作戦開始から一週間、俺の不安はゆっくりと現実味を帯びてきていた。
金曜日の図書館、最上階。直行した視聴覚ブースはすべて一人用だ。せいぜい一畳程度の床面積はほとんど機材で埋められており、わずかに顔を覗かせている絨毯の上で俺はぐにゃりと身体を畳んでいた。壁が硬くてあちこち痛いがもはやどうでもいい。床に支えられる安定感には代えられない。
「ごめんね。僕が無茶させてるから……」
そんな腑抜けた俺を花村さんはしょんぼりと見下ろした。モニタ前の椅子に後ろ向きに腰掛けて、背もたれの上に添えた指先をきゅっと丸める。いつもの心配とは毛色がちがう、「お詫びしたいのにできることが見つからない」とでもいうような途方に暮れた顔だった。
「ちがう……ちがうよ……」
俺の喉からは掠れた声しか出ない。防音の効いた場所に逃げ込んだおかげで気分はだいぶましになってきていたが、首をわずかに振って見せただけで眼が回った。慌てて瞼を閉ざし、眩暈が去るのを待つ。
俺がそんな情けないざまを晒しているせいか、花村さんの声は浮かないままだ。
「でも、ゆーきくん、作戦始めてからいっつも顔真っ青だよ」
「あぁ……はは……」
笑うしかなかった。どんな強がりを言ったところでこんな状態では白々しいだけだろう。
しかし、だ。
「……本当に、花村さんのせいじゃないよ」
そこだけは否定しておきたい。「周囲を警戒する」ということが自分にとってどういう意味を持つのか、甘く見ていた俺が悪い。
呪いセンサー作戦が決まってすぐ、解決を急いだ俺は一気に神経を尖らせた。花村さんに向けられた強い感情を見つけよう、ファミレスで感じた変な感触を探そう、と。しかし元々過敏な俺に狙ったものだけ拾うなんて器用な真似ができるわけがなく、自分に向けられている感情をもろに食らう羽目になった。
前から感じていた不快感は解像度が上がり、「気のせい」は確信に変わって、気づいていなかった細々した好意までどろりと全身にまとわりつく。
ぬるい手に全身を逆撫でされるような気持ち悪さが、常につきまとうことになった。
精神を削ってくるのは生理反応だけではない。
「俺が自意識過剰のナルシスト野郎ってだけ……あれもこれも恋愛感情みたいに感じちゃう……」
とにかく自己嫌悪が凄まじい。いくらなんでも感じる「恋愛感情」が多すぎる。ただの親愛を俺が変に受け取っているとしか思えない。無意識の思い上がりを突きつけられて羞恥のあまり頭が煮えそうだった。
「そういうわけだから、俺の顔が青いのは十割俺の自業自得だよ」
ため息とともにうっすらと眼を開く。胸はまだ澱んでいるが、出先ではこれ以上待っても全快とはいかない。帰ってひとりの部屋で休めばすっきりするだろう。一週間も経てば不調とのつき合い方もわかってくるというものだ。
浅く肩をすくめて見せると、花村さんは重々しく口を開いた。
「慰めになるか……っていうか、そもそも言っていいのかわかんないけど……ゆーきくんってじつはモテるんだよ」
「ダウト。華やかな方々の視線にまで気持ち悪くなるんだから、さすがに俺がおかしい」
「………」
「おねがい、ここでだまらないで……」
首をもたげて見上げると、花村さんは意味ありげに微笑んだ。じわりと不安が込み上げる。
不調の原因が全て自業自得というのは嘘ではない。しかし、生理反応と自己嫌悪だけが原因というわけでもない。俺を一番消耗させるものは別にあって、それは花村さんにだけは言えないことだった。
「……冗談、ですよね?」
恐々と尋ねると、花村さんの笑みが深くなった。さっきまでのすまなそうな顔はどこへやら、小さな唇の端はいたずらっぽく持ち上がっている。天井から注ぐ無機質な照明が顔に灰色の影を落とすなか、瞳だけが光を拾って閃いた。
「ゆーきくんの近くにいたら好きになっちゃうの、仕方ないと思うなあ?」
「——」
込み上げてきた吐き気を飲み下すのに精いっぱいで、返事ができなかった。息を詰め、ほの甘い瞳の底を探る。花村さんがひそりと笑う。
「意地悪言ってごめん。冗談だよ」
