足は自然といつもの駅ビルに向かった。
今日の作戦はとにかく歩き回って呪いを誘い出さなければ始まらない。だというのに、ぽつぽつと言葉を交わすうち、気がつくと書店に来てしまっていた。どう考えても歩き回るのにも逃げるのにも向かない場所だ。
「ごめん、つい……」
「僕もなんか、つい足向いちゃってた」
ここ来なきゃ始まんないよね。
からっと笑う。場所変更を提案したが、花村さんは勝手知ったるとばかりに文芸の棚へと向かってしまった。促されるまま棚を眺め歩く。文庫本が色違いの装いで照明を返すのを見るうち、自然と手が伸びて頁をぱらぱらとめくってしまう。最初は遠慮していたはずなのに、心惹かれる一文を見つけると眼は続きを追っていく。
何冊か繰り返して、はたと我に返った。
「……あ、ごめん、退屈だよね」
「んーん。本読んでるときのゆーきくん、見てて楽しいよ」
てっきり呆れているかと思ったのに、花村さんは妙に嬉しそうに俺を見ていた。落ち着かなくなるような眼差しだ。手許の文庫本をことさら丁寧に棚に戻す。
「えぇ……変な顔してる?」
「じゃなくてさ」
少し抑えられた照明の下で、花村さんは眩しそうに眼を細めた。瞼が柔らかく弧を描く。
「周りから世界が消えちゃったみたいに、静かな顔してる」
愛おしい、と言わんばかりに、甘く微笑む。
「——っ」
一瞬、何が起きたかわからなかった。
全身をべたついた手に撫で回されるような不快感に絡め取られ、どっと汗が吹き出す。花村さんからの好意と、すっかりお馴染みの呪いの気配。
だけどこれはそれだけじゃなくて、誰か別の——
「ぅわ……!」
「ちょ……!」
気配を辿ろうと神経を尖らせると同時に、どすん、と俺の胸に丸い頭が激突した。
注意が一瞬にして花村さんに持っていかれる。咄嗟に腕を添えて支えるが、勢いを殺しきれずにたたらを踏んでしまった。支える俺が不安定なものだから、花村さんも足許が安定しない。二人揃ってその場でよたよたと足踏みを繰り返し、最終的に花村さんが俺の胸に縋りつくような形になってようやく止まった。
「………」
「………」
今までで一番、派手な引っ張られ方だ。二人揃って硬直してしまう。
「え、と……だ、いじょうぶ……?」
「大丈夫……ありがと」
転ばずに済んだものの、ほとんど抱き合うような状態になっている。気づくと同時に身体が逃げを打つが、腕のなかの花村さんがよろめくのを感じてどうにか踏みとどまった。反動でぎゅっと抱きしめてしまって、体温が一気に上がる。
「ッな、ら……よかった……」
動揺の意味が変わりそうなのを押し殺しつつ、そろりと足許に視線を向けた。
何もいない。
口から細いため息が洩れた。正体を確かめたいはずなのに、得体の知れないものを見ずに済んだことに安心してしまった。
「……逃げられたね」
「みたい。手強いねえ」
緊急性の高い事態が片づくと、花村さんでも呪いでもない不快感の正体が気になってくる。嫌な視線はまだ消えていない。恐る恐る発信源に眼を向けると、少し離れた場所、単行本の棚の前で、同い年くらいの青年が瞳を見開いてこちらを見ていた。
「——」
元友人だった。
私服を見るのは初めてで、一瞬誰だかわからなかったが間違いない。ここへは放課後、よく一緒に来ていたから、姿があるのも不自然ではない。なのに妙な緊張感が走り、時が止まったように見つめ合う。一歩遅れて、現状に思い至った。「俺を好きらしい」というだけで彼を拒絶したくせに、自分は好きな子に身を寄せている。罪悪感に足をすくむ。彼の頬がかすかに引きつった。
「——……」
「ゆーきくん?」
シャツの襟を引かれて、首が前に倒れた。ぎょっとするほど近くで丸い瞳に見上げられ、心臓が飛び上がる。
「っぁ、えと……っ……」
頭を真っ白にしていると、花村さんは不思議そうに首を傾げて自分の背後を振り返った。元友人はもう、平積みの棚に眼を落としていた。俺たちのことになど、はじめから気づいていなかったかのように。
