夏より重い。

 このあたりは被写体を探して何度も歩き回っている。太陽がくっきりと影を落とす場所を、建物の隙間を縫って延々探し歩いた。障害物の多い道少ない道、人のいる道いない道は把握している。
 記憶を頼りに次々角を曲がり、細い道をすり抜けて、走る。視線は前に、神経は後ろに集中する。呪いのことも花村さんのことも振り返らない。
 そんな余裕などなく、ただただ逃げるためだけに全身全霊を尽くした。
「……ッ!」
 背後の気配が途切れたところで、ひときわ暗い脇道に滑り込んだ。
 二人すれ違える程度の細い路地は街の空白のような有様で、記憶のとおりごみすら捨てられていない。聳えるコンクリートの壁は、建てられてから一度も掃除されていないのではないかというほど煤けている。埃と、表通りから潜り込んでくる油じみたにおいだけが夏の熱気に蒸されていた。
 息苦しい暗がりのなかほどで、つんのめりながらも足を止めた。勢い任せに花村さんを壁際に寄せると、そのまま隠すように覆いかぶさる。酷使された肺に澱んだ空気が入り込んで咳き込みそうになるのを懸命に堪えた。息を殺して耳を澄ませる。薄闇に眼を凝らす。全身で嫌な気配を探る。
「………」
 いない。感じない。
 逃げ込んだ路地は寂しく静まり返っており、抜けた先で交わる通りも強い夕日を受けて白っぽく光るばかりだ。悍ましい化け物など影もない。遠く鳴く蝉の声が喧しい心音にうっすらと重なる。
 呪いの気配は完全に消えていた。
「ッは、ぁ……ぐ……っ」
 緊張の糸が切れた途端、一気に身体が重くなり壁に縋りついた。
 完全に膝が笑っている。息を吸っても吐いても胸が痛い。耳鳴りと頭痛が早鐘を打つ心臓に合わせて脳みそを揺らす。飲み込んだ咳が吐き気になって喉を突き上げる。それでも大きな音を立てるのはまだ怖くて、息を詰める。
「に、げきれた……かな……?」
 掠れた囁きが鼓膜を打った。さすがの花村さんも息が弾んでいる。汗を吸ったシャツが張りついて、丸っこい肩が強張っているのがわかった。うつむくついでのように頷くと、張り詰めた筋肉がふにゃりとゆるむ。
「そ……っか……はあー……助かったのかあ……」
 低められたままの声も幾分柔らかさを取り戻していた。
「呪い、めっちゃやばかったねえ……ごつかったし……助かったあ……」
 俺も生還の喜びを声に出して分かち合いたかったが、今は咳をこらえながら酸素を取り込むので精いっぱいだ。ただただ頭を揺らすようにして同意を示す。花村さんが吐息だけで笑った。
「ね。ほんと、助かった……ゆーきくんのおかげだよお……恩人……ほんと、ありがとう……」
 意図を汲んで、言葉を返してくれる。花村さんの呼吸は早くも落ち着いてきていたが、俺はまだ時間がかかりそうだった。うつむけた顔を上げることすらできない。前髪の先からぼたぼたと汗が落ちて花村さんの黒いシャツに点々としみを作る。水玉模様が描かれたそばから布地に馴染んでいくのを眺めるうち、あることに気づいた。
「………‼︎」
 とんでもない体勢を選んでしまった。
 必死だったとはいえ、花村さんを隠さなければと思ったとはいえ、これはない。「壁ドン」なんて言葉が頭を駆け抜けて、ひっくり返りそうな勢いで壁に腕を突っ張った。
「……ッごぇ……ッ⁉︎」
「うん、うん、大丈夫だから落ち着いて……」
 しかし背中へと回った腕にやんわりと止められた。そのまま背骨に沿って撫でられる。シャツ越しに伝わる手のひらの感触は優しいのに、引き寄せてくる力に抗いきれず花村さんに寄りかかる形になってしまう。
「ちょ、……ごほ……ッ!」
「いいから、しゃべらないで」
 ぐっしょり濡れた胸を預けるのは恥ずかしくて、だけど疲れ切った身体は言うことを聞かない。何か言おうとすると咳き込んでしまって、何も言えない。無力感にコンクリートの壁に額をすりつける。