白い指が伸びてきて、動けない俺の前髪を払った。触れた場所から痺れが駆け抜けて、治りかけた眩暈がぶり返す。
「みんなゆーきくんのこと好きだろうけど、きっと恋じゃないよ」
みんなは、ね。
「——ッ」
頭がぐらつくままにうつむいた。落ち着こうと胸を撫でると、嫌な動悸が手のひらに伝わってくる。肋骨の向こうで心臓が逃げ惑っている。胃がかき回される。
「……っです、よね……」
生理反応よりも自己嫌悪よりも、花村さんといることが負担になっていた。
作戦を開始してから、朝も、昼も、放課後も、それどころか短い休み時間も授業の組み分けすらも一緒に過ごすようになり、比例して花村さんの怪しい言動を食らう頻度も上がった。頻度が上がれば疑惑も深まる。加えて、周囲に揶揄われる回数が増えたのも悪かった。俺たちの距離感がおかしいという客観的な証拠に思えてしまう。
花村さんに聞くまでは本当のことなんてわからないのに、状況証拠が不快感を増幅させる。
それでも、ただ不快なだけならまだよかった。不安なら、前から抱えていた。
俺の精神を削っているのは、今まで感じたことのない「恐怖」だった。
接触をうまくかわせなかったことを悔いるたび、周囲のからかいを否定しようと焦るたび、気持ち悪さを飲み込むたび、恐ろしい自問が脳裏をよぎる。
——もう、俺は花村さんのことが嫌いになっているんじゃないのか。
——触れたくないのも、周囲に誤解されたくないのも、気持ち悪いのも、ぜんぶ、俺がもう花村さんのことを嫌いになっているからじゃないのか。
「——………ッ」
それは想像するだけで動けなくなるほど、頭の芯が冷たくなるほど、花村さんから恋愛感情を向けられるよりよほど、恐ろしい変化だった。
だらけた姿勢のまま硬直していると、ふっと、かすかなため息が降ってきた。
「なごませたかったんだけど、失敗だったかー」
我に返った視界の端で、小さな手がきゅっと握り込まれる。椅子の背もたれに預けた腕の先で、やるせなく揺れている。緩慢に眼を上げると、見慣れた苦笑が迎えた。叱られるのがわかっている子どものような仕草で首をすくめる。
「ごめんね?」
軽い、全然悪びれない謝罪だ。それが俺に慰めさせないための気づかいだと、ずっと花村さんを見てきた俺にはわかってしまった。
それだけで、胸がきゅっとなる。
「ぁ……」
大丈夫。俺はまだ花村さんが好きだ。
かすかな胸の高鳴りを逃さず確かめて、安心する。それはそれで苦しいものがある。もう気持ちは変わってしまっているのに、無理やり恋の形に押し戻しているようで。
大切にしてきた心を自分の手で歪めているようで、悲しかった。
「……もう俺の不調は通常運転として、呪いのほうを気にしてくれよ」
それでもまだ、この気持ちを捨てたくない。
好きも嫌いも断言できないような有様だが、それだけは確信を持っていえた。
呪いを解決して冷却期間を作って、また、ただただ浮かれていたころに戻ってみせる。
意識してなんてことはない苦笑を返すと、いつもの調子で頬を膨らませた花村さんが背もたれにぐたりと上体を預けた。やっといつもの空気が戻ってくる。
「気にするって言っても、あまりに脈絡がないっていうかなんていうかさあ……」
「常時全方位から襲ってくる感じだよね……」
「おばけ屋敷のほうがまだ親切だよねえ」
俺の心は混迷を極めていたが、呪いのほうは至って明快だ。進展なし。というより、最初に聞いていた話よりも明らかに悪化していた。
教室を出るとき、廊下の角を曲がるとき、机の間を通るとき、自動ドアを潜るとき、書架の横を通るとき、席を立つとき、などなど。学校内外を問わず、花村さんはとにかくつんのめっては俺にぶつかっている。調査を始めてこちら、頻度は増すばかりだ。直前に俺が気づくから幸い頭を強打するようなことはないものの、回数を重ねるごとに衝撃が強まっており、そのうち初日のように受け止めきれなくなる可能性が出てきた。俺の心臓にもいろいろな意味で悪い。捨て身の作戦を一週間も続けたのはこの状況があってのことだ。
しかし。
「せめて犯人の目星がつけられればよかったけど、それもよくわからんし……」
