✕
人から好かれやすい自覚はあった。逆に嫌われやすくもあることにだって気づいていた。だけど入学早々、ゴールデンウィークも始まる前から、先輩に校舎裏に呼ばれるほど嫌われるとは思っていなかった。
「女子に粉かけばっかして恥ずかしくねえのか!」
大柄な先輩二人が圧をかけてくる。なんとか宥めたいのは山々だったが、まず言っていることがよくわからない。身に覚えがない。
「やー……あはは、ですよねえ……僕、ほんとしょうがないやつで……ほんとにすみません……」
苦笑いを浮かべてとにかく同意と謝罪を繰り返してみたが、軽く聞こえるようでヒートアップさせてしまった。
「お前、マジで……一年が調子乗ってんの何なんだよ……ッ!」
握りこぶしが震えるのを見て背筋が凍るが、どうしようもない。木の下に追い込まれて逃げようがないし、かといって応戦できるような戦闘力もない。中学生のころだって諍いに巻き込まれることはそれなりにあったが、ここまで暴力が眼前に迫ってきたことはなかった。
楽しくのんきな高校生活を期待していたのに。
自分の頭くらい粉砕できそうな大きな手が四つと、赤くなっている顔が二つ。見比べるほどに眼の前が暗くなる。
——ぱち。
「……?」
なすすべもなく身を縮めていると、不意に安っぽい音が響いた。
「おはようございまーす」
力の抜けた静かな声とともに、再び軽い音が鳴る。
ぱち。
「は……」
先輩方が振り返ったところで、さらにもう一度鳴った。
ぱち。
先輩方と同じほうへと眼を向けると、少し離れたところ、校舎の角に細身の生徒が立っていた。顔の前におもちゃじみたカメラを構えている。先ほどの軽い音はシャッター音だったらしい。胸元の校章は青、自分と同じ一年だ。
そこまでは理解できたが、しかし状況はさっぱりわからない。誰一人挨拶を返さずにいると、男子生徒はカメラを下ろして小首を傾げた。
「おはようございます」
落ち着いた声によく似合う、涼しげな顔立ちをしていた。
「おはようございます……?」
つい、状況も考えずに挨拶を返してしまう。しかし先輩方の反応はちがった。
「って、めえ! 何やってんだ!」
一時の驚きがすぎると怒りが倍になって帰ってきたらしく、険悪な怒鳴り声が上がった。自分に向けられたわけでもないのに思わず飛び上がっている間に、先輩方二人は肩を盛り上げて男子生徒の元へ突進していってしまう。
彼は逃げなかった。困ったように眉を下げただけで律儀に待っている。
「写真部の活動です」
眼の前まで詰め寄られたところで、これまた律儀に返事をする。
「そ、ういうこと言ってんじゃねえよ!」
線が細いから気づかなかったが、平均くらいの先輩たちと並んでみると背が高いのがよくわかる。先輩たちも間近に詰めてみて気づいたのか、少し気圧されたようだった。
「勝手に何撮ってんだっつってんの!」
「どういうつもりだよ!」
「なんとなく、絵になるな、と思いまして……」
対する彼は威圧するでもなく、遠慮がちに眼を伏せた。自分と同じでとても喧嘩ができるような体つきには見えなかったが、静かな佇まいが返って凄みになっている。
「………」
どうしたものか。彼が引きつけてくれているうちに人を呼びにいくべきか。しかし、助けにきてくれたらしい人を置いて逃げるようなことをするのはいかがなものか。
迷っていると、彼の後ろから丸っこい影がぬっと顔を出した。
「ゆうき」
男子生徒だ。短く口にした音が何なのか、誰の名前なのか、一瞬判断に迷ったが。
「あ、すみません。急にいなくなって」
どうやら、彼の知り合いらしい。これまた喧嘩には向いてなさそうな見た目の生徒だったが、大柄な生徒が二人も怒っていることなど気にせず、というか視界にも入っていない様子で、彼が構えたままのカメラに視線をやる。
「何撮ってたんだ」
「焼入れです」
「伝統芸能だな。高校生らしく爽やかでいいじゃないか」
どこかとぼけた会話だ。内容が一歩遅れて頭に入ってくる。登場人物が増えて戸惑っていた先輩方がようやく怒りを再燃させた。
