「今日一日考えてたんだけど。おまえがぬいになるきっかけ、俺、わかっちゃったかも」
「……え?」
すうっとユウの唇が耳元に寄った。吐息が耳たぶに触れて、くすぐったい。
ミツキが身をよじるよりも先に、ユウは、あの卒業ソングを歌い始めた。
「……っ!」
心臓がドクンと震えて、ミツキは、三度目にぬいぐるみとなった。
「やっぱ、あの曲なんだなあ」
ユウがつぶやいた。自嘲するような響きだった。
「そんなに好きだったんだ、あいつが」
あいつ。消えた推しVSinger。
改めて聴いたユウの歌声は、彼の歌声とそっくりだった。
突然、なにするんだよ。やっぱりユウさんは、俺の推し? それならなんで他人みたいな言い方をするんだ?
尋ねたいことは山ほどあるけれど、声が出ない。
ユウは床に転がっているミツキを拾い上げた。あたたかい手のひらに包まれる。
「……聞こえる? 俺の声」
聞こえる。聞こえるし、見えるし、感じる。
けれど、身体を動かすことができない。話せないし、指先ひとつ動かせない。なにも反応を返すことができない。
「やっぱ聞こえてないのかな。ぬいになったら意識もなくなるとか?」
ユウはひとりごち、手のうちのミツキを指先で撫でた。
頬を指の腹でぐにぐにと押されて、変な感じだ。自分が通常サイズだったら、ツンツンとつつくようなかわいらしい刺激に感じられただろうけど、このサイズだと手のひら全体で頬をぐううと押しては離されるような。
けれど痛いわけではなくて、ぎゅううと身体を丸めたあとにぐっと伸ばしたときのような、解放感に似たものがあった。
「ふ。よくできてるよな、ほんと……ムカつくぐらいかわいい顔」
ユウはつつくのをやめて、ミツキの目元から口元をするりと撫でおろした。ぞくりとする。
こんなふうに誰かに無遠慮に触れられたことがない。ゾクゾクする感覚の正体もわからないまま、ミツキは布と綿の身体に閉じ込められている。
ユウが無意識にか、先ほどの歌の続きをハミングしだした。やわらかく、やさしい歌声。口を閉じているから、はっきり聞こえるわけではないけれど――ドクドクドクと、耳の奥で、存在するのかもわからない心臓の音が鳴り響く。
桃色の髪をした彼の姿が、記憶の奥で微笑む。
ミツキは、不安と混乱のなかで縋るように、歌声に全神経を集中させた。
ユウは片手でミツキの全身を支え、もう片方の手で身体を撫で始めた。
ミツキは「ひっ」と息を吸った。吸いたかった。心のなかでは吸っていた。
ユウはハミングから薄く唇を開いて、歌を口ずさみはじめていた。どこか上の空のようだ。その割に、ミツキの身体の丸みをなぞる、指先の動きは執拗で――まるでぬいぐるみの身体を検分しているよう。
ああ、ひょっとしたら、今向き合っている「ぬい制作」の課題の参考にしようとしているのかもしれない。……って、こいつは、自分の持っている「ぬい」が実際には「俺」であることを忘れてるのか?
敏感な部分を指先が掠めて、身体が跳ねた。
思い出してしまう。
あの人の動画の中でも、低くやさしげで、少し色っぽい――そんな歌い方をしている部分ばかり繰り返し聞くことがあった。それを聞きながら……ということは、なにか手酷い裏切りのような気がして、やったことがなかったけれど。繰り返し聞いていたのは、夜、ベッドに入ってから思い出すためだった。
大好きな人の大好きな声が、自分だけに囁くのを想像するためだった。
さっきユウに「ゲイなんだ」と告白されたとき、伝えたかったのは、「俺もそうなのかもしれない」ということだった。
けれど確証が持てなくて、なにも言えなかった。
これまでハッキリと好きだと思ったのはただひとりだけで、それがたまたま同性というだけかもしれなかった。
なんだか泣きたくなってきた。自分にはわからないことばかりだ。自分が何者なのかさえ、よくわからない。だけど涙は出ない。ぬいぐるみだから。
ユウは、もう歌うのをやめてしまった。真剣な顔でこちらを見つめて、無心に手を動かしている。
魔法が解けたみたいに、ミツキの頭の芯が次第に冷めていく。
(ユウ、ユウ、嫌だよ、気づいて……)
必死に心のなかで唱えるけれど、やはり伝わらない。