俺に向けられた感情にもみくちゃにされてしまって、花村さん宛のものが判別できない。そもそも感じ取れているのかどうかすら判断不能だ。
代わりにというか、呪いらしきものは意識しはじめた途端、はっきりと感じ取れるようになった。
それはいつも俺の足許をすり抜け、花村さんのほうへと向かう。ぬるりと肌を擦りつけられるような感触は、何度味わっても慣れることがない。最初のように飛び上がることこそなくなったが、代わりに気配を感じるだけで足がすくむようになってしまった。
「呪いが来たほうには怪しい子、いなかったんだよね?」
「うん……誰もいなかったり、いてもこっちのこと見てすらいなかったり……」
まとめると、成果は皆無で俺がただただぐったりしただけの一週間だった。吐き出す息が重くなってしまう。
「……そろそろ進展がほしいね。今のところは無事で済んでるけど……」
「僕、『ラッキースケベ花村』の称号を獲得しつつあるからね」
「どちらかというと『アンラッキーアタック花村』では……」
客観的に見れば、エグい呪いのせいででかい男に激突しているだけでラッキーもスケベも皆無だ。不名誉すぎる。
「花村さんの汚名返上のためにも、次の手を考える時期かもな……」
鞄のなかの容疑者名簿はいつも頭の片隅にある。精度は低いし罪悪感が消えたわけではものの、だめ元で見せてみる時期に来ているのかもしれない。なんとなく見ないようにしていたが、一度、ひとりで見直してみるべきか。
「………」
不意につむじのあたりに視線を感じて、思案を打ち切った。花村さんがじっと俺を見下ろしている。首を傾げてみるとふっと唇がゆるめられた。
「ちょっと調子戻ってきたね」
さっきの、無理したような笑い方ではない。不安にさせるような湿った微笑みでもない。俺の好きな、軽やかだけど柔らかい、いつもの笑い方だった。
「……うん」
「よかったあ」
伸びてきた手から、今度は逃げなかった。さっきとは別の理由で逃げられなかった。細い指が髪を梳く。優しい手つきだ。心臓はひととき不安げに軋んだが、すぐに何も怖いものはないのだと理解した。ことことと子どものようにはしゃぎだす。
これは絶対、恋じゃない。
初めて助けてくれたときの秋のにおいが甦る。やめないでほしくて、つい首が傾いてしまう。今後を思えばかわしたほうがいいのはわかっているのに、もう少しだけ、こうしていたい。
ずっとこうして、喜んでいたい。
◯
と思っていたのに、翌日、土曜。
俺は朝から厳しい日差しの降り注ぐなか、駅前広場で花村さんを待っていた。
姉が選んでくれた「しゅっとして見える」シャツの襟を何度も正し、整えてもらった前髪に無意味に触れる。さしている日傘も姉に持たされたものだ。暑さでだらしなくへばらないようにように、と。
——デートでは己の持てるすべてを尽くして、かっこつけなさい。
「………」
デートじゃない。作戦だ。
自分で訂正するたび、帰りたくなっている。こんなはずではなかった。土日を挟めば花村さんに会える月曜日が楽しみになっているはずだった。いつもそうだ。それがあるから一週間密着生活を乗り切れた節まである。
だけど、帰れない。
今日は、一日がかりの作戦があるから、帰れない。
話は昨日、図書館の視聴覚ブースにいたときに決まった。俺の具合がだいぶましになったところで、花村さんが切り出した。
「逃げてみるの、どうかなって思うんだよね」
「逃げる?」
何からどう、というイメージがすぐには湧かなかった。溶けていた身体を起こし、詳しく聞く構えをとる。花村さんは椅子の背もたれの上で細い腕を組んだまま、身を乗り出した。
「ゆーきくんがびくってなったら、掴まれる前に逃げてみるの」
「ああ、そういう……」
「呪いって、僕の足掴んだらすぐに消えちゃうじゃない? 姿とか、手掛かりになりそうな情報を見つける隙なしって感じで。じゃあ逃げたらどんな反応するか、試してみるのもいいんじゃないかな」
「なるほど。諦めて消えるのか、追いかけてくるのか。追いかけてくるなら、どんな形か……」
「逃げたら消えるなら、別に解けなくてもいいかなーってちょっと思ってるんだよね」
