海から吹き込む潮の匂いを孕んだ風が、長く続く坂道に並ぶ桜の枝を大きく揺らしていた。
眼下に広がる瀬戸内の海面を乱反射する穏やかな春の光が、真新しいローファーの爪先で弾けては消える。四月。高校二年生の春。十七歳という響きは、なんだかひどく大人びていて、私――結城汐音(ゆうきしおね)にとっては、背負うには少しだけ重たい見えないランドセルのようだった。
耳を澄ませば、風が桜の葉を擦る音が、まるで弦楽器のトレモロのように細かく震えて聞こえる。遠くで鳴るフェリーの汽笛は、低く腹に響くチェロの開放弦。坂道を登る生徒たちの話し声は、木管楽器の楽しげなスタッカート。
私は幼い頃から、日常の些細な音を音楽に変換してしまう癖があった。波の音、踏切の警報音、雨のしずく。三歳の頃から毎日休まずに向かい合ってきた黒と白の鍵盤が、私の世界のすべてを音符で切り取っていくからだ。
けれど、頭の中で鳴り響く音楽はいつも完璧なのに、私の指先が紡ぎ出す現実は少し違う。楽譜通りに、ひたすら正確に弾くことはできる。コンクールでも「正確無比」と評価される。でも、それだけだ。私のピアノには「感情がない」「君自身の音が見えない」と、何度審査員に言われてきただろうか。
自分自身の音。自分だけの感情。
それが何か分からないまま、私は十七歳になってしまった。波風を立てず、目立たず、ただ与えられた楽譜をなぞるように生きてきた私に、溢れ出すような情熱などあるはずもなかった。
「汐音、早くしないとホームルーム始まっちゃうよ!」
数歩前を歩いていた夏目凛(なつめりん)が、振り返りざまに高い位置で結んだポニーテールを大きく揺らした。彼女が動くたび、春の陽光が髪の束に絡みつき、キラキラと眩しい粒子となって弾ける。
「ごめん、いま行く」
私は慌てて歩幅を広げた。
凛の周りだけ、いつも少しだけ世界が明るく見える。誰とでもすぐに打ち解け、思ったことを真っ直ぐに口にできる凛は、引っ込み思案で言葉を飲み込んでばかりの私とは正反対だ。太陽のように眩しくて、圧倒的な引力を持つ親友。彼女の隣にいると、時々自分の輪郭がひどくぼやけて、薄い影になってしまうような錯覚に陥る。
それでも、私は凛が好きだった。彼女の裏表のない明るさに、幾度となく救われてきた。私が言葉に詰まれば、いつも凛が太陽のような笑顔で場を温めてくれた。私は彼女の眩しさに隠れるようにして、この高校生活の最初の一年を無事にやり過ごしてきたのだ。
「今日の放課後さ、駅前の新しいカフェ行かない? 限定のイチゴタルト、今日からなんだよね!」
「あ……ごめん、今日は委員会があるし、その後はピアノのレッスンが……」
「むー、またピアノ? 汐音は本当に真面目だなぁ。たまには息抜きしないと、指先までガチガチになっちゃうよ?」
凛は不満げに唇を尖らせたが、すぐに「ま、いっか。じゃあ来週ね!」とカラッと笑った。その切り替えの早さと軽やかさが、ひどく羨ましい。
校門を抜け、見慣れた校舎へと続く渡り廊下に足を踏み入れた瞬間だった。
建物の隙間を縫うようにして、海からの春風が突風となって吹き抜けた。
バサバサッ、と激しい音が耳元で鳴る。
「あ……っ!」
腕に抱えていたクリアファイルから、束になった新学期の委員会用のプリントと、大切に書き込みをしていた五線譜が、まるで意思を持った白い鳥の群れのようにすり抜け、空へと舞い上がった。
あっという間に散らばっていく紙片。春の陽射しを透かして乱反射しながら、無情にも渡り廊下の硬い板間へと落ちていく。
よりによって、新学期の初日に。周囲を歩いていた生徒たちが、一斉にこちらを振り返る。
どうして私はいつもこうなのだろう。どんくさい自分への自己嫌悪で胸がギュッと苦しくなり、心臓が嫌なリズムで跳ねる。私は慌てて膝をつき、這いつくばるようにして床の上の紙をかき集め始めた。
風に煽られ、真っ白なプリントに混じって、黒い音符が並んだ楽譜がひらひらと逃げていく。
ショパンの前奏曲第十五番『雨だれ』。
今の私の課題曲。執拗に繰り返される左手の変イ音の連打が、まるで今の私の焦燥感を煽るように脳内でガンガンと鳴り響く。早く拾わなきゃ。早く立ち上がって、目立たない場所に戻らなきゃ。
焦れば焦るほど指先は空回りし、楽譜は遠くへと滑っていく。
その時。
「大丈夫?」