「てめえら……!」
「二度目があれば証拠にもなる。ネットに出してよし、学校に出してよし、警察に出すのもいい。才能あるよ、お前」
「……なっ⁉︎」
「ありがとうございます」
後から来た男子生徒はそこでようやく先輩方に視線を向けた。眼鏡の奥の鋭い瞳が今にも掴み掛からんとしていた先輩方を冷ややかに睨めつける。
「そういうわけだから、つまらんことはこれっきりにしろよ、お前ら」
何部なのか、知ってるぞ。
部活に言及された途端、肩を怒らせていた先輩たちの身体から芯が抜けたようになった。しおしおと背を丸め、口をつぐんでしまう。高校生の、それもよく鍛えられた身体をした生徒への脅し文句として「部活」という単語は威力抜群だった。やり返す気配を見せなかった細身の彼に対して、先輩らしき男子生徒はなかなかの性格をしているようだ。
敵が完全に戦意喪失したのを確認して鼻を鳴らすと、男子生徒はさっさと踵を返した。
「行くぞ」
「え、あ、はい」
自分への声かけは一度もなかった。先輩方がこれ以上何かすることはないと判断したのだろう。いなくなってしまう前にお礼を言うべきなのはわかっていたが、展開があまりに早くてついていけない。ただ、助けてくれた彼の顔を見つめる。
彼は一度だけこちらを見て、すぐに眼を伏せた。小さな会釈だけ残して去っていく。
最後に見せた、気づかわしげな、ほのかな笑みだけがまぶたの裏にずっと焼きついていた。
✕
そこまで言われれば思い出す。というか、出来ごと自体は記憶にちゃんと残っている。
しかし。
「……あれ、花村さん?」
「そうだよ。顔、見なかった?」
「見なかった……し、写真焼いてみたら、被害者の顔は写ってなかったし……」
確かに去年の春、お節介を焼いた記憶はある。大きな先輩二人に小柄な男子生徒が詰められていたものだから、放っておくのもあまりよくないかと思ってちょっかいを出した。写真部に入ったばかりで、穂波先輩に「とにかくまずはいろいろ撮ってみろ」と言われるままカメラを持ってうろうろしていたときだった。
高校生にもなってあんなことする人いるんだな、怖いな、と、それだけの記憶として残っていた。
それだけの記憶のはずだった。
「僕にはすごい鮮烈な出来ごとだったのに、ゆーきくん、図書館で会ったとき全然覚えてなさそうだからびっくりしちゃったよ」
呆然とする俺を見て、花村さんが肩をすくめる。悪びれる様子はない。確かに悪いことはしていない。ちょっとした、軽いいたずら程度のことだ。
だけど俺にとっては大きな意味のある告白だった。
「……最初から、俺のこと覚えてた……?」
呆然と尋ねる。花村さんはあっさりと頷く。
「うん。っていうか助けてもらったあと、他のクラスにまで『一年のゆーきくん』について聞き回ったし、いつ声かけようって窺ってた」
「——……」
ずっと疑問に思っていた。
この人なんで俺と遊んでくれてるのかなあ、と。
その答えが、やっとひとつわかった。
窮地を救われたから。もうだめだ、と思ったときに劇的に救い出されたから。
だけど、だけどそんなの——
「ゆーきくんと友だちになりたいって思ってたから」
——俺と同じじゃないか。
「そ……っか……」
疑問が解消されてすっきりしてもいいはずなのに、不安で胸が疼く。
最初から距離が近かった理由とか、いつも甘やかしてくれていた理由とか、その他の疑問まで一緒に片づいてしまいそうで、一番望まない形で答えを示されてしまいそうで、心臓が逃げ惑っている。
だけど花村さんは逃げる隙を与えてくれない。
「だからさ、僕は本当の最初も、今日も、絶体絶命ってときに限ってゆーきくんに助けられちゃってるんだ。ってなったらさ」
答えを懸命に見ないようにする俺を、大きな瞳でまっすぐに見つめてくる。
「いいとこ見せたいって気持ち、わかるでしょ?」
全部、俺と「同じ」だったからではないか、なんて。