俺は困る。期限があるからかろうじて呪いセンサーとして稼働できているのに、現状を通常仕様にするとなったら絶対に破綻する。
「……手がかり、見つけよう。絶対」
方針が決まればではいつどこで試すかだ。「さすがに学校で鬼ごっこは先生に怒られるだろう」「教科書背負って走るのはきつくないか」と検討を重ねた結果、「明日土曜だし、一日かけて実験してみようよ」ということになってしまった。
「……………」
花村さんと休日に出かけることは、じつはあまりなかった。好きな人と出かけて失敗を繰り返してきた俺は及び腰で、花村さんも俺が乗り気でないのを察してか誘ってこなかった。ほぼ初デートだ。
いやデートじゃない。作戦だ。
一週間前なら自分を戒めるために言い聞かせていただろうのに、今は「変な意味はないから大丈夫」と自分を安心させるために唱えている気がする。まるでおまじないだ。
ため息とともにうなだれる。足許に落ちる影は夏空を取り込んで青く濃い。耳の奥で姉の「かっこつけろ」という声に叱られて重たい首をもたげると、鮮やかな夏の光が眼をくらませた。猛暑とはいえ晴れた休日、周囲の店舗が開き出す時間が近づいて人通りは増えてきている。蝉の音とはしゃぐ声が混ざり合う。浮ついていく広場の隅、ひとり重たいものを腹に抱えながら、改札につながる階段をじっと睨んだ。
「……?」
ふと嫌な感じがして、視線を転じる。まさか花村さんじゃあるまいな、と思ったが、いたのは俺と同年配の女の子二人組だった。少し離れた日陰から、こちらを見て何やら話している。笑われているのかと思えば、視線の感じがちがう。首の後ろがざわつく。
「………」
真意を確かめたくて眼を凝らすうち、視線が合ってしまった。二組の瞳が光った気がして即座にうつむく。急激に存在感を増した嫌な気配がこちらに向かって近づいてきた。
やってしまった。知らん顔しておけばよかった。
変な汗が吹き出し、足がすくむ。いっそ逃げ出したいが、待ち合わせ時間まで残り十分を切っていた。動くわけにはいかない。
身体を硬くして頭のなかで逃げ口上をこねくり回していると、俺の靴の正面にネオンカラーのスニーカーが踏み込んできた。
「おーまーたーせっ!」
「うぉ……!」
驚かせるように覗き込んできた顔は、よく知っている顔だった。
「は、なむら、さん……?」
呆然と呼ぶと、おかしそうに笑った。
「花村さんでーす。おはよ!」
「おはよ……」
正体を確かめたのに、衝撃が引かない。だって、花村さんが制服じゃない。いつもなんとなく明るい色の印象なのに、身体を包むゆったりしたシャツもパンツも黒だ。
俺の知らない花村さんだ。
「おーい。大丈夫? 無事?」
眼の前で白い手がひらりと振られる。
「ぶじ……だけど……」
ふんわりと巻いた髪から眩しい赤のスニーカーまで、視線を走らせる。驚いた心臓が肋骨を叩いている。驚きが過ぎ去っても、高鳴りは治らない。
「な、んか……花村さん……」
「かわいいね」
「は……」
自分の口から本音が出てしまったのかと思った。動揺を知覚するより速く、腕をするりと絡められる。急展開に全身が硬直した。
「ぁ……ぇっ……!?」
「呪いより狩人たちを警戒しなきゃかも」
耳許で花村さんが囁く。ぎゅっと腕を抱くとともにさり気なく脇腹を肘でついてきた。見れば、女の子二人がぽかんとしてこちらを見つめている。やがて何ごとか耳打ちし合い、白けたように去っていった。どういう関係と思われたのか、こそばゆさと焦燥感が同時にやってくる。
「ぁ……ぁり、がとう……」
「いーえー、邪魔されちゃたまんないよお」
「………」
何を邪魔されたら困るのか、なんてわかっている。
「……そうだね」
デートじゃない。作戦だ。
彼女たちが雑踏に紛れていくのを確認して、花村さんが一歩前に出る。腕が解ける。小さな手が俺の手を軽く握って、離れていった。
「ぁ……」
炎天下にあっても腕は少し寒くなり、指の腹にはいつもより少し高い体温がべたりと残る。
取り残されている俺を肩越しに振り返って、花村さんが笑った。
