猫をかぶる皇帝陛下は仮初の妻から愛を知る

 早々に明鈴を披露する場の手筈を整えた。
 幾人かの重臣を集めた小規模な茶会の場で「妻」を紹介する算段だ。大々的な場を避けたのは、まだ宮中の作法に慣れていない彼女を、いきなり多くの目に晒すのは得策ではないと判断したからだった。

 当日、支度を終えた明鈴を一目見た翔瑶は、思わず眉を上げた。
 茶色の髪は結い上げられ、枝垂れた簪が慎ましく挿されている。衣は淡い色合いだったが、その控えめな色がかえって彼女の容姿を際立たせている。誰の差配かは知らないが、なかなかに手際がいい。
 もっとも、明鈴自身は、その装いに居心地悪そうな顔をしていたが。
 
「そう硬くなるな」
「硬くもなりますよ。人生で一番、身分不相応な格好をしているんですから」
「見た目の話は誰もしていない。関係がばれなければいい」
「それが一番難しい気がするのですが」

 軽口めいたやり取りをしながら、翔瑶はふと思う。明鈴と交わす言葉の中では、作り上げた「聖君」の笑みを添えていない、と。
 取り繕う必要がないのだ。彼女はすでに、物置蔵で見た自分を知っている。ならば、今さら別の顔を見せる意味もない。

 しかし、それも茶会が始まるまでのこと。
 重臣たちが顔を揃えた途端、翔瑶は表情を静かに作り替えた。柔らかな眉。緩やかな口元。いつも聖君の顔だ。

「皆、よく集まってくれた。今日は妻を紹介したくてな」

 声の温度まで変えてみせた。
 一人が満足げに頷き、老齢の女官が涙ぐむ真似をする。翔瑶はその一人一人に、過不足のない笑みを返した。

「なんと初々しい。して、明鈴様はとある村のお生まれとお聞きしましたが」
「ええ。まだ粗野なところもございますが、そこがまた」

 重臣の言葉には、わずかな棘が混じっていた。翔瑶はそれを受け流すように、穏やかな笑みを浮かべる。慈しむような視線を明鈴に添えて。
 もちろん、すべて計算されたものだ。だが、それを疑う者はいない。疑うという発想すら持たないだろう。

 当の明鈴はといえば、翔瑶の隣で律儀に粗野な妻を演じていた。

 ──いや、違うな。

 慣れない場に緊張しているだけで、目は落ち着きなく泳いでいる。黙っていても、結局思ったことが顔に出ている。
 演じているというよりも、彼女の素の反応だった。 

 ほどなくして、季節の菓子がいくつも並べられる。宮中の職人が作った、見目にも美しい菓子だ。
 明鈴の目の色が変わった。先ほどまで緊張で固くなっていた表情が、ほんの少しほどける。珍しいものを前にした子どものような、隠しきれない期待が浮かんでいた。

「いただきます」

 小さく告げ、姿勢を正してから慎重に口へ運ぶ。

「……!」

 翡翠色の瞳が、ゆっくりと見開かれた。

「美味しい……!」

 小さくこぼれた声。だが、その表情は隠しきれないほどに明るい。

「我が妻は気に入ったようだな」

 いつもの朗らかな声色で翔瑶が言った。もちろん人前で見せるための、夫らしい言葉を選んだだけ。けれど明鈴はそんなことを気にする様子もなく、素直に頷いた。

「こんなに綺麗で繊細で美味しいお菓子、初めていただきました」

 飾ることのない声音だった。
 そして少し考えるように菓子へ視線を落とした後、

「作った方は、すごいですね。この宮中の調理人なのでしょうか。お礼を言いたいくらいです」

 と続けた。
 翔瑶は、菓子へ向けられた明鈴の横顔を眺めていた。緊張で強張っていた表情は、すっかり消えている。瞳には、目の前の菓子への素直な感嘆が浮かんでいた。

 普通ならば、菓子そのものを褒めた後、使われている材料や値打ちを口にする。あるいは、皇帝の前にいることを意識した言葉を選ぶ。
 それが明鈴の口から一切出てこない。彼女は菓子の価値ではなく、それを生み出した人間に目を向けていたのだ。
 周囲からすれば、「田舎娘が高級菓子に感激している」としか映っていないだろう。事実だけを見れば、その通りだ。
 しかし、その本心を翔瑶だけがわかっていた。彼女は高価なものに触れたから喜んでいるのではない、と。誰かが時間をかけ、手を尽くして作ったものだからこそ、心から感心しているのだ。

 価値に見合った反応を。皇帝には相応しい言葉を。
 宮中にいる誰もがそうしている。けれど──隣に座っている娘だけは違っていた。

 ⁑

 茶会が終わり、人払いが済んだ後、明鈴は椅子の背にもたれ、大きく息を吐いた。

「……はあ〜! 疲れました……」

 彼女の肩から力が抜け、表情もすっかり緩んでいた。簪の位置もいくらか斜めになっている。
 翔瑶はその様子を眺め、小さく息をついた。
 普段と比べたら品よく椅子に収まっていたほうだと思うが、とても皇后らしいとは言えなかった。本来なら、皇后としての立ち居振る舞いを諭すべきなのだろう。
 だが、契約の席で彼女は言った。「私は私のままでいたい」と。それを受け入れたのも、他ならぬ翔瑶だ。
 今さら咎める気にはなれなかった。いや──咎めようという気そのものが、どうしてかどこにも湧いてこなかったのだ。

「それにしても、陛下って大変なんですね」

 明鈴が、しみじみとした調子で言った。

「役目とはいえ、みんなの前でにこにこしてなきゃいけないんですもん。あんなに何人も相手にして、いちいち言葉を選んで……疲れないんですか」
「慣れている」
「こんなのに慣れるなんて、私にはとても無理そうですよ」

 あまりにもまっすぐな言葉。そんなふうに言われたのは初めてだ。聖君でいる姿を、当然として受け入れていた。だから、そう繕うことを「大変だ」と指摘されるなど考えたこともなかった。

「皇帝が不機嫌な顔をしていては、余計な不安を招く」
「不安?」
「民も、臣下もだ。上に立つ者が揺らげば、下にいる者はそれ以上に揺れる。不安は、疑念になる。疑念は、やがて争いを生む」

 幼い頃から教え込まれたことだった。
 穏やかに。公平に。何があっても動じずに。それが皇帝という立場に必要なものだ。

「やっぱり……大変ですよ」

 明鈴がぽつりとこぼす。皇帝ではなく、ただ一人の人間を案じるように。

「そんなの、陛下だって誰も見ていない場所では息を抜きたくもなりますよね」
「……口が過ぎるぞ」
「あ、すみません。でも」

 悪びれもせず続けた。

「私は、二人きりのときの陛下のほうが陛下らしい気がします」
「……それでは国は治まらない」
「そうかもしれません。でも」

 揺るぎない翡翠の瞳が、翔瑶を映した。

「国を治めるための陛下と、陛下ご自身は、別のものなんじゃないでしょうか。片方だけを犠牲にし続けていたら、いつか陛下自身がいなくなってしまう気がします」

 翔瑶はしばらく何も言えずにいた。
 皇帝としてどうあるべきか。何を成すべきか──そればかりを考えてきた。「李翔瑶自身がどう在るのか」など、一度も考えたことがなかったのだ。
 あまりにも単純で、だからこそ思い至らなかったのかもしれない。

「案ずるようなことではない」

 そう答える以外に、言葉が見つからなかった。