数日前、一緒に風呂に入ったときはなんとも思わなかったのに、今は裸になるのがドキドキして、不思議だった。
こんな短いあいだに、いろいろなことが変わってしまうのが不思議で、楽しい。
なんだか洗い場で無防備に裸を見せるのも恥ずかしくて、ミツキは簡単に身体を流すと湯船に入った。ユウも同じようにした。
熱い湯に肩まで浸かると、肌がジン……と痺れて、ミツキは眉をひそめる。
炎天下の釣りで、きちんと日焼け対策はしたはずだったけど、やっぱり焼けてしまった。特に首の後ろがひどくて、まだ沁みる。
その表情を見たユウが、「大丈夫?」と尋ねた。こくりとうなずく。
ユウはスッと目を細め、こちらに手を伸ばした。
「焼けちゃったな」
うなじに指先が触れる。ミツキはびくりと身体を震わせた。
「あ……ごめん。嫌だった?」
「ううん。びっくりしただけ」
「……触ってもいい?」
「……うん」
答えるのが恥ずかしくて、訊かないでほしいと思った。でも、あんなことがあったから、自分の意思を尋ねるようにしてくれたんだなとうれしくもなった。
そのまま、こちらの表情を窺いながら、ユウの指がうなじを這う。日に焼けた肌と、まだ白い肌の、曖昧な境界を探るように。
背筋がゾクゾクした。嫌な震えではなかった。
「……なあ、キスしてもいい?」
ユウが尋ねた。
ああ、そうだった。さっき、俺たちはキスをしそうになったんだ……。
ミツキは顔を上げてユウと目を合わせると、ふたたび、こくりとうなずいた。
ユウはうれしそうに笑った。その笑顔は、やさしくて、まぶしい。画面越しに見ていたチェリーくんと同じに。
ずっとドキドキしていた心臓の鼓動が、これ以上があるのかという速さで鳴りはじめる。
のぼせてしまいそうだった。もう、のぼせてもいいかもしれないと思った。あらゆる迷いが遠景へ去っていく。
ミツキは、ふたたび瞼を閉じた。その頬をユウの手のひらが包んだ。
呼気が唇に触れた、と思った瞬間に、ミツキはぬいになっていた。
「……えっ!?」
ユウが大きな声をあげて、湯の上にぷかぷかと浮かぶミツキを慌てて拾い上げる。
「なんで!? 俺、なにもしてないけど……いや、なにもしてなくはないけど……」
歌ってないのに、とユウはつぶやく。ミツキも同じように混乱の渦中にいた。
ユウは、しばらくミツキを手のうちに抱えて、じっとしていた。それから「うーん」とうなった。
「とりあえず、身体を洗おうかな……」
え? と思うけれど、やっぱり声は出てこなくて、ミツキはユウと共に湯船を出る。洗い場で湯を張った洗面器に入れられた。
「こうしたら温かいかな」
返事がないことをわかっていて、それでも確かめるように、ユウは目線の高さに洗面器を持ち上げて尋ねる。それを少し離れた場所に置くと、自分の身体を洗いはじめた。
洗い終えると、ユウはまたちょっと考えて、石鹸を手に取った。
「……できるだけ、直接触らないようにする。そんで、すごく、すごくやさしくする。だから怖がらないで」
ユウはフェイスタオルを使って、石鹸を泡立てた。もこもこの泡を作って、それでミツキの身体を包み込んだ。
「本当は、おまえの意見も聞いたほうがいいと思うんだけど……中途半端に濡れちゃったあと、身体を洗わないのも気持ちが悪いよな……?」
(わ、わわ……)
宣言どおり、ユウはミツキにあまり触れなかった。彼の手のひらと、ミツキの今の肌である布のあいだに、分厚い泡の層があり、それで撫でるように洗っていく。
(う、うう……)
ミツキは綿の身体のなかで、身をよじった。
怖くない。「次は手」「今度は胸」と宣言してから触れてくれるのもあるし、なによりユウの眼差しが、手つきが、やさしい。
(でも、じれったい……)
ぼんやりと思ってしまって、なにを期待しているんだとハッとする。ユウにはそんなつもりはないだろうに。罪悪感を覚えるほど、かえって身体に熱が降り積もっていく。
早く終わればいいと思うけれど、終わって欲しくないなとも思った。
頭がぽーっとしているうちに、ユウはミツキの身体を洗面器のなかですすぎ、乾いたタオルに包んだ。ポンポンと軽くはたいて、水を吸い取る。顔も同じようにされて、それからしばらくなにも見えなくなった。
