猫をかぶる皇帝陛下は仮初の妻から愛を知る

 夕刻。人払いを終えた謁見の間は、静まり返っていた。
 窓から差し込む西日が玉座へ細く伸びている。翔瑶は肘掛けに指先を置いたまま、正面の扉を見据えていた。
 ほどなくして、宦官が一礼する。

「陛下。姜明鈴が参りました」
「通せ」

 重い扉が開く。
 明鈴は敷居をまたぐと、強張った面持ちのまま玉座の前まで進み、深く頭を垂れた。

「下級宮女、姜明鈴にございます」
「面を上げよ」

 恐る恐る顔を上げた翡翠の瞳が、まっすぐこちらを見た。
 怯えてはいが、媚びる色はない。後宮では珍しい目だった。

「呼ばれたのは、壺のことでしょうか……?」

 明鈴の問いに、ほんのわずか眉をひそめる翔瑶。物置蔵で皇帝の素顔を見たことより、いまだに宝物を壊した責のほうが気掛かりらしい。

「違う」
「違うのですか? では、なぜ自分のような宮女が?」

 明鈴が訝しげにこちらを見つめる。

「お前のことは調べさせてもらった」

 ぴくりと肩が揺れるのがわかった。

「父は病に伏せている。弟はまだ学問の途中。宮仕えの給金だけでは楽ではあるまい」

 明鈴はゆっくりと俯いた。

「……はい」
「それに、壺だけではないそうだな。廊下で花瓶を倒し、書庫では棚から巻物を落とし、厨房では皿を割った」
「そこまで調べ……!? あ、いえ……その、それは……」

 言い訳を探すように口を開きかけ、諦めたように肩を落とす。

「はい……。お恥ずかしい限りで」

 苦笑いが浮かんだ。
 嘘が下手──というよりも、取り繕うことが下手なのだろう。不利になるとわかっていても、事実を曲げることはないらしい。自分を飾ることには向いていない娘だ。
 翔瑶は小さく息をついた。

 ──煩わしい縁談も、この宮女なら、あるいは。

「姜明鈴」
「は、はい!」
「俺の妻になれ」

 明鈴の瞳が大きく見開かれた。何を言われたのか理解が追いつかない、というふうに口が小さく開いたまま止まっている。

「……はい?」

 聞き間違えたと言わんばかりの声だ。

「もちろん、本当の夫婦になれという意味ではない」

 淡々と続ける翔瑶。

「契約だ。期間中は、皇后として振る舞ってもらう」
「……え? ええと……?」
「期間は今ある縁談が終わるまで。その間、契約であることは誰にも悟られてはならない」

 明鈴はぽかんとしたまま固まっていた。翔瑶は構わず条件を並べる。

「壺の弁償は物置蔵で言ったとおり、俺の素を口外しなければいい」
「……は、はあ?」
「この契約には、それとは別に報酬を支払う」
「報酬……ですか?」
「父の治療費も、弟の学費も、こちらで面倒を見る」

 ぽかんとしていた明鈴の表情に、ようやく変化が見えた。驚きと戸惑いと、わずかな警戒の色が目の中で入り混じっている。

「悪い話ではないだろう」

 報酬も支払う。家族の暮らしも保障する。契約が終われば自由の身だ。失うものはない。下級女官である明鈴に、断る理由など見当たらないはずだ。
 だから、すぐに承諾の返事がくると思っていた──のだが、しばしの沈黙が落ちる。
 明鈴は唇を結び、視線を伏せた。迷うように指先を握りしめる。やがて、何かを決意したように小さく息を吸った。

「……陛下」

 呼びかけにも翔瑶は眉一つ動かさずにいる。単純に、承諾の長い前置きだと思った。

「そのお話は、お受けできません」
「…………は?」

 一瞬、意味がわからなかった。
 そもそも、断られるという発想自体が翔瑶の中に用意されていなかったのだ。

「……理由を聞こう」

 今度は翔瑶のほうが聞き間違えたかのように、わずかに眉根を寄せた。

「皇后のふりをして、それが契約だと誰にも悟られないように、と。それは、つまり──」

 明鈴は言葉を選ぶように言い淀んだ。

「陛下を心からお慕いしているように振る舞え、ということですよね」
「そうだ」
「できません」
「……荷が重いと言うのか」

 明鈴は首を横に振った。

「身分の違いを気にしているわけでもありません」
「では、なぜだ」

 その問いに、翔瑶は本気で答えを求めていた。損得だけで測れば、これほど条件のいい話はないはずだ。それでも拒むというなら、そこには自分の知らない基準があるはず。
 明鈴は俯いたまま、しばらく言葉を探していた。
 
「報酬……家族のことを支援していただけることは、正直に申し上げて、喉から手が出るほどありがたいお話です。ですが……好きでもない方を心からお慕いしているように振る舞うことが、私にはどうしてもできません」
「俺を好くようになる、とは考えないのか」
「思いません」