怖い、と思った。
目の前にぶくぶくと幻の水泡が浮かびはじめる。どんなに叫んでも、すべては泡になってしまう。動こうとしても、強く押さえつけられて身体が動かない。息ができない。苦しい。
けれど、あのときも、苦しかったのは身体よりも心だった。自分の意思なんて関係ない。オモチャみたいに扱われて、どんなにつらくて泣き叫んでも、相手には伝わらなくて。
今回も、そうなのかな。
ミツキの心に、じわじわと諦めと絶望が広がっていく。
やっぱりユウさんは俺のことが好きになれなくて、今も嫌がっているのがわかっているのに、わざと意地悪をしているんだろうか。
何度も助けてくれたのに。仲良くなれたような気がしていたのに。……やっぱり、最後には嫌われちゃうのかな。
永遠にも思える、けれど実際は数分だったのだろう時間が過ぎるのを、ミツキはぶるぶると震えながら耐えた。
*
目が覚めると、合宿四日目の朝だった。
ミツキは自分のベッドの上で、タオルケットをかぶって横になっていた。
ユウは、ひととおりミツキを検分すると満足したのか、ベッドに横たわらせた。元に戻ったあと風邪を引いてはいけないと思ったようで、丁寧にタオルケットをかけてから、部屋の電気を消した。
それでミツキは、彼に悪気がなかったことを知った。
それでも感じた恐怖はなかなか消えなかった。
ぬいの身体のなかで震えながら、いつの間にか寝入っていたらしい。目覚めると部屋は明るくて、ミツキは人間に戻っていた。
ゆっくりと身体を起こす。全身が嫌な汗でベタついている。もう一度、風呂に入らなければいけなくなった。
ため息をついて、のろのろと二段ベッドの下段から這い出た。
そのとき、ギッと頭の上で木の軋む音がした。振り返ると、ユウが上体を起こし、寝ぼけ眼をこすっている。
「はよ……戻ってるな。あのさ、昨日――」
目が合うと、ユウは気まずそうに話しはじめた。気まずそうではあったけれど、軽いトーンだった。
ミツキは反射的に身体を強張らせて、後ずさった。
「っ!」
なにもないところで足がもつれて、板間に尻もちをつく。
「え、大丈夫?」
慌ててユウが身を乗り出す。
「だい、じょぶ」
「あの、昨日、俺さ。おまえにひどいことしたよな。急にぬいに変化させるなんて――」
「それは!」
ユウの声を聞いているのがつらくて、大きな声を出した。ユウは驚いたように口をつぐむ。
ミツキは、ためらいながら言い直した。
「それも、ひどいけど。そのあとの……」
言葉に迷う。なんて伝えたらいいんだろう。ユウはきっと悪くない。悪意はなかったはずだ。
でも、怖かった。
「……俺、ぬいになっても、意識ある」
「えっ」
ユウが驚きの声をあげた。それから、ミツキの言葉の意味を理解したように――自分の昨夜したことを思い出したように、次第に顔が青ざめていく。
「それって……」
「……参考にしたかったのかなんなのかわかんないけど、好き勝手に人の身体触りやがって。せめて勉強したぶん、今日の作業でおまえのぬいをもうちょっとマシにしろよ!」
ミツキは低い声で言い放って、風呂場に持っていく洗面用具を荷物のなかから引っ張り出した。
ユウがもっと話したそうに、背後から「なあ」とか「おい」とか声を掛けてきたけれど、全部無視して部屋を出た。
カメラのある廊下では、涙を見せないようにするのに苦労した。
*
ミツキは、決められた朝食の時間が終わるギリギリまで、湯船に浸かって考えごとをしていた。
もし、ユウが自分の推しだとしたら。
だとしたら、結果的に自分のしたことが返ってきただけなんじゃないか。
ミツキは推しに恋をしていた。推しの意思なんて関係なく、勝手に、自分と彼との恋愛を妄想していた。本当の彼は、リアコやガチ恋を嫌っていたかもしれないのに。
なにより、かつてはミツキだって推しの――ユウのぬいを作って、愛玩したいと思っていたのだ。
同時に、ユウが自分の推しであるはずがないとも思った。
だって、あの人は弾けるように明るくて、視聴者から寄せられるコメントにも真摯に向き合って、決して意地悪なことは言わなかった。いつでもやさしかった。ユウは、やさしいときもあるけれど、基本的に意地悪で皮肉っぽい。全然違う。