「……わ、かる……わかる……けど……」
確定ではない、俺の直感で推測で、ほとんど妄想に過ぎないのに、それでも受け止めきれない。
もし、答えが今俺の思ったとおりなら、これまでの俺の足掻きはなんだったのか。はじめから無駄だったということじゃないか。
最初から、花村さんに片想いを続けるなんて、できっこなかったということじゃないか。
前提から覆されてしまう感覚に、足許がおぼつかなくなる。狼狽える俺とは対照的に花村さんは揺らがない。「ちょっと仲のいい友人」に向けるにはあまりに真摯な眼差しに耐えきれず、眼を背けた。
「——」
瞬間、全身が凍りついた。
「………」
言葉が出てこない理由がひとときに塗り替えられる。やっとの思いで息継ぎする。
「ゆーきくん……?」
俺の反応がおかしいと気づいたようで、花村さんが戸惑っているのがわかる。だけど返事ができない。俺の視線の先、地面に長く伸びる二本の影のうち小柄なほうが揺らぎ、俺と同じように強張った。
「——っ」
影が、ひとつ多い。
長いほうが俺の影、花村さんのは頭半分くらい短い。その間にこんもりと一塊の影がある。山陰に似た形をしているが、かすかに動いている。蠢いている。細い枝葉を、指をさざめかせて少しずつ大きさを増している。
近づいてきている。
呪いだ。
花村さんの告白で頭がいっぱいになっていたせいか、まるで気づかなかった。花村さんの反応をみるに、まだ掴まれてもいないらしい。いつもとちがう動きをしていることが不気味で、さっさと逃げたほうがいいだろうことはわかっているのに意味もなく影の揺らぎを注視してしまう。知っている生き物のどれとも似つかない歪な形が硬い震えを帯びていることに気づき、血の気が引く。
怒っている。
理由は幾つだって思いつく。逃げたから、姿を見たから、俺が踏みつけたから。思いつくほど、足がすくんで逃げられなくなっていく。
「………!」
不意に肩に何かがぶつかった。花村さんだ。俺が何か言うより早く手を握られる。細い、熱い指が俺の指の間に潜り込む。影を追い出すように、空気すら入れないほど、ぎゅっと繋がれる。冷や汗が吹き出した。
「花村、さん……」
つぶやく声は情けなく掠れている。呪いの発する嫌な気配と、花村さんから向けられる感情が濃くなっていく。
「……大丈夫。今度は僕が頑張る」
すぐそばで囁く声が鼓膜にこびりついた。路地での花村さんとはちがう。小さな身体は震えていない。
足をすくませる俺を守ろうという決意が、呪いと一緒くたになってまとわりついてくる。
恐怖と不快がない混ぜになる。ひとかたまりになる。
「………っ」
自分が何を拒絶しているのか、わからなくなる。
背後の影が俺たちの横幅を超えて大きく膨らんだ。細い指がいっそう強く、俺の手を握りしめる。
「これ以上、邪魔させない……っ!」
瞬間、限界まで高まった不快感に飲み込まれた。
「——ッ!」
声にならない悲鳴が喉から迸り、完全に制御を失った手がまとわりつくものを払いのけた。
勢い余ってその場にひっくり返るが、構わずに腕をはたく。こびりつく気持ち悪さを拭い去ろうと何度も擦る。それでは足りずに爪を立てる。頭が真っ白になって、自分が何をしているのかわからない。
あちこちにみみずばれを作り、悍ましさを痛みで上書きし尽くして、ようやく勝手に暴れ回っていた手は止まってくれた。
「………」
へたり込んだまま荒々しく肩を上下させる。ここまで拒絶反応を爆発させてしまったのは初めてだった。半ば放心状態で顔を上げると、影はもう消えていた。赤い夕日と長く伸びる道があるばかりだ。土のにおいの混ざった風が鼻先を掠めていく。
「ゆーきくん……」
ぽつ、と呼びかけられた。回りきらない頭が機械的に声の主へと眼をやる。
「ぁ……」
丸く見開かれた眼が俺を見ていた。
そこで本当に我に返った。
自分が何を払いのけたのか。
誰を、払いのけたのか。
「ご……めん……」
空っぽの手が、ひんやりと空気を掴んだ。