「いこ」
「………うん」
金曜日の図書館、最上階。直行した視聴覚ブースはすべて一人用だ。せいぜい一畳程度の床面積はほとんど機材で埋められており、わずかに顔を覗かせている絨毯の上で俺はぐにゃりと身体を畳んでいた。壁が硬くてあちこち痛いがもはやどうでもいい。床に支えられる安定感には代えられない。
「ごめんね。僕が無茶させてるから……」
そんな腑抜けた俺を花村さんはしょんぼりと見下ろした。モニタ前の椅子に後ろ向きに腰掛けて、背もたれの上に添えた指先をきゅっと丸める。いつもの心配とは毛色がちがう、「お詫びしたいのにできることが見つからない」とでもいうような途方に暮れた顔だった。
「ちがう……ちがうよ……」
俺の喉からは掠れた声しか出ない。防音の効いた場所に逃げ込んだおかげで気分はだいぶましになってきていたが、首をわずかに振って見せただけで眼が回った。慌てて瞼を閉ざし、眩暈が去るのを待つ。
俺がそんな情けないざまを晒しているせいか、花村さんの声は浮かないままだ。
「でも、ゆーきくん、作戦始めてからいっつも顔真っ青だよ」
「あぁ……はは……」
笑うしかなかった。どんな強がりを言ったところでこんな状態では白々しいだけだろう。
しかし、だ。
「……本当に、花村さんのせいじゃないよ」
そこだけは否定しておきたい。「周囲を警戒する」ということが自分にとってどういう意味を持つのか、甘く見ていた俺が悪い。
呪いセンサー作戦が決まってすぐ、解決を急いだ俺は一気に神経を尖らせた。花村さんに向けられた強い感情を見つけよう、ファミレスで感じた変な感触を探そう、と。しかし元々過敏な俺に狙ったものだけ拾うなんて器用な真似ができるわけがなく、自分に向けられている感情をもろに食らう羽目になった。
前から感じていた不快感は解像度が上がり、「気のせい」は確信に変わって、気づいていなかった細々した好意までどろりと全身にまとわりつく。
ぬるい手に全身を逆撫でされるような気持ち悪さが、常につきまとうことになった。
精神を削ってくるのは生理反応だけではない。
「俺が自意識過剰のナルシスト野郎ってだけ……あれもこれも恋愛感情みたいに感じちゃう……」
とにかく自己嫌悪が凄まじい。いくらなんでも感じる「恋愛感情」が多すぎる。ただの親愛を俺が変に受け取っているとしか思えない。無意識の思い上がりを突きつけられて羞恥のあまり頭が煮えそうだった。
「そういうわけだから、俺の顔が青いのは十割俺の自業自得だよ」
ため息とともにうっすらと眼を開く。胸はまだ澱んでいるが、出先ではこれ以上待っても全快とはいかない。帰ってひとりの部屋で休めばすっきりするだろう。一週間も経てば不調とのつき合い方もわかってくるというものだ。
浅く肩をすくめて見せると、花村さんは重々しく口を開いた。
「慰めになるか……っていうか、そもそも言っていいのかわかんないけど……ゆーきくんってじつはモテるんだよ」
「ダウト。華やかな方々の視線にまで気持ち悪くなるんだから、さすがに俺がおかしい」
「………」
「おねがい、ここでだまらないで……」
首をもたげて見上げると、花村さんは意味ありげに微笑んだ。じわりと不安が込み上げる。
不調の原因が全て自業自得というのは嘘ではない。しかし、生理反応と自己嫌悪だけが原因というわけでもない。俺を一番消耗させるものは別にあって、それは花村さんにだけは言えないことだった。
「……冗談、ですよね?」
恐々と尋ねると、花村さんの笑みが深くなった。さっきまでのすまなそうな顔はどこへやら、小さな唇の端はいたずらっぽく持ち上がっている。天井から注ぐ無機質な照明が顔に灰色の影を落とすなか、瞳だけが光を拾って閃いた。
「ゆーきくんの近くにいたら好きになっちゃうの、仕方ないと思うなあ?」
「——」
込み上げてきた吐き気を飲み下すのに精いっぱいで、返事ができなかった。息を詰め、ほの甘い瞳の底を探る。花村さんがひそりと笑う。
「意地悪言ってごめん。冗談だよ」
白い指が伸びてきて、動けない俺の前髪を払った。触れた場所から痺れが駆け抜けて、治りかけた眩暈がぶり返す。