「……本当、ありがとね。僕ひとりじゃ絶対逃げきれなかったよ」
 囁く声が近い。こんな距離でぜいぜい言っているのが恥ずかしい。汗が眼に入って涙が滲む。瞬きで追い出しきれずに瞼を閉ざすと、自分の心臓が情けないほど暴れ回って花村さんの胸を叩いているのが感じられて、いっそう居た堪れなくなる。
「本当に、ありがとう」
 こんな状況なのに、疲労も不安も恐怖も全部花村さんへの気持ちに変換されてしまうのが、恥ずかしくてたまらない。
 その場に膝をついて丸まってしまいたいのに、散々走り回らされて疲れているだろうのに、小さな身体は確かな力で俺を支えてくれる。
 自己嫌悪と安心感がせめぎ合っていつまで経っても心臓が落ち着いてくれなかった。
 不意に花村さんが身じろぎしたかと思うと、首筋にひんやりとしたものが触れる。
「ちょっとごめんね」
 ほのかな石鹸の香り。夏、花村さんから感じるのと、同じ香り。
「ひんやりするやつ。ちょっとは気分、ましになるかな」
 正直いって、逆効果だった。
 うなじへと汗拭きを滑らせる手つきは柔らかく、いっそ愛おしげですらあって、鳥肌が立つ。強張る身体を背中に回った腕が撫でて宥めてくる。いっそう全身に力が籠る。肩に息がかかるたび逃げ出したくなる。
 同じ香りになるほどに、胸が苦しくなる。
「……は、っな、むら……さん……」
「うん?」
「……も……十分……ありがとう」
 肺も喉も、だいぶ落ち着いてきた。必死に不快感を削ぎ落として、声を出す。好きな人のくれた優しさには感謝だけを伝えたい。
「そう?」
 壁についた腕に力を込めて、くっついていた胸を剥がした。背中に回った腕はあっさりと解ける。すぐそばで、見慣れた茶色い瞳が見上げてくる。ただ気づかわしげに俺を見ていた。引き攣る頬で笑いかける。
「……うん。だいぶ、楽になった。ありがとう」
 生理的な嫌悪感を押し殺して、眼を合わせる。花村さんはひと呼吸ぶん俺の眼を探るように見つめ、ふっと唇をゆるめた。
「——……」
 その口からは、声が出なかった。
 頬のあたりを強張らせている。どうしたのか、なんて、聞かなくてもわかった。
 足許に生ぬるいものがとぐろを巻いている。
「………」
 音もなく足首を何かが引っ掻いている。傷つけようというのではない。何かを探しているように、何かに縋ろうとしているように、かりかりと弱い力で掻いてくる。服の上から、下から。
 かりかり、かりかり。
「……は、なむら、さん……掴まれてない?」
 どちらからともなく再び身を寄せ合った。首筋に熱い吐息がかかり、頬を柔らかな髪がくすぐる。
「めっちゃ掴まれてる。し、すごい引っ張られてる……」
 呪いに追いつかれた。
 いや、追いつかれたとは限らない。呪いはいつも突然現れる。何度も経験した。だけど、姿を確認した今は受け止め方が変わってしまっていた。
 あの化け物が、足許にいる。
「——ッ」
 途端、脳みそが大騒ぎを始めた。
 どうして。どうしよう。逃げないと。どこへ。もう俺は走れない。そもそも花村さんが掴まれてるのに。引き剥がさないと。どうやって。塩とか。ない。汗なら。馬鹿か。落ち着け。落ち着け落ち着け落ち着け——
「ゆーきくん、大丈夫……?」
 間近で大きな眼が見つめていた。茶色の瞳に情けない顔をした俺が映っている。腕をさすってくれる手が震えているのに気づいた瞬間、ややこしい思索など全て吹き飛んだ。
「花村さん……」
 丸い肩を手で包み、寄せ合った体を引き剥がす。遠ざかった瞳が不安げに揺れる。真っ直ぐに見つめ返して、肌をまさぐる指から足を強引に引き抜き——
「……足踏んだらごめん」
 ぬるいものを思い切り、踏みつけた。
