一週間前──
「あっ……、龍太郎だ」
あたしはカーテンの隙間から外を見た。
黒のワントーンでバッチリコーディネートした長身のスラリとした男性。
彼が隣にそびえる白亜の豪邸から姿を現した。
ドアを閉め、自分の車を出すために彼は駐車場のほうに歩いていく。
……いいぞ、いいぞ……。朝のミッション成功だ。これで今日も龍太郎に会わずに済む。
あたしはほくそ笑む。
「よし。今のうちにあたしも会社に行かなきゃ!」
カレンダー表記付きの置き時計に目をやる。
もう五月かぁ……。月日が経つのは早いなぁ。
あたしはベッドのそばに置いていた安物の鞄を手にし、自分の部屋のドアを勢いよく開けた。
そのまま階段を駆け降りて、一階のリビングに着いた。
パンの焼ける匂いがあたりに漂っている。
「も~う! お姉ちゃん、朝からドタバタうるさいよ~」
ダイニングテーブルに腰掛けた弟の颯太が文句をいってきた。
「はいはい。今日はサッカーの朝練ないの?」
あたしは颯太に尋ねた。
「ないよ~。僕、もう三年生だよ~! 大学受験だよ、お姉ちゃん」
颯太が呆れた声を出した後、パンにかじりつく。
「ははは。雪乃は朝から本当に元気だなぁ」
颯太の向かいの席にいる父が、手にしている新聞をずらしてから、あたしに微笑みかけてきた。
新聞を動かした際に発生した風で、父の飲んでいるコーヒーの香りがあたしのところにまでやってきた。
「雪乃ちゃん、今から仕事?」
キッチンにいる母があたしに微笑みかけてきたが、眉が困った形になっている。
つまり「おしとやかにしなさいよ」ということ。愛する父の前では母は完璧に恋する乙女になるのだ。
「うん。仕事だよ」
あたしは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、喉を潤していく。
「じゃあ、行ってきま~す」
元気に挨拶をして、玄関に向かう。
「行ってらっしゃ~い」
家族の声がした。それがあたしの心をほぐしていく。
笑顔でドアを開けて外に足を踏み出す。
今日も笑顔で始まり、笑顔で終わる。
そんな当たり前の幸せが続くと思っていた。
そう、まさか、あたしが人間でなくなる日が来るなんて、この時は想像もしていなかった──
「ぷはぁ~。う~ん……」
自宅を出たあたしは澄んだ朝の空気を思い切り吸い込む。
空気が美味しい……。
何度か深呼吸を繰り返し、真っ直ぐに前を見据える。
住宅街の街路樹が爽やかに影を作っている。
よ~し、今日も頑張るわよ!
あたしは肩掛け鞄の紐を握りしめ、駅方面の道に向かおうと足を進めた。
その時、視界に大きな影が飛び込んできた。
「雪乃、おはよ」
すぐ隣からハスキーがかった低い声が聞こえた。
えっ……この声はまさか……
背中が一瞬で冷えた。
「…………」
ゆっくりと右隣に目をやる。
「なんだよ、その顔は」
あたしの真横に龍太郎が佇んでいた。
げぇぇ! ミッション失敗! 最悪だよっ!
