ぬい変身 ~高校生サバイバルオーディションに参加したら、消えた推しVと再会した件~

 フォグホーンの音が響いた。
 ミツキは泳ぎだした。体力を消耗しないように、ゆったりとした平泳ぎを選ぶ。ところどころに鮮やかな色のブイが浮かべられていて、息継ぎの合間にそれを探しては、目印にして進んでいく。
 ボートの上ではさほど遠くないと感じた岸も、海から眺めるとはるか遠くに思える。その隔たりに絶望しそうになるけれど、諦めずに手を、足を動かせば、少しずつ少しずつ目指す場所へ近づいていく。
 ふと、頑張る自分の姿を誰かが応援してくれているんだろうなと思った。
 今、画面に流れるコメントは見られないけれど、きっと、今この瞬間にも、画面の向こう側で誰かが「がんばって」と書き込んでいる。書き込まなくたって、移動中の電車で、バイトの休憩室で、外へ出る気になれない憂鬱なベッドのなかで、「がんばって」と祈っている。
 背後に気配を感じた。後ろを確認すると、ルイが高速のクロールで近づいてくる。心に焦りが生まれるけれど、それでペースを崩すほうが危険だ。
 ミツキは前を向くと、鮮やかなブイを目指して、ひたすら水を掻き、蹴ることに意識を集中させた。
 やがて、すぐそばを水音と水しぶきが通り過ぎていく――ルイだ。抜かれたけれど、ゴールを目指して泳ぐほかない。
 疲れ始めているのだろう、彼のフォームには乱れが見えた。挽回のチャンスはまだある。
 残り三分の一を過ぎたところで、ゴールの砂浜がはっきりと見えてきた。
 先回りしている制作スタッフたちが、ビーチパラソルを立て、ゴールテープの用意を進めている。ルイとの距離は縮まらないままだ。
 ……ユウは?
 ミツキは息継ぎの合間に、ユウの姿を探した。波間にぷかぷかと浮かぶ水泳帽が見えた。十数メートル先だろうか。ほとんど水しぶきも立てずに、疲れ切っているようだ。それでも前を向いてじりじりと進んでいる。
 遠くで声援と拍手が聞こえた。ルイが、遠浅の沖で立ち上がったようだ。彼に残されたのは、あと数十メートルの距離。
 と、ミツキの視界からユウの頭が消えた。代わりに腕が天へ伸びて、沈む。かろうじて見える手が宙を掻く。
 嫌な予感が胸を掠める。
 声は聞こえない。水しぶきもそれほど立たない。ただ、波をかぶりながら、ユウの手が宙を掻き、沈んでいく。
 「おい!」と少し離れた場所を泳ぎながら、アクションカメラを向けていた撮影スタッフが声をあげた。

「浮かぶんだ、東雲! 身体の力を抜いて浮かべ! 聞こえるか!?」

 溺れている。
 ミツキの身体からサッと血の気が引いた。
 ルイの到着に湧いた歓声を聞いて、もうすぐで泳ぎ切れると気が抜けたのかもしれない。それで、足を攣ったか、水を飲んでしまったか――。
 撮影スタッフがユウへ向かって泳ぎ始めた。しかし、手に持ったアクションカメラと波が邪魔をして、スピードが出ない。
 少し距離をおいて並走しているボートの上で、救助スタッフが異変を悟って動き出す。ルイのゴールに気を取られて、一瞬、気づくのが遅れてしまったようだ。
 ユウにいちばん近いのは、俺だ。俺が助けなきゃ。
 でも――。
 ミツキの身体が震えた。心の底に押し込めた恐怖が、ふたたび首をもたげる。
 足のつかない深い海。どんなに抵抗して藻掻いても、なにも伝わらない分厚い水の壁。足も手も出ず、声すら出せず、混乱のなかで苦しみながら沈んでいく――。
 その苦しみを、知っている。
 だけど。
 だからこそ。
 ミツキは泳法をクロールに替えた。波に乗って、撮影スタッフよりも早くユウに近づいていく。どうか無事でいてほしいと祈る。水を掻くごとに、祈りは強くなる。
 死なないで。俺のそばにいて。
 近づくミツキの存在に気づいたスタッフが叫ぶ。

 「こっちだ!」

 うなずき、大きく息を吸い込むと、少し潜る。バクバクと自分の心臓の音が耳にうるさい。けれどそれを無視して、目をこらす。
 ——垂直に沈んでいるユウを見つけた!
 脇の下に後ろから腕を通す。助かろうと反射的に藻掻き、なにかにしがみつこうとする身体を背後からきつく抱く。すると、身体から力が抜ける。
 とにかく顔を水から出させようと、自分の身体ごと背を反らす。浮力でユウの身体が横になった。ようやく顔が水面から浮き上がる。ミツキもユウの隣に顔を出す。
 ユウは、まだぐったりと目を閉じていた。焦りが大きくなる。けれど、ミツキは安心させるように声を張った。

