合宿所の大浴場は、廃校を宿泊施設に転用するにあたり増設されたようだ。
真新しく綺麗だが、大浴場と呼ぶには小さな作りで、浴槽は成人男性ふたりがようやく並んで入れるぐらい。それでも洗い場には鏡と蛇口が三つ並んでいて、脱衣所にはロッカーもあり、複数人で利用することを想定して作られたのだとわかる。
ミツキとユウは、出入口の引き戸脇にある札を「使用可」の面から「使用中」の面にひっくり返すと、なかに入った。
合宿二日目の夜だった。
六人での合唱は、なんとか形になった。
今日の夕方、体育館の舞台に立ち、カメラの前で完成形を披露したとき、もっとも粗が目立ったのはバスパートのダイチとノブナガだった。パート練習から合流したふたりは、目も合わさないほど険悪な雰囲気だったらしい――どうやら互いに主導権を譲らず、最終的にはパート練習なのに個別で練習を進めていたようだ。
ミツキが「体調不良」を理由に一日目を途中で抜け、ユウも介抱すると言って姿を消したわりに、バリトンパートの仕上がりは悪くなかった。ユウが意外な歌唱力を発揮し、二日目の昼に復帰したミツキの練習不足を補う形になったからだ。
夕食後の食堂で、第一回の投票結果が明らかにされた。
総投票数は約三千票。
すごい数だとミツキは思ったが、サバイバルオーディション番組にも詳しいだろうルイは、人気「サバ番」の一万分の一程度の投票数にあからさまにがっかりしていた。普段から無表情のノブナガも淡々と数字を伝えていたが、どことなく気落ちしているように見えた。
いよいよ得票数のランキングを伝える段になって、ノブナガはしばらく沈黙した。
「……このオーディションでは、各々の得票数は伝えず、脱落者のみを発表する」
参加者のあいだに動揺が走った。真っ先に「聞いてないけど?」と刺々しい声を出したのはダイチだった。
「そういう特殊なルールは、事前に参加者へ周知しておくべきじゃないかな」
「得票数に心乱されず、自分らしさを存分に発揮してもらうためだ」
これで話は終わりとばかりに切り捨てて、ノブナガは手元の紙片――各自の得票数をまとめたものだろう――を開いた。
「ほう」と息をつく。
「よかったな。第一回の脱落者は、僕だ」
――先に湯船に浸かったミツキは、洗い場で身体を洗っているユウに向かってというよりは、ひとりごとのつもりでつぶやいた。
「結局、明日も同じ状況かぁ……」
ユウが、ちらりとミツキのほうを見て、また前に視線を戻した。
「……ノブナガのこと?」
雑談に乗ってくれたことが意外で、ミツキは思わず声を弾ませ「そうそう!」と返した。
「他の脱落者は船で帰されるのに、『実行委員長だから、脱落してもここに残る』っていうのは……俺たちは頑張ったのに、なんか不公平じゃないですか?」
「よかっただろ」
ユウがぶっきらぼうに言った。
「あいつがいなきゃ、きっと真っ先に落ちてたのはおまえだ」
「……」
ミツキは黙った。たしかに、ユウがカバーしてくれなければ、もっともお粗末な仕上がりだったのは自分だろうけれど。
胸の奥にもやもやが広がっていく。ユウはそれ以上なにも言わないまま、身体を流して、湯船に入ってきた。
ミツキは自然と肩を縮こまらせ、湯船の端に寄ってしまう。
ユウが、じっとこちらを見つめている。その視線を感じる。
「……何度考えても信じられないんだけど、あれ、夢じゃないんだよな」
ミツキは顔をうつむけたまま、こくりとうなずいた。
一日目の午後。ぬいになってしまったミツキを、ユウが部屋まで運んでくれた。
他の参加者やスタッフに「暑い体育館で練習をしていたら、軽い熱中症になったようだ」と嘘の説明をしてくれた。
同室のソウタにバレないように、ベッドにミツキを隠し、その上から人型にバスタオルを詰め、二段ベッドの仕切りカーテンを閉めてくれた。
それ以外にも、近づこうとするスタッフを足止めしたりと、いろいろ手を回してくれたことだろう。
「どうやって人間に戻ったの」
「……目が覚めて、気づいたら戻ってました」
なのに、翌日の今日、礼を言ってもユウはそっけなくて、ほとんど会話をしてくれなかった。さっきだって冷たい態度を取って。
「よくああなんの?」
なのに、気にかけているような素振りを見せる。こうやって一緒に風呂に入っているのだって、「カメラのないところで話がしたい」とユウが言ったからだ。
「……いや、昨日が二回目。一昨日、初めてぬいになりました」
「へえ」
ユウの声が、興味をそそられたように少し大きくなった。
「なにか思い当たるきっかけは……」
「だから! なんもわかんないんですって! 変わったことと言ったら、話したでしょ、推しのVがチャンネルを消したぐらいで……」
ミツキは思わず声を荒げた。顔をあげて、ユウを見る。彼は濡れた前髪を掻きあげていて、いつもは見えづらい両目と目が合った。
陰のない、明るい目だ。普段の話し方や振る舞いからは想像もつかないくらい。揺らがぬ瞳で、まっすぐこちらを見ている。
ミツキは問いを飲み込んだ――まさか、ユウさんが俺の推しですか?
