夏より重い。

 ひとまず、容疑者名簿を作ってみることにした。
 花村さんにひと言相談してからにしようとも思ったが、時間がなかった。教室に戻れたのは昼休みが終わると同時だったし、休み時間の花村さんはいつも人に囲まれている。放課後は人気者を独占することが多い身としては、さすがに申し訳なくて割り込めない。かといって何もせずに俺の番が来るのを待つのは耐えられそうになかった。
 いざ着手してみると思い浮かぶ名前はかなりの数にのぼった。成就させるつもりがなくとも、好きな人が周りにどう見られているかは当然気になる。「強烈な感情」という観点で選別しようとしても、他人の俺が気づく時点でそこそこ強烈だろう。思いつく端から連ねていくうち、名簿は足の指を足しても足りない長さになった。
 ペンを止めて上から名前を確認していく。一人ひとり顔を思い浮かべる。
「………」
 考えてみれば、悪趣味な名簿だ。
 好きにしろ嫌いにしろ、書いたなかには自分の気持ちに無自覚な人だっているだろう。それを外から見つけた人間が本人にこっそり教えるなんて、まるで告げ口リストだ。
 仮に、俺じゃない誰かがこんな名簿を作ったとしたら。それを花村さんに見せたとしたら。
 想像するだけで死にたくなる。
 罪滅ぼしのように自分の名前を一番上に書いてみたが、なんの慰めにもならない。
 細かい文字で黒々とした頁を閉じ、ノートを机のなかに押し込んだ。
「……というわけなんだけど、心当たり、やっぱりないかな」
 やっときた放課後、穂波先輩からの助言を花村さんに伝えた。名簿は結局見せないことにした。参考にするにはあまりに絞り込みが足りない。花村さんの意見を聞いて吟味してから作り直したほうがいい。
「いいなあ作戦会議」
 机を挟んで俺の正面に座った花村さんが、ぺたりと机に伸びる。この時間になると俺の前の席は花村さんの指定席になっていた。
「僕がしたかったよお」
 花村さんが丸く膨らませた頬を天板に押しつけてぼやく。話の内容よりも自分のいないところで話し合いが行われたことが気になったようだ。そこであることに気づき、一気に血の気が引く。
「っご、めん、勝手に人に話して……」
 あんなに言いづらそうにしていた悩みを俺ときたら本人に相談もせずに他人に漏らしてしまった。
 震える声で謝罪すると、花村さんはきょとんと眼を丸くした。頬から空気を抜いて身体を起こす。
「なんで? 全然いいよ。ゆーきくんが話しても大丈夫って思った相手なら全然大丈夫」
 何を当然のことを、と言わんばかりの口ぶりだ。安心するより先に胸が温かくなってしまう。
「なら、よかった……」
 さっきとはちがう意味で声が震えそうになるのをこらえていると、再び花村さんは不服げに唇を尖らせて俺を半眼に睨めつけた。
「僕が問題にしてるのはそこじゃなくてさあ。僕が! ゆーきくんと! 作戦会議したかったってこと!」
「はぁ……」
 つい、曖昧な相槌を打ってしまった。
 花村さんは俺の煮え切らない返事では許してくれず、無言でじいっと視線を寄越してくる。除け者にされて不満がっている友人の顔だった。差し出される言葉は俺を特別扱いしている一方で、伝わってくるのはただただ心地いい親愛だ。温かくて柔らかい。子どもみたいな態度がかわいい。こらえ性もなく口許がゆるんでしまった。
「……それは、今から……」
 育ちすぎた片想いは、些細な仕草ひとつで簡単に目隠ししてしまう。またあの甘い瞳で見つめられたら、後悔するのはわかっているのに。
「やった! ありがと!」
 それでも花村さんの笑みが弾けるのを見ると、これで正解だった気がしてしまう。花村さんはぴょんと跳ねるように席を立ち、俺の腕を引いてきた。
「そうと決まればすぐ出よ!」
「外でするの?」
 慌てて片手で鞄のチャックを締めようとするが、当然うまくいかない。花村さんは腕を離すどころか急かすように揺さぶってきた。