「あはは。おはよう、まだ仕事に行ってなかったんだ」
あたしはさぞかし引き攣った笑みを浮かべているであろう。
「ああ、おまえが部屋から天気を確認しているのがわかったからな。わざわざ待ってた。一緒に仕事に行くか?」
龍太郎が朝の光を一身に浴び、無駄にイケメンオーラを放っていた。
キラキラ……。
ルックスだけなら、アイドル……二枚目俳優に間違いない。ああ、残念だ、非常に残念。
「あはは。待ってくれなくてもいいよ。ほら龍太郎はお医者様だし、事務職のあたしとは忙しさが違うでしょ」
社会人になって手に入れたスキル『とりあえず笑顔』をあたしは実行する。
「職種なんか関係ねぇだろ。同じ職場なんだから乗っていくか?」
龍太郎があたしの笑顔に対して微笑んできた。
あっ、やっぱダメだ、こいつ。遠慮……いや、断っているのが伝わらない。
「それよりおまえさ、カーディガンさ、裏返しだぞ?」
彼の目線の先には、あたしが急いで身につけたチェックのカーディガンがあり、見事に裏返っていた。
ヒュウ──
春の風が吹く。
こんな優しい季節なのに、あたしの心は冬だった。
「あっ……、龍太郎だ」
あたしはカーテンの隙間から外を見た。
黒のワントーンでバッチリコーディネートした長身のスラリとした男性。
彼が隣にそびえる白亜の豪邸から姿を現した。
ドアを閉め、自分の車を出すために彼は駐車場のほうに歩いていく。
……いいぞ、いいぞ……。朝のミッション成功だ。これで今日も龍太郎に会わずに済む。
あたしはほくそ笑む。
「よし。今のうちにあたしも会社に行かなきゃ!」
カレンダー表記付きの置き時計に目をやる。
もう五月かぁ……。月日が経つのは早いなぁ。
あたしはベッドのそばに置いていた安物の鞄を手にし、自分の部屋のドアを勢いよく開けた。
そのまま階段を駆け降りて、一階のリビングに着いた。
パンの焼ける匂いがあたりに漂っている。
「も~う! お姉ちゃん、朝からドタバタうるさいよ~」
ダイニングテーブルに腰掛けた弟の颯太が文句をいってきた。
「はいはい。今日はサッカーの朝練ないの?」
あたしは颯太に尋ねた。
「ないよ~。僕、もう三年生だよ~! 大学受験だよ、お姉ちゃん」
颯太が呆れた声を出した後、パンにかじりつく。
「ははは。雪乃は朝から本当に元気だなぁ」
颯太の向かいの席にいる父が、手にしている新聞をずらしてから、あたしに微笑みかけてきた。
新聞を動かした際に発生した風で、父の飲んでいるコーヒーの香りがあたしのところにまでやってきた。
「雪乃ちゃん、今から仕事?」
キッチンにいる母があたしに微笑みかけてきたが、眉が困った形になっている。
つまり「おしとやかにしなさいよ」ということ。愛する父の前では母は完璧に恋する乙女になるのだ。
「うん。仕事だよ」
あたしは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、喉を潤していく。
「じゃあ、行ってきま~す」
元気に挨拶をして、玄関に向かう。
「行ってらっしゃ~い」
家族の声がした。それがあたしの心をほぐしていく。
笑顔でドアを開けて外に足を踏み出す。
今日も笑顔で始まり、笑顔で終わる。
そんな当たり前の幸せが続くと思っていた。
そう、まさか、あたしが人間でなくなる日が来るなんて、この時は想像もしていなかった──
「ぷはぁ~。う~ん……」
自宅を出たあたしは澄んだ朝の空気を思い切り吸い込む。
空気が美味しい……。
何度か深呼吸を繰り返し、真っ直ぐに前を見据える。
住宅街の街路樹が爽やかに影を作っている。
よ~し、今日も頑張るわよ!
あたしは肩掛け鞄の紐を握りしめ、駅方面の道に向かおうと足を進めた。
その時、視界に大きな影が飛び込んできた。
「雪乃、おはよ」
すぐ隣からハスキーがかった低い声が聞こえた。
えっ……この声はまさか……
背中が一瞬で冷えた。
「…………」
ゆっくりと右隣に目をやる。
「なんだよ、その顔は」
あたしの真横に龍太郎が佇んでいた。
げぇぇ! ミッション失敗! 最悪だよっ!
「あはは。おはよう、まだ仕事に行ってなかったんだ」
あたしはさぞかし引き攣った笑みを浮かべているであろう。
「ああ、おまえが部屋から天気を確認しているのがわかったからな。わざわざ待ってた。一緒に仕事に行くか?」
龍太郎が朝の光を一身に浴び、無駄にイケメンオーラを放っていた。
キラキラ……。
ルックスだけなら、アイドル……二枚目俳優に間違いない。ああ、残念だ、非常に残念。
「あはは。待ってくれなくてもいいよ。ほら龍太郎はお医者様だし、事務職のあたしとは忙しさが違うでしょ」
社会人になって手に入れたスキル『とりあえず笑顔』をあたしは実行する。
「職種なんか関係ねぇだろ。同じ職場なんだから乗っていくか?」
龍太郎があたしの笑顔に対して微笑んできた。
あっ、やっぱダメだ、こいつ。遠慮……いや、断っているのが伝わらない。
「それよりおまえさ、カーディガンさ、裏返しだぞ?」
彼の目線の先には、あたしが急いで身につけたチェックのカーディガンがあり、見事に裏返っていた。
ヒュウ──
春の風が吹く。
こんな優しい季節なのに、あたしの心は冬だった。