 今度のは即答だった。

「演技で始まった気持ちが、本物になることもあるのでしょう」

 申し訳なさそうに微笑む明鈴。

「ですが、私は違います。好きだから笑えるのであって、笑ったから好きになれるとは思えないのです」

 翔瑶は、しばらく声を発せずにいた。

「……本当に、お前は俺を好くようにはならないと?」
「その条件では、ならないかと」

 ためらいなく、言い切った。
 翔瑶は呆れたように小さく息を吐く。

 ──好きだから笑う。笑ったから好きになるのではない、か。

 明鈴の一言は、これまで疑いもしなかった前提に小さな亀裂を入れていた。
 翔瑶の周りにいた者は皆、笑みを向ければ喜び、それを好意へと変えていった。その順序に疑問を抱いた者など、一人としていなかったはずだ。

 ──なるほどな。

 面白い、と初めて思った。自分を好きになることはないと、この宮女は迷いなく言い切った。
 同時に、好都合だとも思う。情が絡まぬ契約ほど、扱いやすいものはない。互いに役目を果たし、終われば元の立場へ戻る。それで済む話だ。

「ならば、契約の条件を少し改めよう」
「え……?」
「お前に求めるのは、“皇后”という立場だけだ。俺が夫として振る舞う。お前は、それを拒まなければいい」

 明鈴が小首を傾げる。

「俺を好けとは言わん。それなら、お前の言う『心を偽る』ことにはならんのだろ」

 明鈴は首を傾げたまま、しばらく黙り込んでいた。
 理屈としては筋が通っているはずだ。だからこそ、なおさら迷っているのだろうか。その理由がわからなかったが、先ほどまでの拒絶とは違う。少なくとも、一歩は前へ進んだように見えた。

「……確かに。それでしたら、心を偽ることにはならないかと思います」
「ならば決まりだ」
「ですが」

 明鈴が顔を上げた。

「私からも、一つだけ条件があります」
「……申せ」
「契約の間も、私は私のままでいさせてください」

 まっすぐな瞳で明鈴が告げた。

「……どういう意味だ」
「皇后という役目は務めさせていただきます。ですが、そのために“姜明鈴”まで失いたくはありません」

 眉間にわずかなしわを寄せる翔瑶。
 皇后として振る舞うことと、自分を失うこと。その二つが、翔瑶の中では結びつかなかった。

「思ったことを飲み込んで、何もかも皇后らしく振る舞うようになってしまったら、それはもう私ではなくなってしまいますから」

 彼女は、どこか誇らしげな口調で述べた。
 生まれてこの方、贅沢とは無縁だったであろう宮女が、地位よりも譲れないものがあると迷いなく言ってのけている。他の女であれば、例え報酬がなくとも飛びつく話だろう。契約とはいえ、皇后の位に就けるのだから。

「……それが条件か?」
「はい!」

 弾んだ声に、たまらず息がもれた。もっと報酬を求められるものと思っていたのだが。
 しかし、その程度で契約が結べるのなら安いものだ。

「わかった。今日この日をもって、姜明鈴を仮初めの皇后として迎える。契約は成立だ」
「……はい! よろしくお願いします!」

 勢いよく頭を下げた明鈴は、ほっとしたように胸を撫で下ろすと

「……あの、陛下。いまさらですけど」

 おそるおそる翔瑶を見上げた。

「……怒ってませんか?」
「なぜ?」
「何度も口答え……いえ、分不相応なことを口走っていたな、と思いまして」
「契約の交渉どろう。基本だ。まさか、宮女であるお前から条件を提示されるとは思っていなかったがな」

 明鈴は少し気まずそうに視線を落とした。

「あはは……すみません……」
「別に謝ることではない」

 軽く返す。彼女は、あくまで当然のことをしたまでにすぎないのだ。
 
「ですが、本当にありがとうございます。父も弟も、これで少しは安心できると思います」
「……そうか」

 皇后の座を得たとこより、父と弟の暮らしを案じている。やはり、変わった娘だ。

「話は以上だ。帰っていい」
「では、失礼いたします」

 明鈴はもう一度頭を下げ、扉へ向かった。
 その数歩後。

「……あっ」

 小さな声が響く。翔瑶が視線を向けると、明鈴は裾を踏んだまま、慌てて足を引いていた。

「……失礼いたしました」

 何事もなかったように取り繕った背中が、かえって不自然だった。
 翔瑶は思わず目を細める。
 気性はやや強い。少し雑で。そして、おそらく──ひどくドジだ。
 自分が咄嗟についた「嘘の妻」の条件以上に当てはまる女がいるとは思わなかった。
 可笑しさが込み上げる。それが何に対するものなのか、翔瑶自身まだうまく言葉にできなかった。