それから数日もしないうちに、宮中には噂が広まっていた。
誰が言い出したのかはわからない。おそらくは、あの日給仕に立った女官の誰かが、他の誰かにもらし、それがまた誰かに伝わり──というだけのことだろう。
後宮という場所は、そうした話が広まる速度だけは異様に早い。
『陛下が、下級女官を皇后に迎えられた』
その噂は翔瑶が思っていたよりずっと早く、後宮の隅々にまで行き渡っていた。
⁑
立場上は皇后となった明鈴だったが、彼女は以前と変わらなかった。
変わったのは衣だけ。かつては質素な女官服だったものが、今は皇后に相応しい絹へ変わっている。
その身にまとうものが変わっても、仕草までは変わらなかったようだ。廊下に落ちた葉を見れば足を止める。重そうな荷を持つ宮女がいれば手を貸そうとする。箒を見れば握ろうとするし、下げ膳は運ぼうとする。
翔瑶はいつも少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
彼女を見張る理由なら、いくらでもある。
皇后として宮中に馴染んでいるか。不用意な振る舞いで混乱を招いていないか。契約相手として、問題なく役目を果たせるのか。
理由など、いくらでも浮かぶのだが──どれも後付けの理由に過ぎないことを、翔瑶自身が一番よくわかっていた。
気になっていたのだ。理由など、本当は要らないくらいに。
それから幾日か経った、昼下がりのことだった。翔瑶が用向きのついでに廊下を通りかかると、ちょうど食事の膳が下げられるときと重なった。
「明鈴様、それは私どもの仕事です」
慌てた宮女たちに止められた明鈴は、少し困ったように笑いながら下げようとしていた膳を戻した。
「そんなにかしこまらないでください」
さらに眉を下げる明鈴。
「頭を下げられるのは、どうにも落ち着かなくて」
「ですが、陛下の后になられたのですから……」
宮女たちは互いに顔を見合わせた。
つい先日まで肩を並べて働いていた相手。けれど今は、皇帝の后。親しげに話しかけるわけにはいかない。かといって、急に他人行儀にするのも妙な感じがする。
誰もが、その距離を測りかねているようだった。
「皇后でもなんでも、私は先日まで皆さんと一緒に掃除をしていた姜明鈴ですよ」
驚いたように再び顔を見合わせる宮女たち。
「皇后という立場になったからといって、急に別の人間になるわけではありません。私は、私ですから」
屈託なく笑う明鈴の表情に、場の空気が少しだけ緩んだ。誰かが小さく笑う。それにつられるように、ぎこちなかった宮女たちの表情にも自然な笑みが戻り始めた。
張り詰めていた距離が、ほんの少しだけ縮まったようだった。
もっとも、後宮という場所はそう単純にはできていない。誰もが好意的に受け止めるとは限らないのだ。
数日後、翔瑶は井戸端からもれる話し声を耳にした。
「ただの下級宮女だったくせに」
「『今までどおりで』なんて言われても困るわよね。私たちの気持ちなんて、おかまいなしって感じ」
「ああ、羨ましい。いったいどんな手を使ったのかしら」
すぐに明鈴のことを言っているのだとわかった。苛立ち、嘲り、嫉妬──宮女たちの悪意は止まる気配がない。
翔瑶は、小さく息を吐いて物陰から歩み出た。
「口を動かす暇があるなら、手を動かしてみてはどうだろうか」
宮女たちが弾かれたように振り返る。こちらの姿を視界に入れるやいなや、顔を蒼白にして跪いた。
翔瑶はいつもの柔らかな微笑を浮かべたまま、彼女たちを見下ろす。聖君と呼ばれる、人当たりのいい顔。だが、声には隠しきれないほどの冷たさが滲んでいた。
「陛下……! 申し訳ございません、決してそのような……!」
「別に、何を思うかまで咎めるつもりはない」
翔瑶は笑みを崩さず続けた。
「しかし、それほど余裕があるのなら、役目を改める必要があるやもしれんな。人手を必要としている部署はいくらでもある」
柔らかな声で告げられた一言に、宮女たちは顔を強張らせる。何度も頭を下げながら、逃げるようにその場を去っていった。
静寂が戻り、翔瑶は息をつく。
──なぜ、止めた。
宮中では陰口など珍しくもない。いちいち口を挟むことなどなかった。それなのに──今回ばかりは足が動き、声をかけていた。
しばらく立ち尽くしながら、翔瑶はその理由を考えた。けれど、いくら考えても、明確な答えは出そうになかった。