頭上から、静かで、よく通る声が降ってきた。
それは、周囲の喧騒をすっと切り裂くような、深く穏やかなチェロの低音に似ていた。決して声を張っているわけではないのに、鼓膜の奥の、もっと深い場所を直接震わせるような不思議な響き。
ハッとして視線を上げると、少し色素の薄い、透き通るような茶色の瞳とぶつかった。
窓から差し込む春の陽射しを背に受けて、その人の輪郭がふわりと柔らかな光を纏っているように見えた。風で舞い上がった細かい砂埃さえも、彼を彩る舞台演出のように黄金色に瞬いて見えた。
彼――一ノ瀬湊(いちのせみなと)先輩は、私の足元から少し離れた場所に散らばった楽譜を、長く骨ばった指で一枚一枚丁寧に拾い集めてくれていた。
音楽部の副部長であり、生徒会の役員も務める先輩。全校生徒の誰もが知っている、雲の上の存在。いつも穏やかに微笑んでいて、それでいてどこか周囲に流されない凛とした空気を纏っている人。
「あ、ありがとうございます……っ、すみません……」
顔から火が出るほど恥ずかしくて、私はうつむいたまま、震える手を差し出した。早く受け取って、逃げ出したい。そんな思いばかりが先走る。
焦って手を伸ばした拍子に。
私の指先が、楽譜を差し出してくれた先輩の指に、ほんの少しだけ触れた。
――ピリッ。
微かな静電気が走ったかのような感覚。
冷たくて、なめらかな指先の感触。
心臓が、今まで経験したことのない不規則なリズムで大きく跳ねた。フォルテシモの和音が、突然胸の奥で叩きつけられたような衝撃。一瞬、息の仕方を忘れてしまったかのように喉が詰まる。
ビクッと肩を揺らした私を気にする素振りも見せず、先輩は拾い集めたプリントと楽譜を綺麗に揃え、私の目の前でぴたりと動きを止めた。
「ショパン、好きなの?」
一番上に重なっていた『雨だれ』の譜面を見て、先輩が小さく微笑んだ。
その笑顔は、決して茶化すようなところがなく、ひどく真剣で、どこか透明なものだった。まるで、波ひとつない静かな湖面に、一滴の雫が落ちて波紋が広がっていくような、そんな静謐な穏やかさ。
「……はい。あの、三歳の頃から、ピアノを……」
自分でも驚くほど、声が掠れて震えていた。
普段なら、絶対に初対面に近い相手に自分のことなど話せない。聞かれたことに「はい」か「いいえ」で答えるのが精一杯なはずなのに。先輩の、深い海のような穏やかな瞳に吸い込まれるように、自然と言葉がこぼれ落ちていた。
頭の奥で鳴り続けていた『雨だれ』の焦燥を煽る連打音が、ふっと止んだ気がした。
「そっか。いい曲だよね。俺も好きだよ」
まるで、ずっと前から私のことを知っている古い友人に語りかけるような、心地よく自然なトーン。
それだけ言い残して、先輩は「じゃあ」と軽く片手を上げ、踵を返して歩み去っていった。
渡り廊下を遠ざかる背中を見送る私の耳には、もう海からの春風の音も、新学期にはしゃぐ周囲の喧騒も、一切届いていなかった。
世界からすべての音が消え去り、ただ、指先に残る微かな熱と、胸の奥で早鐘のように鳴り響く心臓の鼓動だけが、絶対的なボリュームで私を支配している。
「ちょっと汐音、なに見とれてるの?」
プリントの回収を手伝おうと戻ってきた凛が、不思議そうに私の顔を覗き込んだ。そして、遠ざかる先輩の背中を目で追って「あ、一ノ瀬先輩じゃん。相変わらずかっこいいね」と、屈託なく笑った。
「……ううん、なんでもない」
私は慌てて、乱れた楽譜を胸に強く抱き直した。まるで、今にも暴れ出しそうな自分の心臓を、上から押さえつけるようにして。
彼氏いない歴=年齢。自分から行動を起こしたことなんて、今までの人生で一度もない。誰かの背中を、こんなに焦がれるような、すがるような目で見つめたことなんてなかった。
自分が自分でなくなってしまったような、不思議な感覚。
この瞬間、私の閉じた世界に、確かに一つの新しい音が響き渡った。
けれどそれは、春の訪れを祝うような軽やかなワルツなどではない。
動き出してしまった未知の感情と、私自身の根深い臆病さ。そして、彼や親友が放つ圧倒的な光の眩しさ。それらが複雑に絡み合い、ぶつかり合って生まれる、ちぐはぐで、ひどく胸を締め付ける『不協和音』の始まりだった。
私は痛いほど胸に抱いた『雨だれ』の楽譜と一緒に、芽生えてしまったこの感情を、誰にも気づかれないように心の奥底へと深く沈めた。