すぐにぬいになってしまったので、正直、混乱してきちんとユウの歌声を聞いていない。合唱のときも自分のことで手いっぱいで、彼の歌声まで気が回らなかった。
ユウの歌ってみせた曲は、ミツキの特に好きな「歌ってみた」動画と同じものだったけれど、それも推しのアップしたいくつもの動画のひとつに過ぎない。かなり流行った曲だし、偶然被ったと考えたほうがよさそうな気がした。
けれど、あのとき感じた胸の高鳴りは……。
「初めてぬいになってから、二日連続でなってんのか。そしたら今日もなるのかな」
ユウは、こちらの乱れる心など知らずに、平然と尋ねる。ミツキは顔を両手で覆って、溜息をついた。
「だから、わかんないって……。あの。悪いんですけど、ただ面白がりたいだけならやめてくれません? 俺、結構参ってるから……」
沈黙が落ちた。その沈黙は長いこと続いたので、ミツキは恐る恐る、指のあいだから顔を覗かせた。
ユウはこちらを見ていた。なにかを言いよどむように、口を薄く開いて閉じる。それからもう一度、開いた。
「協力してやろうか」
「え?」
「おまえの秘密を知ってるのって、俺だけだろ? 合宿のあいだ、ごまかすのを協力してやるよ。まあ、俺が脱落するまでだけど」
「それって、結構すぐじゃないですか?」
思わず本音が漏れた。あのメンバーのなかで、ユウが長く残れるとは思えない。
ユウは顔をしかめた。
「は? おまえよりは後になるはずだから、いいだろ。俺、歌上手いし、ピアノも弾けるし」
「……」
ミツキは両手を湯船のなかに戻した。
目が合ったユウは、微笑んだ。それは自然な笑みだった。ミツキの胸のわだかまりが溶けていく。
……やっぱり、いい人なのかもしれない。
「だから、俺の好きに面白がらせてよ」
ユウが片方の口角だけをニッと引き上げて言った。
前言撤回。
*
合宿三日目の朝。
ミツキは、ぬいになることなく目を覚ました。二段ベッドの上の段から、ユウが顔を覗かせて「無事だったみたいじゃん」と言う。
「うん……おはようございます」
昨晩、ユウはソウタに頼んで部屋を交換してもらっていた。
ソウタは快諾した。ユウと同室だったのはルイで、合唱で同じパートだったソウタとルイは、それもあってずいぶん仲良くなったようだった。
「昨日はぬいにならなかったってことは、一日一回必ずってわけじゃないのか。なにか変わるきっかけがあるんだな。そんでそれは、毎日必ずやるルーティンとは違う、と……」
ユウは思案げにつぶやいている。
「面白がってる……」
ミツキが溜息をつくと、ユウは「協力する代わりに面白がっていいって約束だろ」と笑った。その笑顔にはやっぱり邪気がなくて、なんだか憎めない。
「いいけど、外に出たらこの件は内緒ですよ」
「わかってるって」
鏡を見て最低限の身だしなみチェックをして、部屋を出た。
手洗い場でソウタと会う。「おはよう」と挨拶を交わしたあと、全員無言で顔を洗って歯を磨く。けれど、ソウタはなんだかニヤニヤしている。
つられて笑顔を浮かべながら、ミツキは尋ねた。
「なんかいいことあったんですか?」
「んー? へへへ……」
ソウタはからかうように、ユウを肘で小突く真似をする。けれどユウがいぶかしげにしているのを見て、「あっ、そっか」と声をあげた。
「きみら、まだ昇降口のほう行ってない?」
急いで身支度を終え、合宿所の正面玄関である昇降口へ向かった。ソウタも後からついてきた。
「これは……」
「ちょっと前、ジョギングから帰ってきたルイくんが教えてくれたんだけどさ」
そこに貼り出されていたのは、動画配信サイトのコメント欄をプリントアウトしたものだった。