誰が言い出したのかはわからない。おそらくは、あの日給仕に立った女官の誰かが、他の誰かにもらし、それがまた誰かに伝わり──というだけのことだろう。
後宮という場所は、そうした話が広まる速度だけは異様に早い。
『陛下が、下級女官を皇后に迎えられた』
その噂は翔瑶が思っていたよりずっと早く、後宮の隅々にまで行き渡っていた。
⁑
立場上は皇后となった明鈴だったが、彼女は以前と変わらなかった。
変わったのは衣だけ。かつては質素な女官服だったものが、今は皇后に相応しい絹へ変わっている。
その身にまとうものが変わっても、仕草までは変わらなかったようだ。廊下に落ちた葉を見れば足を止める。重そうな荷を持つ宮女がいれば手を貸そうとする。箒を見れば握ろうとするし、下げ膳は運ぼうとする。
翔瑶はいつも少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
彼女を見張る理由なら、いくらでもある。
皇后として宮中に馴染んでいるか。不用意な振る舞いで混乱を招いていないか。契約相手として、問題なく役目を果たせるのか。
理由など、いくらでも浮かぶのだが──どれも後付けの理由に過ぎないことを、翔瑶自身が一番よくわかっていた。
気になっていたのだ。理由など、本当は要らないくらいに。
それから幾日か経った、昼下がりのことだった。翔瑶が用向きのついでに廊下を通りかかると、ちょうど食事の膳が下げられるときと重なった。
「明鈴様、それは私どもの仕事です」
慌てた宮女たちに止められた明鈴は、少し困ったように笑いながら下げようとしていた膳を戻した。
「そんなにかしこまらないでください」
さらに眉を下げる明鈴。
「頭を下げられるのは、どうにも落ち着かなくて」
「ですが、陛下の后になられたのですから……」
宮女たちは互いに顔を見合わせた。
つい先日まで肩を並べて働いていた相手。けれど今は、皇帝の后。親しげに話しかけるわけにはいかない。かといって、急に他人行儀にするのも妙な感じがする。
誰もが、その距離を測りかねているようだった。
「皇后でもなんでも、私は先日まで皆さんと一緒に掃除をしていた姜明鈴ですよ」
驚いたように再び顔を見合わせる宮女たち。
「皇后という立場になったからといって、急に別の人間になるわけではありません。私は、私ですから」
屈託なく笑う明鈴の表情に、場の空気が少しだけ緩んだ。誰かが小さく笑う。それにつられるように、ぎこちなかった宮女たちの表情にも自然な笑みが戻り始めた。
張り詰めていた距離が、ほんの少しだけ縮まったようだった。
もっとも、後宮という場所はそう単純にはできていない。誰もが好意的に受け止めるとは限らないのだ。
数日後、翔瑶は井戸端からもれる話し声を耳にした。
「ただの下級宮女だったくせに」
「『今までどおりで』なんて言われても困るわよね。私たちの気持ちなんて、おかまいなしって感じ」
「ああ、羨ましい。いったいどんな手を使ったのかしら」
すぐに明鈴のことを言っているのだとわかった。苛立ち、嘲り、嫉妬──宮女たちの悪意は止まる気配がない。
翔瑶は、小さく息を吐いて物陰から歩み出た。
「口を動かす暇があるなら、手を動かしてみてはどうだろうか」
宮女たちが弾かれたように振り返る。こちらの姿を視界に入れるやいなや、顔を蒼白にして跪いた。
翔瑶はいつもの柔らかな微笑を浮かべたまま、彼女たちを見下ろす。聖君と呼ばれる、人当たりのいい顔。だが、声には隠しきれないほどの冷たさが滲んでいた。
「陛下……! 申し訳ございません、決してそのような……!」
「別に、何を思うかまで咎めるつもりはない」
翔瑶は笑みを崩さず続けた。
「しかし、それほど余裕があるのなら、役目を改める必要があるやもしれんな。人手を必要としている部署はいくらでもある」
柔らかな声で告げられた一言に、宮女たちは顔を強張らせる。何度も頭を下げながら、逃げるようにその場を去っていった。
静寂が戻り、翔瑶は息をつく。
──なぜ、止めた。
宮中では陰口など珍しくもない。いちいち口を挟むことなどなかった。それなのに──今回ばかりは足が動き、声をかけていた。
しばらく立ち尽くしながら、翔瑶はその理由を考えた。けれど、いくら考えても、明確な答えは出そうになかった。



