猫をかぶる皇帝陛下は仮初の妻から愛を知る

 物置蔵の奥。屏風で仕切られたその場所を、() 翔瑶(ショウヨウ)は好んで使っていた。
 誰も来ない。誰もこちらの顔色を窺わない。静けさだけが塵のように積もっている。埃と古い漆の匂いがするそこは、翔瑶にとって唯一、人目を気にせずに済む場所だった。

「陛下」

 傍らに控える宦官が控えめに口を開いた。その声色だけで、何の話かは察しがつく。これで何度目になるのか、翔瑶自身も数えるのをやめている。

(サイ)家からの催促は、今月に入って三度目にございます」
「またか」
「はい」
「しつこいな」

 翔瑶は椅子の背に身体を預け、指先でこめかみを押さえた。
 人前では見せない仕草。穏やかに流す眼差しも、緩やかに弧を描く口元も、この空間では必要ない。

「崔家としても、まだお諦めにはなっていないご様子です」
「もういい」
「そうは言いましても」
「だから、いい加減にしろと言っている」

 押し殺した声に、宦官の肩がわずかに強張った。

「しかし陛下、縁談の件は──」
「くどい。もう一度言えば、次はお前の役目を替える」

 宦官が慌てて頭を下げる。翔瑶はその様子を見もせずに、重く目を伏せた。

 ──妻に迎える者がいる。

 先月、そう口にした。
 口を突いて出た嘘だ。そんな相手などいない。これ以上わずらわしい縁談を持ち込ませないために、存在しない誰かを作っただけ。

 二十を迎えた頃から始まった縁談は、二十五になった今も途切れることがない。むしろ増えている。
 皇帝という立場である以上、婚姻は政の一部だ。断るにも理由がいる。だが、のらりくらりと断り続けるにも限界があった。
 だから、妻がいることにした。気性がやや強く、少し雑なところがある女──だと。

 崔家の令嬢をはじめとする、貴族の娘たちとは正反対の人物像をその場で作り上げた。
 存在しない妻。すぐに綻ぶ嘘だとわかってる。わかっていたが、そのときの翔瑶には、取り繕うだけの余裕があると思っていた。

 しかし、誤算だった。
 嘘は消えるどころか、日を追うごとに形を持ち始めた。

「一度、奥方様にお目通りを」
「どのような方なのか、ぜひ」

 周囲は存在しない女を実在するものとして扱い始めた。
 いつしか翔瑶は、架空の妻のために次の言葉を用意しなければならなくなっていた。

 そろそろ、形だけでも妻に相当する者を用意しなければならない。嘘を守るためだけの、仮初の妻を。
 そう考えていた矢先だった。

 屏風の向こうから、陶器が砕けたような乾いた音がした。
 翔瑶は顔を上げる。この場所で、人の気配を感じたことなど一度もなかった。野良猫でも入ったのか。それなら、まだいい。
 
「誰かいるのか」
 
 返事はない。代わりに、かすかに息を呑む音がした。

 ──聞かれたか。

 先ほどまでの言葉を。
 翔瑶は小さく息を吐く。いつもの顔を作るべきか、一瞬だけ考える。
 だが、ここにいるのは臣下の前で作る「皇帝」ではない。それに、今さら柔らかな笑みを浮かべたところで、先ほど吐き出した言葉まで消えるわけではない。
 翔瑶は素の表情のまま屏風の向こうへ歩み寄った。

 そこにいたのは──一人の宮女だった。
 年の頃は十七、八ほど。簡素な宮女服。焦げ茶の髪が肩から落ち、見開かれた翡翠色の瞳がこちらを見上げている。
 手には箒。足元には、先ほどの音の原因であろう磁器の破片。宮女は逃げることも忘れたように呆然と立ち尽くしている。