一瞬、不安になったけれど、「今、脱衣所。自分の身体拭いてる」とユウが教えてくれて、落ち着く。
それからタオルに包まれたまま部屋に運ばれて、身体を乾かされた。
ユウが自分の髪にドライヤーを向けてちょっと乾かしてから、ミツキの身体にもドライヤーをあてる。それを交互に繰り返す。風が熱くないか、確かめながら乾かしてくれているのか。
ミツキは身体全体がぽかぽかとあたたかくなり、眠くなってきた。
ベッドの上に寝かされて、まどろみから醒めた。見た目は変わらないから、ユウには伝わっていないだろう。もう眠ったと思っているかもしれない。
ユウは、ぬいぐるみのミツキの上にタオルケットを掛けたあと、仕切りのカーテンを閉めずに姿を消した。かと思ったら、すぐに戻ってきた。
「……おやすみ」
ユウが手に持っていたのは、ダイチからプレゼントされた「ユウぬい」だった。
ユウは「ふふ」といたずらっぽく笑ったあと、ゆっくり、ぬいぐるみの顔と顔を触れ合わせる――キスをした。
(ああ……)
きゅううと胸が切なくなって、本物のユウとキスがしたかったなと思った。
カーテンが閉まって、部屋の電灯が消え、二段ベッドの上段が軋んだ。ユウも眠るらしい。
ミツキは、ふたたび眠りに落ちるまで、向き合ったユウのぬいぐるみをじっと見つめていた。
こうして見ていると、ユウのぬいぐるみは本物のユウよりもやさしい目をしているようだ。
髪色こそ濃いピンク色ではないけれど、かつてミツキが切望していたチェリーくんのぬいが実在したら、こんな姿だったのかもしれない。
それは、本質を見抜くことに長けたダイチが、ユウの隠れたやさしさを巧みに表現したからかもしれないし……ミツキの惹かれているのが、ユウのなかに存在する初恋の人の面影だからかもしれない。
(でも、きっと……ユウはそれだけじゃ、嫌だよな……)
*
翌朝、ミツキは早くに目が覚めた。
すっかり人間の姿に戻っていた。ぬいになるきっかけは曖昧なままだけれど、眠れば戻るのは間違いないようだ。
ユウを起こさないように静かに身支度していたけれど、ユウもすぐに目を覚ました。
ベッドの上で眠そうに目をこすりながら、けれどユウは、ミツキが起きていることに気づくと照れくさそうに笑った。
「おはよう」
「……おはよ」
ミツキがためらいながら返すと、ユウの顔が曇った。
「身体洗ったの、やっぱ怖かった?」
「あっ、違う! 違う、そうじゃなくて……」
慌てて否定すると、ユウはホッと息を吐いた。それから、ゆっくりと二段ベッドの梯子を下りて、ミツキと向かい合った。
「昨日、風呂場でいきなりぬいにしちゃってごめん」
「あれはユウのせいじゃないよ……たぶん」
ユウは「そうかな」と言うように、苦く笑って首をかしげた。
「俺は、おまえがあの歌を聞いたらぬいになるかと思ってた。俺が配信サイトのチャンネル消したあとに、ぬいに変身するようになったって言ってただろ? だから、昔の俺への未練とか……そういうのを歌を聞いて思い出して、それで変身するのかなって」
でも、違った。
ユウの言葉に、ミツキもうなずく。
都市伝説では、推しへの強い執着が変身のきっかけのようだった。けれど、昨日のできごとから考えると、それだけがきっかけじゃない。
ユウは短い沈黙のあとに、ミツキの目をまっすぐ見つめた。曇りのない、強い眼差しだった。
「俺さ……ミツキのこと、好きになった。『嫌い』から『好き』になったって意味じゃなくて、すごく……好きになった」
その言葉を耳にしたとき、全身に電流が走ったみたいだった。
その気持ちがうれしいとか嫌だとか、そういう以前に、とても大切な、滅多に手に入らないものを、両手に包んで差し出されているみたいだった。
そんなことを自分にしてくれる人がいるんだという、衝撃だった。
答えを間違えちゃいけないと思った。適当に答えてもいけないと思った。
ユウはミツキの表情を見て、微笑んだ。ほんの少しさみしそうだった。
「だから『おまえは俺のこと好き? チェリーくんじゃなくて、俺のこと』って訊きたいけど……たぶん、ミツキは迷ってると思う。俺、そういうのわかっちゃうほうだから」
ごまかしようもなくて、小さくうなずいた。