なのに、歌声はそっくりだった。
ミツキは混乱したまま風呂を出て、急いで髪を乾かし、食堂へ向かった。
いつもバラバラに朝食をとるみんなが、自分の食事を終えても部屋へ戻らず、ミツキが現れるのを待ってくれていた。
「大丈夫?」
ダイチが穏やかに尋ねる。ソウタが「朝風呂なんて珍しいじゃん〜。昨日の夜暑かったもんね〜」とフォローしてくれる。ルイはなにも言わずに、朝食をのせたトレイをテーブルに置く。
ユウはルイを手伝って熱い茶の入った湯飲みを運んできたけれど、目の合ったミツキが身体を強張らせると、そっとルイに手渡した。
ミツキは腰を下ろして、朝食を食べ始めた。
ユウが運ぶのを見たときには、なんで真夏にホットだよと思ったけれど、あたたかい飲み物を口にすると、風呂上がりでも緊張に冷え切って固まりつつあった身体の内側が、ほどけていくようだった。
「……ユウさんと、喧嘩した」
小さな声で告白すると、すでに悟っていたように、みんなは「あー……」と声を漏らした。ユウ当人は黙っていた。
ミツキは黙々と食事をする合間に、つぶやく。
「でも、もうちょっと落ち着いたら、仲直りしたい」
ユウが静かな声で「……うん」と応えるのが聞こえた。
しばらくの沈黙のあと、ソウタが「そういえばさ、まだ昇降口に貼られた新しいコメント見てないでしょ?」と明るく話しはじめる。
「ミツキくんの『ルイぬい』、かわいいって好評だったよ! 目がボタンなのがカントリー風でいいってさ。たしかにね〜」
「オレの『ミツキぬい』も大好評だっただろ」
「なに、ルイくんたら嫉妬してんの? かわい〜」
みんなの話題が逸れていく。それでも自分を包み込むような、ふわふわとあたたかい気遣いは残っていて。ミツキは、小さく微笑んだ。
*
「うわっ!」
家庭科室内に、悲鳴が響いた。
ぬい制作の作業を再開して早々だった。その悲鳴の主が大きな声を出すことなど滅多にないダイチだったので、みんなは驚いて手を止め、顔を上げた。
「ミシンの針、折れちゃった」
ダイチは自分のリアクションの大きさを恥じらうように照れ笑いを浮かべ、「驚かせてごめんね」と謝った。
「針って折れるんだな」
「はい! 折れた片割れ、ここだよ〜」
同じ組のユウとソウタがのんびりと応答する。それからみんな、なんでもないことのように作業に戻った。
しかし、ダイチはしばらく教室の端に並んだミシンの前でガサゴソしていた。
最初は、ただ針を換えるのに苦戦しているのかと思った。けれど、ダイチは自身の使用していたミシンの周囲を探し回り、隣の家庭科準備室に出たり入ったりを繰り返し、やがては並んだほかのミシンのカバーを外しはじめた。
「どうした?」
「ミツキぬい」の服に使う布を切りながら、ルイが尋ねる。ダイチは沈んだ声で答えた。
「……替えの針がない」
「えっ」
声をあげたのはソウタとミツキだったが、ルイとユウも心配そうにダイチを見ている。
「どこにも?」
「どこにも」
「ほかのミシンに付いてるやつ、使えない?」
「そう思って、見てるんだけど……」
ダイチが首を横に振った。
「ほかのミシンには、針がついていないみたいなんだ」
「……そんなことあるか?」
ユウが眉根を寄せた。立ち上がって、ダイチと一緒にほかのミシンを見て回る。
やがて、ふたりは諦めたように「ない」と溜息をついた。
「どうしようかな」
「ノブナガに相談するか?」
ユウの提案に、ダイチは首を横に振った。
「たぶん……どうにもならないだろう」
そのとき彼の顔に浮かんだのは、嘲りのようだった。
ミツキも救いを求めるように、自分の顔の周りを飛び回るカメラを、その向こう側の撮影スタッフを見るけれど、「どうにもできない」というように気まずそうに視線を逸らされる。
「なにかで代用できないかな?」
「無理じゃないかな」
ソウタの問いかけにダイチはきっぱりと答えて、しかし笑った。
「仕方ない。手縫いでやってみるよ」
「え……」
ミツキは思わず声を出した。ダイチは、まだぬいの素体を縫い始めたばかりだ。ここから手縫いで素体を仕上げて、衣装も作るというのは……裁縫の素人の自分たちでは、とても間に合わないのでは?