「みんなゆーきくんのこと好きだろうけど、きっと恋じゃないよ」
みんなは、ね。
「——ッ」
頭がぐらつくままにうつむいた。落ち着こうと胸を撫でると、嫌な動悸が手のひらに伝わってくる。肋骨の向こうで心臓が逃げ惑っている。胃がかき回される。
「……っです、よね……」
生理反応よりも自己嫌悪よりも、花村さんといることが負担になっていた。
作戦を開始してから、朝も、昼も、放課後も、それどころか短い休み時間も授業の組み分けすらも一緒に過ごすようになり、比例して花村さんの怪しい言動を食らう頻度も上がった。頻度が上がれば疑惑も深まる。加えて、周囲に揶揄われる回数が増えたのも悪かった。俺たちの距離感がおかしいという客観的な証拠に思えてしまう。
花村さんに聞くまでは本当のことなんてわからないのに、状況証拠が不快感を増幅させる。
それでも、ただ不快なだけならまだよかった。不安なら、前から抱えていた。
俺の精神を削っているのは、今まで感じたことのない「恐怖」だった。
接触をうまくかわせなかったことを悔いるたび、周囲のからかいを否定しようと焦るたび、気持ち悪さを飲み込むたび、恐ろしい自問が脳裏をよぎる。
——もう、俺は花村さんのことが嫌いになっているんじゃないのか。
——触れたくないのも、周囲に誤解されたくないのも、気持ち悪いのも、ぜんぶ、俺がもう花村さんのことを嫌いになっているからじゃないのか。
「——………ッ」
それは想像するだけで動けなくなるほど、頭の芯が冷たくなるほど、花村さんから恋愛感情を向けられるよりよほど、恐ろしい変化だった。
だらけた姿勢のまま硬直していると、ふっと、かすかなため息が降ってきた。
「なごませたかったんだけど、失敗だったかー」
我に返った視界の端で、小さな手がきゅっと握り込まれる。椅子の背もたれに預けた腕の先で、やるせなく揺れている。緩慢に眼を上げると、見慣れた苦笑が迎えた。叱られるのがわかっている子どものような仕草で首をすくめる。
「ごめんね?」
軽い、全然悪びれない謝罪だ。それが俺に慰めさせないための気づかいだと、ずっと花村さんを見てきた俺にはわかってしまった。
それだけで、胸がきゅっとなる。
「ぁ……」
大丈夫。俺はまだ花村さんが好きだ。
かすかな胸の高鳴りを逃さず確かめて、安心する。それはそれで苦しいものがある。もう気持ちは変わってしまっているのに、無理やり恋の形に押し戻しているようで。
大切にしてきた心を自分の手で歪めているようで、悲しかった。
「……もう俺の不調は通常運転として、呪いのほうを気にしてくれよ」
それでもまだ、この気持ちを捨てたくない。
好きも嫌いも断言できないような有様だが、それだけは確信を持っていえた。
呪いを解決して冷却期間を作って、また、ただただ浮かれていたころに戻ってみせる。
意識してなんてことはない苦笑を返すと、いつもの調子で頬を膨らませた花村さんが背もたれにぐたりと上体を預けた。やっといつもの空気が戻ってくる。
「気にするって言っても、あまりに脈絡がないっていうかなんていうかさあ……」
「常時全方位から襲ってくる感じだよね……」
「おばけ屋敷のほうがまだ親切だよねえ」
俺の心は混迷を極めていたが、呪いのほうは至って明快だ。進展なし。というより、最初に聞いていた話よりも明らかに悪化していた。
教室を出るとき、廊下の角を曲がるとき、机の間を通るとき、自動ドアを潜るとき、書架の横を通るとき、席を立つとき、などなど。学校内外を問わず、花村さんはとにかくつんのめっては俺にぶつかっている。調査を始めてこちら、頻度は増すばかりだ。直前に俺が気づくから幸い頭を強打するようなことはないものの、回数を重ねるごとに衝撃が強まっており、そのうち初日のように受け止めきれなくなる可能性が出てきた。俺の心臓にもいろいろな意味で悪い。捨て身の作戦を一週間も続けたのはこの状況があってのことだ。
しかし。
「せめて犯人の目星がつけられればよかったけど、それもよくわからんし……」
