駅まで俺たちの高校から徒歩十五分。膨らみきった夏に押しつぶされながら昨日と同じファミレスに向かった。
「大丈夫?」
壁際の席につくなり、花村さんが心配げに声をかけてきた。
「……っじょ、ぶ……」
話すのもきつく、首を緩慢に縦に振る。
いつも飯屋に来るのは散策後で、空調の効いた建物を歩き回るうちに汗は引いてくれていた。しかし今日は作戦会議のために学校から直で来たものだから、全身茹ってどうにもならない。
「とりあえず、水飲んで水」
対する花村さんはもう涼しげな顔をしている。おかしい。条件は同じはずなのに。基礎体力の差だろうか。
「あとこれ、使う? ひんやりするやつ」
汗拭きシートのパックを差し出されて思わず身を引いた。花村さんと同じ香りになるなんて無理だ。
「っだ……! ……い、じょうぶ……ごめんね、ぜえぜえうるさくて……」
花村さんは苦笑してあっさり手を引っ込めた。代わりに端末を取り出す。
「ゆーきくん、細っこいからなあ。いっぱい食べないと夏ばてしちゃうよ」
ってわけで早速いっぱい食べよー。
言いながら、注文画面を開いて操作しはじめた。ありがたい。献立は花村さんに任せて自分の復旧作業に集中することにする。
そうして数分後には、大量の飯物が机を埋め尽くした。
「………」
「食べられそうなの好きなぶんだけ食べてねー。残りは全部僕が食べるから」
「いつもより多くない……?」
「夏ってなんか食欲倍増しちゃうんだよね。負けてたまるかー! みたいな」
それにしても限度がある。前々からよく食べるほうだとは思っていたが、この量を小柄な身体のどこに収めるつもりでいるのだろうか。物理的に無理がある。軟弱なところを見せたせいで心配させてしまった責任を取り、俺が無理をするしかない。
ひっそり覚悟を固めていると。
「特に今は呪いとも戦わなくちゃいけないし、これじゃ足りないくらいだよ」
言うなり、いただきまあすと元気にフォークを手に取った。
パスタの口、と言っていたとおり、花村さんが最初に手をつけたのはボロネーゼだ。豪快に巻き取って次々口に運んでいく。見ているだけで腹が膨れてしまうが、ひとまず俺もそばにあるドリアにスプーンを差し込んだ。
「呪い」という言葉が出たところで、本題に入ることにする。
「……穂波先輩の説なんだけど、心当たりないかな」
「それねえ、歩きながら考えてみたんだけど、やっぱり僕目線だと難しいかなって」
ボロネーゼの皿はもう空になっていて、花村さんのフォークにはあさりのパスタが巻きついていた。咀嚼を合間に挟みながら見解を語る。
「僕って自分から人に突っ込んでくじゃない? 自分に向けられる感情に鈍感だからできることだよなーって思ってるんだよね」
「でも、気づかい上手だよね」
「特別な人限定でね」
藪蛇だった。慌ててスプーンを口に突っ込み、返事ができないふりをする。俺の思惑を知ってか知らずか、花村さんはいたずらっぽく笑った。見ていられず、眼を伏せる。忍び笑いが耳をくすぐる。鈴を転がすように、背筋を逆撫でするように。
追撃はなく、花村さんは先を続けた。
「僕のこと、まじで死ねって思ってる子も、一生捧げちゃうって思ってる子もいそうではあるけど、あんまり気にしたことないんだ。その上でただの友だちって顔されちゃったらもうお手上げだね」
やはり俺の作った容疑者名簿を出すべきか。鞄に手が伸びかけたが「でも」という声に引き留められた。
「じつはちょっと、『あて』みたいなのはあるんだよねえ」
もったいぶった言い方だ。心当たりがないといったのに、どういうことか。問い返すために顔を上げる。
「……?」
そこで不意に変な感触がした。
あんまり心地よくない触感だ。しかし花村さんはもうパスタを見ている。俺の反応を楽しみに待っている、と言った様子だった。発信源は彼じゃない。そもそもこれは視線の高さじゃない。もっと低い。胸より膝よりもっと下——
——机の下だ。
「——ッ!」
気づいた瞬間、総毛立った。
偶然か、それとも俺が存在に気づいたことを察知したのか。触れているだけだった不快な感触が生々しく足首を撫でる。靴下と肌のきわを辿る、ぬるく湿った、人間の肌触り。
