滅多に自分の友だちを紹介したがらないふうちゃんが連れてきた咲也くんは、そりゃあもう僕の記憶にしっかりと刻み込まれているわけで。正直、ふうちゃんの友だちだから印象に残っているというわけではないことは分かっている。けれど、あの四文字はきっとお世辞だと、からかわれていたのだと言い聞かせて、僕の中ではもうなかったことになっている。
二人並んだら絵になるよなぁ、今度来たら写真を撮らせてもらおうかな、なんて。
変わり映えのない毎日、僕の世界の登場人物は昔からずっと一緒。でも新鮮なことが起きなくても、ふうちゃんの成長を見守ることのできるこの人生は平和で、愛に溢れている。つまらない、なんて笑う人がいたって気にしない。刺激だって求めていない。そう、思っていたのに……。
「あ、お兄さん」
休み時間、たまたま通りがかった中庭でそんな声が聞こえた。まさか自分のことだとは思わなくてそのまま歩き続けていれば、突然「陽希くん!」と手を掴まれた。
「あ、咲也くん」
誰だと不思議に思いながらくるりと振り向けば、拗ねたように唇を尖らせる美男子。彼の後ろで、そわそわしながら風に乱された髪を整えている女の子が視界に入った。小さくて、ふわふわした綿菓子みたいにかわいらしい。そんな彼女とバチンと目が合って、気まずそうに逸らされる。多分、せっかく咲也くんを捕まえて話していたのに僕が邪魔しちゃったんだろうな。悪いことをしたなという罪悪感だけじゃないモヤモヤが胸の中を覆い尽くしていく。
「どうしたの?」
「……無視された」
「それはごめん、気づかなくて……」
素直に謝罪の言葉を口にすれば、ムッとした顔が少しマシになる。よかったと胸を撫で下ろすけれど、彼の背後でこちらを気にして待っている女の子がどうしても目に入って落ち着かない。
「咲也くん、彼女は……?」
「あー……」
ひそひそと声を落として尋ねると、咲也くんはそちらを振り向くことすらせず、僕の手を取ったまま歩き出した。
「え、ちょっと、」
「俺には関係ないよ。誰か待ってるんじゃないですか?」
あまりにも淡々とした彼に僕の方が慌ててしまう。それ、本当? 確かめたって何かできるわけでもないのに、女の子の様子が気になって振り向こうとするけれど、それすら許してもらえない。咲也くんの足はどんどん人気のない校舎裏に進んでいく。
そんな簡単に誰かを切り捨てられるんだっていうショック。彼にとって「友だちの兄」というポジションでしかないくせに、僕もいつかそうなるのかなって、呼吸をするのが少し苦しくなった。
「あの、咲也くん……」
「他の人に興味持たないで」
「え?」
「……って、言ったら困りますよね?」
あれ以来、何度かふうちゃんが家に連れてきているし、校内ですれ違うこともある。だけど、咲也くんはあくまでもふうちゃんのお友だち。僕の世界の登場人物ではない。
そうやって線引きしていたのに、彼は縋るような目で僕を見つめる。まるでこの世界に入りたいと希うように。甘い熱を孕んだ視線に思考が溶かされてしまいそうになる。
イケメンはふうちゃんで見慣れているはずなのに、咲也くんの真剣な顔に胸の高鳴りはとどまることを知らない。いくら僕が面食いだからって、他の人相手にこんなにドキドキしたことはない。騒々しい心臓が非常事態だと告げている。
「そういうのは気になる子に言ってあげて。咲也くんが一番大事にしたいって思った子に……」
「……陽希くんは?」
「え?」
「陽希くんの一番はいるんですか?」
「それはもちろん、ふうちゃんだよ」
世界で一番かわいい僕の弟。僕の中のランキングの真ん中を占領しているのは、昔からずっと変わらないはずなのに、どうして声が震えるのだろう。
「じゃあ、陽希くんを一番にしてくれる人は?」
「それは……」
難しい質問に言葉がつまってしまう。黙り込んだまま俯く僕の顎を掬って、強制的に目を合わせられる。
「自己犠牲」
「……っ」
「献身的って言えば聞こえはいいかもしれないですね」
僕の抱え込んでいるもの全てを見透かされたような気がして、ぎゅっと目を瞑る。ずっと隠してきたんだ、醜い僕を見つけないで。そう願うのに、咲也くんは言葉を続ける。
「陽希くん、ずっと無理してますよね?」
「やだなぁ、たった数回会っただけなのに、」
「数回じゃないです」
「え?」
核心に触れられるのが怖くなって、不器用な笑みを浮かべて突き放そうとするけれどそれすら否定されてしまう。思ってもいなかった返答にきょとんと目を丸くしていると、咲也くんは「くそ……」と呟いた。
「いつ気づいてくれるのかなって思ってたんですけど……はぁ、自分から言うとかダセェ」
「えっと……?」
髪の毛をぐしゃっと乱した咲也くんはぶつぶつと何かを話した後、こちらを見据える。
「俺と冬希、中学は違うけど塾が一緒だったんです」
「そうなんだ」
「ちなみに俺はそのときまだメガネをかけていて、黒髪でした」