「昨日は、『いいな』って思ってるやつに触れるのが嬉しくて先走っちゃったけど、これは俺にとって大事なことだ。……だからさ、この合宿が終わったあとに、ちゃんと答えを教えて」
ミツキは、じっとユウの目を見つめながら「わかった」と言った。
「ちゃんと伝えるって、約束する」
*
合宿七日めの朝。三つめの課題「自給自足バーベキュー」の脱落者が発表された。
ソウタだった。
腑に落ちなかった。乗っていた自転車がパンクするという不運を乗り越えて、自分なりの解決策を見つけたソウタが、なぜ脱落するのか。
けれど、ほかの誰だったら納得するのかと問われると……今や誰がそうなっても納得できないだろう。みんなの人となりも、どれほど真剣に課題に向き合っていたかも、よく知っている。
ソウタは突然言い渡されたにもかかわらず、ゆうべのうちに荷造りを済ませていた。幼く見えて実はしっかりしたところのある彼らしいけれど、まるで事前に脱落することがわかっていたみたいだった。
ソウタは昇降口で、ひとりひとりの顔をゆっくり見て、「気をつけてね」と言った。子どもに言い含めるようだった。
「ああ」と真っ先に応えたのはユウだった。「がんばってね」でなくて? ミツキは疑問に思う。
ソウタは、すぐにあどけない笑顔に戻って「また遊ぼうね〜!」と手を振り、去っていった。
彼を港へ送り届ける車が見えなくなるまで手を振り返しながら、ミツキの胸に言いようのない不安が広がっていく。
なにかがおかしい。それがなにかは、はっきりと名指すことができないけれど。
貼りだされた昨日のコメントを見る。一昨日は、アクシデントが起きたにもかかわらずソウタへのコメントが少なくて、妙な感じがした。けれど昨日のコメントには、ソウタへの非難の声が多く見られた。
野草なんてどこにでも生えているはず。自分だけ楽をしようと思ったんじゃないの?
ルイはコメントを一瞥すると、すぐに背を向けて行ってしまった。ミツキもモヤモヤする気持ちを抱えながら、ルイのあとを追う。
ユウはしばらく、コメントを眺めていたようだった。
それからすぐに、残った三人は体育館に呼び出された。
初日の合唱練習の際、体育館でパート練習をしていたミツキが「熱中症」になってしまったという前例があるため、あちこちの窓や扉が開け放たれていた。入口に垂れ下がった虫除けネットをかき分けて、なかに入る。
舞台へ向き合うようにパイプ椅子が三つ置かれていた。三人は導かれるようにしてそこに座る。舞台上には、初日には見なかった演壇があった。
着席するなり、体育館のスピーカーから仰々しい音楽が流れだし、ノブナガが姿を現した。
彼は古びたラジカセを手にしていた。演壇の前に立つと、入場曲さながら鳴り響いていた音が止まる。
「おはよう、参加者諸君」
それから、ラジカセを演壇の上に、ドンと置く。
「昨日は楽しい宴だったな。いよいよ、この合宿もクライマックスに近づいてきた。次の課題を発表しよう。次の課題は――創作ダンスだ」
「え?」
ミツキは思わず声をあげた。ノブナガは構わず、ラジカセの再生ボタンを押す。
少し前にショート動画でよく聴いたヒップホップが流れ出した。ノブナガは今にも踊りだしそうに全身でリズムをとって、けれど踊らなかった。
「きみたちも聞いたことがあるだろう。この曲に合わせて、オリジナルのダンスを考え、明日の夕方に披露してもらう――一人ひとり、別々に。例の動画の振り付けに引っ張られないよう気をつけてくれ」
ノブナガが去ったあと、体育館はしばらく静まり返っていた。
口に出すのは、あらかじめ敗北を認めてしまうことになるから、言いたくなかったけれど。
ルイは、インディーズのダンス&ボーカルグループに所属している。
ミツキはSNSのタイムラインに流れてくる、彼の動画を見たことがあった。
インディーズとはいえ、歌い踊るルイには「まだデビューしていないだけ」と表現するのにふさわしいカリスマ性があった。いつか大勢の人に発見されて、愛されるに違いないと信じさせるカリスマ性が。
素人のミツキにはわからないけれど、彼のダンスが技術的にかなり高い水準にあることも間違いないだろう――そう、ミツキにはダンスの経験がない。ユウも、配信者時代の動画に「踊ってみた」はなかった。