俺に向けられた感情にもみくちゃにされてしまって、花村さん宛のものが判別できない。そもそも感じ取れているのかどうかすら判断不能だ。
代わりにというか、呪いらしきものは意識しはじめた途端、はっきりと感じ取れるようになった。
それはいつも俺の足許をすり抜け、花村さんのほうへと向かう。ぬるりと肌を擦りつけられるような感触は、何度味わっても慣れることがない。最初のように飛び上がることこそなくなったが、代わりに気配を感じるだけで足がすくむようになってしまった。
「呪いが来たほうには怪しい子、いなかったんだよね?」
「うん……誰もいなかったり、いてもこっちのこと見てすらいなかったり……」
まとめると、成果は皆無で俺がただただぐったりしただけの一週間だった。吐き出す息が重くなってしまう。
「……そろそろ進展がほしいね。今のところは無事で済んでるけど……」
「僕、『ラッキースケベ花村』の称号を獲得しつつあるからね」
「どちらかというと『アンラッキーアタック花村』では……」
客観的に見れば、エグい呪いのせいででかい男に激突しているだけでラッキーもスケベも皆無だ。不名誉すぎる。
「花村さんの汚名返上のためにも、次の手を考える時期かもな……」
鞄のなかの容疑者名簿はいつも頭の片隅にある。精度は低いし罪悪感が消えたわけではものの、だめ元で見せてみる時期に来ているのかもしれない。なんとなく見ないようにしていたが、一度、ひとりで見直してみるべきか。
「………」
不意につむじのあたりに視線を感じて、思案を打ち切った。花村さんがじっと俺を見下ろしている。首を傾げてみるとふっと唇がゆるめられた。
「ちょっと調子戻ってきたね」
さっきの、無理したような笑い方ではない。不安にさせるような湿った微笑みでもない。俺の好きな、軽やかだけど柔らかい、いつもの笑い方だった。
「……うん」
「よかったあ」
伸びてきた手から、今度は逃げなかった。さっきとは別の理由で逃げられなかった。細い指が髪を梳く。優しい手つきだ。心臓はひととき不安げに軋んだが、すぐに何も怖いものはないのだと理解した。ことことと子どものようにはしゃぎだす。
これは絶対、恋じゃない。
初めて助けてくれたときの秋のにおいが甦る。やめないでほしくて、つい首が傾いてしまう。今後を思えばかわしたほうがいいのはわかっているのに、もう少しだけ、こうしていたい。
ずっとこうして、喜んでいたい。
◯
と思っていたのに、翌日、土曜。
俺は朝から厳しい日差しの降り注ぐなか、駅前広場で花村さんを待っていた。
姉が選んでくれた「しゅっとして見える」シャツの襟を何度も正し、整えてもらった前髪に無意味に触れる。さしている日傘も姉に持たされたものだ。暑さでだらしなくへばらないようにように、と。
——デートでは己の持てるすべてを尽くして、かっこつけなさい。
「………」
デートじゃない。作戦だ。
自分で訂正するたび、帰りたくなっている。こんなはずではなかった。土日を挟めば花村さんに会える月曜日が楽しみになっているはずだった。いつもそうだ。それがあるから一週間密着生活を乗り切れた節まである。
だけど、帰れない。
今日は、一日がかりの作戦があるから、帰れない。
話は昨日、図書館の視聴覚ブースにいたときに決まった。俺の具合がだいぶましになったところで、花村さんが切り出した。
「逃げてみるの、どうかなって思うんだよね」
「逃げる?」
何からどう、というイメージがすぐには湧かなかった。溶けていた身体を起こし、詳しく聞く構えをとる。花村さんは椅子の背もたれの上で細い腕を組んだまま、身を乗り出した。
「ゆーきくんがびくってなったら、掴まれる前に逃げてみるの」
「ああ、そういう……」
「呪いって、僕の足掴んだらすぐに消えちゃうじゃない? 姿とか、手掛かりになりそうな情報を見つける隙なしって感じで。じゃあ逃げたらどんな反応するか、試してみるのもいいんじゃないかな」
「なるほど。諦めて消えるのか、追いかけてくるのか。追いかけてくるなら、どんな形か……」
「逃げたら消えるなら、別に解けなくてもいいかなーってちょっと思ってるんだよね」