「ミツキ」「ぬい」という単語が目に入って、心臓が止まりそうになる。けれどソウタは、はしゃいだ声で続けた。
「ユウくんが、ミツキくんのファンだったなんてね〜! 部屋を交換してって頼まれたのも納得だな〜!」
「……チッ」
ユウは苛立たしげに舌打ちしたが、ソウタは「照れないでよ」と気にしていないようだ。
ミツキは、印刷されたコメントをまじまじと見つめた。
『ユウ、ひどいこと言ってもミツキのぬい持ってるし大好きでウケる』
『ミツキって無名インフルエンサーでしょ? なんでぬいがあるの?』
『まさかユウお手製?』
『無名インフルエンサーって、もはや一般人じゃんw』
『もう無名じゃないだろ。フォロワー数爆増してる』
どうやら、ユウがぬい化したミツキを運ぶ姿が、どこかのタイミングでカメラに写りこんでいたらしい。当たり前だけれど、誰もそのぬいぐるみこそがミツキだとは思っていないようで、ホッと胸を撫で下ろす。
この現象が都市伝説にあった呪いだかなんだかわからないが、意図しない形で世界一の有名人になるのも、謎の研究施設に閉じ込められてモルモットにされるのも、できれば避けたかった――せめて、この合宿中は。
それ以外の、これまでなら落ち込んでいただろう手厳しいコメントは、今はまったく気にならなかった。正直、それどころではないのもあるが……。
「で、噂のミツキぬいってどんなの? 俺も見てみたい!」
ソウタが無邪気に尋ねる。ミツキとユウは顔を見合せた。ミツキのほうは、秘密にしておいてくれと祈るような気持ちで。
ユウはうんざりした表情を浮かべていた。奇妙な状況に好奇心をそそられて協力すると申し出たが、自分のような「無名」の「陰キャ」のファンだと全世界に勘違いされるのは代償が大きすぎるのだろう。
ふっと諦めがミツキの胸をよぎる。視線を落とす。
「……今は見せられないけど、こいつによく似たかわいい顔してるよ」
ユウの答えにソウタが「きゃー!」と黄色い声をあげ、ミツキは驚いてユウの顔を見た。
ユウは、ほんの少し得意そうに口角を緩めてみせた。
なんだか胸がざわざわとした。それは、悪い感じではなかった。
*
三人が食堂に着くと、すでにルイとダイチが朝食をとっていた。ふたりは、あいだにひとつ空いた席を挟んで、けれどぽつぽつと話をしているようだった。
「戦略性も実力のうちじゃない?」
「あんなのはチートだろ」
トレイを手に持ち、セルフサービスの食事を取ってまわり、ふたりのそばへ行く。
ソウタが「ルイくん!」と声をかけると、ルイは振り向いて笑顔を浮かべた。しかし、ミツキやユウの存在に気がつくと、顔が強ばる。
「おはようございます」
ミツキが挨拶をすると、しばらく沈黙があって、けれどルイは沈黙に耐えかねたように「……おはよう」と返した。
気まずい雰囲気に気づいていないのか、わざと無視しているのか、ソウタが「俺、横すーわろ!」とルイの隣に腰を下ろす。
三人が横並びに座っているので、ミツキは少しためらって、それでもルイの向かいを選んだ。ユウもミツキの隣、ソウタの向かいに腰を下ろした。
ミツキは小さく「いただきます」を言って、白米を鮭の切り身と一緒に食べはじめる。
だけど、なんだか味がしない。ごくりと生唾を一緒に飲み込んだ。
「……ルイさんの名前の漢字って、ちょっとめずらしいですよね」
「そんなことないだろ」
話題を探して話しかけたが、ルイはにべもない。隣のソウタがニコニコと教えてくれる。
「お母さんが好きだった漫画のキャラクターから取ったんだって! 王子様キャラらしい、全然似てない」
「おい」
「なんだよ、俺には教えてくれたじゃん〜」