あらかじめ結果のわかりきった勝負だった。
「……オレが、サポートする」
ルイが口を開いた。
「あの曲、二分半ぐらいで短いし。ガチでやったらそりゃ二日じゃ足んないって難易度にもできるけど……オレはなんとでもなる。オレと互角に闘えるように、おまえらにダンスの基礎を教える」
「……ルイ」
ミツキは戸惑いながら名前を呼んだ。
前回と同じように「みんなでひとつのものを完成させる」という課題であればよかったのに。今になって、ひとりひとりに戻って競わされるというのはつらい。ルイの足を引っ張ってしまうのも。
「悔しいけど、まともな勝負にするには、それしかなさそうだな。……ありがとう」
ユウが頭を下げて、ミツキも迷いながらそれに倣った。
*
ひとまず動きやすい服装に着替えようということになって、三人はそれぞれ部屋に戻った。
カメラのない部屋に入るなり、疑問がミツキの口を衝く。
「なんで、こんな課題にしたんだろう……あらかじめ決まってたのかもしれないし、見てくれる人の評価基準は技術だけじゃないのかもしれないけど……もし万が一、『創作ダンス』って題された課題で俺たちが勝っちゃったら、それってすごくルイに失礼な気がする」
流れてきた動画でルイが放っていた輝きを思い出す。それから初日の合唱練習で、瞳をキラキラさせていた姿も。ルイは歌やダンスに情熱を燃やしてきた。
ミツキには、そんなふうに夢中になれるものがない。いつだったか、それでもいいとソウタは言っていたけれど……。少なくとも「ダンス」の課題で、「ダンス」以外の部分で評価されて、ルイを負かすなんてフェアじゃない。ミツキはそう思った。
ユウは言葉少なだった。
「……じゃあ、わざと負けるってこと?」
彼はそれだけを尋ねた。
ミツキは「そんなことはしないけどさ……」と言葉を濁した。
ユウはそれ以上を聞かず、先に部屋を出て行ってしまった。
体育館に向かう途中、ルイの部屋の前を通りかかる。
ルイが、スタッフとなにごとかを話していた。深刻そうな面持ちだ。
今回の合宿のスタッフは、大半が同じ高校生である実行委員。加えて、この合宿所の従業員と、製作費を支払われて協力している制作会社のスタッフからなるようだった。ルイが話していたのは、ミツキと同い年ぐらいに見える少女だ。
彼女はミツキの姿を目に留めると、パッと頭を下げて走り去った。
そのとき、ミツキの背後からユウが現れた。
「わっ!」
突然の登場に、ミツキは大きな声をあげた。
「トイレ行ってた」
ミツキの反応を気に留めた様子もなく、ユウはルイに歩み寄った。ユウがなにかを口にする前に、ルイは「ちょっと話がある」と切り出した。
「部屋に入ってくれ」
ミツキとユウが彼の部屋に入るなり、ルイは深々と頭を下げた。
「お願いだ。この勝負、オレに負けさせてほしい」
「ん?」
ミツキの頭に疑問符が浮かぶ。隣に立つユウも、困惑の表情を浮かべている。
「『オレに勝たせてほしい』じゃなくて……?」
ミツキがつぶやくと、ルイは下唇を噛んだ。
「……この合宿へ来る前に受けてた別のオーディションを、通過したって知らせがあった。次が最終審査だ」
「おお、おめでとうございます!」
ミツキは歓声をあげるが、ルイの顔色は冴えない。
「審査の日は六日後だから、この合宿に最後まで参加しても間に合う……はずだった」
ルイは両手で顔を覆って、深い深い溜息をついた。
「……オーディション通過の知らせと一緒に教えてもらったんだけど、大型の台風が接近しているらしい。数日後には、この島に上陸する予報だそうだ。そうしたら連絡船が出なくて帰れない」
ルイはゆっくりと両手をおろした。絶望に沈んだ瞳が、こちらを見る。
「だから、おまえたちはオレに勝って、オレを一刻も早く家に帰してくれなくちゃいけない」
【配信コメント】
ソウタ先生……
〈コメントは削除されました〉
別行動は印象よくない
〈コメントは削除されました〉
〈コメントは削除されました〉
ノブナガ踊らんのかい
この曲すき
〈コメントは削除されました〉
みんな廊下で話してくれww
こんな短いあいだに、いろいろなことが変わってしまうのが不思議で、楽しい。