 ──なるほど。

 偶然、居合わせたのだろう。それは盗み聞きをしにきた者の態度ではなかった。

「聞いていたのか?」

 問いかけると、宮女はすぐさま膝を折った。

「も、申し訳ございません! 壺は弁償いたします! ですが、それほどの金銭をすぐに用意することは、わたくしには」

 早口で、しかも要点がずれている。翔瑶は内心で小さく息を吐いた。
 
「壺のことなど聞いていない」

 言葉を遮ると、宮女の肩が小さく跳ねた。

「今しがた、何を聞いた」

 宮女の目が泳ぐ。誤魔化す気か、正直に言うか──迷いがそのまま顔に出ている。

「……陛下が、縁談のことでお怒りになっているところを」
「それだけか」
「はい! それだけです、誓って!」

 翔瑶はしばし、宮女の顔を見下ろした。
 嘘をついているようには見えない。長い宮中での暮らしで、嘘をつくことに長けた者は数え切れないほど見てきた。この慌てぶりは芝居にしては粗雑すぎる。粗雑すぎて、逆に信じられる類のものだった。

「名は」
「姜……明鈴と申します」
「姜明鈴」

 繰り返しながら、翔瑶は割れた壺の破片に視線を落とした。先帝の代から伝わる品だったはずだが、惜しむ気は起きなかった。
 それより厄介なのは、この女がどこまで喋るかのほうだ。口止めをするなら、今しかない。

「壺の代は帳消しにしてやる」
「……え!?」

 宮女が弾かれたように顔を上げる。翡翠色の瞳に、隠しきれない驚きが浮かんだ。感情がそのまま顔に出ている。

「その代わり」

 翔瑶は唇の端を持ち上げた。人前で見せる柔らかな笑みとは違う、相手に選択肢を与えないための冷えた微笑みだ。

「今しがた見たもの、聞いたことは墓場まで持っていけ」
「……はい! もちろんでございます!」
「口にした先のことは、自分で想像しろ」
「は、はい! この姜明鈴、誓って口外などいたしません!」

 声だけが上ずりながらも、頭を下げる角度だけは律儀に深い。翔瑶は、そのちぐはぐさを冷めた目で眺めていた。

 ──話にならんな。

 脅せば竦み、放っておけば忘れる。こんな小娘を相手にするなど時間の無駄だ。適当に釘を刺せば、それで十分だろう。翔瑶はそう見切りをつけ、背を向けた。
 これで終わりだ。この宮女の顔も名も、じきに忘れる。

 そう思っていたのだが。

「……気性がやや強く、雑なところがある、か」

 先月、自分が口にした言葉を思い出す。
 振り返った視線の先には、まだ床に膝をついた宮女がいる。勢いよく謝り、余計なことまで口にし、考えたことがそのまま表情に出る。
 宮中の女たちとは、あまりにも違った。そして、それは奇妙なほどに──自分が作り上げた「妻」の姿と重なっていた。

 翔瑶は自分の中で何かが噛み合うのを感じた。
 偶然だというには、出来すぎている。けれど仕組まれたものだと考えるには、あまりにも無作為だ。
 これほど都合のいい人間が、都合よく目の前に現れるなんて。信じるには早い。だが、見過ごすには惜しい。

「お前、名は明鈴と言ったな」
「はい」
「しばらく、俺の目の届くところにいてもらう」
「…………は?」

 宮女がぱちくりと目を瞬かせる。困惑の顔だった。当然だろう。この宮女は、まだ何も知らない。

「夕刻、謁見の間に来い」
「え!? あ、ちょっと……!」

 問い返す暇も与えず、翔瑶は踵を返した。背後で宮女の狼狽える声が聞こえた気がしたが、振り返りはしなかった。

 歩きながら、翔瑶は自分の頬にいつもの角度を戻していく。柔らかな眉。緩やかな口元。誰に見られても差し支えない、聖君の顔。
 ただし今日ばかりは、その仮面の下で新たな算段が形を取り始めていた。