「は……ちょ……!」
 ぐしゃりという不快な音に花村さんのうろたえた声が重なる。足の裏には生身の人間を踏みつけたような不安になる感触が伝わってきた。足許が揺らぐような、罪悪感を掻き立てるような、嫌な感覚が這い上がる。
 知ったことか。
 振り切るようにもう一度踏みつけた。
「ッ剥がれたら一旦逃げて!」
 躊躇が戻ってくる隙を与えず、花村さんの足の間にも叩き込む。往生際悪く縋ろうとしている腕に足を絡めて引き抜く。疲労の残る身体がふらつき、歯を食いしばって踏みとどまる。
「や……」
 俺を支えようと身を乗り出した花村さんの肩を掴んで、乱暴に押しのけた。
「いいから! ひとりで! 逃げろ!」
「……ッ」
 息をのむ音が耳を掠める。躊躇うような呼吸が二度。瞬き程度の間にも気が急いて、もう一度声を上げようとしたとき、靴底が地面に擦れる音が響いた。
「——ッごめん……!」
 小さな謝罪を残して、軽い足音が遠ざかっていった。
 これでいい。状況からしてこれが最善のはずだ。俺が足を掴まれたことはない。狙われている花村さんを逃がすのが先決。大丈夫。
 引き剥がされた呪いが花のように指先を天に向けてさざめいた。花村さんを探して蠢く。動き出す。それでも隙間を埋める眼は俺を見ていた。表情がないのに、どこか悲しげに映る。
「………ふッ!」
 瞼を硬く閉ざし、もう一度脚を振り上げた。
 叩きつけると、コンクリートと靴底を打ち合せる弾音が響いた。
 恐る恐る眼を開けた先には、もう何もいなかった。



「俺はなんともなかったし、花村さんもなんともなくてよかった……」
「うん……」
 俺のしょうもない励ましに、花村さんが悄然と頷く。
 眼の前に伸びる影はいつも以上に身長差が開いて見えた。住宅街の屋根を掠めて届いた西陽がうなじをじりじりと炙る。
 こんなに落ち込む花村さんを見たことがなくて、かける言葉が見つからない。
「物理攻撃、有効だってわかったし……」
「うん……」
 呪いが消えたあと、抜けてしまった腰をどうにか立たせて連絡を入れ、駅前広場で合流した。
 俺の姿を見るなり花村さんは飛びついてきて、俺を前に後ろにぐるぐる回して無事を確認したかと思えば、その場にへたりとうずくまってしまった。どこか怪我でもしたのかと慌てて傍らに膝をついてみると、小さなつぶやきが耳を打った。
 何度も繰り返される、「よかった」が。
「今までで一番成果出た、と思う……」
「だね……」
 ひとまず自宅まで送り届けることにしたのだが、電車に乗っている間も降りてからもずっとこの調子だ。俺が何ともないことはよくよく確認したはずなのに、表情はずっと曇っている。
 怖かったせいか、俺ごときに庇われてしまったせいか。理由を汲みきれないまま口にする励ましはどれも効かない。
 いつも見てきたつもりでも、俺は期待していたより花村さんのことをわかっていないことを痛感する。
 いっそ黙っていたほうがいいのかもしれなかった。こんな、何かに言い訳するように響かない言葉を重ねるくらいなら。
「え、と……」
 それでも黙れないのは、なぜなのだろう。
 今日このまま別れてしまったら、次会うときに溝が残ってしまいそうで、不安だからだろうか。日傘で受けるのも難しいほど傾いた陽の光が、いつもとちがう身長差で影を落としている。それだけで慌ててしまう。
 距離がとりたかったんだろ、と頭が指摘する。
 距離をとるのと溝を作るのはちがう、と心がごねる。
 花村さんといると心と身体がばらばらになって、どちらも情けないほど制御できない。
 言葉を見つけられないまま、入り組んだ住宅街を抜ける。道はまっすぐ、畑の脇に沿って続いていた。反対側には森が広がっているが、日が沈み始めたからか蝉の声は控えめだ。