第二小節へ続く
眼下に広がる瀬戸内の海面を乱反射する穏やかな春の光が、真新しいローファーの爪先で弾けては消える。四月。高校二年生の春。十七歳という響きは、なんだかひどく大人びていて、私――結城汐音(ゆうきしおね)にとっては、背負うには少しだけ重たい見えないランドセルのようだった。
耳を澄ませば、風が桜の葉を擦る音が、まるで弦楽器のトレモロのように細かく震えて聞こえる。遠くで鳴るフェリーの汽笛は、低く腹に響くチェロの開放弦。坂道を登る生徒たちの話し声は、木管楽器の楽しげなスタッカート。
私は幼い頃から、日常の些細な音を音楽に変換してしまう癖があった。波の音、踏切の警報音、雨のしずく。三歳の頃から毎日休まずに向かい合ってきた黒と白の鍵盤が、私の世界のすべてを音符で切り取っていくからだ。
けれど、頭の中で鳴り響く音楽はいつも完璧なのに、私の指先が紡ぎ出す現実は少し違う。楽譜通りに、ひたすら正確に弾くことはできる。コンクールでも「正確無比」と評価される。でも、それだけだ。私のピアノには「感情がない」「君自身の音が見えない」と、何度審査員に言われてきただろうか。
自分自身の音。自分だけの感情。
それが何か分からないまま、私は十七歳になってしまった。波風を立てず、目立たず、ただ与えられた楽譜をなぞるように生きてきた私に、溢れ出すような情熱などあるはずもなかった。
「汐音、早くしないとホームルーム始まっちゃうよ!」
数歩前を歩いていた夏目凛(なつめりん)が、振り返りざまに高い位置で結んだポニーテールを大きく揺らした。彼女が動くたび、春の陽光が髪の束に絡みつき、キラキラと眩しい粒子となって弾ける。
「ごめん、いま行く」
私は慌てて歩幅を広げた。
凛の周りだけ、いつも少しだけ世界が明るく見える。誰とでもすぐに打ち解け、思ったことを真っ直ぐに口にできる凛は、引っ込み思案で言葉を飲み込んでばかりの私とは正反対だ。太陽のように眩しくて、圧倒的な引力を持つ親友。彼女の隣にいると、時々自分の輪郭がひどくぼやけて、薄い影になってしまうような錯覚に陥る。
それでも、私は凛が好きだった。彼女の裏表のない明るさに、幾度となく救われてきた。私が言葉に詰まれば、いつも凛が太陽のような笑顔で場を温めてくれた。私は彼女の眩しさに隠れるようにして、この高校生活の最初の一年を無事にやり過ごしてきたのだ。
「今日の放課後さ、駅前の新しいカフェ行かない? 限定のイチゴタルト、今日からなんだよね!」
「あ……ごめん、今日は委員会があるし、その後はピアノのレッスンが……」
「むー、またピアノ? 汐音は本当に真面目だなぁ。たまには息抜きしないと、指先までガチガチになっちゃうよ?」
凛は不満げに唇を尖らせたが、すぐに「ま、いっか。じゃあ来週ね!」とカラッと笑った。その切り替えの早さと軽やかさが、ひどく羨ましい。
校門を抜け、見慣れた校舎へと続く渡り廊下に足を踏み入れた瞬間だった。
建物の隙間を縫うようにして、海からの春風が突風となって吹き抜けた。
バサバサッ、と激しい音が耳元で鳴る。
「あ……っ!」
腕に抱えていたクリアファイルから、束になった新学期の委員会用のプリントと、大切に書き込みをしていた五線譜が、まるで意思を持った白い鳥の群れのようにすり抜け、空へと舞い上がった。
あっという間に散らばっていく紙片。春の陽射しを透かして乱反射しながら、無情にも渡り廊下の硬い板間へと落ちていく。
よりによって、新学期の初日に。周囲を歩いていた生徒たちが、一斉にこちらを振り返る。
どうして私はいつもこうなのだろう。どんくさい自分への自己嫌悪で胸がギュッと苦しくなり、心臓が嫌なリズムで跳ねる。私は慌てて膝をつき、這いつくばるようにして床の上の紙をかき集め始めた。
風に煽られ、真っ白なプリントに混じって、黒い音符が並んだ楽譜がひらひらと逃げていく。
ショパンの前奏曲第十五番『雨だれ』。
今の私の課題曲。執拗に繰り返される左手の変イ音の連打が、まるで今の私の焦燥感を煽るように脳内でガンガンと鳴り響く。早く拾わなきゃ。早く立ち上がって、目立たない場所に戻らなきゃ。
焦れば焦るほど指先は空回りし、楽譜は遠くへと滑っていく。
その時。
「大丈夫?」
頭上から、静かで、よく通る声が降ってきた。