なんだか洗い場で無防備に裸を見せるのも恥ずかしくて、ミツキは簡単に身体を流すと湯船に入った。ユウも同じようにした。
熱い湯に肩まで浸かると、肌がジン……と痺れて、ミツキは眉をひそめる。
炎天下の釣りで、きちんと日焼け対策はしたはずだったけど、やっぱり焼けてしまった。特に首の後ろがひどくて、まだ沁みる。
その表情を見たユウが、「大丈夫?」と尋ねた。こくりとうなずく。
ユウはスッと目を細め、こちらに手を伸ばした。
「焼けちゃったな」
うなじに指先が触れる。ミツキはびくりと身体を震わせた。
「あ……ごめん。嫌だった?」
「ううん。びっくりしただけ」
「……触ってもいい?」
「……うん」
答えるのが恥ずかしくて、訊かないでほしいと思った。でも、あんなことがあったから、自分の意思を尋ねるようにしてくれたんだなとうれしくもなった。
そのまま、こちらの表情を窺いながら、ユウの指がうなじを這う。日に焼けた肌と、まだ白い肌の、曖昧な境界を探るように。
背筋がゾクゾクした。嫌な震えではなかった。
「……なあ、キスしてもいい?」
ユウが尋ねた。
ああ、そうだった。さっき、俺たちはキスをしそうになったんだ……。
ミツキは顔を上げてユウと目を合わせると、ふたたび、こくりとうなずいた。
ユウはうれしそうに笑った。その笑顔は、やさしくて、まぶしい。画面越しに見ていたチェリーくんと同じに。
ずっとドキドキしていた心臓の鼓動が、これ以上があるのかという速さで鳴りはじめる。
のぼせてしまいそうだった。もう、のぼせてもいいかもしれないと思った。あらゆる迷いが遠景へ去っていく。
ミツキは、ふたたび瞼を閉じた。その頬をユウの手のひらが包んだ。
呼気が唇に触れた、と思った瞬間に、ミツキはぬいになっていた。
「……えっ!?」
ユウが大きな声をあげて、湯の上にぷかぷかと浮かぶミツキを慌てて拾い上げる。
「なんで!? 俺、なにもしてないけど……いや、なにもしてなくはないけど……」
歌ってないのに、とユウはつぶやく。ミツキも同じように混乱の渦中にいた。
ユウは、しばらくミツキを手のうちに抱えて、じっとしていた。それから「うーん」とうなった。
「とりあえず、身体を洗おうかな……」
え? と思うけれど、やっぱり声は出てこなくて、ミツキはユウと共に湯船を出る。洗い場で湯を張った洗面器に入れられた。
「こうしたら温かいかな」
返事がないことをわかっていて、それでも確かめるように、ユウは目線の高さに洗面器を持ち上げて尋ねる。それを少し離れた場所に置くと、自分の身体を洗いはじめた。
洗い終えると、ユウはまたちょっと考えて、石鹸を手に取った。
「……できるだけ、直接触らないようにする。そんで、すごく、すごくやさしくする。だから怖がらないで」
ユウはフェイスタオルを使って、石鹸を泡立てた。もこもこの泡を作って、それでミツキの身体を包み込んだ。
「本当は、おまえの意見も聞いたほうがいいと思うんだけど……中途半端に濡れちゃったあと、身体を洗わないのも気持ちが悪いよな……?」
(わ、わわ……)
宣言どおり、ユウはミツキにあまり触れなかった。彼の手のひらと、ミツキの今の肌である布のあいだに、分厚い泡の層があり、それで撫でるように洗っていく。
(う、うう……)
ミツキは綿の身体のなかで、身をよじった。
怖くない。「次は手」「今度は胸」と宣言してから触れてくれるのもあるし、なによりユウの眼差しが、手つきが、やさしい。
(でも、じれったい……)
ぼんやりと思ってしまって、なにを期待しているんだとハッとする。ユウにはそんなつもりはないだろうに。罪悪感を覚えるほど、かえって身体に熱が降り積もっていく。
早く終わればいいと思うけれど、終わって欲しくないなとも思った。
頭がぽーっとしているうちに、ユウはミツキの身体を洗面器のなかですすぎ、乾いたタオルに包んだ。ポンポンと軽くはたいて、水を吸い取る。顔も同じようにされて、それからしばらくなにも見えなくなった。
一瞬、不安になったけれど、「今、脱衣所。自分の身体拭いてる」とユウが教えてくれて、落ち着く。
それからタオルに包まれたまま部屋に運ばれて、身体を乾かされた。