——黒い、人の手の形をしてた。
想像が忌避感を加速させる。たまらず飛び退くような勢いで机の下を覗き込んだ。
「………」
何もない。制服のズボンを履いた二組の脚があるばかりだ。もちろん、俺と花村さんの脚だ。一瞬、花村さんのいたずらを疑ったが、白いスニーカーに収まった足はソファと床の設置点にいる。逃げたにしても早すぎる。
汗で湿ったズボンの裾が気持ち悪く感じられた、というのが現実的な答えだろう。
呪いの話をしていたせいで、衣擦れに過剰反応してしまったらしい。まだ妙な感触が残っている気がする足首を擦ってやりながら、ため息をついた。気が小さすぎる。
突然無言で大騒ぎしたことをどう誤魔化そうか思案しながら顔を上げると、花村さんは唖然としていた。当然の反応だ。自嘲のあまり半笑いになってしまう。
「ごめ……」
「それ」
遮ったのはいつもの明るい声ではなかった。呆然としているようにも疑っているようにも聞こえる、静かな音だった。
「なんでわかったの?」
「——え?」
なんでもない、という弁明は口のなかで溶けてしまった。
「足、掴まれたの、今」
「————、……」
嘘だろう。
何かいるかと思ったが、何もいなかった。この眼で見た。花村さんや呪いを警戒しているせいで、小心者の俺がなんでもない感覚を勘違いしてしまった。それだけの話だ。
それだけの話のはずなのに、花村さんはフォークを置いて身を乗り出してくる。思わず身を引く。
「ゆーきくん、どうしてわかったの? もしや霊感……」
「ない、ないです……っ」
「………」
ぎゅっと身を縮めて何度も首を横に振る。花村さんが冗談でしかつめらしい顔をすることは度々あったが、これはそれとはちがうと直感で理解していた。この真剣さは、本気だ。だからこそ、わけがわからなくて怖かった。
俺の必死の否定を受けて、花村さんはしばし沈黙した。視線を俺からゆるりと下ろし、何もない空中を見つめる。指が小さな唇をひととき弄び、ゆっくりと語り出した。
「……じつは、『あて』っていうのが、ゆーきくんのそれなんだ」
「俺……?」
花村さんは躊躇うように眼を伏せていたが、何か思い切ったように手を下ろし、真っ直ぐに俺を見つめた。
「僕が足を引っ張られるとき、ゆーきくん、いつもちょっと反応してるんだよ」
すぐには返事ができなかった。
自分の話をされているらしいのに、意味するところがまるでわからない。夢遊病を指摘されたような不安感だけが募る。
「……そう、なの? どんなふうに?」
「ぴくっていうか、びくっていうか。少し身体が強張るんだよね。自覚ない?」
「ぜんぜん……というか、本当? それ……」
花村さんが転びそうになっていることに驚いているだけではないのか。掴まれてから転ぶまでに時間差はそれほどないだろう。
しかし、観測している本人には確信があるようではっきりと首を縦に振った。
「呪いかもって思ったのも、人の視線とか感情に敏感なゆーきくんが反応してるからなんだよね」
感覚過敏であることは否定しない。唐突に気持ち悪さを感じて背後を振り返ったり飛び上がったりすることはしばしばある。
「……けど、俺が気づくのって自分に向けられたものだけだよ」
たとえば穂波先輩の彼女さんはいつも穂波先輩を心から愛おしげに見つめるが、隣に立っていても俺はただ眩しく思うだけだ。穂波先輩を花村さんに変えても結果は同じ、花村さんのことが好きなんだろうな、という人がそばにいれば焦りはするが、気持ち悪くはならない。
「そう、それだよ」
反論したつもりだったのに、花村さんは我が意を得たりと頷いた。
「つまり、近くにいるだけのゆーきくんが反応しちゃうくらい強烈なものを向けられてるってことじゃないのかな」
そんな無茶苦茶な。
飛躍しすぎだ。俺とて常にびくついているわけではないが、常人の平均と比べたら頻度は段違いだろう。花村さんが足を引っ張られる頻度が上がっていることも加味すれば、偶然重なることは十分あり得る。
俺に異議ありと察したのか、花村さんはさらに身を乗り出した。
「さっき、すごい反応したよね」
「や、あれは……たまたま……ズボンの裾とか……」
「教室出るときも、僕のこと見てなかったのに足捕まれた瞬間こっち見たし」