ルイが整った眉をひそめて、不機嫌そうに箸を置いた。
「てか、なんで今さら名前の話?」
「えーっと……」
言えなかった。俺たちに怒っているようだけれど、挨拶を返してくれるのなら、なんでもいいから会話をして空気を和ませたかったとか。そういえばプリントアウトされたコメントの中に、参加者の名前が漢字で書かれたものがあって、ずっとカタカナで見ていたから不思議な感じがしたとか。……そういうことは、そもそもおそらくそのコメントを見て苛立っているだろうルイには。
ミツキが口ごもってうつむくと、ルイは「あー、クソ」とつぶやいて頭を掻いた。
「裏でコソコソすんのは性に合わないから言うわ。おまえら、実力で勝負しろよ」
「……」
ミツキにはルイの言っていることがよくわからなかった。戸惑ってなにも応えずにいると、ルイはますます苛立ったようだ。
「だから、つまんねえ小細工で勝とうとすんなって言ってんだよ。おまえみたいな一般人のぬいがあるのもおかしいし、おまえがそれを持ってんのもおかしいだろ。カプ厨に媚びて票を取ろうとしてんなら、それはフェアじゃない」
ミツキはハッとした。
どうやら、「ユウはミツキのファン」という誤解を通り越して、「票目当てで仲のいいふりをしている」と思われているらしい。
「媚びてなんてない……」
「じゃあ、なんだよ」
反論をしたかったけれど、やはり言葉が出なかった。本当のことを話すわけにはいかない。話したところで信じてもらえるかどうかもわからない。
「俺は、そういう小細工を弄するのも実力のうちだと考えてるよ」
ダイチがフォローするように、微笑を浮かべて言った。しかし問題の解決にはならない。
そちらにイライラと顔を向けて口を開いたルイの肩に、ソウタがそっと手を置く。
「ねえ、ルイくん」
ルイは口をつぐんで、ソウタを振り返った。ソウタは人好きのする笑みを浮かべて続けた。
「これがさ、ルイくんのこれまで参加してたような歌やダンスの実力を見るオーディションだったら、俺もルイくんに賛成してたと思う。でも、今回はどっちかといえばダイチさん寄りの意見かな」
ダイチが微笑を消して、驚いた顔でソウタを見た。ミツキも、ソウタはルイのフォローをするとばかり思っていたから意外だった。
「このオーディションって、課題の結果だけを見るわけじゃないんだよね。だったら候補者を応援する理由って、色々あっていいと思うんだ。顔がいいとか、頭がいいとかだけじゃなくて。誰かをめちゃくちゃ好きで、それを見てる人まで幸せな気持ちになるとかでもいいじゃん?」
ソウタは、隣のルイから正面のユウに視線を移す。
「もちろん、俺もできればユウくんからミツキくんへの気持ちが本物であってほしいけど」
ルイが小さな声で「そうだよ」とつぶやいた。
「嘘かもしんないから、余計にムカつくんだよ」
一同の視線がユウに集まる。どうかやめてくれ、とミツキは願った。
一度ならまだしも、何度も俺のファンの振りをさせられるのは、さすがにユウがかわいそうだ。さっきは調子を合わせてくれただけに、余計にいたたまれない。
ユウは、伏し目がちに食事を続けながら言った。
「……俺は、嘘はつかない」
ミツキは思わずつぶやく。
「それって――」
そのとき、食堂のスピーカーからチャイムが鳴った。始業を告げる鐘の音。続いて聞こえてきたのは、ノブナガの声だった。
「おはよう、参加者諸君。朝食が済み次第、家庭科室に集合してくれ」
【配信コメント】
ユウがミツキぬい持ってるの何
ユウミツ始まった
ミツユウだろ
左右論争やめろw
一般人受けは草
ソウタ先生ありがとう
カプ厨に理論武装を与えるな
は??????