ユウが自分の髪にドライヤーを向けてちょっと乾かしてから、ミツキの身体にもドライヤーをあてる。それを交互に繰り返す。風が熱くないか、確かめながら乾かしてくれているのか。
ミツキは身体全体がぽかぽかとあたたかくなり、眠くなってきた。
ベッドの上に寝かされて、まどろみから醒めた。見た目は変わらないから、ユウには伝わっていないだろう。もう眠ったと思っているかもしれない。
ユウは、ぬいぐるみのミツキの上にタオルケットを掛けたあと、仕切りのカーテンを閉めずに姿を消した。かと思ったら、すぐに戻ってきた。
「……おやすみ」
ユウが手に持っていたのは、ダイチからプレゼントされた「ユウぬい」だった。
ユウは「ふふ」といたずらっぽく笑ったあと、ゆっくり、ぬいぐるみの顔と顔を触れ合わせる――キスをした。
(ああ……)
きゅううと胸が切なくなって、本物のユウとキスがしたかったなと思った。
カーテンが閉まって、部屋の電灯が消え、二段ベッドの上段が軋んだ。ユウも眠るらしい。
ミツキは、ふたたび眠りに落ちるまで、向き合ったユウのぬいぐるみをじっと見つめていた。
こうして見ていると、ユウのぬいぐるみは本物のユウよりもやさしい目をしているようだ。
髪色こそ濃いピンク色ではないけれど、かつてミツキが切望していたチェリーくんのぬいが実在したら、こんな姿だったのかもしれない。
それは、本質を見抜くことに長けたダイチが、ユウの隠れたやさしさを巧みに表現したからかもしれないし……ミツキの惹かれているのが、ユウのなかに存在する初恋の人の面影だからかもしれない。
(でも、きっと……ユウはそれだけじゃ、嫌だよな……)
*
翌朝、ミツキは早くに目が覚めた。
すっかり人間の姿に戻っていた。ぬいになるきっかけは曖昧なままだけれど、眠れば戻るのは間違いないようだ。
ユウを起こさないように静かに身支度していたけれど、ユウもすぐに目を覚ました。
ベッドの上で眠そうに目をこすりながら、けれどユウは、ミツキが起きていることに気づくと照れくさそうに笑った。
「おはよう」
「……おはよ」
ミツキがためらいながら返すと、ユウの顔が曇った。
「身体洗ったの、やっぱ怖かった?」
「あっ、違う! 違う、そうじゃなくて……」
慌てて否定すると、ユウはホッと息を吐いた。それから、ゆっくりと二段ベッドの梯子を下りて、ミツキと向かい合った。
「昨日、風呂場でいきなりぬいにしちゃってごめん」
「あれはユウのせいじゃないよ……たぶん」
ユウは「そうかな」と言うように、苦く笑って首をかしげた。
「俺は、おまえがあの歌を聞いたらぬいになるかと思ってた。俺が配信サイトのチャンネル消したあとに、ぬいに変身するようになったって言ってただろ? だから、昔の俺への未練とか……そういうのを歌を聞いて思い出して、それで変身するのかなって」
でも、違った。
ユウの言葉に、ミツキもうなずく。
都市伝説では、推しへの強い執着が変身のきっかけのようだった。けれど、昨日のできごとから考えると、それだけがきっかけじゃない。
ユウは短い沈黙のあとに、ミツキの目をまっすぐ見つめた。曇りのない、強い眼差しだった。
「俺さ……ミツキのこと、好きになった。『嫌い』から『好き』になったって意味じゃなくて、すごく……好きになった」
その言葉を耳にしたとき、全身に電流が走ったみたいだった。
その気持ちがうれしいとか嫌だとか、そういう以前に、とても大切な、滅多に手に入らないものを、両手に包んで差し出されているみたいだった。
そんなことを自分にしてくれる人がいるんだという、衝撃だった。
答えを間違えちゃいけないと思った。適当に答えてもいけないと思った。
ユウはミツキの表情を見て、微笑んだ。ほんの少しさみしそうだった。
「だから『おまえは俺のこと好き? チェリーくんじゃなくて、俺のこと』って訊きたいけど……たぶん、ミツキは迷ってると思う。俺、そういうのわかっちゃうほうだから」
ごまかしようもなくて、小さくうなずいた。
「昨日は、『いいな』って思ってるやつに触れるのが嬉しくて先走っちゃったけど、これは俺にとって大事なことだ。……だからさ、この合宿が終わったあとに、ちゃんと答えを教えて」