「あれは……えっと……」
「ゆーきくんの察知能力が強くなったのか、呪いが強くなったのかはわからないけどさ、ゆーきくんが何か感じ取ってるのは間違いないと思うんだ」
そう言われてみると、そんな気がしてきてしまう。たしかに、教室を出るときの一件については説明ができない。元友人の彼の視線は切れていたし、廊下に発信元らしき人はいなかった。あの嫌な感覚が何由来なのか、呪いを感じ取ったと考えれば収まりはいい。
「……だけど、……」
しかし、仮に花村さんの言うとおりだったとして、そんな、他人にすら察知されるような重たい感情をぶつけられて、花村さんは大丈夫なのか。
ただの嫌がらせだと思っていたのに、ここまで思い詰めた人間が相手だとすると犯人を突き止めても説得や説教でどうにかなるとは思えない。
——呪いにしろ嫌がらせにしろ、そんなこと実行するやつは多少どうかしてるし、とんでもなく感情的なやつだ。
穂波先輩の言葉が頭をよぎる。あの言葉を軽くみていたわけではないが、ここまで危ない相手は想定していない。神社か警察に相談するべきではないのか。しかし、専門家を頼ったとして、なんと言えばいいのか。
途方に暮れる俺とは対照的に、花村さんは生き生きしだした。
「ゆーきくん、呪いセンサー化してるんだよ、きっと。力に覚醒したとか!」
「え、や……えーと……」
それはまずないが、心当たりがなくもない。
花村さんに対して、今まで以上に警戒を始めたからだろう。距離感や温度感に神経を尖らせていたから、無意識に拾っていた「何か」が意識に上りはじめた可能性が高い。
だが、眼を輝かせて俺を見つめる花村さんにそんなこと言えるわけもない。
恋はされたくないけど離れたくもないという身勝手の結果です、なんて。
顔を見られなくなって、まだほとんど手つかずの料理たちに視線を逃す。胸が詰まって、どれほど無理をしようとも胃袋まで押し込めそうにない。
「やっぱり、ゆーきくんに相談してよかったよお」
「……あんまり、役に立ちそうにないけど」
「ええ? そんなことないよ!」
あてにしてるって言ったでしょ?
花村さんはしたり顔だった。ただの励ましではなく、有効活用する手立てがあると見える。
思わず居住まいを正して傾聴の構えを取ると、小さな唇が笑みを深めた。内緒話の声でゆっくりと語りだす。
「さっきも言ったとおり、僕って人の気持ちに鈍いとこあるから、ここまで激重な感情向けられてるのにわかんないんだよね」
「……うん」
「だけどゆーきくんが反応する場所とか場面とか記録してったら、呪いの発動する条件が絞り込めるんじゃないかって思うんだ」
話の雲行きが怪しくなってきた。
「学校でも外でも、いろんなことして試してみてさ。僕が何したとき、どんな状況のときに足を掴まれるのかわかったら、相手が僕をどうしたいのかも見えてくると思わない? どういう関係の人が、どういう理由で呪ってるのか、見えてくるってことだよ」
言うことはわかる。
「それに、今のゆーきくんなら僕に向けられた激重感情の発信源とかも察知できたりしちゃうかもだし」
それができれば現行犯で取り押さえることだって不可能ではないだろう。
だけどそれは。
「僕のこと、僕の周りのこと。よーっく見て、感じてくれないかな」
それは「片時も離れるな」ということではないのか。
一気に語り終え、花村さんは水を口に含んだ。細く息をついて、黙り込んだ俺を改めて見る。丸い瞳が緊張と不安を孕んでかすかに揺れた。
「だめかな?」
「………」
だめに決まっている。常に一緒なんて、友人の距離じゃない。ひょっとしたら恋人よりも近い。わかっている。わかっていても。
「……だめじゃない」
結局俺は、この人に何かあったらと思うと耐えられない。
ソファに背中を投げ出して両手を掲げる。降参のポーズだ。花村さんは空気を塗り替えるように軽やかに笑った。ころころと、快い音が耳をくすぐる。眼差しがしっとりと濡れる。
「だと思った。ありがとう」
だからゆーきくんが好きなんだ。
「——……」
意味など聞けようもない。
早速後悔しながら、呪いセンサーとして最大限の働きをすることを誓った。