「……おんなじクラスのくさはらくん、だね。仲、いいの?」
柔らかな髪がシャツ越しに腕をくすぐる。見下ろした顔は淡白な表情で元友人を見ている。花村さんと元友人は去年はちがうクラスだったし、今年に入ってからも交流している様子はなかったから、これといった感想がわかないのかもしれない。
音にならないように注意して、ゆっくりと息を吐く。
「………そうでもない、かな」
言葉にすると、つきんと胸が痛んだ。それでも何気なさを装う。小柄な身体をそっと立たせ、向き直った。丸い瞳がじっと俺を見つめる。少し笑ってみせる。
すっかり同じ温度になった胸を、冷えた空気が撫でる。
「そろそろ行こっか」
◯
そのあとは寄り道せず歩き回ることに専念したが、成果は芳しくなかった。
呪いが現れなくなったわけではない。逆だ。今回の作戦が変なスイッチでも押してしまったのではないかと心配になるほど、花村さんはあちこちで乱暴に足を引っ張られた。もはや店内の品にぶつからないようにするのが精いっぱいで、逃げるどころではない。それでも空調の効いている建物から出るのは覚悟が必要で、午前いっぱい粘ってみたが、何度やっても失敗に終わった。
結局昼食を済ませてからは屋外に出たが、やはりうまくいかない。呪いへの俺の反応も、それに対する花村さんの気づきも、タイム的には悪くないのに呪いはもっと速い。「あっ」「おっ」となったときにはもう掴まれている。
そろそろ夕方といっていい時間に差し掛かるが、全敗だった。
「なかなか手強いねえ」
「ほんとうに……」
ずいぶん斜めになった日差しを傘で受けながら、気だるいため息を交わす。駅から少し離れた通りは人通りもまばらだ。酒を出す店がいくつも並んでいるが、賑わうにはまだ少し早かった。薄く黄色味を帯びた光のなか、重くなった足を引き摺るように前へと出す。
「あ、ごめん……」
また、肩がぶつかってしまった。
「あはは、流石に疲れたよねえ」
同じ傘の下、花村さんが歩調をゆるめる。笑う声は全然疲れていなくて、こそばゆさと申し訳なさが募った。
同じ、傘の、下。
自分がさらりと流してしまったことに、愕然とする。
もちろん俺にはこんな距離感で歩く予定などなかった。ただ、外に出るとすぐに暴力的な真昼の日差しに襲われ、咄嗟に傘を譲ろうとしたら、なぜか一緒の影に収まってしまっていた。無論そこで諦めずに傘から出ようとしたのだが、呪いに邪魔されるうちに有耶無耶になって、いつの間にやらひとつの傘を共有するのが基本ポジションと化していた。意味がわからない。最初のうちは花村さんもネタにしてくれていたのに、今となっては「こういうもの」みたいな顔をしている。
せめて物理的に無理があれば俺に分があったと思うのに、傘の作る影はきっかりふたり分だった。ひょっとして姉はこの状態を想定して大きめの傘を持たせてくれたのだろうか。感謝していいのか恨んでいいのかわからない。
花村さんの体温とべたつく夏の熱気に炙られて、もはや頭が回らない。
「ゆーきくん、大丈夫?」
俺がそんな調子だから、花村さんは心配そうだ。気づかいはずっとさりげないものだったのに、俺の消耗が表に出てくるにつれて直球になってきている。
「だいじょうぶ……」
何度か涼しい場所での休憩を挟んだが、そろそろ疲労を拭えなくなってきた。ふらついた俺の腕が花村さんの肩にぶつかる回数も増えている。成果が出せないまま、限界だけが近づいてくる。
「……おれはもうちょっと、がんばってみたいんだけど、だめかな」
それでもまだ、切り上げる気になれない。
往生際悪く食い下がる俺に花村さんが眉を下げた。
「僕はもう、普通に楽しんじゃってるからいいんだけど、ゆーきくん、いける? 大丈夫?」
あまり大丈夫ではないが、引き下がれない。このまま帰るわけにはいかない。今夜思い出すのが花村さんの笑顔だけだなんて、許容できない。
「……大丈夫」