俺は困る。期限があるからかろうじて呪いセンサーとして稼働できているのに、現状を通常仕様にするとなったら絶対に破綻する。
「……手がかり、見つけよう。絶対」
方針が決まればではいつどこで試すかだ。「さすがに学校で鬼ごっこは先生に怒られるだろう」「教科書背負って走るのはきつくないか」と検討を重ねた結果、「明日土曜だし、一日かけて実験してみようよ」ということになってしまった。
「……………」
花村さんと休日に出かけることは、じつはあまりなかった。好きな人と出かけて失敗を繰り返してきた俺は及び腰で、花村さんも俺が乗り気でないのを察してか誘ってこなかった。ほぼ初デートだ。
いやデートじゃない。作戦だ。
一週間前なら自分を戒めるために言い聞かせていただろうのに、今は「変な意味はないから大丈夫」と自分を安心させるために唱えている気がする。まるでおまじないだ。
ため息とともにうなだれる。足許に落ちる影は夏空を取り込んで青く濃い。耳の奥で姉の「かっこつけろ」という声に叱られて重たい首をもたげると、鮮やかな夏の光が眼をくらませた。猛暑とはいえ晴れた休日、周囲の店舗が開き出す時間が近づいて人通りは増えてきている。蝉の音とはしゃぐ声が混ざり合う。浮ついていく広場の隅、ひとり重たいものを腹に抱えながら、改札につながる階段をじっと睨んだ。
「……?」
ふと嫌な感じがして、視線を転じる。まさか花村さんじゃあるまいな、と思ったが、いたのは俺と同年配の女の子二人組だった。少し離れた日陰から、こちらを見て何やら話している。笑われているのかと思えば、視線の感じがちがう。首の後ろがざわつく。
「………」
真意を確かめたくて眼を凝らすうち、視線が合ってしまった。二組の瞳が光った気がして即座にうつむく。急激に存在感を増した嫌な気配がこちらに向かって近づいてきた。
やってしまった。知らん顔しておけばよかった。
変な汗が吹き出し、足がすくむ。いっそ逃げ出したいが、待ち合わせ時間まで残り十分を切っていた。動くわけにはいかない。
身体を硬くして頭のなかで逃げ口上をこねくり回していると、俺の靴の正面にネオンカラーのスニーカーが踏み込んできた。
「おーまーたーせっ!」
「うぉ……!」
驚かせるように覗き込んできた顔は、よく知っている顔だった。
「は、なむら、さん……?」
呆然と呼ぶと、おかしそうに笑った。
「花村さんでーす。おはよ!」
「おはよ……」
正体を確かめたのに、衝撃が引かない。だって、花村さんが制服じゃない。いつもなんとなく明るい色の印象なのに、身体を包むゆったりしたシャツもパンツも黒だ。
俺の知らない花村さんだ。
「おーい。大丈夫? 無事?」
眼の前で白い手がひらりと振られる。
「ぶじ……だけど……」
ふんわりと巻いた髪から眩しい赤のスニーカーまで、視線を走らせる。驚いた心臓が肋骨を叩いている。驚きが過ぎ去っても、高鳴りは治らない。
「な、んか……花村さん……」
「かわいいね」
「は……」
自分の口から本音が出てしまったのかと思った。動揺を知覚するより速く、腕をするりと絡められる。急展開に全身が硬直した。
「ぁ……ぇっ……!?」
「呪いより狩人たちを警戒しなきゃかも」
耳許で花村さんが囁く。ぎゅっと腕を抱くとともにさり気なく脇腹を肘でついてきた。見れば、女の子二人がぽかんとしてこちらを見つめている。やがて何ごとか耳打ちし合い、白けたように去っていった。どういう関係と思われたのか、こそばゆさと焦燥感が同時にやってくる。
「ぁ……ぁり、がとう……」
「いーえー、邪魔されちゃたまんないよお」
「………」
何を邪魔されたら困るのか、なんてわかっている。
「……そうだね」
デートじゃない。作戦だ。
彼女たちが雑踏に紛れていくのを確認して、花村さんが一歩前に出る。腕が解ける。小さな手が俺の手を軽く握って、離れていった。
「ぁ……」
炎天下にあっても腕は少し寒くなり、指の腹にはいつもより少し高い体温がべたりと残る。
取り残されている俺を肩越しに振り返って、花村さんが笑った。
「いこ」
「………うん」