ミツキは、じっとユウの目を見つめながら「わかった」と言った。
「ちゃんと伝えるって、約束する」
*
合宿七日めの朝。三つめの課題「自給自足バーベキュー」の脱落者が発表された。
ソウタだった。
腑に落ちなかった。乗っていた自転車がパンクするという不運を乗り越えて、自分なりの解決策を見つけたソウタが、なぜ脱落するのか。
けれど、ほかの誰だったら納得するのかと問われると……今や誰がそうなっても納得できないだろう。みんなの人となりも、どれほど真剣に課題に向き合っていたかも、よく知っている。
ソウタは突然言い渡されたにもかかわらず、ゆうべのうちに荷造りを済ませていた。幼く見えて実はしっかりしたところのある彼らしいけれど、まるで事前に脱落することがわかっていたみたいだった。
ソウタは昇降口で、ひとりひとりの顔をゆっくり見て、「気をつけてね」と言った。子どもに言い含めるようだった。
「ああ」と真っ先に応えたのはユウだった。「がんばってね」でなくて? ミツキは疑問に思う。
ソウタは、すぐにあどけない笑顔に戻って「また遊ぼうね〜!」と手を振り、去っていった。
彼を港へ送り届ける車が見えなくなるまで手を振り返しながら、ミツキの胸に言いようのない不安が広がっていく。
なにかがおかしい。それがなにかは、はっきりと名指すことができないけれど。
貼りだされた昨日のコメントを見る。一昨日は、アクシデントが起きたにもかかわらずソウタへのコメントが少なくて、妙な感じがした。けれど昨日のコメントには、ソウタへの非難の声が多く見られた。
野草なんてどこにでも生えているはず。自分だけ楽をしようと思ったんじゃないの?
ルイはコメントを一瞥すると、すぐに背を向けて行ってしまった。ミツキもモヤモヤする気持ちを抱えながら、ルイのあとを追う。
ユウはしばらく、コメントを眺めていたようだった。
それからすぐに、残った三人は体育館に呼び出された。
初日の合唱練習の際、体育館でパート練習をしていたミツキが「熱中症」になってしまったという前例があるため、あちこちの窓や扉が開け放たれていた。入口に垂れ下がった虫除けネットをかき分けて、なかに入る。
舞台へ向き合うようにパイプ椅子が三つ置かれていた。三人は導かれるようにしてそこに座る。舞台上には、初日には見なかった演壇があった。
着席するなり、体育館のスピーカーから仰々しい音楽が流れだし、ノブナガが姿を現した。
彼は古びたラジカセを手にしていた。演壇の前に立つと、入場曲さながら鳴り響いていた音が止まる。
「おはよう、参加者諸君」
それから、ラジカセを演壇の上に、ドンと置く。
「昨日は楽しい宴だったな。いよいよ、この合宿もクライマックスに近づいてきた。次の課題を発表しよう。次の課題は――創作ダンスだ」
「え?」
ミツキは思わず声をあげた。ノブナガは構わず、ラジカセの再生ボタンを押す。
少し前にショート動画でよく聴いたヒップホップが流れ出した。ノブナガは今にも踊りだしそうに全身でリズムをとって、けれど踊らなかった。
「きみたちも聞いたことがあるだろう。この曲に合わせて、オリジナルのダンスを考え、明日の夕方に披露してもらう――一人ひとり、別々に。例の動画の振り付けに引っ張られないよう気をつけてくれ」
ノブナガが去ったあと、体育館はしばらく静まり返っていた。
口に出すのは、あらかじめ敗北を認めてしまうことになるから、言いたくなかったけれど。
ルイは、インディーズのダンス&ボーカルグループに所属している。
ミツキはSNSのタイムラインに流れてくる、彼の動画を見たことがあった。
インディーズとはいえ、歌い踊るルイには「まだデビューしていないだけ」と表現するのにふさわしいカリスマ性があった。いつか大勢の人に発見されて、愛されるに違いないと信じさせるカリスマ性が。
素人のミツキにはわからないけれど、彼のダンスが技術的にかなり高い水準にあることも間違いないだろう――そう、ミツキにはダンスの経験がない。ユウも、配信者時代の動画に「踊ってみた」はなかった。
あらかじめ結果のわかりきった勝負だった。
「……オレが、サポートする」
ルイが口を開いた。