そんなの、ただのデートになってしまうじゃないか。
萎れかけた背中をぐいと伸ばす。姿勢を正すと気だるさは多少ましになった。
「せっかくここまでつき合ってもらったから、もう少しがんばらせて」
決意を持って告げると花村さんはやっとおかしそうに笑ってくれた。
「そこは僕が誘ったんだから、僕にお願いさせてよ」
「じゃ、責任持って俺が納得するまでつき合って」
「じゃなくて。そういうのは僕に言わせてよって」
肩がぶつかる。俺はふらついていない。楽しくなってきた花村さんが、よくやるやつだ。間近から、悪いことに誘うようないたずらっぽい瞳で見上げてくる。汗をかいた腕どうしがぺたりとくっつく。
「ゆーきくんがもう無理ってなるまで、つき合って」
瞬間、嫌な気配が膨らむのを感じた。
ひと息に冴えた頭が直感する。
「——ごめん」
これは花村さんじゃない。
気づいたときには日傘を放り出し、花村さんの手を引いて走りだしていた。
「え、ちょ、——っ!」
花村さんの動揺した声がアスファルトに反射する。それでも危なげなくついてきてくれて、すぐに隣に並んだ。
「呪い⁉︎ 出た⁉︎」
「の、気がする! 足、大丈夫⁉︎」
「無事! ナイスアシストありがと!」
視界の端で日傘が揺れるのが見える。どうやら花村さんが片手で畳んでいるようだ。俺が投げてしまったのを捕まえてくれたらしい。そんなことをしながら走り出すなんて、反射神経がとんでもない。
「まだいる⁉︎」
「消えてない! 気持ち悪い!」
「消えずに追っかけてくるほうだったかあ……!」
声を掛け合う間にも細い路地をいくつか通り過ぎていた。嫌な気配は背後にひたりとついたままだ。しかし、すれ違う人々は狭い歩道を全力疾走する学生に迷惑そうな顔をするくらいで、奇妙なものに驚いた様子はない。
焦っているのは俺たちだけで、街はまるで変わりない。
「なんか他の人、誰も見えてなさそうだけど!」
「でも全然、まだいる!」
これまで花村さんのたった一回、一瞬の目撃と気配だけで呪いの存在を認識してきた。いつだって姿を見ようとしたときには消えてしまっていた。
それが今、背後にある。いる。感じる。
「いると思う……けど……っ」
——追いかけてくるなら、どんな形か。
「………」
「………」
繋いだ手にどちらからともなく力がこもった。考えていることは同じだろう。
前方に人の姿が途切れたところで、示し合わせたように肩越しに振り返った。
「なん、なの……あれ……っ!」
背後に視線を向けるや否や、花村さんが聞いたことのない引き攣った声を上げた。無理もなかった。
振り向いた先、意外なほど近く。
青黒い腕の群れが絡まり合いながら地面を這っていた。
逞しい腕が幾本も集まって花村さんほどの大きさの塊になっている。芋虫の足のようにぱらぱらと動く指たちは、虚空やアスファルトをまさぐり、ひっかき、うねりながら捕らえ損ねた獲物を探している。
間違いなく、あれが嫌な気配の源——呪いだ。
あまりの悍ましさに眼を逸らせずにいると、生々しい人肌の塊のなかにところどころ何か光る部分があることに気づいた。
「………ぁ……」
眼だ。蠢く腕の隙間から覗く人間の眼が、ちらちらと西陽を返していた。
眼だと認識した途端、視線が交わる。
「——ッ!」
俺を見ている。
蝉の裏側でも鼻先に突きつけられたような不快感が全身を駆け抜けた。
指がばらばらに動くのとは対照的に、何十もの黒眼は全て一点に注がれていた。瞼がないせいかどんな感情を抱いているのかはわからない。ただ、いつも感じていた気持ちの悪さを練り固めて押しつけられるようだった。
この視線に晒されつづけるなんて、耐えられない。
「ご、めん花村さん……」
吐き気を飲み込んで呟く。顔を無理やり前に向け直す一瞬、不安げな眼と視線が重なった。繋いだままの手を強く握る。
「ちょっと振り回すよ……ッ!」
花村さんの運動神経を信じて、強引に角を折れた。
「ちょ、え、どこ行くの⁉︎」