「俺、手伝う」
すぐにユウが声をあげた。
ダイチは驚いたように目を丸くして、すぐには言葉を返さなかった。
ミツキも、ルイも、ソウタも、驚いてユウを見ていた。
「今日はもうちょっと、自分のぬいをなんとかできないかと思ってたけど。まあ、俺の『ソウタロボ』はこれで完成でもおかしくないし」
「ついに正式にロボになっちゃった……」
ソウタが小さな声で嘆く。ユウはそちらを見て、ニヤリとした。
それからミツキを見て、少し切ない目をする。
ミツキはドキリとした。けれどユウはすぐに視線を逸らして、ダイチに向き合った。
「……今は、あんたを手伝いたい」
「わかった。ありがとう」
ダイチはユウに向かって深々と辞儀をした。
ほかのみんなも、自分のぬいの衣装を完成させたら協力することを約束して、ふたたび時計との追いかけっこが始まった。
*
みんな昼食をほとんど食べず作業にかかりきりだったので、夕食時の食堂は明るい雰囲気に満ちていた。普段は小食のミツキも、カツカレーとサラダの夕飯をおかわりした。
午後五時の作業終了時、ダイチの「ユウぬい」はなんとか形になっていた。ユウによるぐし縫いで繋げられた素体はステッチが目立っていたけれど、ダイチは「かえって味があっていい」と笑った。
みんなも自身の制作したぬいに、友人がこの数日間にまとっていた服と似た衣装を着させて、完成とした。
それぞれのぬいにそれぞれの色が出ていて、完成度で言えば似たりよったりで、結果がどうなるかは誰にもわからなかった。
夕食後に、視聴者投票の結果が発表された。
前回から投票の総数は一.五倍の約四千五百票になったらしい。久しぶりに顔を合わせたノブナガは、上機嫌に見えた。
「今回の脱落者は——ダイチ」
ノブナガが名前を呼んだとき、ダイチは落ち着きはらっていた。まるで、名前を呼ばれることがあらかじめわかっていたようだった。
彼は食堂を見回して、「みんな、ありがとう」と微笑んだあと、ノブナガを強い視線で射抜いた。
それは、睨むというよりも、言葉なしに問いただすような視線だった。
明日、ダイチは帰ってしまう。
ミツキは、結果発表後も、食堂でみんなと長いこと話していた。このオーディションのことよりも、もっと取り留めのない話を。
やがてミツキはさみしさを覚えながら、風呂に入って部屋に戻った。
先に入浴を終えていたユウが、板間に座って待っていた。
まだ少し、身体が緊張した。無意識に距離を取りながら、洗面用具を片付ける。
ユウはこちらをじっと見ている。
「……ごめん。今日、『ソウタぬい』に手を付けられなかった」
ユウが口を開いた。ミツキはハッとした。今朝、ユウに言ったことを思い出す――「今日の作業でおまえのぬいをもうちょっとマシにしろよ」。
ただの捨て台詞のようなもので、ミツキは言ったことをすっかり忘れていた。
けれど、ユウは覚えていたんだ。胸がギュッとなった。
「……それは、ダイチさんを手伝ったからでしょ。いいよ、別に……」
ミツキはつぶやくように言った。
「ごめん」
ユウがもう一度、謝った。今度は、昨日の夜にしたこと自体を謝っているみたいだった。まだ許す気にはなれなくて、ミツキは気づかない振りをした。
「『ソウタロボ』も、じゅうぶんかわいいし……いいよ」
「ソウタロボ」という単語は、実際に口にすると、ちょっと笑えた。
ふう、と息を吐いて、ミツキはユウのほうを振り向いた。
「今日、ダイチさんのことを手伝ったの、すごくいいなって思いました。……ユウさんは意地悪なときもあるけど、やっぱやさしい人なんだなって、安心した」
「……」
ユウは真面目な顔をして、なにも言わずにじっと黙っていた。それから、ゆっくりと、噛みしめるように言った。
「昨日は、怖い思いをさせて、本当にごめん」
なんだか肩の力が抜けた。ミツキは、もう一度、ふうと息を吐いた。
「……いいよ。よくないけど、いいよ」
ミツキは、ユウのすぐそばを通って、二段ベッドの下段にもぐりこんだ。
その背に、ユウが言った。
「あのさ。俺がダイチを手伝おうと思ったのは、おまえが他の人にやさしくするところを見て、いいなって思ったからだよ」
ミツキはハッとしてユウの目を見た。ユウは照れくさそうに微笑んだ。
「……おやすみ」
ミツキはなにを言えばいいのかわからずに、それだけを返した。
笑顔で挨拶をできた、気がした。
【配信コメント】
痴話喧嘩か〜
↑カプ厨やめて
ダイチの声ビビった
〈コメントは削除されました〉
ソウタドンマイ
ユウ急にどうした
それよりミツキに謝れよ
〈コメントは削除されました〉
みんなのぬいかわいい
「……え?」
すうっとユウの唇が耳元に寄った。吐息が耳たぶに触れて、くすぐったい。
ミツキが身をよじるよりも先に、ユウは、あの卒業ソングを歌い始めた。
「……っ!」
心臓がドクンと震えて、ミツキは、三度目にぬいぐるみとなった。
「やっぱ、あの曲なんだなあ」
ユウがつぶやいた。自嘲するような響きだった。
「そんなに好きだったんだ、あいつが」
あいつ。消えた推しVSinger。
改めて聴いたユウの歌声は、彼の歌声とそっくりだった。
突然、なにするんだよ。やっぱりユウさんは、俺の推し? それならなんで他人みたいな言い方をするんだ?