「ユウ、ユウ! 見つけたから! 大丈夫だから!」

 しかし、ミツキの言葉にもユウは反応しない。救助スタッフが遅れてたどり着き、三人がかりでユウを抱えながら十数メートルを泳ぐと、遠浅の沖で足が付く。急いでユウを砂浜に引き上げた。
 ユウは、変わらずぐったりと浜に横たわっている。同じ高校生である救助スタッフが、青ざめた顔で言う。
 
「呼吸が確認できない。すぐに人工呼吸……」

 その言葉を耳にするやいなや、ミツキは水泳部時代に受けた救命講習の遠い記憶を呼び覚ました。ユウの鼻を摘まんで顎を上向けると、ためらわず唇を重ねる。
 数度、強く息を吹き込むと、ユウは咳き込んで水を吐いた。
 そうして、震える唇と瞼が開く。

「ミツキ……」

 彼の瞳に自分の姿が映っている。ミツキはドッと緊張が解けて、泣きそうになる。
 けれど堪えて、「意識が戻りました!」と、周囲のみんなに声をかけた。

 「……死ぬかと思った」
 
 しゃがれた声でユウが言って、ミツキは泣き笑いを浮かべた。

「ほんとだよ。無事でよかった」
「焦った。ここで死んだら、おまえの答え聞けないじゃん、って思って……」
「馬鹿……」

 命の危険に晒されても、まだそんなことを? 呆れたような、安心したような――うれしいような。

「なあ。今、教えてよ。俺の告白への答え」

 ユウがほかの人には聞こえないぐらいの小さな声でねだる。
 ミツキは「今?」と周囲を見回そうとして、やめた。
 ユウの身体は、おそらく恐怖のために震えていた。これぐらいの願いは、聞いてやりたい。
 ミツキはユウの耳元に唇を寄せて、ささやいた。
 答えはもう、とっくに決まっていた。

「俺も、ユウが……東雲優が、好きだよ」

*

 まぶしい光の射す体育館で、ルイが金色に輝くトロフィーを受け取る。
 その様子を、ミツキとユウは並んでパイプ椅子に腰かけ、眺めていた。ユウはまだ少し顔色が青白いが、明るい表情で拍手をしている。
 あのあと、合宿所に待機していた看護師が診察を行い、ユウを今すぐ救急搬送する必要はないと決めた。しかし当初予定していた昼の表彰式は、ユウの体調を考慮して午後遅くに延期。一同は特別にチャーターした船で、夜に本土へ戻ることになった。ユウは本土に戻ったあと、改めて医師の診察を受ける。

「このグランプリは、ここにいるユウとミツキ。それから、画面の向こうのソウタとダイチ。応援してくれた視聴者のみんなに捧げます」

 高校生アンバサダーオーディションは、最終課題のオープンウォータースイミングで、一着したルイがグランプリを獲得した。
 ルイはユウの溺れるアクシデントがあったのだから最終課題の順位は無効だと主張したけれど、そもそもルイはユウが溺れる前にゴールしていたのだからと、ユウとミツキは反対した。
 けれど、やっぱりルイはルイだ。彼の言葉を聞いて、ミツキはなんだかうれしくて泣きそうになった。というか、ちょっぴり泣いた。
 ユウがこちらを覗き込んで、「ふふ」と笑った。そういう素直なミツキがかわいくて仕方がない、という表情だった。
 ルイも、ミツキも、ユウも、今は高校の制服を着ている。最終日の表彰式は制服がドレスコードだから、持参するようにとあらかじめ言われていたからだ。これまでずっと私服だったみんなの制服姿を見ると、本当に同じ高校生だったんだなと実感する。
 学ラン姿のユウは、ほんとうにかっこいい。そんなかっこいい人が、自分を見つめていとおしげに目を細めているので、ミツキはいてもたってもいられないような気分になってきた。

「十日間、お疲れさまでした!」
「お疲れ~!」

 だから、表彰式が終わって配信用カメラの赤いランプが消えたあと、わずかな時間の隙間を縫って、ユウを海に連れ出した。
 いつかと違って、スタッフは快くママチャリを貸してくれた。そうすると海まではすぐだ。
 すでに日は傾きかけていて、夕陽に海面がキラキラと光っている。そのまぶしさに目を細めて、ミツキはユウと並んで堤防沿いを歩いた。一緒に釣りをした、あの堤防だった。
 ふたりのあいだで揺れるユウの手に目を落とす。手を繋ぎたいなと思ったら、ユウがミツキの指先をするりと絡めとった。西日のせいだけじゃなく、じりじりと身体が熱くなっていく。
 欲望を抑えるように、関係のない話をした。

「……ピョンキチさん、結果をあんま残念がってなくて意外だった」
「ああ、鈴木な」

 ユウをオーディションに参加させたのは、V時代のユウの古参ファン・ピョンキチこと鈴木だった。できれば優勝してほしかったことだろう。けれど彼女は、袖から満足げにステージを眺めていた。