おい!チャイム!
真新しく綺麗だが、大浴場と呼ぶには小さな作りで、浴槽は成人男性ふたりがようやく並んで入れるぐらい。それでも洗い場には鏡と蛇口が三つ並んでいて、脱衣所にはロッカーもあり、複数人で利用することを想定して作られたのだとわかる。
ミツキとユウは、出入口の引き戸脇にある札を「使用可」の面から「使用中」の面にひっくり返すと、なかに入った。
合宿二日目の夜だった。
六人での合唱は、なんとか形になった。
今日の夕方、体育館の舞台に立ち、カメラの前で完成形を披露したとき、もっとも粗が目立ったのはバスパートのダイチとノブナガだった。パート練習から合流したふたりは、目も合わさないほど険悪な雰囲気だったらしい――どうやら互いに主導権を譲らず、最終的にはパート練習なのに個別で練習を進めていたようだ。
ミツキが「体調不良」を理由に一日目を途中で抜け、ユウも介抱すると言って姿を消したわりに、バリトンパートの仕上がりは悪くなかった。ユウが意外な歌唱力を発揮し、二日目の昼に復帰したミツキの練習不足を補う形になったからだ。
夕食後の食堂で、第一回の投票結果が明らかにされた。
総投票数は約三千票。
すごい数だとミツキは思ったが、サバイバルオーディション番組にも詳しいだろうルイは、人気「サバ番」の一万分の一程度の投票数にあからさまにがっかりしていた。普段から無表情のノブナガも淡々と数字を伝えていたが、どことなく気落ちしているように見えた。
いよいよ得票数のランキングを伝える段になって、ノブナガはしばらく沈黙した。
「……このオーディションでは、各々の得票数は伝えず、脱落者のみを発表する」
参加者のあいだに動揺が走った。真っ先に「聞いてないけど?」と刺々しい声を出したのはダイチだった。
「そういう特殊なルールは、事前に参加者へ周知しておくべきじゃないかな」
「得票数に心乱されず、自分らしさを存分に発揮してもらうためだ」
これで話は終わりとばかりに切り捨てて、ノブナガは手元の紙片――各自の得票数をまとめたものだろう――を開いた。
「ほう」と息をつく。
「よかったな。第一回の脱落者は、僕だ」
――先に湯船に浸かったミツキは、洗い場で身体を洗っているユウに向かってというよりは、ひとりごとのつもりでつぶやいた。
「結局、明日も同じ状況かぁ……」
ユウが、ちらりとミツキのほうを見て、また前に視線を戻した。
「……ノブナガのこと?」
雑談に乗ってくれたことが意外で、ミツキは思わず声を弾ませ「そうそう!」と返した。
「他の脱落者は船で帰されるのに、『実行委員長だから、脱落してもここに残る』っていうのは……俺たちは頑張ったのに、なんか不公平じゃないですか?」
「よかっただろ」
ユウがぶっきらぼうに言った。
「あいつがいなきゃ、きっと真っ先に落ちてたのはおまえだ」
「……」
ミツキは黙った。たしかに、ユウがカバーしてくれなければ、もっともお粗末な仕上がりだったのは自分だろうけれど。
胸の奥にもやもやが広がっていく。ユウはそれ以上なにも言わないまま、身体を流して、湯船に入ってきた。
ミツキは自然と肩を縮こまらせ、湯船の端に寄ってしまう。
ユウが、じっとこちらを見つめている。その視線を感じる。
「……何度考えても信じられないんだけど、あれ、夢じゃないんだよな」
ミツキは顔をうつむけたまま、こくりとうなずいた。
一日目の午後。ぬいになってしまったミツキを、ユウが部屋まで運んでくれた。
他の参加者やスタッフに「暑い体育館で練習をしていたら、軽い熱中症になったようだ」と嘘の説明をしてくれた。
同室のソウタにバレないように、ベッドにミツキを隠し、その上から人型にバスタオルを詰め、二段ベッドの仕切りカーテンを閉めてくれた。
それ以外にも、近づこうとするスタッフを足止めしたりと、いろいろ手を回してくれたことだろう。
「どうやって人間に戻ったの」
「……目が覚めて、気づいたら戻ってました」
なのに、翌日の今日、礼を言ってもユウはそっけなくて、ほとんど会話をしてくれなかった。さっきだって冷たい態度を取って。
「よくああなんの?」
なのに、気にかけているような素振りを見せる。こうやって一緒に風呂に入っているのだって、「カメラのないところで話がしたい」とユウが言ったからだ。
「……いや、昨日が二回目。一昨日、初めてぬいになりました」
「へえ」
ユウの声が、興味をそそられたように少し大きくなった。
「なにか思い当たるきっかけは……」
「だから! なんもわかんないんですって! 変わったことと言ったら、話したでしょ、推しのVがチャンネルを消したぐらいで……」
ミツキは思わず声を荒げた。顔をあげて、ユウを見る。彼は濡れた前髪を掻きあげていて、いつもは見えづらい両目と目が合った。
陰のない、明るい目だ。普段の話し方や振る舞いからは想像もつかないくらい。揺らがぬ瞳で、まっすぐこちらを見ている。
ミツキは問いを飲み込んだ――まさか、ユウさんが俺の推しですか?
