運命は夢みる希望に宿る〜17歳の証明〜

 季節は巡り、坂道を彩っていた桜の木々はすっかり葉を落とし、冬の足音を感じさせる枯れ枝へと姿を変えていた。
 十一月。瀬戸内の海から吹き込む風は、春の日のような優しさをとうに失い、刺すような冷たさを孕んでいる。頬を撫でる風の音は、まるで調弦を間違えたヴァイオリンの弦が張り詰めて軋むような、鋭く冷ややかな高音域の不協和音となって私の耳に響いていた。
 春のあの出会いから夏にかけて、私の世界は確実に一ノ瀬先輩を中心に回っていた。
 委員会の仕事の合間や、音楽部の手伝いで顔を合わせるたび、私たちは少しずつ言葉を交わすようになった。すれ違いざまに交わす「おはよう」という短い挨拶。私が抱えていた楽譜を見て、「今日はドビュッシー?」と尋ねてくれた時の、少し悪戯っぽい笑顔。放課後の音楽室で、窓の外の海を眺めながら、彼がふと口ずさんだ見知らぬ旋律。
 そのどれもが、私にとっては宝物のような時間だった。彼が纏う空気、深く穏やかなチェロのような声、長い指先。彼と共有するほんの数分間だけで、私の心の中には何日も消えない美しい余韻が響き渡り、それだけで胸が満たされるような、甘く穏やかな日々だった。
 ――けれど。
 三年生である先輩にとって、「卒業」というタイムリミットは、足音を立てて確実に行き詰まっていた。
 秋風が吹き始めた頃、先輩は本格的な受験勉強のために部活動を引退し、委員会にも顔を出さなくなった。放課後の音楽室から、あの心地よい低音が消えた。廊下ですれ違うこともなくなり、三年生の教室がある階は、まるで別世界のように遠く、静まり返ってしまった。
 彼がいない学校生活は、メロディを失った伴奏のようにひどく単調で、空虚だった。
「進路希望調査」
 ホームルームの時間、私の机の上に配られた一枚のプリント。無機質な明朝体で印字されたその文字が、鉛のように重くのしかかる。
 第一志望、第二志望、第三志望。空欄のままの四角い枠が、私の無力さを嘲笑っているように見えた。
 教室中から、シャープペンシルが紙を擦るリズミカルな音が聞こえてくる。迷いなく志望校を書き込んでいくクラスメイトたちの音が、私には無数の打楽器の乱れ打ちのように聞こえ、焦燥感を掻き立てた。
 隣の席の凛は、さらさらと迷いなくペンを走らせている。彼女は昔からそうだ。自分のやりたいこと、行くべき場所が明確に見えていて、そこに向かって真っ直ぐに進んでいける。
 私は、シャーペンを握りしめたまま、白紙のプリントをただ見つめていた。
 書きたい学校の名前は、一つだけある。先輩が目指しているという、県外の難関国立大学。夏休みの前、彼が友人と話しているのを偶然耳にしてから、ずっと心に秘めていた名前だ。
 しかし、先週返却された全国模試の結果が、私の残酷な現実を突きつけていた。私の偏差値と、その大学の合格ラインとの間には、絶望的なほどの深い谷が口を開けている。「E判定」という無慈悲なアルファベットは、「お前には無理だ」という決定的な宣告に他ならなかった。
 指先が震え、結局私は、無難で手の届きそうな地元の短大の名前を、ひどく薄い字で書き込んだ。自分の心に嘘をついた証拠のように、その文字は頼りなく歪んでいた。
 放課後の音楽室。
 傾きかけた西日が窓から差し込み、床に長い影を落としていた。空気中を漂う細かな埃が、黄金色に乱反射してキラキラと舞っている。