花村さんのためにも、自分のためにも。
「大丈夫?」
壁際の席につくなり、花村さんが心配げに声をかけてきた。
「……っじょ、ぶ……」
話すのもきつく、首を緩慢に縦に振る。
いつも飯屋に来るのは散策後で、空調の効いた建物を歩き回るうちに汗は引いてくれていた。しかし今日は作戦会議のために学校から直で来たものだから、全身茹ってどうにもならない。
「とりあえず、水飲んで水」
対する花村さんはもう涼しげな顔をしている。おかしい。条件は同じはずなのに。基礎体力の差だろうか。
「あとこれ、使う? ひんやりするやつ」
汗拭きシートのパックを差し出されて思わず身を引いた。花村さんと同じ香りになるなんて無理だ。
「っだ……! ……い、じょうぶ……ごめんね、ぜえぜえうるさくて……」
花村さんは苦笑してあっさり手を引っ込めた。代わりに端末を取り出す。
「ゆーきくん、細っこいからなあ。いっぱい食べないと夏ばてしちゃうよ」
ってわけで早速いっぱい食べよー。
言いながら、注文画面を開いて操作しはじめた。ありがたい。献立は花村さんに任せて自分の復旧作業に集中することにする。
そうして数分後には、大量の飯物が机を埋め尽くした。
「………」
「食べられそうなの好きなぶんだけ食べてねー。残りは全部僕が食べるから」
「いつもより多くない……?」
「夏ってなんか食欲倍増しちゃうんだよね。負けてたまるかー! みたいな」
それにしても限度がある。前々からよく食べるほうだとは思っていたが、この量を小柄な身体のどこに収めるつもりでいるのだろうか。物理的に無理がある。軟弱なところを見せたせいで心配させてしまった責任を取り、俺が無理をするしかない。
ひっそり覚悟を固めていると。
「特に今は呪いとも戦わなくちゃいけないし、これじゃ足りないくらいだよ」
言うなり、いただきまあすと元気にフォークを手に取った。
パスタの口、と言っていたとおり、花村さんが最初に手をつけたのはボロネーゼだ。豪快に巻き取って次々口に運んでいく。見ているだけで腹が膨れてしまうが、ひとまず俺もそばにあるドリアにスプーンを差し込んだ。
「呪い」という言葉が出たところで、本題に入ることにする。
「……穂波先輩の説なんだけど、心当たりないかな」
「それねえ、歩きながら考えてみたんだけど、やっぱり僕目線だと難しいかなって」
ボロネーゼの皿はもう空になっていて、花村さんのフォークにはあさりのパスタが巻きついていた。咀嚼を合間に挟みながら見解を語る。
「僕って自分から人に突っ込んでくじゃない? 自分に向けられる感情に鈍感だからできることだよなーって思ってるんだよね」
「でも、気づかい上手だよね」
「特別な人限定でね」
藪蛇だった。慌ててスプーンを口に突っ込み、返事ができないふりをする。俺の思惑を知ってか知らずか、花村さんはいたずらっぽく笑った。見ていられず、眼を伏せる。忍び笑いが耳をくすぐる。鈴を転がすように、背筋を逆撫でするように。
追撃はなく、花村さんは先を続けた。
「僕のこと、まじで死ねって思ってる子も、一生捧げちゃうって思ってる子もいそうではあるけど、あんまり気にしたことないんだ。その上でただの友だちって顔されちゃったらもうお手上げだね」
やはり俺の作った容疑者名簿を出すべきか。鞄に手が伸びかけたが「でも」という声に引き留められた。
「じつはちょっと、『あて』みたいなのはあるんだよねえ」
もったいぶった言い方だ。心当たりがないといったのに、どういうことか。問い返すために顔を上げる。
「……?」
そこで不意に変な感触がした。
あんまり心地よくない触感だ。しかし花村さんはもうパスタを見ている。俺の反応を楽しみに待っている、と言った様子だった。発信源は彼じゃない。そもそもこれは視線の高さじゃない。もっと低い。胸より膝よりもっと下——
——机の下だ。
「——ッ!」
気づいた瞬間、総毛立った。
偶然か、それとも俺が存在に気づいたことを察知したのか。触れているだけだった不快な感触が生々しく足首を撫でる。靴下と肌のきわを辿る、ぬるく湿った、人間の肌触り。
——黒い、人の手の形をしてた。