すぐにぬいになってしまったので、正直、混乱してきちんとユウの歌声を聞いていない。合唱のときも自分のことで手いっぱいで、彼の歌声まで気が回らなかった。
ユウの歌ってみせた曲は、ミツキの特に好きな「歌ってみた」動画と同じものだったけれど、それも推しのアップしたいくつもの動画のひとつに過ぎない。かなり流行った曲だし、偶然被ったと考えたほうがよさそうな気がした。
けれど、あのとき感じた胸の高鳴りは……。
「初めてぬいになってから、二日連続でなってんのか。そしたら今日もなるのかな」
ユウは、こちらの乱れる心など知らずに、平然と尋ねる。ミツキは顔を両手で覆って、溜息をついた。
「だから、わかんないって……。あの。悪いんですけど、ただ面白がりたいだけならやめてくれません? 俺、結構参ってるから……」
沈黙が落ちた。その沈黙は長いこと続いたので、ミツキは恐る恐る、指のあいだから顔を覗かせた。
ユウはこちらを見ていた。なにかを言いよどむように、口を薄く開いて閉じる。それからもう一度、開いた。
「協力してやろうか」
「え?」
「おまえの秘密を知ってるのって、俺だけだろ? 合宿のあいだ、ごまかすのを協力してやるよ。まあ、俺が脱落するまでだけど」
「それって、結構すぐじゃないですか?」
思わず本音が漏れた。あのメンバーのなかで、ユウが長く残れるとは思えない。
ユウは顔をしかめた。
「は? おまえよりは後になるはずだから、いいだろ。俺、歌上手いし、ピアノも弾けるし」
「……」
ミツキは両手を湯船のなかに戻した。
目が合ったユウは、微笑んだ。それは自然な笑みだった。ミツキの胸のわだかまりが溶けていく。
……やっぱり、いい人なのかもしれない。
「だから、俺の好きに面白がらせてよ」
ユウが片方の口角だけをニッと引き上げて言った。
前言撤回。
*
合宿三日目の朝。
ミツキは、ぬいになることなく目を覚ました。二段ベッドの上の段から、ユウが顔を覗かせて「無事だったみたいじゃん」と言う。
「うん……おはようございます」
昨晩、ユウはソウタに頼んで部屋を交換してもらっていた。
ソウタは快諾した。ユウと同室だったのはルイで、合唱で同じパートだったソウタとルイは、それもあってずいぶん仲良くなったようだった。
「昨日はぬいにならなかったってことは、一日一回必ずってわけじゃないのか。なにか変わるきっかけがあるんだな。そんでそれは、毎日必ずやるルーティンとは違う、と……」
ユウは思案げにつぶやいている。
「面白がってる……」
ミツキが溜息をつくと、ユウは「協力する代わりに面白がっていいって約束だろ」と笑った。その笑顔にはやっぱり邪気がなくて、なんだか憎めない。
「いいけど、外に出たらこの件は内緒ですよ」
「わかってるって」
鏡を見て最低限の身だしなみチェックをして、部屋を出た。
手洗い場でソウタと会う。「おはよう」と挨拶を交わしたあと、全員無言で顔を洗って歯を磨く。けれど、ソウタはなんだかニヤニヤしている。
つられて笑顔を浮かべながら、ミツキは尋ねた。
「なんかいいことあったんですか?」
「んー? へへへ……」
ソウタはからかうように、ユウを肘で小突く真似をする。けれどユウがいぶかしげにしているのを見て、「あっ、そっか」と声をあげた。
「きみら、まだ昇降口のほう行ってない?」
急いで身支度を終え、合宿所の正面玄関である昇降口へ向かった。ソウタも後からついてきた。
「これは……」
「ちょっと前、ジョギングから帰ってきたルイくんが教えてくれたんだけどさ」
そこに貼り出されていたのは、動画配信サイトのコメント欄をプリントアウトしたものだった。
