桜風が吹いたら──

 今日は会社のお花見だ。

 夜桜のライトアップが有名なスポットで開催される。

 じつは今日僕はそわそわしていた。

 僕はいわゆるどこにでもいる建設会社の社員で、けっして高い年収でもないが、社会に貢献している自負だけはある。

 彼女もここ数年はいない。会社と自宅アパートの往復の日々で、休日は同僚と打ちっぱなしのゴルフに行ったり、ひとりで映画鑑賞をする日々の繰り返し。

 味気ないと言ってしまえばそうかもしれないが、僕はそれでも幸せだった。

 会社に「君」が来るからだ。

 清掃会社に勤務する君は長い髪をおさげにして、くるくるとよく動く。

「おはようございま~す」

 その明るい挨拶に、僕がどれだけ癒やされてきたのか計り知れない。

「あ、ゴミが……」
 
 ある日、君が僕に声をかけた。

 僕の足元には丸めた紙ゴミが落ちていた。

 あきらかに僕が入れ損なったゴミだ。

 僕がそのゴミを拾おうと椅子から屈んで手を伸ばすと、ちょうど手を伸ばした君の手に軽く触れてしまった。

 お互いに目が合う──

「す、すみません」

 僕の声が裏返った。

「あ、大丈夫です」

 何事もないかのように君はそのゴミを回収した。君の手は色が白く、なんとも小さな手だった。

「…………」
 僕は君の顔にあるキュートなそばかすが目に焼きついた。

 長いまつ毛が印象的だった。

 そう、僕は彼女に恋をしてしまった。

 僕はずっと勇気が出せず、彼女とは挨拶以外の言葉を交わすことはないままだった。

 そんな僕にチャンスが到来した。お花見だ。

 社長の労いでなんと、清掃会社の人たちまで花見に参加するらしい。

 その話を聞いた僕の胸は高鳴ったまま、花見の当日を迎えた。

 ブルーシートに置かれた酒と紙コップにオードブル。それらに男性社員が群がる。

 うちの会社は圧倒的に男性が多い。むさ苦しいとも言うべきか。

 社長の長い話の後、早くも酔った男連中と僕は酒を酌み交わしていた。

 今夜の僕はライトブルーのシャツにデニムのズボン。

 正直言って派手ではないが、キメすぎて君に引かれたくない気持ちもある。

 そう、たかが会社の飲み会だ、お花見だ。
 期待しすぎるな、僕。

 空を見上げると、桜が満開の中で美しい月が姿を現わした。

「お~! 今日は最高の夜になりそうだな」
 
 僕の隣に座る同僚が夜空を眺めて、満面の笑みを浮かべた。

 夜風に吹かれて、桜の花びらが優雅に舞い散る──

「こんばんは」

 僕の席から遠いところで君の凛とした声が響く。

 ちらりと僕は君がいるほうに視線を送る。
 ……気づかれてはいけない。

 清掃会社の人たちはやはりかたまって座っていて、僕らとは見えない壁が存在する。

 会社の連中と盛り上がるフリをしながら、僕は君を見ていた。

「…………」 

 今夜の君は髪をおろして、白いワンピースを身に着けていた。

 暗闇でも目立つ、夜の妖精のような姿。それが今夜の君。

 きれいだな、僕はそう思った。昼間の君とはまた違う君。

 夜桜がライトに照らされて人々を魅了する。

 まるで君みたいだ……。

 こんなことを考えているのがもし君にバレたら、どうなるのだろう。

 僕はドキドキしていた。

 今夜が最大のチャンスだった。

 どうすれば君に近づける?

 いっそ、酔ったふりでもして清掃会社の人たちの中に紛れ込むか?

 どうしようか。

 僕は夜空を彩る桜の淡いピンクを眺めた。

「お~い、ビールこっちにも頼むよ~」
「あいよっ」

 あちこちで談笑する声が大きくなってきた。会社のみんなもずいぶん酔いが回ってきたようだ。

 気づけば僕の隣に座っていた同僚も移動して、僕の横はガラ空きになっていた。

 僕も移動するか、そう思った矢先、

「あの、ここいいですか?」

 その声に僕が顔を上げる。

「えっ……」

 思わず声が漏れた。

 僕に声をかけてきたのはなんと君だった。 

「あっ。どうぞ」

 僕は揺れる君の白いワンピースに目がいく。

「ありがとうございます」

 君は僕に微笑んで隣に座った。

 ドクン、ドクン──

 僕の鼓動だけが速くなっていく。

「あ~、おいしい」

 君が夜桜を見上げながらつぶやく。

 軽やかで優しい声。

「……なにを飲んでいるんですか?」

 僕は君に尋ねた。

「ビールですよ? ふふっ。酔っちゃった」

 君が目を細めて笑う。

「……へぇ。そうなんですね」

 僕は彼女が持つカップに目を向ける。
 泡立ちもない、透明度の高い茶色の飲み物。

「…………」

 それはどっからどう見ても烏龍茶だった。

 僕の中にある淡い感情が込み上げてきた。顔にたちまち熱がこもり出す。

「…………」

 僕は君の横顔に視線を走らせた。ほんのり染まった頬。

 見間違いではない、おそらく君も僕と同じ気持ちだ。

 その時、夜風が吹き、桜の花びらが空に大きく舞う──

「わぁぁ……きれいですね~」

 君が歓喜の声を上げた。

「本当にきれいだ」

 僕は夜桜に瞳を輝かせた君の顔に目を奪われる。

 ひらひら……。

 桜の花びらが僕の目の前を通り過ぎる。

 次の桜風が吹いたら君に言おう。

 今度、お食事でもどうですかって。