「なんかさっきふたりで話してたけど……」
「ん? ああ……」

 ユウは小さく苦笑した。

「やっぱりもう戻らないのか? って訊かれた」

 VSingerに、ということだろう。ミツキは顔をあげて、ユウを見た。それは、ミツキにとっても気になる問いだった。

「『たぶん戻らない』って答えたら、『そうですか』って。なんかやっぱ残念がってなくて、納得したみたいで不思議だったから、そう言ったら……」
「そう言ったら?」
「『いちばん取り戻して欲しかったものは、取り戻したみたいなんで。だからもう、東雲さんがどこでなにをしてても、推せます』って」
「おお……」

 そのまっすぐな思慕を、まぶしいなと思った。
 でも、いちばん取り戻して欲しかったものって、なんだろう。ミツキは思ったけれど、口に出さなかった。それは、ユウと鈴木がわかっていればいいことだ。
 けれどユウはこちらを見て、微笑んだ。

「俺はさ、鈴木の説得に負けてオーディションに参加したと思ってたけど……本当は、自分でも諦めきれてなかったのかも。合宿の前日に、さすがに身バレしたくねえなと思ってチャンネル消したけど、それまで消さずに残してたのも、きっと諦めきれなかったからだ」
「……なにを?」
「いつか、誰かに届くことを、かな」

 ユウが、とろけるように目を細めて笑った。

「見つけてくれて、ありがとう」
「そんな……」

 その表情に、声音に、心臓がぎゅううとして、じっとしていられないような気分になる。けれど我慢して、咳払いをした。

「じゃあ、ユウの目的は果たせたんだな」
「まあね」

 ミツキの心のうちの格闘まで見透かしているように、ユウは楽しそうだ。

「おまえは?」

 訊き返されて、答えに迷う。

「俺? 俺は……」

 ミツキがオーディションに参加した目的。「アンバサダーとしての一年の活動権」は手に入らなかったけれど、最高の夏の思い出と、友人――それから恋人は作ることができた。ほとんど目的は果たせたと言っていい。
 それでも、ミツキは迷いながら答えた。

「ぬい作る課題のときにさ。ルイに『SNSのフォロワー数とか気にならなくなってきた』って話をしたら、『よかったじゃん』って言われたんだよね。『手段が目的になっちゃうときついもんな』って」

 それから、漠然と考えてきた。そもそも、俺の目的ってなんだろうか。俺の人生の目的は?

「……それについては、まだよくわからないんだけど。でも、生き方というか……人生との向き合い方みたいなのは、わかってきたかも」
「なんか壮大な話だな」

 ユウはわかったようなわからないような、という表情をしてから、「まあ、目的はこれから見つければいいんじゃない」と言った。

「今のおまえなら、なんだってできるよ」

 ミツキは今度はためらわずに、「うん」と笑った。
 ユウが、不意に真剣な表情になった。ドキリとする。

「なあ……今度こそ、キスしてもいい?」

 繋いだままの手が震えた。それを敏感に感じ取ったユウが、「嫌なら、今じゃなくても……」と言いかけたのを制する。

「ううん。嫌じゃない。キス、してほしい」
「……また、ぬいにならないか?」

 たしかに、それは心配だ。今までぬいになったのは、ユウの歌を聞いたときと、キスをされるかもしれないと思ってドキドキしたときだった。

「でも、ユウに人工呼吸したときは、だいじょうぶだったし……」
「いや、人工呼吸はキスに入るのか?」
「それに、俺がぬいになっても、ユウが守ってくれるでしょ?」
「……」

 その言葉に、ユウはなんともいえない顔をした。驚いたような、照れたような、うれしくて仕方がないような、でも怒ったような。

「人の気も知らずに煽りやがって……もうキスする。絶対キスする」
「だから、してもいいって」

 ふたりで笑いあう。ひととおり笑いやむと、真剣な表情に戻ったユウの顔が近づいてくる。ミツキはドキドキしたまま、目を閉じた。
 やわらかく、あたたかい唇が触れる。そうしてしばらく重なったあと、ちゅ、と小さな音を立てて離れた。
 ミツキは、ぬいぐるみにはならなかった。

「やった!」

 ミツキは思わず飛び跳ねた。しかし、ユウはちょっと拍子抜けしたような表情をしている。

「……もしかして、もうドキドキしてない?」
「え!? してる、めっちゃドキドキしてる!」
「強い感情が、トリガーなのかと思ったんだけどな」

 ユウが思案げにつぶやく。
 ミツキは、あの都市伝説のことを思った――「ぬいと一緒に撮った写真をしつこく送りつけてくるリアコに病んだアイドルが××し、その呪いでリアコ自身がぬいに変わってしまう」。
 もしかしたら、自分がもうユウを「推し」として見ていないからかもしれないな。だって……。
 ユウが「もう一回、試そう」と言って、真剣な顔で唇を近づけてくる。
 この人って、やっぱちょっと変だなあと思いながら、ミツキは大好きな恋人からのキスを受け入れた。


〈了〉