想像が忌避感を加速させる。たまらず飛び退くような勢いで机の下を覗き込んだ。
「………」
何もない。制服のズボンを履いた二組の脚があるばかりだ。もちろん、俺と花村さんの脚だ。一瞬、花村さんのいたずらを疑ったが、白いスニーカーに収まった足はソファと床の設置点にいる。逃げたにしても早すぎる。
汗で湿ったズボンの裾が気持ち悪く感じられた、というのが現実的な答えだろう。
呪いの話をしていたせいで、衣擦れに過剰反応してしまったらしい。まだ妙な感触が残っている気がする足首を擦ってやりながら、ため息をついた。気が小さすぎる。
突然無言で大騒ぎしたことをどう誤魔化そうか思案しながら顔を上げると、花村さんは唖然としていた。当然の反応だ。自嘲のあまり半笑いになってしまう。
「ごめ……」
「それ」
遮ったのはいつもの明るい声ではなかった。呆然としているようにも疑っているようにも聞こえる、静かな音だった。
「なんでわかったの?」
「——え?」
なんでもない、という弁明は口のなかで溶けてしまった。
「足、掴まれたの、今」
「————、……」
嘘だろう。
何かいるかと思ったが、何もいなかった。この眼で見た。花村さんや呪いを警戒しているせいで、小心者の俺がなんでもない感覚を勘違いしてしまった。それだけの話だ。
それだけの話のはずなのに、花村さんはフォークを置いて身を乗り出してくる。思わず身を引く。
「ゆーきくん、どうしてわかったの? もしや霊感……」
「ない、ないです……っ」
「………」
ぎゅっと身を縮めて何度も首を横に振る。花村さんが冗談でしかつめらしい顔をすることは度々あったが、これはそれとはちがうと直感で理解していた。この真剣さは、本気だ。だからこそ、わけがわからなくて怖かった。
俺の必死の否定を受けて、花村さんはしばし沈黙した。視線を俺からゆるりと下ろし、何もない空中を見つめる。指が小さな唇をひととき弄び、ゆっくりと語り出した。
「……じつは、『あて』っていうのが、ゆーきくんのそれなんだ」
「俺……?」
花村さんは躊躇うように眼を伏せていたが、何か思い切ったように手を下ろし、真っ直ぐに俺を見つめた。
「僕が足を引っ張られるとき、ゆーきくん、いつもちょっと反応してるんだよ」
すぐには返事ができなかった。
自分の話をされているらしいのに、意味するところがまるでわからない。夢遊病を指摘されたような不安感だけが募る。
「……そう、なの? どんなふうに?」
「ぴくっていうか、びくっていうか。少し身体が強張るんだよね。自覚ない?」
「ぜんぜん……というか、本当? それ……」
花村さんが転びそうになっていることに驚いているだけではないのか。掴まれてから転ぶまでに時間差はそれほどないだろう。
しかし、観測している本人には確信があるようではっきりと首を縦に振った。
「呪いかもって思ったのも、人の視線とか感情に敏感なゆーきくんが反応してるからなんだよね」
感覚過敏であることは否定しない。唐突に気持ち悪さを感じて背後を振り返ったり飛び上がったりすることはしばしばある。
「……けど、俺が気づくのって自分に向けられたものだけだよ」
たとえば穂波先輩の彼女さんはいつも穂波先輩を心から愛おしげに見つめるが、隣に立っていても俺はただ眩しく思うだけだ。穂波先輩を花村さんに変えても結果は同じ、花村さんのことが好きなんだろうな、という人がそばにいれば焦りはするが、気持ち悪くはならない。
「そう、それだよ」
反論したつもりだったのに、花村さんは我が意を得たりと頷いた。
「つまり、近くにいるだけのゆーきくんが反応しちゃうくらい強烈なものを向けられてるってことじゃないのかな」
そんな無茶苦茶な。
飛躍しすぎだ。俺とて常にびくついているわけではないが、常人の平均と比べたら頻度は段違いだろう。花村さんが足を引っ張られる頻度が上がっていることも加味すれば、偶然重なることは十分あり得る。
俺に異議ありと察したのか、花村さんはさらに身を乗り出した。
「さっき、すごい反応したよね」
「や、あれは……たまたま……ズボンの裾とか……」
「教室出るときも、僕のこと見てなかったのに足捕まれた瞬間こっち見たし」
「あれは……えっと……」