「あの曲、二分半ぐらいで短いし。ガチでやったらそりゃ二日じゃ足んないって難易度にもできるけど……オレはなんとでもなる。オレと互角に闘えるように、おまえらにダンスの基礎を教える」
「……ルイ」
ミツキは戸惑いながら名前を呼んだ。
前回と同じように「みんなでひとつのものを完成させる」という課題であればよかったのに。今になって、ひとりひとりに戻って競わされるというのはつらい。ルイの足を引っ張ってしまうのも。
「悔しいけど、まともな勝負にするには、それしかなさそうだな。……ありがとう」
ユウが頭を下げて、ミツキも迷いながらそれに倣った。
*
ひとまず動きやすい服装に着替えようということになって、三人はそれぞれ部屋に戻った。
カメラのない部屋に入るなり、疑問がミツキの口を衝く。
「なんで、こんな課題にしたんだろう……あらかじめ決まってたのかもしれないし、見てくれる人の評価基準は技術だけじゃないのかもしれないけど……もし万が一、『創作ダンス』って題された課題で俺たちが勝っちゃったら、それってすごくルイに失礼な気がする」
流れてきた動画でルイが放っていた輝きを思い出す。それから初日の合唱練習で、瞳をキラキラさせていた姿も。ルイは歌やダンスに情熱を燃やしてきた。
ミツキには、そんなふうに夢中になれるものがない。いつだったか、それでもいいとソウタは言っていたけれど……。少なくとも「ダンス」の課題で、「ダンス」以外の部分で評価されて、ルイを負かすなんてフェアじゃない。ミツキはそう思った。
ユウは言葉少なだった。
「……じゃあ、わざと負けるってこと?」
彼はそれだけを尋ねた。
ミツキは「そんなことはしないけどさ……」と言葉を濁した。
ユウはそれ以上を聞かず、先に部屋を出て行ってしまった。
体育館に向かう途中、ルイの部屋の前を通りかかる。
ルイが、スタッフとなにごとかを話していた。深刻そうな面持ちだ。
今回の合宿のスタッフは、大半が同じ高校生である実行委員。加えて、この合宿所の従業員と、製作費を支払われて協力している制作会社のスタッフからなるようだった。ルイが話していたのは、ミツキと同い年ぐらいに見える少女だ。
彼女はミツキの姿を目に留めると、パッと頭を下げて走り去った。
そのとき、ミツキの背後からユウが現れた。
「わっ!」
突然の登場に、ミツキは大きな声をあげた。
「トイレ行ってた」
ミツキの反応を気に留めた様子もなく、ユウはルイに歩み寄った。ユウがなにかを口にする前に、ルイは「ちょっと話がある」と切り出した。
「部屋に入ってくれ」
ミツキとユウが彼の部屋に入るなり、ルイは深々と頭を下げた。
「お願いだ。この勝負、オレに負けさせてほしい」
「ん?」
ミツキの頭に疑問符が浮かぶ。隣に立つユウも、困惑の表情を浮かべている。
「『オレに勝たせてほしい』じゃなくて……?」
ミツキがつぶやくと、ルイは下唇を噛んだ。
「……この合宿へ来る前に受けてた別のオーディションを、通過したって知らせがあった。次が最終審査だ」
「おお、おめでとうございます!」
ミツキは歓声をあげるが、ルイの顔色は冴えない。
「審査の日は六日後だから、この合宿に最後まで参加しても間に合う……はずだった」
ルイは両手で顔を覆って、深い深い溜息をついた。
「……オーディション通過の知らせと一緒に教えてもらったんだけど、大型の台風が接近しているらしい。数日後には、この島に上陸する予報だそうだ。そうしたら連絡船が出なくて帰れない」
ルイはゆっくりと両手をおろした。絶望に沈んだ瞳が、こちらを見る。
「だから、おまえたちはオレに勝って、オレを一刻も早く家に帰してくれなくちゃいけない」
【配信コメント】
ソウタ先生……
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別行動は印象よくない
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ノブナガ踊らんのかい
この曲すき
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みんな廊下で話してくれww