「お腹空いたまま暗い話できないよお。僕、パスタ食べたい! 昨日ゆーきくんが食べてるの見てからもうずっとパスタの口なんだよねえ」
 俺の荷造りなどもう眼中にないようで、パスタパスタと歌うように繰り返す。昨日の弱々しげな姿など影もない。呪われている状況には変わりないだろうに、切り替えが早いというか器がでかいというか。
 どうにかスライダーを端まで引き終えて立ち上がる。華奢な腕の力に身を任せると、一緒に気分まで引き上げられるようだった。つむじを見下ろして、こっそり笑う。
「なんか、楽しそうだね?」
「そうなんだあ」
 ふっと動きを止めて何かをこらえるように背中を丸め、それでも足りないのか俺に肩をぶつけてくる。腕に触れている肩がうずうずと震えている。
「ゆーきくんと探偵できる! って思ったらあんなに怖かったのがわくわくしてきちゃって」
 やってやろうね。
 いつも以上に光を放つ瞳が見上げてくると同時に、胸の前に作られた握り拳が差し出された。
「——」
 直感した。映画や漫画で陽キャがよくやっているやつだ。拳同士をぶつける、あれ。
「ね!」
 期待に満ちた眼差しを向けられて頬がひきつる。陰キャの俺には荷が重い。これはさすがによくない感情を積み上げてしまう気もする。
「……うん、やってやろう」
 それでも、手が出てしまった。ここで流すのは角が立つと、言い訳して。
 小さな白い手に、俺の骨ばった大きな手が触れる。微かに温度が伝わる程度、ぶつけるというより掠めるといったほうがいいくらいの、情けない応じ方だった。
 そんな不恰好な応答でも、花村さんは満足げに眼を細めた。窓から差し込むまだ高い陽が、淡い瞳にまつげの影を落とすのが見える。そこに心配していたような熱はこもっていなくて、許されたような心地で、俺も笑う。
 その瞬間。
「——……」
 ふっと、嫌な感覚が肌を撫でた。
 反射的に発信源に視線を走らせると、友人が——「元」友人が、じっとこちらを見ている。寂しげな、切実な眼差しは視線がかち合った途端に逸らされた。背を向けて話の輪のなかに戻っていく。
「………」
 いつものことだ。彼の、いつもの反応。見慣れはしても、慣れることはできない、俺の失態の結果だ。
 しかしいつもとちがって、浮ついていた心に冷水を浴びせられた。
 たまらず、拳を胸に当てる。記憶が巡る。
 彼とは去年も同じ組で、仲良くしてもらっていた。夏ごろまでは一番よく話す友人だった。物静かで優しく笑う、ずっと仲良くしたい人だった。
 それが今はこうだ。
 特に喧嘩したわけではない。彼から何か言われたとかされたわけではない。
 ただ、俺が悪かった。
 ずっと、向けられる眼差しがべたついているのは薄々感じていたが、気づかないふりをしていた。知らん顔して受け流して、彼の気持ちがほかに向くのを待っていた。ただ、一回だけ。一瞬気を抜いたときに、つい睨み返してしまった。
 それっきり話すことはなくなった。
 今でも彼は、視線が重なると少し痛そうに笑う。その度にあのときの傷ついた瞳を思い出す。息苦しくなる。
 あの瞳が、花村さんのそれと重なった。
「………」
 今しがたぶつけ合った拳を見下ろす。片想いしている友人と一瞬だけ触れ合った手を見る。距離を取らなくてはならないのに、触れ合いたいという欲求に負けて差し出してしまった手を、見る。
「どーしたの?」
 乗り出してきた花村さんの顔が視線を切った。不思議そうに見つめてくる。俺の眼に映った景色に眼を凝らしている。間近にある瞳には深刻な顔をした俺が小さく映っていた。意識して、笑って見せる。
「……なんでもないよ」
 元友人の眼差しが、恐怖を思い出させてくれた。理性を引き戻してくれた。
 今は、恋心を甘やかしている場合ではない。
 花村さんと友人でいたいと思うなら。
「そう?」
「うん、行こうか」
