩文は」
「お恥ずかしながら」
「礼法については」
「そちらも、まだ学んでいる途中です。周囲の方々の振る舞いを見て覚えたものが、いくつかある程度でございます」

 ひとつひとつの問いに、明鈴は迷いなく答えた。取り繕ったり、できないことを隠すこともせずに。
 そのたびに、崔家の者たちの間に小さなどよめきが生まれていた。
 翔瑶は表情を変えぬまま、その様子を見ている。麗莎も、相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。

「では」

 一人の老臣が切り込むように問いかけた。

「皇后陛下は、ご自身のどのような点が、このお立場に相応しいとお考えでしょうか」

 笑みを浮かべているようだが、問いの中身も口調も値踏みそのものだ。
 わずかに細めた目を老臣へ視線を向ける翔瑶。これ以上続くようなら、口を挟むつもりでいたのだが。

「率直に申し上げまして」

 翔瑶が口を開くより早く、明鈴が答えていた。

「私には、皆様が積み重ねてきたような学びはありません。琴も詩も、これから学ばなければならないことばかりです」

 場の空気が緩む。崔家の者たちの間に、勝ちを確信したような色が浮かんだ。

「ですが」

 明鈴は自分の気持ちを確かめるように、丁寧に言葉を紡ぐ。

「私は、皇后に必要なものは、それだけではないと思っています」

 老臣の眉がひくりと動いた。

「学びのない私ですが、代わりに見てきたものがあります」
「見てきたもの……ですか」
「はい。宮女として働いていた頃は、日々多くの方と接してまいりました。身分の高い方も、そうでない方も。それぞれに悩みがあり、それを支えてくれる人がいる。一人だけで生きている方など、いらっしゃらないんです」

 明鈴はゆっくりと周囲を見渡し、最後に翔瑶へ視線を向けた。
 翡翠の瞳に、「皇帝」の仮面を被った自分の姿が映っている。けれど、その瞳はまるで──仮面の奥にいる自分へ語りかけているかのような、変わらない温もりを湛えていた。

「人との繋がりや絆は、生まれた場所や立場だけで決まるものではない、と私は思います」

 感情を感じさせなかった麗莎の瞳が、一瞬だけ揺れた。凪いでいた水面に、小石がひとつ落ちたように。

「それに、立場が違えば見える景色も違います。聞こえてくる声だって違います。私だから気づけることが、きっとあるはずです。それを陛下へお伝えする。それが、私にできる皇后の務めです」

 東屋は水を打ったように静まり返った。先ほどまで値踏みするような視線を向けていた老臣たちも、今は容易に次の言葉を見つけられずにいる。
 がらりと変わった場の空気を眺めながら、翔瑶は小さく息をついた。

 ──やはり。

 教養で競えば、勝ち目はなかった。しかしそもそもで、明鈴は最初からそんな勝負などしていない。
 自分が歩いてきた道を恥じることなく語り、自分にできることをぶれることなく信じている。
 それこそが、姜明鈴という女なのだ。

 だからと言って、矛を収める者ばかりではない。

「……それだけで皇后が務まると?」

 老臣の一人が、なおも食い下がった。

「いやはや、お言葉は随分とご立派でございますな。ですが、所詮は下級の宮女上がり。作法一つ満足に知らぬ者を、この国の皇后と仰ぐわけには──」
「それ以上を言うことは許さぬ」

 淡々とした声が落ちた瞬間、東屋の空気が凍りついた。
 翔瑶から、いつもの穏やかな笑みが消えていたのだ。燃えたぎったような赤褐色の瞳が、固まった老臣を射抜いていた。
 威圧感が場を満たしていく。見たことのない皇帝の姿に、誰もが息を呑んだ。
 
「俺は、皇后に琴や詩の才能を求めた覚えはない。民の声を知り、人を思い、その思いを偽らぬ者。彼女以上に相応しい皇后を、俺は知らん」

 明鈴に向けた翔瑶の眼差しは、もはや契約相手へ向けるものではなかった。

「この女は、俺が選んだ妻だ」

 誰も、何も言い返せなかった。それでも諦めきれないというように、老臣たちの視線が空間をさまよっている。
 沈黙を破ったのは、思いがけないところから上がった声。

「もう十分ではありませんか」

 麗莎だった。それまで老臣たちのやり取りを見守るだけだった彼女が、自ら口を開いたのだ。

「陛下に相応しいのは、家の期待に応えるために作り上げられた者ではありません。明鈴様のように、ご自身の心を偽らずにおられるお方なのです」
「しかし、麗莎様……!」
「あなたこそが、皇后に……」

 慌てて制止しようとする老臣たちの声に、麗莎は耳を貸さなかった。

「そうでございましょう、陛下」

 麗莎の目が、まっすぐに翔瑶を捉えていた。やさしい目だ。これまでの、作り物めいた笑みを湛えるだけの人形のような瞳ではなく、肩書きも家柄も取り払った一人の女性としての穏やかな眼差しだった。

 おそらく、麗莎も翔瑶が「皇帝」という仮面を被って生きていることに気づいていたのだろう。

 ──そして、この娘もまた。

 翔瑶と同じように、仮面を被って生きてきたのだ。だから言葉にせずとも、互いに通じるものがあったのかもしれない。

「ああ」

 翔瑶の短い一言で、東屋を包んでいた空気が終息へと傾いていく。
 老臣たちはなおも何か言いたげに口を開きかけた。だが麗莎の揺るぎない姿を前にして、それ以上言葉を重ねることができなかったようだ。
 崔家は噂の真偽を確かめ、さらには麗莎こそ皇后に相応しいという証を立てるため、この茶会を申し出た。そして、その答えを示したのは──誰でもない、崔麗莎自身だった。

「本日の茶会は、これにてお開きといたしましょう」
「リ、麗莎様……! ですが……!」
「下がってください」

 凛と、そして有無を言わせぬ強さを孕んだ声だった。
 崔家の者たちは互いに顔を見合わせると、やがて観念したように一礼し、一人、また一人と東屋を後にしていく。
 やがてその場に残ったのは、翔瑶と明鈴、そして麗莎の三人だけだった。