尋ねたいことは山ほどあるけれど、声が出ない。
ユウは床に転がっているミツキを拾い上げた。あたたかい手のひらに包まれる。
「……聞こえる? 俺の声」
聞こえる。聞こえるし、見えるし、感じる。
けれど、身体を動かすことができない。話せないし、指先ひとつ動かせない。なにも反応を返すことができない。
「やっぱ聞こえてないのかな。ぬいになったら意識もなくなるとか?」
ユウはひとりごち、手のうちのミツキを指先で撫でた。
頬を指の腹でぐにぐにと押されて、変な感じだ。自分が通常サイズだったら、ツンツンとつつくようなかわいらしい刺激に感じられただろうけど、このサイズだと手のひら全体で頬をぐううと押しては離されるような。
けれど痛いわけではなくて、ぎゅううと身体を丸めたあとにぐっと伸ばしたときのような、解放感に似たものがあった。
「ふ。よくできてるよな、ほんと……ムカつくぐらいかわいい顔」
ユウはつつくのをやめて、ミツキの目元から口元をするりと撫でおろした。ぞくりとする。
こんなふうに誰かに無遠慮に触れられたことがない。ゾクゾクする感覚の正体もわからないまま、ミツキは布と綿の身体に閉じ込められている。
ユウが無意識にか、先ほどの歌の続きをハミングしだした。やわらかく、やさしい歌声。口を閉じているから、はっきり聞こえるわけではないけれど――ドクドクドクと、耳の奥で、存在するのかもわからない心臓の音が鳴り響く。
桃色の髪をした彼の姿が、記憶の奥で微笑む。
ミツキは、不安と混乱のなかで縋るように、歌声に全神経を集中させた。
ユウは片手でミツキの全身を支え、もう片方の手で身体を撫で始めた。
ミツキは「ひっ」と息を吸った。吸いたかった。心のなかでは吸っていた。
ユウはハミングから薄く唇を開いて、歌を口ずさみはじめていた。どこか上の空のようだ。その割に、ミツキの身体の丸みをなぞる、指先の動きは執拗で――まるでぬいぐるみの身体を検分しているよう。
ああ、ひょっとしたら、今向き合っている「ぬい制作」の課題の参考にしようとしているのかもしれない。……って、こいつは、自分の持っている「ぬい」が実際には「俺」であることを忘れてるのか?
敏感な部分を指先が掠めて、身体が跳ねた。
思い出してしまう。
あの人の動画の中でも、低くやさしげで、少し色っぽい――そんな歌い方をしている部分ばかり繰り返し聞くことがあった。それを聞きながら……ということは、なにか手酷い裏切りのような気がして、やったことがなかったけれど。繰り返し聞いていたのは、夜、ベッドに入ってから思い出すためだった。
大好きな人の大好きな声が、自分だけに囁くのを想像するためだった。
さっきユウに「ゲイなんだ」と告白されたとき、伝えたかったのは、「俺もそうなのかもしれない」ということだった。
けれど確証が持てなくて、なにも言えなかった。
これまでハッキリと好きだと思ったのはただひとりだけで、それがたまたま同性というだけかもしれなかった。
なんだか泣きたくなってきた。自分にはわからないことばかりだ。自分が何者なのかさえ、よくわからない。だけど涙は出ない。ぬいぐるみだから。
ユウは、もう歌うのをやめてしまった。真剣な顔でこちらを見つめて、無心に手を動かしている。
魔法が解けたみたいに、ミツキの頭の芯が次第に冷めていく。
(ユウ、ユウ、嫌だよ、気づいて……)
必死に心のなかで唱えるけれど、やはり伝わらない。
怖い、と思った。
目の前にぶくぶくと幻の水泡が浮かびはじめる。どんなに叫んでも、すべては泡になってしまう。動こうとしても、強く押さえつけられて身体が動かない。息ができない。苦しい。
けれど、あのときも、苦しかったのは身体よりも心だった。自分の意思なんて関係ない。オモチャみたいに扱われて、どんなにつらくて泣き叫んでも、相手には伝わらなくて。
今回も、そうなのかな。
ミツキの心に、じわじわと諦めと絶望が広がっていく。