「ミツキ」「ぬい」という単語が目に入って、心臓が止まりそうになる。けれどソウタは、はしゃいだ声で続けた。
「ユウくんが、ミツキくんのファンだったなんてね〜! 部屋を交換してって頼まれたのも納得だな〜!」
「……チッ」
ユウは苛立たしげに舌打ちしたが、ソウタは「照れないでよ」と気にしていないようだ。
ミツキは、印刷されたコメントをまじまじと見つめた。
『ユウ、ひどいこと言ってもミツキのぬい持ってるし大好きでウケる』
『ミツキって無名インフルエンサーでしょ? なんでぬいがあるの?』
『まさかユウお手製?』
『無名インフルエンサーって、もはや一般人じゃんw』
『もう無名じゃないだろ。フォロワー数爆増してる』
どうやら、ユウがぬい化したミツキを運ぶ姿が、どこかのタイミングでカメラに写りこんでいたらしい。当たり前だけれど、誰もそのぬいぐるみこそがミツキだとは思っていないようで、ホッと胸を撫で下ろす。
この現象が都市伝説にあった呪いだかなんだかわからないが、意図しない形で世界一の有名人になるのも、謎の研究施設に閉じ込められてモルモットにされるのも、できれば避けたかった――せめて、この合宿中は。
それ以外の、これまでなら落ち込んでいただろう手厳しいコメントは、今はまったく気にならなかった。正直、それどころではないのもあるが……。
「で、噂のミツキぬいってどんなの? 俺も見てみたい!」
ソウタが無邪気に尋ねる。ミツキとユウは顔を見合せた。ミツキのほうは、秘密にしておいてくれと祈るような気持ちで。
ユウはうんざりした表情を浮かべていた。奇妙な状況に好奇心をそそられて協力すると申し出たが、自分のような「無名」の「陰キャ」のファンだと全世界に勘違いされるのは代償が大きすぎるのだろう。
ふっと諦めがミツキの胸をよぎる。視線を落とす。
「……今は見せられないけど、こいつによく似たかわいい顔してるよ」
ユウの答えにソウタが「きゃー!」と黄色い声をあげ、ミツキは驚いてユウの顔を見た。
ユウは、ほんの少し得意そうに口角を緩めてみせた。
なんだか胸がざわざわとした。それは、悪い感じではなかった。
*
三人が食堂に着くと、すでにルイとダイチが朝食をとっていた。ふたりは、あいだにひとつ空いた席を挟んで、けれどぽつぽつと話をしているようだった。
「戦略性も実力のうちじゃない?」
「あんなのはチートだろ」
トレイを手に持ち、セルフサービスの食事を取ってまわり、ふたりのそばへ行く。
ソウタが「ルイくん!」と声をかけると、ルイは振り向いて笑顔を浮かべた。しかし、ミツキやユウの存在に気がつくと、顔が強ばる。
「おはようございます」
ミツキが挨拶をすると、しばらく沈黙があって、けれどルイは沈黙に耐えかねたように「……おはよう」と返した。
気まずい雰囲気に気づいていないのか、わざと無視しているのか、ソウタが「俺、横すーわろ!」とルイの隣に腰を下ろす。
三人が横並びに座っているので、ミツキは少しためらって、それでもルイの向かいを選んだ。ユウもミツキの隣、ソウタの向かいに腰を下ろした。
ミツキは小さく「いただきます」を言って、白米を鮭の切り身と一緒に食べはじめる。
だけど、なんだか味がしない。ごくりと生唾を一緒に飲み込んだ。
「……ルイさんの名前の漢字って、ちょっとめずらしいですよね」
「そんなことないだろ」
話題を探して話しかけたが、ルイはにべもない。隣のソウタがニコニコと教えてくれる。
「お母さんが好きだった漫画のキャラクターから取ったんだって! 王子様キャラらしい、全然似てない」
「おい」
「なんだよ、俺には教えてくれたじゃん〜」