それは、周囲の喧騒をすっと切り裂くような、深く穏やかなチェロの低音に似ていた。決して声を張っているわけではないのに、鼓膜の奥の、もっと深い場所を直接震わせるような不思議な響き。
ハッとして視線を上げると、少し色素の薄い、透き通るような茶色の瞳とぶつかった。
窓から差し込む春の陽射しを背に受けて、その人の輪郭がふわりと柔らかな光を纏っているように見えた。風で舞い上がった細かい砂埃さえも、彼を彩る舞台演出のように黄金色に瞬いて見えた。
彼――一ノ瀬湊(いちのせみなと)先輩は、私の足元から少し離れた場所に散らばった楽譜を、長く骨ばった指で一枚一枚丁寧に拾い集めてくれていた。
音楽部の副部長であり、生徒会の役員も務める先輩。全校生徒の誰もが知っている、雲の上の存在。いつも穏やかに微笑んでいて、それでいてどこか周囲に流されない凛とした空気を纏っている人。
「あ、ありがとうございます……っ、すみません……」
顔から火が出るほど恥ずかしくて、私はうつむいたまま、震える手を差し出した。早く受け取って、逃げ出したい。そんな思いばかりが先走る。
焦って手を伸ばした拍子に。
私の指先が、楽譜を差し出してくれた先輩の指に、ほんの少しだけ触れた。
――ピリッ。
微かな静電気が走ったかのような感覚。
冷たくて、なめらかな指先の感触。
心臓が、今まで経験したことのない不規則なリズムで大きく跳ねた。フォルテシモの和音が、突然胸の奥で叩きつけられたような衝撃。一瞬、息の仕方を忘れてしまったかのように喉が詰まる。
ビクッと肩を揺らした私を気にする素振りも見せず、先輩は拾い集めたプリントと楽譜を綺麗に揃え、私の目の前でぴたりと動きを止めた。
「ショパン、好きなの?」
一番上に重なっていた『雨だれ』の譜面を見て、先輩が小さく微笑んだ。
その笑顔は、決して茶化すようなところがなく、ひどく真剣で、どこか透明なものだった。まるで、波ひとつない静かな湖面に、一滴の雫が落ちて波紋が広がっていくような、そんな静謐な穏やかさ。
「……はい。あの、三歳の頃から、ピアノを……」
自分でも驚くほど、声が掠れて震えていた。
普段なら、絶対に初対面に近い相手に自分のことなど話せない。聞かれたことに「はい」か「いいえ」で答えるのが精一杯なはずなのに。先輩の、深い海のような穏やかな瞳に吸い込まれるように、自然と言葉がこぼれ落ちていた。
頭の奥で鳴り続けていた『雨だれ』の焦燥を煽る連打音が、ふっと止んだ気がした。
「そっか。いい曲だよね。俺も好きだよ」
まるで、ずっと前から私のことを知っている古い友人に語りかけるような、心地よく自然なトーン。
それだけ言い残して、先輩は「じゃあ」と軽く片手を上げ、踵を返して歩み去っていった。
渡り廊下を遠ざかる背中を見送る私の耳には、もう海からの春風の音も、新学期にはしゃぐ周囲の喧騒も、一切届いていなかった。
世界からすべての音が消え去り、ただ、指先に残る微かな熱と、胸の奥で早鐘のように鳴り響く心臓の鼓動だけが、絶対的なボリュームで私を支配している。
「ちょっと汐音、なに見とれてるの?」
プリントの回収を手伝おうと戻ってきた凛が、不思議そうに私の顔を覗き込んだ。そして、遠ざかる先輩の背中を目で追って「あ、一ノ瀬先輩じゃん。相変わらずかっこいいね」と、屈託なく笑った。
「……ううん、なんでもない」
私は慌てて、乱れた楽譜を胸に強く抱き直した。まるで、今にも暴れ出しそうな自分の心臓を、上から押さえつけるようにして。
彼氏いない歴=年齢。自分から行動を起こしたことなんて、今までの人生で一度もない。誰かの背中を、こんなに焦がれるような、すがるような目で見つめたことなんてなかった。
自分が自分でなくなってしまったような、不思議な感覚。
この瞬間、私の閉じた世界に、確かに一つの新しい音が響き渡った。
けれどそれは、春の訪れを祝うような軽やかなワルツなどではない。
動き出してしまった未知の感情と、私自身の根深い臆病さ。そして、彼や親友が放つ圧倒的な光の眩しさ。それらが複雑に絡み合い、ぶつかり合って生まれる、ちぐはぐで、ひどく胸を締め付ける『不協和音』の始まりだった。
私は痛いほど胸に抱いた『雨だれ』の楽譜と一緒に、芽生えてしまったこの感情を、誰にも気づかれないように心の奥底へと深く沈めた。
第二小節へ続く