人から好かれやすい自覚はあった。逆に嫌われやすくもあることにだって気づいていた。だけど入学早々、ゴールデンウィークも始まる前から、先輩に校舎裏に呼ばれるほど嫌われるとは思っていなかった。
「女子に粉かけばっかして恥ずかしくねえのか!」
大柄な先輩二人が圧をかけてくる。なんとか宥めたいのは山々だったが、まず言っていることがよくわからない。身に覚えがない。
「やー……あはは、ですよねえ……僕、ほんとしょうがないやつで……ほんとにすみません……」
苦笑いを浮かべてとにかく同意と謝罪を繰り返してみたが、軽く聞こえるようでヒートアップさせてしまった。
「お前、マジで……一年が調子乗ってんの何なんだよ……ッ!」
握りこぶしが震えるのを見て背筋が凍るが、どうしようもない。木の下に追い込まれて逃げようがないし、かといって応戦できるような戦闘力もない。中学生のころだって諍いに巻き込まれることはそれなりにあったが、ここまで暴力が眼前に迫ってきたことはなかった。
楽しくのんきな高校生活を期待していたのに。
自分の頭くらい粉砕できそうな大きな手が四つと、赤くなっている顔が二つ。見比べるほどに眼の前が暗くなる。
——ぱち。
「……?」
なすすべもなく身を縮めていると、不意に安っぽい音が響いた。
「おはようございまーす」
力の抜けた静かな声とともに、再び軽い音が鳴る。
ぱち。
「は……」
先輩方が振り返ったところで、さらにもう一度鳴った。
ぱち。
先輩方と同じほうへと眼を向けると、少し離れたところ、校舎の角に細身の生徒が立っていた。顔の前におもちゃじみたカメラを構えている。先ほどの軽い音はシャッター音だったらしい。胸元の校章は青、自分と同じ一年だ。
そこまでは理解できたが、しかし状況はさっぱりわからない。誰一人挨拶を返さずにいると、男子生徒はカメラを下ろして小首を傾げた。
「おはようございます」
落ち着いた声によく似合う、涼しげな顔立ちをしていた。
「おはようございます……?」
つい、状況も考えずに挨拶を返してしまう。しかし先輩方の反応はちがった。
「って、めえ! 何やってんだ!」
一時の驚きがすぎると怒りが倍になって帰ってきたらしく、険悪な怒鳴り声が上がった。自分に向けられたわけでもないのに思わず飛び上がっている間に、先輩方二人は肩を盛り上げて男子生徒の元へ突進していってしまう。
彼は逃げなかった。困ったように眉を下げただけで律儀に待っている。
「写真部の活動です」
眼の前まで詰め寄られたところで、これまた律儀に返事をする。
「そ、ういうこと言ってんじゃねえよ!」
線が細いから気づかなかったが、平均くらいの先輩たちと並んでみると背が高いのがよくわかる。先輩たちも間近に詰めてみて気づいたのか、少し気圧されたようだった。
「勝手に何撮ってんだっつってんの!」
「どういうつもりだよ!」
「なんとなく、絵になるな、と思いまして……」
対する彼は威圧するでもなく、遠慮がちに眼を伏せた。自分と同じでとても喧嘩ができるような体つきには見えなかったが、静かな佇まいが返って凄みになっている。
「………」
どうしたものか。彼が引きつけてくれているうちに人を呼びにいくべきか。しかし、助けにきてくれたらしい人を置いて逃げるようなことをするのはいかがなものか。
迷っていると、彼の後ろから丸っこい影がぬっと顔を出した。
「ゆうき」
男子生徒だ。短く口にした音が何なのか、誰の名前なのか、一瞬判断に迷ったが。
「あ、すみません。急にいなくなって」
どうやら、彼の知り合いらしい。これまた喧嘩には向いてなさそうな見た目の生徒だったが、大柄な生徒が二人も怒っていることなど気にせず、というか視界にも入っていない様子で、彼が構えたままのカメラに視線をやる。
「何撮ってたんだ」
「焼入れです」
「伝統芸能だな。高校生らしく爽やかでいいじゃないか」
どこかとぼけた会話だ。内容が一歩遅れて頭に入ってくる。登場人物が増えて戸惑っていた先輩方がようやく怒りを再燃させた。