ルイが整った眉をひそめて、不機嫌そうに箸を置いた。
「てか、なんで今さら名前の話?」
「えーっと……」
言えなかった。俺たちに怒っているようだけれど、挨拶を返してくれるのなら、なんでもいいから会話をして空気を和ませたかったとか。そういえばプリントアウトされたコメントの中に、参加者の名前が漢字で書かれたものがあって、ずっとカタカナで見ていたから不思議な感じがしたとか。……そういうことは、そもそもおそらくそのコメントを見て苛立っているだろうルイには。
ミツキが口ごもってうつむくと、ルイは「あー、クソ」とつぶやいて頭を掻いた。
「裏でコソコソすんのは性に合わないから言うわ。おまえら、実力で勝負しろよ」
「……」
ミツキにはルイの言っていることがよくわからなかった。戸惑ってなにも応えずにいると、ルイはますます苛立ったようだ。
「だから、つまんねえ小細工で勝とうとすんなって言ってんだよ。おまえみたいな一般人のぬいがあるのもおかしいし、おまえがそれを持ってんのもおかしいだろ。カプ厨に媚びて票を取ろうとしてんなら、それはフェアじゃない」
ミツキはハッとした。
どうやら、「ユウはミツキのファン」という誤解を通り越して、「票目当てで仲のいいふりをしている」と思われているらしい。
「媚びてなんてない……」
「じゃあ、なんだよ」
反論をしたかったけれど、やはり言葉が出なかった。本当のことを話すわけにはいかない。話したところで信じてもらえるかどうかもわからない。
「俺は、そういう小細工を弄するのも実力のうちだと考えてるよ」
ダイチがフォローするように、微笑を浮かべて言った。しかし問題の解決にはならない。
そちらにイライラと顔を向けて口を開いたルイの肩に、ソウタがそっと手を置く。
「ねえ、ルイくん」
ルイは口をつぐんで、ソウタを振り返った。ソウタは人好きのする笑みを浮かべて続けた。
「これがさ、ルイくんのこれまで参加してたような歌やダンスの実力を見るオーディションだったら、俺もルイくんに賛成してたと思う。でも、今回はどっちかといえばダイチさん寄りの意見かな」
ダイチが微笑を消して、驚いた顔でソウタを見た。ミツキも、ソウタはルイのフォローをするとばかり思っていたから意外だった。
「このオーディションって、課題の結果だけを見るわけじゃないんだよね。だったら候補者を応援する理由って、色々あっていいと思うんだ。顔がいいとか、頭がいいとかだけじゃなくて。誰かをめちゃくちゃ好きで、それを見てる人まで幸せな気持ちになるとかでもいいじゃん?」
ソウタは、隣のルイから正面のユウに視線を移す。
「もちろん、俺もできればユウくんからミツキくんへの気持ちが本物であってほしいけど」
ルイが小さな声で「そうだよ」とつぶやいた。
「嘘かもしんないから、余計にムカつくんだよ」
一同の視線がユウに集まる。どうかやめてくれ、とミツキは願った。
一度ならまだしも、何度も俺のファンの振りをさせられるのは、さすがにユウがかわいそうだ。さっきは調子を合わせてくれただけに、余計にいたたまれない。
ユウは、伏し目がちに食事を続けながら言った。
「……俺は、嘘はつかない」
ミツキは思わずつぶやく。
「それって――」
そのとき、食堂のスピーカーからチャイムが鳴った。始業を告げる鐘の音。続いて聞こえてきたのは、ノブナガの声だった。
「おはよう、参加者諸君。朝食が済み次第、家庭科室に集合してくれ」
【配信コメント】
ユウがミツキぬい持ってるの何
ユウミツ始まった
ミツユウだろ
左右論争やめろw
一般人受けは草
ソウタ先生ありがとう
カプ厨に理論武装を与えるな
は??????
おい!チャイム!