やっぱりユウさんは俺のことが好きになれなくて、今も嫌がっているのがわかっているのに、わざと意地悪をしているんだろうか。
何度も助けてくれたのに。仲良くなれたような気がしていたのに。……やっぱり、最後には嫌われちゃうのかな。
永遠にも思える、けれど実際は数分だったのだろう時間が過ぎるのを、ミツキはぶるぶると震えながら耐えた。
*
目が覚めると、合宿四日目の朝だった。
ミツキは自分のベッドの上で、タオルケットをかぶって横になっていた。
ユウは、ひととおりミツキを検分すると満足したのか、ベッドに横たわらせた。元に戻ったあと風邪を引いてはいけないと思ったようで、丁寧にタオルケットをかけてから、部屋の電気を消した。
それでミツキは、彼に悪気がなかったことを知った。
それでも感じた恐怖はなかなか消えなかった。
ぬいの身体のなかで震えながら、いつの間にか寝入っていたらしい。目覚めると部屋は明るくて、ミツキは人間に戻っていた。
ゆっくりと身体を起こす。全身が嫌な汗でベタついている。もう一度、風呂に入らなければいけなくなった。
ため息をついて、のろのろと二段ベッドの下段から這い出た。
そのとき、ギッと頭の上で木の軋む音がした。振り返ると、ユウが上体を起こし、寝ぼけ眼をこすっている。
「はよ……戻ってるな。あのさ、昨日――」
目が合うと、ユウは気まずそうに話しはじめた。気まずそうではあったけれど、軽いトーンだった。
ミツキは反射的に身体を強張らせて、後ずさった。
「っ!」
なにもないところで足がもつれて、板間に尻もちをつく。
「え、大丈夫?」
慌ててユウが身を乗り出す。
「だい、じょぶ」
「あの、昨日、俺さ。おまえにひどいことしたよな。急にぬいに変化させるなんて――」
「それは!」
ユウの声を聞いているのがつらくて、大きな声を出した。ユウは驚いたように口をつぐむ。
ミツキは、ためらいながら言い直した。
「それも、ひどいけど。そのあとの……」
言葉に迷う。なんて伝えたらいいんだろう。ユウはきっと悪くない。悪意はなかったはずだ。
でも、怖かった。
「……俺、ぬいになっても、意識ある」
「えっ」
ユウが驚きの声をあげた。それから、ミツキの言葉の意味を理解したように――自分の昨夜したことを思い出したように、次第に顔が青ざめていく。
「それって……」
「……参考にしたかったのかなんなのかわかんないけど、好き勝手に人の身体触りやがって。せめて勉強したぶん、今日の作業でおまえのぬいをもうちょっとマシにしろよ!」
ミツキは低い声で言い放って、風呂場に持っていく洗面用具を荷物のなかから引っ張り出した。
ユウがもっと話したそうに、背後から「なあ」とか「おい」とか声を掛けてきたけれど、全部無視して部屋を出た。
カメラのある廊下では、涙を見せないようにするのに苦労した。
*
ミツキは、決められた朝食の時間が終わるギリギリまで、湯船に浸かって考えごとをしていた。
もし、ユウが自分の推しだとしたら。
だとしたら、結果的に自分のしたことが返ってきただけなんじゃないか。
ミツキは推しに恋をしていた。推しの意思なんて関係なく、勝手に、自分と彼との恋愛を妄想していた。本当の彼は、リアコやガチ恋を嫌っていたかもしれないのに。
なにより、かつてはミツキだって推しの――ユウのぬいを作って、愛玩したいと思っていたのだ。
同時に、ユウが自分の推しであるはずがないとも思った。
だって、あの人は弾けるように明るくて、視聴者から寄せられるコメントにも真摯に向き合って、決して意地悪なことは言わなかった。いつでもやさしかった。ユウは、やさしいときもあるけれど、基本的に意地悪で皮肉っぽい。全然違う。
なのに、歌声はそっくりだった。
ミツキは混乱したまま風呂を出て、急いで髪を乾かし、食堂へ向かった。
いつもバラバラに朝食をとるみんなが、自分の食事を終えても部屋へ戻らず、ミツキが現れるのを待ってくれていた。