 一日の終わりが近づいている。
「………っいざってときは、俺がまた——」
「っあーあ!」
 無理やり捻り出した励ましは、花村さんが跳ねるように背筋を伸ばしたことで途切れてしまった。同時に上がったよく通る声に横っ面を張られ、飛び上がる。
「は、花村さん……?」
 驚きのあまり指先まで痺れてしまい、ぎくしゃくと視線を隣に向けた。ほとんど睨むような眼とぶつかる。俺の腰が引けるより早く、花村さんはせっかく伸ばした身体を勢いよく前に倒した。
「もう! ごめん! 今日の僕ほんとダサい! ごめん! 悔しい!」
「………え?」
 一瞬遅れて、頭を下げられているのだと気づいた。
「は……え……いや……?」
 唖然として小さな頭を見下ろす。白い指がくしゃりと髪をかき乱したかと思うと、低いうなり声とともに背中が丸まり、再びぴょんと背筋が伸びた。 
「滑り出しはよかったのになー! 結局、守られちゃうんだもんなあ! もう!」
 スニーカーが悔しげに地面を叩くたび、意外なほどに重たい音が響く。アスファルトにこびりついた土が砕けて白っぽい煙になる。森から吹き込むぬるい風が散らしていく。
 わけがわからず見守るうちに花村さんの気持ちも落ち着いてきたのか、もとのように項垂れてぽつりとつぶやいた。
「……本当はさ、今日、かっこいいとこ見せるつもりだったんだよ」
 激しさと一緒に芯まで抜けてしまったような、頼りなげな声だった。あまりの落差についていけず、首を傾げてしまう。
「えっと……?」
 すると花村さんはきっと顔を上げた。
「ゆーきくんに『やっぱ花村は最高だぜ!』って思ってもらうつもりだったの!」
「ええ……?」
 謎は深まるばかりで、俺の首もいっそう深く傾いてしまう。飲み込みの悪い俺を見て、花村さんはふっと苦笑した。思わずといった笑い方で、すぐばつが悪そうに視線を外し、乱れた髪に指を通した。
「……最近、僕のせいでめっちゃくちゃ疲れさせちゃってたでしょ? 一緒にいるの嫌になっちゃったんじゃないかと思って」
 内心ぎくりとした。飛び出そうとした弁解を、吹っ切れたようなため息が遮る。
「だからさあー! この辺りで頼れるとことか、なかなかやるなってとことか! そんなんじゃなくてもせめて一緒にいて楽しいとか! とにかく何でもいいから僕といるのも悪くないなって思ってほしかったの! ……ほしかったのにさあ……」
 独り言じみたつぶやきとともに遠くを見る眼は悔しそうにも嬉しそうにも見えた。
「……ゆーきくん、大事なときは絶対助けてくれるんだもんなあ」
 知りたかった花村さんの胸中が聞けたのに、余計にかける言葉が見つからなくなってしまった。
 俺はいつも花村さんに頼ってばかりで、俺にできないことが全部できる、持っていないものを全て持っている、いつだって一緒にいて心の浮き立つ人で、俺が助けになれたことなど一度もない。今回の騒動にしたって、ただ近くで勝手に疲れているだけで、さっきの一回こそ、ようやく力になれた最初の一回だとすら思っていたのに。
 だからこそ、好かれているのか確信が持てないのに。
「助けられてるのは、いつも俺のほうだと思うけど……」
 ようやく出てきたのは励ましではなく戸惑いだった。花村さんは黙って俺の顔を見つめてくる。大きな瞳が夕日の赤を拾って揺れる。見慣れた相貌はひとときいつもの軽快な笑顔を浮かべたが、何も言わずに崩れた。唇が一度きゅっと結ばれて、解ける。
「……最初に話したときさ」
「え、と……図書館で助けてくれたとき?」
「うん。『挨拶だけはしたことある』みたいに言ったでしょ?」
「うん? うん」
 話の行き先がわからないまま、ただ頷く。
「あれね、半分本当で半分嘘」
 そうして、花村さんは語りだした。