「てめえら……!」
「二度目があれば証拠にもなる。ネットに出してよし、学校に出してよし、警察に出すのもいい。才能あるよ、お前」
「……なっ⁉︎」
「ありがとうございます」
後から来た男子生徒はそこでようやく先輩方に視線を向けた。眼鏡の奥の鋭い瞳が今にも掴み掛からんとしていた先輩方を冷ややかに睨めつける。
「そういうわけだから、つまらんことはこれっきりにしろよ、お前ら」
何部なのか、知ってるぞ。
部活に言及された途端、肩を怒らせていた先輩たちの身体から芯が抜けたようになった。しおしおと背を丸め、口をつぐんでしまう。高校生の、それもよく鍛えられた身体をした生徒への脅し文句として「部活」という単語は威力抜群だった。やり返す気配を見せなかった細身の彼に対して、先輩らしき男子生徒はなかなかの性格をしているようだ。
敵が完全に戦意喪失したのを確認して鼻を鳴らすと、男子生徒はさっさと踵を返した。
「行くぞ」
「え、あ、はい」
自分への声かけは一度もなかった。先輩方がこれ以上何かすることはないと判断したのだろう。いなくなってしまう前にお礼を言うべきなのはわかっていたが、展開があまりに早くてついていけない。ただ、助けてくれた彼の顔を見つめる。
彼は一度だけこちらを見て、すぐに眼を伏せた。小さな会釈だけ残して去っていく。
最後に見せた、気づかわしげな、ほのかな笑みだけがまぶたの裏にずっと焼きついていた。
✕
そこまで言われれば思い出す。というか、出来ごと自体は記憶にちゃんと残っている。
しかし。
「……あれ、花村さん?」
「そうだよ。顔、見なかった?」
「見なかった……し、写真焼いてみたら、被害者の顔は写ってなかったし……」
確かに去年の春、お節介を焼いた記憶はある。大きな先輩二人に小柄な男子生徒が詰められていたものだから、放っておくのもあまりよくないかと思ってちょっかいを出した。写真部に入ったばかりで、穂波先輩に「とにかくまずはいろいろ撮ってみろ」と言われるままカメラを持ってうろうろしていたときだった。
高校生にもなってあんなことする人いるんだな、怖いな、と、それだけの記憶として残っていた。
それだけの記憶のはずだった。
「僕にはすごい鮮烈な出来ごとだったのに、ゆーきくん、図書館で会ったとき全然覚えてなさそうだからびっくりしちゃったよ」
呆然とする俺を見て、花村さんが肩をすくめる。悪びれる様子はない。確かに悪いことはしていない。ちょっとした、軽いいたずら程度のことだ。
だけど俺にとっては大きな意味のある告白だった。
「……最初から、俺のこと覚えてた……?」
呆然と尋ねる。花村さんはあっさりと頷く。
「うん。っていうか助けてもらったあと、他のクラスにまで『一年のゆーきくん』について聞き回ったし、いつ声かけようって窺ってた」
「——……」
ずっと疑問に思っていた。
この人なんで俺と遊んでくれてるのかなあ、と。
その答えが、やっとひとつわかった。
窮地を救われたから。もうだめだ、と思ったときに劇的に救い出されたから。
だけど、だけどそんなの——
「ゆーきくんと友だちになりたいって思ってたから」
——俺と同じじゃないか。
「そ……っか……」
疑問が解消されてすっきりしてもいいはずなのに、不安で胸が疼く。
最初から距離が近かった理由とか、いつも甘やかしてくれていた理由とか、その他の疑問まで一緒に片づいてしまいそうで、一番望まない形で答えを示されてしまいそうで、心臓が逃げ惑っている。
だけど花村さんは逃げる隙を与えてくれない。
「だからさ、僕は本当の最初も、今日も、絶体絶命ってときに限ってゆーきくんに助けられちゃってるんだ。ってなったらさ」
答えを懸命に見ないようにする俺を、大きな瞳でまっすぐに見つめてくる。
「いいとこ見せたいって気持ち、わかるでしょ?」
全部、俺と「同じ」だったからではないか、なんて。