「大丈夫?」
ダイチが穏やかに尋ねる。ソウタが「朝風呂なんて珍しいじゃん〜。昨日の夜暑かったもんね〜」とフォローしてくれる。ルイはなにも言わずに、朝食をのせたトレイをテーブルに置く。
ユウはルイを手伝って熱い茶の入った湯飲みを運んできたけれど、目の合ったミツキが身体を強張らせると、そっとルイに手渡した。
ミツキは腰を下ろして、朝食を食べ始めた。
ユウが運ぶのを見たときには、なんで真夏にホットだよと思ったけれど、あたたかい飲み物を口にすると、風呂上がりでも緊張に冷え切って固まりつつあった身体の内側が、ほどけていくようだった。
「……ユウさんと、喧嘩した」
小さな声で告白すると、すでに悟っていたように、みんなは「あー……」と声を漏らした。ユウ当人は黙っていた。
ミツキは黙々と食事をする合間に、つぶやく。
「でも、もうちょっと落ち着いたら、仲直りしたい」
ユウが静かな声で「……うん」と応えるのが聞こえた。
しばらくの沈黙のあと、ソウタが「そういえばさ、まだ昇降口に貼られた新しいコメント見てないでしょ?」と明るく話しはじめる。
「ミツキくんの『ルイぬい』、かわいいって好評だったよ! 目がボタンなのがカントリー風でいいってさ。たしかにね〜」
「オレの『ミツキぬい』も大好評だっただろ」
「なに、ルイくんたら嫉妬してんの? かわい〜」
みんなの話題が逸れていく。それでも自分を包み込むような、ふわふわとあたたかい気遣いは残っていて。ミツキは、小さく微笑んだ。
*
「うわっ!」
家庭科室内に、悲鳴が響いた。
ぬい制作の作業を再開して早々だった。その悲鳴の主が大きな声を出すことなど滅多にないダイチだったので、みんなは驚いて手を止め、顔を上げた。
「ミシンの針、折れちゃった」
ダイチは自分のリアクションの大きさを恥じらうように照れ笑いを浮かべ、「驚かせてごめんね」と謝った。
「針って折れるんだな」
「はい! 折れた片割れ、ここだよ〜」
同じ組のユウとソウタがのんびりと応答する。それからみんな、なんでもないことのように作業に戻った。
しかし、ダイチはしばらく教室の端に並んだミシンの前でガサゴソしていた。
最初は、ただ針を換えるのに苦戦しているのかと思った。けれど、ダイチは自身の使用していたミシンの周囲を探し回り、隣の家庭科準備室に出たり入ったりを繰り返し、やがては並んだほかのミシンのカバーを外しはじめた。
「どうした?」
「ミツキぬい」の服に使う布を切りながら、ルイが尋ねる。ダイチは沈んだ声で答えた。
「……替えの針がない」
「えっ」
声をあげたのはソウタとミツキだったが、ルイとユウも心配そうにダイチを見ている。
「どこにも?」
「どこにも」
「ほかのミシンに付いてるやつ、使えない?」
「そう思って、見てるんだけど……」
ダイチが首を横に振った。
「ほかのミシンには、針がついていないみたいなんだ」
「……そんなことあるか?」
ユウが眉根を寄せた。立ち上がって、ダイチと一緒にほかのミシンを見て回る。
やがて、ふたりは諦めたように「ない」と溜息をついた。
「どうしようかな」
「ノブナガに相談するか?」
ユウの提案に、ダイチは首を横に振った。
「たぶん……どうにもならないだろう」
そのとき彼の顔に浮かんだのは、嘲りのようだった。
ミツキも救いを求めるように、自分の顔の周りを飛び回るカメラを、その向こう側の撮影スタッフを見るけれど、「どうにもできない」というように気まずそうに視線を逸らされる。
「なにかで代用できないかな?」
「無理じゃないかな」
ソウタの問いかけにダイチはきっぱりと答えて、しかし笑った。
「仕方ない。手縫いでやってみるよ」
「え……」
ミツキは思わず声を出した。ダイチは、まだぬいの素体を縫い始めたばかりだ。ここから手縫いで素体を仕上げて、衣装も作るというのは……裁縫の素人の自分たちでは、とても間に合わないのでは?
