猫をかぶる皇帝陛下は仮初の妻から愛を知る

 明鈴と契約を交わしてから二ヶ月。
 この日の夜も、執務室には明かりが灯ったままだった。
 宮中の予算に関する裁可や地方官からの報告など、目を通さなければならない案件が卓の上に積まれている。
 宦官はとうに下がらせていた。誰かに見られながら仕事をする気分ではなかったし、疲れた顔をわざわざ他人に晒す主義ではない。

 控えめに扉が叩かれたのは、夜半を過ぎた頃だった。

「まだ起きていらしたんですね」

 入ってきたのは明鈴だった。手に抱えている盆の上には、湯気の立つ椀と小さな皿が乗っている。

「お仕事ですか?」
「見ればわかるだろう」
「ですね」

 明鈴は素直に頷くと、机の端へ盆を置いた。
 ふわりと出汁の香りが広がる。翔瑶は筆を止め、椀へ目を向けた。

「……これは?」
「厨房をお借りして作ってきました。卵と葱の入ったお粥です」
「それは見ればわかる。なぜ、お前が」
「陛下、夕餉をほとんど召し上がってなかったので」

 言われて思い出す。夕餉は運ばれてきたものの、箸をつけたのはほんのわずか。気づけば宦官に下げさせ、またすぐに筆を執っていた。

「政務が立て込んでいたからな」
「政務が立て込んでいたら、食事を抜くんですか?」
「優先順位の問題だ。やらなければ国が回らない」
「国より先に陛下が倒れちゃますよ」
「皇帝はそう簡単には倒れん」
「でも、人ですから」

 明鈴は少しだけ眉を下げながら微笑んだ。

「聖人でも、超人でもありません。陛下は、私と同じ一人の人です」

 返す言葉が出てこなかった。当たり前のことを言われただけ。それだけのことなのに、その当たり前をこれほど真正面から向けられたのは初めてだった。
  
「冷めないうちに、ぜひ召し上がってみてください」
「お前がわざわざ作る必要はなかっただろう。誰かに命じれば済むことを」
「はい、そうかもしれません。でも」

 明鈴は少しだけ照れくさそうに笑った。

「命じられて出てきたものより、誰かが『食べてほしい』と思って作ったもののほうが、美味しく感じませんか」

 翔瑶は椀へ目を落とす。立ちのぼる湯気は、殺風景な執務室の空気をほんの少しだけ柔らかくしているように思えた。
 こんなふうに誰かが自分のために食事を用意されたことなど、あっただろうか。

 何かを返す代わりに、翔瑶は黙って匙を取った。そして、ひと口。
 卵の優しい甘みと葱のほのかな香りが、思いのほか身体に染みた。空腹だったからか。それとも──彼女が自分のために作ってくれたからか。
 翔瑶は、あえてそれ以上考えないことにした。

「……悪くない」
「本当ですか! よかったです!」

 顔がぱっと明るくなった。その純粋な反応は、なぜか椀の中身よりもはるかに胸の奥を温めた。

「姜家特製のお粥なんです。全部食べてくださいね」
「命令か」
「お願いです」
「……善処しよう」
「善処じゃダメです」

 間髪入れず返され、翔瑶は思わず眉を上げた。しばらく見つめ合った末、翔瑶は根負けしたような息をつく。

「……わかった」
「約束ですよ」

 明鈴は満足そうに頷いた。それからじっと、見守るように翔瑶の手元を見つめている。

「……見られていたら食べづらいのだが」
「あ、それもそうですね、失礼します」

 明鈴は慌てて一礼すると、足早に執務室を出て行った。
 扉が閉まる音がして、部屋にいつもの静けさが戻る。
 ひとつため息をこぼし、翔瑶は粥を口に運んだ。約束したからには仕方がない、と自分に言い訳をしながら。
 やがて、椀が空になる。米の一粒も残ってない椀の底を見て、どうしてか苦笑がもれそうになった。

 ⁑

 ようやく最後の書状へ目を通し終えた頃には、夜もすっかり更けていた。
 翔瑶は筆を置き、執務室を出る。扉を開けた瞬間──赤褐色の瞳が大きく見開かれた。
 壁にもたれかかるようにして、明鈴が眠っていたのだ。

 ──なんと無防備な。

 こんなところで警戒もなく寝入ってしまうとは。皇帝の執務室の前だというのに。いや、それ以前に──この女は自分が皇后であることを、まだまるでわかっていないらしい。

「おい」
「……ん」
「風邪をひくぞ」
「……あ、陛下。申し訳ありません」

 慌てて姿勢を正す明鈴に、翔瑶は半ば呆れたように眉を寄せた。
 
「さっさと部屋に戻ればいいものを」
「戻ろうとは思ったんですよ、本当に。でも」

 眠気の残る目をこすった後、明鈴は夜空を見上げた。

「星が綺麗で、つい」

 つられるよいに翔瑶も視線を上げた。墨を流したような空に、数えきれないほどの星が散らばっている。
 こんな夜空、これまで何度も見てきたはずだ。なのに、今夜は違う。
 無機質だった執務室へ運ばれてきた粥の湯気のように。「食べてほしい」と差し出された、何気ない気遣いのように。星々の光は、不思議なほど温かく見えた。
 
 ああ、綺麗かもしれない、と翔瑶は思う。
 これまで、ありふれた景色を綺麗だと思ったことはなかった。まともに見ようとしたことすら、なかったのかもしれない。この娘がいなかったら──こんなふうに夜空を見上げたりはしなかっただろう。

 隣を見る。星明かりを映した翡翠の瞳は、相変わらず子どものようにまっすぐ夜空を見つめていた。
 飾らない、素のままの表情。人前でも、二人きりのときでも変わらない。正しくは、変わりようがないのだろう。彼女は自分を隠すための仮面など、初めから持ち合わせていないのだから。

「……くしゅん」

 小さなくしゃみをした明鈴は、「すみません」と照れたように鼻を押さえた。夜気に当てられ身体が冷えたのだろう。

「送ろう」
「……え?」

 きょとんとした顔で明鈴が瞬きをする。

「大丈夫ですよ。一人で戻れます」
「契約上とはいえ、お前は皇后だ。不用意に夜道を歩かせるわけにはいかん」
「ですが……」
「万が一のことがあれば、俺の面目に関わる」

 我我ながら、よくできた建前だと思った。誰が聞いても納得する理由だろう。
 だが、それが理屈でしかないことに薄々気づいていた。面目のためなら、宦官の一人でも呼びつければ済む話だ。それをせず、自ら足を運ぼうとしている。答えなど、とうに出ているのだ。

「では、お言葉に甘えて」

 明鈴は柔らかく笑った。胸がかすかに熱を帯びる。夜空に散る星明かりが、雪のように静かに降り積もっていく感覚だった。
 並んで歩き出す。夜風は冷たいはずなのに、寒さは感じなかった。