 誰もいない空間で、私は一人、グランドピアノの前に座っていた。
 鍵盤の上に両手を置く。しかし、弾きたい曲が思い浮かばない。心を落ち着かせようと、春からずっと練習しているショパンの『雨だれ』を弾き始めた。
 ぽろん、と。
 薄暗い教室に響いた和音は、自分でも驚くほど力なく、芯のない音だった。
 執拗に繰り返される左手の変イ音。本来なら静かな雨粒が落ちるような繊細さを持つはずのその音が、今の私が弾くと、ただ焦燥感に駆られて急き立てるような、耳障りなノイズになってしまう。
 だめだ。こんな音じゃない。
 指がもつれ、不協和音が音楽室に響き渡った。私は逃げるように両手を鍵盤から離し、膝の上で強く握りしめた。
 もうすぐ、先輩は卒業してしまう。
 あと数ヶ月もすれば、この学校から彼はいなくなり、私の日常から完全に切り離されてしまう。交わす言葉も、すれ違う偶然も、二度と訪れない。その事実は、真綿で首を絞められるように、じわじわと私を苦しめていた。
 それなのに、私にはどうすることもできない。ただ、時間が過ぎ去っていくのを、嵐が通り過ぎるのを待つように、じっと耐えているだけ。
「ねえ、汐音。このままでいいの?」
 ふいに、背後から声がした。
 ビクッとして振り返ると、いつの間にか開いていたドアのそば、窓辺の壁に寄りかかるようにして凛が立っていた。
 夕焼けを背にしているため、彼女の顔は逆光になってよく見えない。けれど、いつもは鈴を転がすように明るく軽やかな彼女の声が、今日はひどく真剣で、硬質な響きを持っていた。
「……なにが?」
 私は視線を鍵盤に落としたまま、誤魔化すように短く返をした。心臓の鼓動が、不規則なテンポで速くなる。
 凛はゆっくりと私に近づき、ピアノの傍らで立ち止まった。
「一ノ瀬先輩のことだよ」
 真っ直ぐな言葉が、刃のように私を射抜く。
「もうすぐ本格的に受験休みに入っちゃう。そしたら、顔を合わせることだってなくなるんだよ。志望校だって、まだ決めてないんでしょ。今日の進路調査、とりあえず書いただけって顔してた」
 痛いところを的確に突かれ、私はギュッと膝の上のスカートの布地を握りしめた。
「……どうしようもないよ」
 絞り出すように出た声は、惨めなほど震えていた。
「先輩は頭がいいし、私の成績じゃ到底届かないような難関校だもん。私なんかが今から頑張ったって、先輩の隣に立てるわけないし……」
「またそれ?」
 凛の鋭い声が、音楽室の空気をびりっと震わせた。
 思わず顔を上げると、彼女の瞳には、はっきりとした苛立ちと、それ以上の深い悲しみが滲んでいた。
「汐音はいつもそう。傷つくのが怖くて、失敗するのが怖くて、最初から諦める理由ばっかり探してる。そうやって自分に言い訳して、安全な場所に隠れてるだけじゃん!」
「……っ」
「待ってるだけで、誰かが迎えに来てくれるとでも思ってるの? 奇跡でも起きて、先輩の方から汐音を見つけてくれるって本気で思ってるの!?」
 凛の言葉は正論だった。正論すぎるからこそ、私の心の一番柔らかくて脆い部分を容赦なく抉った。
 これまでの人生、私はずっとそうやって生きてきた。波風を立てず、目立つことを避け、誰かが敷いてくれた安全なレールの上を歩いてきた。失敗しないように、傷つかないように。
 でも、それがいけないことなの?
