猫をかぶる皇帝陛下は仮初の妻から愛を知る

 後宮の裏手。物置蔵の並ぶ一角は、埃の匂いと静寂だけが満ちていた。

 (キョウ) 明鈴(メイリン)はそこで箒を握り、(ちり)を掃き出しながら今月の給金の額を頭の中で数えていた。
 父の薬代、弟へ送る仕送り、それから──先日割ってしまった皿の弁償分。差し引けば、手元に残るのはわずかなものだ。だが、故郷で野良仕事をするよりはよほどいい。宮仕えは体裁こそ堅苦しいが、飢えることだけはないのだから。
 明鈴はそう割り切って、この一年を過ごしてきた。

 その日、珍しく一つの蔵の扉がわずかに開いていた。閉め忘れだろうか。それとも野良猫でも入り込んだのか。
 掃除の途中で見過ごすわけにもいかず──というのは建前で、中を見てみたいという好奇心に負けた明鈴は、扉に手を掛けた。

 蔵の中には年代物の調度や磁器、漆器が整然と並べられていた。どれも年月を重ねながら丁重に扱われてきたことが一目で分かる品ばかりだ。その中でもひときわ目を引いたのは、青白い肌に金彩が施された大ぶりの磁器の壺だった。
 先帝の代から伝わる宝物を納めた蔵がある──いつだったか、古株の女官が声を潜めて語っていたのを壺を見つめながら思い出す。

 ──すごい……それがこの蔵だったんだ!

 さらに奥へと足を踏み出そうとした、そのとき。
 屏風の向こうから、聞き覚えのある声が響く。

「だから、いい加減にしろと言っている」

 低く押し殺した声だったが、それは間違いなく、陛下の声だった。
 普段、臣下や女官たちの前で耳にする穏やかな声音とは、まるで別人のように聞こえた。柔らかな微笑を絶やさぬ、あの聖君と呼ばれる陛下の声とは思えない。明鈴は反射的に身を固くし、箒を握る手を強めた。

 屏風の隙間から見えたのは、玉座の上で穏やかに笑む陛下の顔ではなかった。椅子に深く沈み込み、こめかみを指で押さえ、苛立ちを隠しもしない横顔。傍らに控えていた宦官が、恐縮しきった様子で頭を下げている。

「しかし陛下、縁談の件は──」
「くどい。もう一度言えば、次はお前の役目を替える」

 刃物のような一声に、明鈴はたまらず息を殺した。
 見てはいけないものを見ている。そういう予感が全身をちりちりと焼いた。
 君子危うきに近寄らず──と昔からよく言う。別に君子ではないが、厄介事には近づかないに限る。
 そう思って後ずさろうとした拍子に、箒の柄が棚の縁に当たる。軽い音がして、棚の上の壺が傾いだ。

 ──あっ……! やばい……!

 明鈴は咄嗟に手を伸ばした。
 だが、ほんのわずか届かない。
 床に落ちた壺は耳をつんざくような音を立てて、無惨に砕け散った。乾いた破裂音が蔵の中に跳ね返り、細かな破片が白い光を散らす。
 ちりちりと焼かれていた背筋の熱が、ひやりと凍りついた。

「誰かいるのか?」

 屏風の向こうから声が落ちた。衣擦れとともに足音が近づいてくる。
 鈴は箒を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。逃げるという選択肢は、もはや頭にない。いや、正しくは思考そのものが白く焼け、壊れた歯車のように思考を止めていたのだ。

 屏風の向こうから現れたのは──やはり、() 翔瑶(ショウヨウ)陛下だった。
 艶のある黒い長髪が背に落ちている。端正な顔立ちには、感情と呼べるものがほとんど浮かんでいない。
 視線がこちらを射抜く。赤褐色の瞳は覗き込むというより、目の前の女官の輪郭をなぞるような目だった。
 その目が鋭く細められる。値踏みする手間さえ惜しむような、冷ややかな一瞥。
 やはり、あの温厚な陛下とは思えない。

「聞いていたのか?」

 短く問われ、明鈴は慌てて膝を折った。

「も、申し訳ございません! 壺は弁償いたします! ですが、それほどの金銭をすぐに用意することは、わたくしには」
「壺のことなど聞いていない」

 陛下が言葉を遮った。

「今しがた、何を聞いた」

 一瞬、明鈴は迷う。誤魔化すべきか、正直に言うべきか。だが、この場で誤魔化しが通じる相手だとは到底思えなかった。言い逃れは許されない──そう感じるほどに、彼の瞳は嘘というものを拒んでいたのた。

「……陛下が、縁談のことでお怒りになっているところを」
「それだけか」
「はい! それだけです、誓って!」

 陛下はしばし、明鈴の顔をじっと見下ろす。その視線が少しずつ違うものに変わっていくのを、明鈴は肌で感じた。それが何であるかは、まだわからなかったが。

「名は」
「姜……明鈴と申します」
「姜明鈴」

 品定めするように名を繰り返す陛下。それから、割れた壺の破片に視線を落とすと、ひとつ小さく息をついた。

「壺の代は帳消しにしてやる」
「……え!?」

 明鈴は思わず顔を上げた。

「その代わり」

 陛下の口元に柔らかな微笑が浮かぶ。だが、いつもの微笑みとは違い、ひどく計算高いものに見えた。

「今しがた見たもの、聞いたことは墓場まで持っていけ」
「……はい! もちろんでございます!」
「口にした先のことは、自分で想像しろ」
「は、はい! この姜明鈴、誓って口外などいたしません!」

 頭を下げたままの明鈴の横を、陛下が通り過ぎる。ああ、よかった──と明鈴は内心で大きく安堵の息を吐いた。
 それにしても、とんでもないものを聞いてしまった。
 普段は温厚で人当たりのいい陛下に、あんな裏の顔があるだなんて。猫を被る、というのはああいうことを言うのだろう。
 てっきり、野良猫でも紛れ込んだのかと思っていたのに。まさか、そこにいたのが猫を被った陛下だったなんて、誰も思いもしないだろう。
 緊張の糸が緩みかけた、その瞬間。彼の足音が止まる。何かを思い出すような、あるいは、何かを図るような沈黙が落ちた。

「……気性がやや強く、雑なところがある、か」

 独り言のような呟きだった。意味がわからず、不思議そうに顔を上げる明鈴。すると、振り返った陛下とばちりと目が合った。
 今度は先ほどとは違う目。値踏み、というよりは何かを確かめるような目だった。

「お前、名は明鈴と言ったな」
「はい」
「しばらく、俺の目の届くところにいてもらう」
「…………は?」
「夕刻、謁見の間に来い」
「え!? あ、ちょっと……!」

 明鈴が問い返す間もなく、陛下は髪をなびかせながら歩き去っていく。宦官が苦笑を浮かべながら軽く頭を下げ、彼の後に続いていった。

「……なんなの、いったい」

 誰に届くでもない言葉が蔵の中に溶ける。
 残されたのは、割れた壺の破片と静まり返った蔵の空気だけだった。