「……わ、かる……わかる……けど……」
確定ではない、俺の直感で推測で、ほとんど妄想に過ぎないのに、それでも受け止めきれない。
もし、答えが今俺の思ったとおりなら、これまでの俺の足掻きはなんだったのか。はじめから無駄だったということじゃないか。
最初から、花村さんに片想いを続けるなんて、できっこなかったということじゃないか。
前提から覆されてしまう感覚に、足許がおぼつかなくなる。狼狽える俺とは対照的に花村さんは揺らがない。「ちょっと仲のいい友人」に向けるにはあまりに真摯な眼差しに耐えきれず、眼を背けた。
「——」
瞬間、全身が凍りついた。
「………」
言葉が出てこない理由がひとときに塗り替えられる。やっとの思いで息継ぎする。
「ゆーきくん……?」
俺の反応がおかしいと気づいたようで、花村さんが戸惑っているのがわかる。だけど返事ができない。俺の視線の先、地面に長く伸びる二本の影のうち小柄なほうが揺らぎ、俺と同じように強張った。
「——っ」
影が、ひとつ多い。
長いほうが俺の影、花村さんのは頭半分くらい短い。その間にこんもりと一塊の影がある。山陰に似た形をしているが、かすかに動いている。蠢いている。細い枝葉を、指をさざめかせて少しずつ大きさを増している。
近づいてきている。
呪いだ。
花村さんの告白で頭がいっぱいになっていたせいか、まるで気づかなかった。花村さんの反応をみるに、まだ掴まれてもいないらしい。いつもとちがう動きをしていることが不気味で、さっさと逃げたほうがいいだろうことはわかっているのに意味もなく影の揺らぎを注視してしまう。知っている生き物のどれとも似つかない歪な形が硬い震えを帯びていることに気づき、血の気が引く。
怒っている。
理由は幾つだって思いつく。逃げたから、姿を見たから、俺が踏みつけたから。思いつくほど、足がすくんで逃げられなくなっていく。
「………!」
不意に肩に何かがぶつかった。花村さんだ。俺が何か言うより早く手を握られる。細い、熱い指が俺の指の間に潜り込む。影を追い出すように、空気すら入れないほど、ぎゅっと繋がれる。冷や汗が吹き出した。
「花村、さん……」
つぶやく声は情けなく掠れている。呪いの発する嫌な気配と、花村さんから向けられる感情が濃くなっていく。
「……大丈夫。今度は僕が頑張る」
すぐそばで囁く声が鼓膜にこびりついた。路地での花村さんとはちがう。小さな身体は震えていない。
足をすくませる俺を守ろうという決意が、呪いと一緒くたになってまとわりついてくる。
恐怖と不快がない混ぜになる。ひとかたまりになる。
「………っ」
自分が何を拒絶しているのか、わからなくなる。
背後の影が俺たちの横幅を超えて大きく膨らんだ。細い指がいっそう強く、俺の手を握りしめる。
「これ以上、邪魔させない……っ!」
瞬間、限界まで高まった不快感に飲み込まれた。
「——ッ!」
声にならない悲鳴が喉から迸り、完全に制御を失った手がまとわりつくものを払いのけた。
勢い余ってその場にひっくり返るが、構わずに腕をはたく。こびりつく気持ち悪さを拭い去ろうと何度も擦る。それでは足りずに爪を立てる。頭が真っ白になって、自分が何をしているのかわからない。
あちこちにみみずばれを作り、悍ましさを痛みで上書きし尽くして、ようやく勝手に暴れ回っていた手は止まってくれた。
「………」
へたり込んだまま荒々しく肩を上下させる。ここまで拒絶反応を爆発させてしまったのは初めてだった。半ば放心状態で顔を上げると、影はもう消えていた。赤い夕日と長く伸びる道があるばかりだ。土のにおいの混ざった風が鼻先を掠めていく。
「ゆーきくん……」
ぽつ、と呼びかけられた。回りきらない頭が機械的に声の主へと眼をやる。
「ぁ……」
丸く見開かれた眼が俺を見ていた。
そこで本当に我に返った。
自分が何を払いのけたのか。
誰を、払いのけたのか。
「ご……めん……」
空っぽの手が、ひんやりと空気を掴んだ。