高校デビューってやつかな、と思いながら彼を観察して、ふと気づく。夜道が危ないから、時々ふうちゃんを塾まで迎えに行っていた日のことを思い出す。そのときは決まって、ふうちゃんの隣に違う中学校の制服を着たメガネの子がいて……。
「まだ分かんないですか?」
「っ、うそ……」
一度も話したことのない、名前も知らないあの子が咲也くんだったの? 予想外の再会に開いた口が塞がらない。反抗期のふうちゃんに聞いても無視されて、仲がいいならこれ以上深掘りしなくてもいいやと思って諦めていた答えが今更見つかるなんて。
「あの頃は人見知りで、自分から声をかけることもできなくて。でもこのままじゃまた二年間を無駄にする、もう見ているだけは嫌だから変わろうと思いました」
「咲也くん……」
「俺、陽希くんと仲良くなりたくて志望校を変えたんです」
「えっ……」
「窓の外でソワソワしながら冬希を待つ姿を見て、かわいいなぁって見惚れちゃって……。おかげで先生にも冬希にも怒られたけど、今日は来るのかなって塾に行く楽しみになってました」
初めて聞くエピソードに手が震える。咲也くんにバレないようにぎゅっと力を込めていれば、彼は小さく息を吐いた後、声のトーンを落とした。
「ずっと、陽希くんを見ていて気づいたんです」
「……うん?」
「弟のことばかりで、いつまで自分を後回しにするつもりですか?」
「…………」
「冬希が大事なのは分かります。いいお兄ちゃんだなとも思います。でも、自分を犠牲にしてばかりいる陽希くんは好きじゃないです」
「っ、」
「好きじゃない」という一言が鋭く胸に突き刺さる。受け止められないほどショックが大きい。じくじくした痛みがゆっくりと広がって、つーっと涙が頬を伝っていく。咲也くんだけには言われたくなかった言葉。ぐしゃりと歪んだ顔を、彼がどんな顔で見ていたのかは涙で視界がぼやけて分からなかった。
ふうちゃんにはなれない僕は、何かで一番になったことがない。勉強は真ん中ぐらいの成績、運動だって苦手、それなのに芸術センスもない。誇れることはただ一つ、何でもできる弟がいるということのみ。でもそれは僕の才能じゃない。
ふうちゃんがかわいくてたまらないのは嘘じゃない。自慢の弟だと、胸を張って言える。だって、ふうちゃんが何にもなかった僕に与えてくれたんだ。お兄ちゃんっていう、世界で一つだけの宝物みたいな役目を。
だけど、心の奥底ではずっと不安や焦燥感がぐるぐると渦巻いていて、ふうちゃんはいいなぁって無性に羨ましくなるときがある。僕なんかがそんな風に思うことすら烏滸がましいのに。
ただ、僕も一番が欲しかった。手放しで褒められて、愛される存在になりたかった。あの子は良くて、どうして僕は駄目なの? 幼い頃に抱いた疑問の答えは未だに見つかっていない。ぐと噛み締めた唇の力を抜けというように、優しく指でなぞられる。
「だから、決めたんです」
「…………」
「俺が陽希くんを一番幸せにするって」
「……え?」
次に降ってくる言葉は決別だと思っていたのに、正反対の言葉が届いて耳を疑う。だけど言った張本人は穏やかに微笑んでいて、その表情があまりにも慈愛に満ちているものだから本気なんだと見てとれた。
「……僕にそんな価値ないよ」
「そんなことないって言っても、今の陽希くんには響かないですよね。でも、そういう卑屈なところも人間らしくていいなぁって思います」
「卑屈……」
「甘えてくださいよ。抱え込んできたもの全部、俺には吐き出して」
「どうしてそこまで気にかけてくれるの。僕なんか、友だちのお兄ちゃんってだけでしょ」
「好きだから」
僕の濡れた頬を拭いながら、彼はなんてことないようにそう言い放つ。まるで明日の天気の話をするみたいに、会話の延長線上で告げられた言葉の意味をうまく咀嚼できない。
「好きじゃなきゃ、ここまで追いかけてこないですよ」
「……っ」
「俺の一番は陽希くん、貴方です」
太陽を背負いながら、それに負けないほどのきらめきを纏った男がまっすぐに告げる。
目を奪われた。ときめきは嘘をつかない。体は理性よりも正直で、ドクンドクンという血液に乗せた歓喜の声が全身で鳴っている。だって、君に惹かれかけていたのは紛れもない事実だから。
だけど、まだ同じ温度には達していないって自分が一番よく分かっている。中途半端に受け止めるのは、咲也くんに失礼だから。そう切り出そうと口を開いた瞬間、咲也くんが一歩後ろに下がった。
「告白の返事はまだ聞きません。でも俺の唯一が陽希くんだって、ちゃんと覚えておいてくださいね」
「っ、うん」
「今日はこの辺で失礼します」
律儀に一礼してから、足早に去っていく彼の後ろ姿を呆然と見送る。もしかしたら、咲也くんも怖かったのかもしれない。僕に拒否されると思って、それを聞く前に立ち去ったのかな。ぽーっとその背を見ていると、彼の耳が赤く色づいているのを見つける。咲也くんがかわいく見えてきて、絆されるのがあまりに早すぎないかと少し自分に呆れた。