「俺、手伝う」
すぐにユウが声をあげた。
ダイチは驚いたように目を丸くして、すぐには言葉を返さなかった。
ミツキも、ルイも、ソウタも、驚いてユウを見ていた。
「今日はもうちょっと、自分のぬいをなんとかできないかと思ってたけど。まあ、俺の『ソウタロボ』はこれで完成でもおかしくないし」
「ついに正式にロボになっちゃった……」
ソウタが小さな声で嘆く。ユウはそちらを見て、ニヤリとした。
それからミツキを見て、少し切ない目をする。
ミツキはドキリとした。けれどユウはすぐに視線を逸らして、ダイチに向き合った。
「……今は、あんたを手伝いたい」
「わかった。ありがとう」
ダイチはユウに向かって深々と辞儀をした。
ほかのみんなも、自分のぬいの衣装を完成させたら協力することを約束して、ふたたび時計との追いかけっこが始まった。
*
みんな昼食をほとんど食べず作業にかかりきりだったので、夕食時の食堂は明るい雰囲気に満ちていた。普段は小食のミツキも、カツカレーとサラダの夕飯をおかわりした。
午後五時の作業終了時、ダイチの「ユウぬい」はなんとか形になっていた。ユウによるぐし縫いで繋げられた素体はステッチが目立っていたけれど、ダイチは「かえって味があっていい」と笑った。
みんなも自身の制作したぬいに、友人がこの数日間にまとっていた服と似た衣装を着させて、完成とした。
それぞれのぬいにそれぞれの色が出ていて、完成度で言えば似たりよったりで、結果がどうなるかは誰にもわからなかった。
夕食後に、視聴者投票の結果が発表された。
前回から投票の総数は一.五倍の約四千五百票になったらしい。久しぶりに顔を合わせたノブナガは、上機嫌に見えた。
「今回の脱落者は——ダイチ」
ノブナガが名前を呼んだとき、ダイチは落ち着きはらっていた。まるで、名前を呼ばれることがあらかじめわかっていたようだった。
彼は食堂を見回して、「みんな、ありがとう」と微笑んだあと、ノブナガを強い視線で射抜いた。
それは、睨むというよりも、言葉なしに問いただすような視線だった。
明日、ダイチは帰ってしまう。
ミツキは、結果発表後も、食堂でみんなと長いこと話していた。このオーディションのことよりも、もっと取り留めのない話を。
やがてミツキはさみしさを覚えながら、風呂に入って部屋に戻った。
先に入浴を終えていたユウが、板間に座って待っていた。
まだ少し、身体が緊張した。無意識に距離を取りながら、洗面用具を片付ける。
ユウはこちらをじっと見ている。
「……ごめん。今日、『ソウタぬい』に手を付けられなかった」
ユウが口を開いた。ミツキはハッとした。今朝、ユウに言ったことを思い出す――「今日の作業でおまえのぬいをもうちょっとマシにしろよ」。
ただの捨て台詞のようなもので、ミツキは言ったことをすっかり忘れていた。
けれど、ユウは覚えていたんだ。胸がギュッとなった。
「……それは、ダイチさんを手伝ったからでしょ。いいよ、別に……」
ミツキはつぶやくように言った。
「ごめん」
ユウがもう一度、謝った。今度は、昨日の夜にしたこと自体を謝っているみたいだった。まだ許す気にはなれなくて、ミツキは気づかない振りをした。
「『ソウタロボ』も、じゅうぶんかわいいし……いいよ」
「ソウタロボ」という単語は、実際に口にすると、ちょっと笑えた。
ふう、と息を吐いて、ミツキはユウのほうを振り向いた。
「今日、ダイチさんのことを手伝ったの、すごくいいなって思いました。……ユウさんは意地悪なときもあるけど、やっぱやさしい人なんだなって、安心した」
「……」
ユウは真面目な顔をして、なにも言わずにじっと黙っていた。それから、ゆっくりと、噛みしめるように言った。
「昨日は、怖い思いをさせて、本当にごめん」
なんだか肩の力が抜けた。ミツキは、もう一度、ふうと息を吐いた。
「……いいよ。よくないけど、いいよ」
ミツキは、ユウのすぐそばを通って、二段ベッドの下段にもぐりこんだ。
その背に、ユウが言った。
「あのさ。俺がダイチを手伝おうと思ったのは、おまえが他の人にやさしくするところを見て、いいなって思ったからだよ」
ミツキはハッとしてユウの目を見た。ユウは照れくさそうに微笑んだ。
「……おやすみ」
ミツキはなにを言えばいいのかわからずに、それだけを返した。
笑顔で挨拶をできた、気がした。
【配信コメント】
痴話喧嘩か〜
↑カプ厨やめて
ダイチの声ビビった
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ソウタドンマイ
ユウ急にどうした
それよりミツキに謝れよ
〈コメントは削除されました〉
みんなのぬいかわいい