 私だって、本当は変わりたい。でも、怖いのだ。手を伸ばして、もし届かなかったら。拒絶されたら。私のちっぽけな世界は、音を立てて崩れ去ってしまう。
「凛にはわからないよ!」
 気づけば、私は立ち上がり、叫んでいた。
 椅子が床を擦る嫌な音が響いた。
「凛みたいに、誰とでもうまく話せて、なんでも自信を持ってできるわけじゃない! 私は凛みたいに器用じゃないし、強くもない!」
 静まり返った音楽室に、私の荒い息遣いと、裏返った自分の声が反響する。
「私にはピアノしかないし……自分から動いて、傷つくのが、怖いんだよ……!」
 言ってしまった。
 一番大切で、いつも私を太陽のように引っ張ってくれた親友に。自分のコンプレックスと臆病さを、逆恨みのようにぶつけてしまった。
 沈黙が降りた。
 窓の外から、遠くグラウンドで練習する野球部の声が、ひどく間の抜けた音として聞こえてくる。
 私はハッとして、口元を押さえた。凛を傷つけてしまった。謝らなければ。そう思うのに、喉が引きつって声が出ない。
 凛は、驚いたように少しだけ目を見開いた後、悲しそうに目を伏せた。彼女の周りから、いつもの眩しい光が消え、夕暮れの影に深く沈んでいくように見えた。
「……自信があるからやるんじゃないよ」
 ぽつりと、凛が呟いた。その声は、泣き出しそうに震えていた。
「自信なんて、最初からあるわけないじゃん。……どうしてもやりたいから、どうしても欲しいから、怖いけど手を伸ばすんでしょ」
 凛は顔を上げ、私の目を真っ直ぐに射抜いた。
「……汐音のピアノと、同じじゃないの」
 それだけを残して、凛はきびすを返し、教室を出て行った。
 バタン、という重いドアの音が、私の胸の奥に鈍い衝撃となって響き渡り、やがて完全な静寂が訪れた。
 誰もいなくなった音楽室。
 西日はさらに高度を下げ、部屋全体を燃えるような赤茶色に染め上げていた。
 私はその場にへたり込むようにして、再びピアノの前に座り直した。
 『汐音のピアノと、同じじゃないの』
 凛の言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。
 私は自分の両手を見つめた。
 三歳の頃から、毎日休まずに鍵盤に触れてきた手。指先は少し硬くなり、幾度となく豆を潰した跡がある。
 そうだ。ピアノは、ただ待っていても決して鳴らない。
 目の前にどれほど素晴らしい名器があろうと、どんなに美しい楽譜が置かれていようと。自分が勇気を出して、自分の意志で指を下ろし、鍵盤を叩かなければ、音は永遠に生まれないのだ。
 ミスを恐れて鍵盤に触れなければ、音楽は始まらない。コンクールで「君自身の音が見えない」と言われ続けてきた理由は、ここにあったのだ。私は、人生においても、彼への想いにおいても、そしてピアノにおいても、自分の内なる感情をぶつけることから逃げ続けていただけだった。
 『そっか。いい曲だよね。俺も好きだよ』
 春の日。光の中で微笑んだ先輩の顔が、声が、鮮明に脳裏に蘇る。
 あの時からずっと、私の心には彼という新しい和音が鳴り響いている。
 この想いを、ここで終わらせていいのか。
 何も行動を起こさないまま、「私には無理だった」「仕方なかった」と自分に嘘をつき、安全な檻の中で一生後悔を抱えて生きていくのか。
 彼が他の誰かと笑い合う未来を、ただ指をくわえて見ているだけの人生を選ぶのか。
「……嫌だ」
 ぽろりと、熱い塊が頬を伝って落ちた。
 涙が、白い鍵盤に小さな丸いシミを作った。
 私は袖口で乱暴に涙を拭うと、顔を上げた。夕日を反射して鈍く光るグランドピアノの黒いボディが、私の決意を試すように、静かに、そして圧倒的な存在感で佇んでいる。
 もう、逃げない。
 傷つくことを恐れて立ち止まるのは、もうやめる。
 先輩と同じ大学を目指そう。どれだけ無謀だと周囲に笑われてもいい。E判定の現実がどれほど残酷でも構わない。
 待っているだけの「結城汐音」は、今日この夕暮れの音楽室に置いていく。
 私は深く息を吸い込み、思い切り鍵盤に両手を振り下ろした。
 ――ジャーンッ!!
 ハ長調の、明るく力強い主和音(トニック)が、静寂を切り裂いて音楽室に鳴り響いた。迷いのない、確かな意志を持った私の音が、夕闇を震わせてどこまでも広がっていく。
 初めて自分自身の意志で未来を掴み取るための、そして本当の意味で自分の音を見つけるための、長く苦しい戦いが始まろうとしていた。


第三小節へ続く