「とにかくついてきて!」
今日の作戦はとにかく歩き回って呪いを誘い出さなければ始まらない。だというのに、ぽつぽつと言葉を交わすうち、気がつくと書店に来てしまっていた。どう考えても歩き回るのにも逃げるのにも向かない場所だ。
「ごめん、つい……」
「僕もなんか、つい足向いちゃってた」
ここ来なきゃ始まんないよね。
からっと笑う。場所変更を提案したが、花村さんは勝手知ったるとばかりに文芸の棚へと向かってしまった。促されるまま棚を眺め歩く。文庫本が色違いの装いで照明を返すのを見るうち、自然と手が伸びて頁をぱらぱらとめくってしまう。最初は遠慮していたはずなのに、心惹かれる一文を見つけると眼は続きを追っていく。
何冊か繰り返して、はたと我に返った。
「……あ、ごめん、退屈だよね」
「んーん。本読んでるときのゆーきくん、見てて楽しいよ」
てっきり呆れているかと思ったのに、花村さんは妙に嬉しそうに俺を見ていた。落ち着かなくなるような眼差しだ。手許の文庫本をことさら丁寧に棚に戻す。
「えぇ……変な顔してる?」
「じゃなくてさ」
少し抑えられた照明の下で、花村さんは眩しそうに眼を細めた。瞼が柔らかく弧を描く。
「周りから世界が消えちゃったみたいに、静かな顔してる」
愛おしい、と言わんばかりに、甘く微笑む。
「——っ」
一瞬、何が起きたかわからなかった。
全身をべたついた手に撫で回されるような不快感に絡め取られ、どっと汗が吹き出す。花村さんからの好意と、すっかりお馴染みの呪いの気配。
だけどこれはそれだけじゃなくて、誰か別の——
「ぅわ……!」
「ちょ……!」
気配を辿ろうと神経を尖らせると同時に、どすん、と俺の胸に丸い頭が激突した。
注意が一瞬にして花村さんに持っていかれる。咄嗟に腕を添えて支えるが、勢いを殺しきれずにたたらを踏んでしまった。支える俺が不安定なものだから、花村さんも足許が安定しない。二人揃ってその場でよたよたと足踏みを繰り返し、最終的に花村さんが俺の胸に縋りつくような形になってようやく止まった。
「………」
「………」
今までで一番、派手な引っ張られ方だ。二人揃って硬直してしまう。
「え、と……だ、いじょうぶ……?」
「大丈夫……ありがと」
転ばずに済んだものの、ほとんど抱き合うような状態になっている。気づくと同時に身体が逃げを打つが、腕のなかの花村さんがよろめくのを感じてどうにか踏みとどまった。反動でぎゅっと抱きしめてしまって、体温が一気に上がる。
「ッな、ら……よかった……」
動揺の意味が変わりそうなのを押し殺しつつ、そろりと足許に視線を向けた。
何もいない。
口から細いため息が洩れた。正体を確かめたいはずなのに、得体の知れないものを見ずに済んだことに安心してしまった。
「……逃げられたね」
「みたい。手強いねえ」
緊急性の高い事態が片づくと、花村さんでも呪いでもない不快感の正体が気になってくる。嫌な視線はまだ消えていない。恐る恐る発信源に眼を向けると、少し離れた場所、単行本の棚の前で、同い年くらいの青年が瞳を見開いてこちらを見ていた。
「——」
元友人だった。
私服を見るのは初めてで、一瞬誰だかわからなかったが間違いない。ここへは放課後、よく一緒に来ていたから、姿があるのも不自然ではない。なのに妙な緊張感が走り、時が止まったように見つめ合う。一歩遅れて、現状に思い至った。「俺を好きらしい」というだけで彼を拒絶したくせに、自分は好きな子に身を寄せている。罪悪感に足をすくむ。彼の頬がかすかに引きつった。
「——……」
「ゆーきくん?」
シャツの襟を引かれて、首が前に倒れた。ぎょっとするほど近くで丸い瞳に見上げられ、心臓が飛び上がる。
「っぁ、えと……っ……」
頭を真っ白にしていると、花村さんは不思議そうに首を傾げて自分の背後を振り返った。元友人はもう、平積みの棚に眼を落としていた。俺たちのことになど、はじめから気づいていなかったかのように。