 いつもなら、後ろをひっそりついていく。花村さんが振り返ってくれるのをこっそりと待つ。しかし今日は決意を込めて、先に歩きだした。悪くは受け取られなかったようで、元気のいい返事とともに、軽やかな足音が後ろに続く。
 不用意に眼を合わせないこと、触れないこと、まず取れる対策はこのくらいだ。隣に並ぶとすぐに顔をのぞき込まれてしまうし、肩がぶつかってしまう。背後の気配との距離感に神経を尖らせながら教室を出た。
 ぞわりとした。
「っ」
 なぜ今。
 弾かれたように花村さんに視線をやると、小さな身体が前のめりに傾いたところだった。驚きに眼を見開いている。
「はなむ……っ」
 反射的に一歩踏み込んで、抱きとめた。そこで止まるかと思ったのに、腕のなかの身体はさらに俺のほうに傾いてくる。
 思いがけない重みを支えきれず、ふたりしてその場にひっくり返った。
「……ご、め……だい、じょうぶ? 痛いとことか……」
 よく考えれば、俺の手助けなどなくても花村さんは転ばない。余計なことをしたせいで大事故になってしまった。
「僕は平気。ってか下敷きにしちゃってごめん!」
「んや……花村さん、軽いから……っ!」
 俺よりよほど引き締まって筋肉もついているが、小柄なぶん重さはさほどない。勢いがついていたとはいえ、なぜ支えきれなかったのか疑問なくらいだ。
 しかし、そこではたと気づいた。
 重なった胸が熱い。
 心臓がふたつ、隣り合って鳴っている。不安になるほどそばで音を重ねている。ことことと控えめなのが花村さんの、「ここから出してくれ」と言わんばかりに大暴れしているのが俺の。
 間近に視線がかち合って、見上げてくる眼が甘く潤む。
「びっくりしたね」
 反射的に突き放そうとする手を慌てて握りこんだ。汗でぬめる。背筋が震える。心臓をいたずらにつつき回されるような嫌な感じがする。
 今のは事故で、俺の悪手で、花村さんに他意はない。眼が潤んでいるのは驚いて涙が出ただけ。
 必死に言い聞かせる。
「……っ掴、まれ、た?」
 小さな身体を胸に乗せたまま、もたもたと上体を持ち上げた。丸い肩に手を添えてそっと引き剥がす。花村さんがこっくりと頷く。不安げに自分の足許へ視線をやる。そこには何もない。黒い手どころか引っかかりそうなものなど、何も。
 俺の胸許に置かれたままの細い指が握り込まれる。心臓がまた跳ねる。「嬉しい」と「気持ち悪い」の間で反復横跳びしている。制御できない。このままだとまずい。
「……っ花村さん、とりあえず……」
「おーまえら廊下でいちゃつくなって」
 気が鎮めようと足掻いているところにそんな野次が飛んできた。昨日と同じ友人ふたりだ。いつもなら流せるのに、今は鳥肌が立ってしまう。
「ちょ——」
「邪魔すんなダンスのレッスン中だよ」
 花村さんの反論より速く、吐き捨てていた。横眼に友人を睨み上げた視界の端で、花村さんが眼を丸くする。今まで花村さんの前でこんなにきつい話し方をしたことはなかった。
 これで引かれるなら、そのほうがいいのかもしれないと頭が冷静に評価する一方、嫌われてしまう不安で胸が軋む。
 俺の葛藤をよそに、慣れている友人たちはからっと笑った。
「出た優木ジョーク」
「怪我には気をつけろよー」
「当たり前だ。本番が近いんだから」
 去っていく彼らをしっかり見送って時間稼ぎしたあと、恐る恐る花村さんに眼を向けた。反応を確認するのが怖い。
「……ごめ……」
「僕にも言ってよ、優木ジョーク」
 そこか。
 引くどころか、初手謝罪を遮られしまった。丸い瞳がまじまじと見つめてくる。
「あんな冗談、僕聞かせてもらったことないよ」
「それ、忘れて……」
 恥ずかしさが込み上げて、視線を下に逃がす。
 花村さんが身をかがめて顔をのぞき込んでくる。
「だめ。忘れない」
 僕は好きだよ。
 向けられる微笑みはひどく甘ったるかった。胸が弾み、胃がもたれる。
「……ぁ、り……がと……」
 決意を固めてすぐにこれだ。
 かわしきれるか、距離を保てるか、不安しかなかった。