「ゆーきくんの察知能力が強くなったのか、呪いが強くなったのかはわからないけどさ、ゆーきくんが何か感じ取ってるのは間違いないと思うんだ」
そう言われてみると、そんな気がしてきてしまう。たしかに、教室を出るときの一件については説明ができない。元友人の彼の視線は切れていたし、廊下に発信元らしき人はいなかった。あの嫌な感覚が何由来なのか、呪いを感じ取ったと考えれば収まりはいい。
「……だけど、……」
しかし、仮に花村さんの言うとおりだったとして、そんな、他人にすら察知されるような重たい感情をぶつけられて、花村さんは大丈夫なのか。
ただの嫌がらせだと思っていたのに、ここまで思い詰めた人間が相手だとすると犯人を突き止めても説得や説教でどうにかなるとは思えない。
——呪いにしろ嫌がらせにしろ、そんなこと実行するやつは多少どうかしてるし、とんでもなく感情的なやつだ。
穂波先輩の言葉が頭をよぎる。あの言葉を軽くみていたわけではないが、ここまで危ない相手は想定していない。神社か警察に相談するべきではないのか。しかし、専門家を頼ったとして、なんと言えばいいのか。
途方に暮れる俺とは対照的に、花村さんは生き生きしだした。
「ゆーきくん、呪いセンサー化してるんだよ、きっと。力に覚醒したとか!」
「え、や……えーと……」
それはまずないが、心当たりがなくもない。
花村さんに対して、今まで以上に警戒を始めたからだろう。距離感や温度感に神経を尖らせていたから、無意識に拾っていた「何か」が意識に上りはじめた可能性が高い。
だが、眼を輝かせて俺を見つめる花村さんにそんなこと言えるわけもない。
恋はされたくないけど離れたくもないという身勝手の結果です、なんて。
顔を見られなくなって、まだほとんど手つかずの料理たちに視線を逃す。胸が詰まって、どれほど無理をしようとも胃袋まで押し込めそうにない。
「やっぱり、ゆーきくんに相談してよかったよお」
「……あんまり、役に立ちそうにないけど」
「ええ? そんなことないよ!」
あてにしてるって言ったでしょ?
花村さんはしたり顔だった。ただの励ましではなく、有効活用する手立てがあると見える。
思わず居住まいを正して傾聴の構えを取ると、小さな唇が笑みを深めた。内緒話の声でゆっくりと語りだす。
「さっきも言ったとおり、僕って人の気持ちに鈍いとこあるから、ここまで激重な感情向けられてるのにわかんないんだよね」
「……うん」
「だけどゆーきくんが反応する場所とか場面とか記録してったら、呪いの発動する条件が絞り込めるんじゃないかって思うんだ」
話の雲行きが怪しくなってきた。
「学校でも外でも、いろんなことして試してみてさ。僕が何したとき、どんな状況のときに足を掴まれるのかわかったら、相手が僕をどうしたいのかも見えてくると思わない? どういう関係の人が、どういう理由で呪ってるのか、見えてくるってことだよ」
言うことはわかる。
「それに、今のゆーきくんなら僕に向けられた激重感情の発信源とかも察知できたりしちゃうかもだし」
それができれば現行犯で取り押さえることだって不可能ではないだろう。
だけどそれは。
「僕のこと、僕の周りのこと。よーっく見て、感じてくれないかな」
それは「片時も離れるな」ということではないのか。
一気に語り終え、花村さんは水を口に含んだ。細く息をついて、黙り込んだ俺を改めて見る。丸い瞳が緊張と不安を孕んでかすかに揺れた。
「だめかな?」
「………」
だめに決まっている。常に一緒なんて、友人の距離じゃない。ひょっとしたら恋人よりも近い。わかっている。わかっていても。
「……だめじゃない」
結局俺は、この人に何かあったらと思うと耐えられない。
ソファに背中を投げ出して両手を掲げる。降参のポーズだ。花村さんは空気を塗り替えるように軽やかに笑った。ころころと、快い音が耳をくすぐる。眼差しがしっとりと濡れる。
「だと思った。ありがとう」
だからゆーきくんが好きなんだ。
「——……」
意味など聞けようもない。
早速後悔しながら、呪いセンサーとして最大限の働きをすることを誓った。
花村さんのためにも、自分のためにも。