「……おんなじクラスのくさはらくん、だね。仲、いいの?」
柔らかな髪がシャツ越しに腕をくすぐる。見下ろした顔は淡白な表情で元友人を見ている。花村さんと元友人は去年はちがうクラスだったし、今年に入ってからも交流している様子はなかったから、これといった感想がわかないのかもしれない。
音にならないように注意して、ゆっくりと息を吐く。
「………そうでもない、かな」
言葉にすると、つきんと胸が痛んだ。それでも何気なさを装う。小柄な身体をそっと立たせ、向き直った。丸い瞳がじっと俺を見つめる。少し笑ってみせる。
すっかり同じ温度になった胸を、冷えた空気が撫でる。
「そろそろ行こっか」
◯
そのあとは寄り道せず歩き回ることに専念したが、成果は芳しくなかった。
呪いが現れなくなったわけではない。逆だ。今回の作戦が変なスイッチでも押してしまったのではないかと心配になるほど、花村さんはあちこちで乱暴に足を引っ張られた。もはや店内の品にぶつからないようにするのが精いっぱいで、逃げるどころではない。それでも空調の効いている建物から出るのは覚悟が必要で、午前いっぱい粘ってみたが、何度やっても失敗に終わった。
結局昼食を済ませてからは屋外に出たが、やはりうまくいかない。呪いへの俺の反応も、それに対する花村さんの気づきも、タイム的には悪くないのに呪いはもっと速い。「あっ」「おっ」となったときにはもう掴まれている。
そろそろ夕方といっていい時間に差し掛かるが、全敗だった。
「なかなか手強いねえ」
「ほんとうに……」
ずいぶん斜めになった日差しを傘で受けながら、気だるいため息を交わす。駅から少し離れた通りは人通りもまばらだ。酒を出す店がいくつも並んでいるが、賑わうにはまだ少し早かった。薄く黄色味を帯びた光のなか、重くなった足を引き摺るように前へと出す。
「あ、ごめん……」
また、肩がぶつかってしまった。
「あはは、流石に疲れたよねえ」
同じ傘の下、花村さんが歩調をゆるめる。笑う声は全然疲れていなくて、こそばゆさと申し訳なさが募った。
同じ、傘の、下。
自分がさらりと流してしまったことに、愕然とする。
もちろん俺にはこんな距離感で歩く予定などなかった。ただ、外に出るとすぐに暴力的な真昼の日差しに襲われ、咄嗟に傘を譲ろうとしたら、なぜか一緒の影に収まってしまっていた。無論そこで諦めずに傘から出ようとしたのだが、呪いに邪魔されるうちに有耶無耶になって、いつの間にやらひとつの傘を共有するのが基本ポジションと化していた。意味がわからない。最初のうちは花村さんもネタにしてくれていたのに、今となっては「こういうもの」みたいな顔をしている。
せめて物理的に無理があれば俺に分があったと思うのに、傘の作る影はきっかりふたり分だった。ひょっとして姉はこの状態を想定して大きめの傘を持たせてくれたのだろうか。感謝していいのか恨んでいいのかわからない。
花村さんの体温とべたつく夏の熱気に炙られて、もはや頭が回らない。
「ゆーきくん、大丈夫?」
俺がそんな調子だから、花村さんは心配そうだ。気づかいはずっとさりげないものだったのに、俺の消耗が表に出てくるにつれて直球になってきている。
「だいじょうぶ……」
何度か涼しい場所での休憩を挟んだが、そろそろ疲労を拭えなくなってきた。ふらついた俺の腕が花村さんの肩にぶつかる回数も増えている。成果が出せないまま、限界だけが近づいてくる。
「……おれはもうちょっと、がんばってみたいんだけど、だめかな」
それでもまだ、切り上げる気になれない。
往生際悪く食い下がる俺に花村さんが眉を下げた。
「僕はもう、普通に楽しんじゃってるからいいんだけど、ゆーきくん、いける? 大丈夫?」
あまり大丈夫ではないが、引き下がれない。このまま帰るわけにはいかない。今夜思い出すのが花村さんの笑顔だけだなんて、許容できない。
「……大丈夫」
そんなの、ただのデートになってしまうじゃないか。
萎れかけた背中をぐいと伸ばす。姿勢を正すと気だるさは多少ましになった。
「せっかくここまでつき合ってもらったから、もう少しがんばらせて」
決意を持って告げると花村さんはやっとおかしそうに笑ってくれた。
「そこは僕が誘ったんだから、僕にお願いさせてよ」
「じゃ、責任持って俺が納得するまでつき合って」
「じゃなくて。そういうのは僕に言わせてよって」
肩がぶつかる。俺はふらついていない。楽しくなってきた花村さんが、よくやるやつだ。間近から、悪いことに誘うようないたずらっぽい瞳で見上げてくる。汗をかいた腕どうしがぺたりとくっつく。
「ゆーきくんがもう無理ってなるまで、つき合って」
瞬間、嫌な気配が膨らむのを感じた。
ひと息に冴えた頭が直感する。
「——ごめん」
これは花村さんじゃない。
気づいたときには日傘を放り出し、花村さんの手を引いて走りだしていた。
「え、ちょ、——っ!」
花村さんの動揺した声がアスファルトに反射する。それでも危なげなくついてきてくれて、すぐに隣に並んだ。
「呪い⁉︎ 出た⁉︎」
「の、気がする! 足、大丈夫⁉︎」
「無事! ナイスアシストありがと!」
視界の端で日傘が揺れるのが見える。どうやら花村さんが片手で畳んでいるようだ。俺が投げてしまったのを捕まえてくれたらしい。そんなことをしながら走り出すなんて、反射神経がとんでもない。
「まだいる⁉︎」
「消えてない! 気持ち悪い!」
「消えずに追っかけてくるほうだったかあ……!」
声を掛け合う間にも細い路地をいくつか通り過ぎていた。嫌な気配は背後にひたりとついたままだ。しかし、すれ違う人々は狭い歩道を全力疾走する学生に迷惑そうな顔をするくらいで、奇妙なものに驚いた様子はない。
焦っているのは俺たちだけで、街はまるで変わりない。
「なんか他の人、誰も見えてなさそうだけど!」
「でも全然、まだいる!」
これまで花村さんのたった一回、一瞬の目撃と気配だけで呪いの存在を認識してきた。いつだって姿を見ようとしたときには消えてしまっていた。
それが今、背後にある。いる。感じる。
「いると思う……けど……っ」
——追いかけてくるなら、どんな形か。
「………」
「………」
繋いだ手にどちらからともなく力がこもった。考えていることは同じだろう。
前方に人の姿が途切れたところで、示し合わせたように肩越しに振り返った。
「なん、なの……あれ……っ!」
背後に視線を向けるや否や、花村さんが聞いたことのない引き攣った声を上げた。無理もなかった。
振り向いた先、意外なほど近く。
青黒い腕の群れが絡まり合いながら地面を這っていた。
逞しい腕が幾本も集まって花村さんほどの大きさの塊になっている。芋虫の足のようにぱらぱらと動く指たちは、虚空やアスファルトをまさぐり、ひっかき、うねりながら捕らえ損ねた獲物を探している。
間違いなく、あれが嫌な気配の源——呪いだ。
あまりの悍ましさに眼を逸らせずにいると、生々しい人肌の塊のなかにところどころ何か光る部分があることに気づいた。
「………ぁ……」
眼だ。蠢く腕の隙間から覗く人間の眼が、ちらちらと西陽を返していた。
眼だと認識した途端、視線が交わる。
「——ッ!」
俺を見ている。
蝉の裏側でも鼻先に突きつけられたような不快感が全身を駆け抜けた。
指がばらばらに動くのとは対照的に、何十もの黒眼は全て一点に注がれていた。瞼がないせいかどんな感情を抱いているのかはわからない。ただ、いつも感じていた気持ちの悪さを練り固めて押しつけられるようだった。
この視線に晒されつづけるなんて、耐えられない。
「ご、めん花村さん……」
吐き気を飲み込んで呟く。顔を無理やり前に向け直す一瞬、不安げな眼と視線が重なった。繋いだままの手を強く握る。
「ちょっと振り回すよ……ッ!」
花村さんの運動神経を信じて、強引に角を折れた。
「ちょ、え、どこ行くの⁉︎」
「とにかくついてきて!」



