花村さんの話を要約すると「何かに足を引っ張られる」ということだった。
半年程前からだという。主に放課後、足が何かに引っかかる。机のそばを通ったとき、角を曲がったとき。く、と後ろに引かれる感覚がある。しかし足許を確認しても何もない。正直、俺にも思い当たる節はあった。最近よくつまづいているな、と。とはいえ派手に転ぶわけではないので、疲れているのかな、程度に考えていた。
しかし、ここひと月ほどで頻度も力も増しているのだという。それどころか、明らかに「掴まれている」感触まである。冷たくて柔らかい何かが足首に絡みつき、後ろに強く引っ張ってくる感覚が。
「それだけでも十分気味の悪い話ではあるんですが……見てしまったそうで」
つい先週、ひとりきりの夕方。誰もいない廊下の角を曲がった瞬間に足を引かれた。体勢が崩れ、前のめりに転びそうになったそのとき、足首にまとわりついたものの姿が一瞬だけ見えた。
——黒い、人の手の形をしてた。
そう言ったときの花村さんは、俺の眼を真っ直ぐに見ていた。冗談にすることを許さない、真摯な眼だった。
「で、そのコピペみたいな怪談に乗せられて、毎日一緒に帰る約束をしてしまったってわけか」
「そうなんですよ……」
唐揚げにため息を落とす俺の前で、穂波(ほなみ)先輩は鼻を鳴らした。
「『恋すること』とはすなわち『愚かになること』だな」
返す言葉もない。俺が愚かなのはそのとおり、そもそも今は反論などできる立場にいなかった。
写真部の部室には窓がひとつもない。狭苦しくて黴臭い上にいつ設置されたのかもわからないゴキブリホイホイが今も片隅で熟成されつづけているため、食事会には当然向いていない。にも関わらず、穂波先輩は俺につき合って床に弁当を広げてくれている。
昨日、花村さんから受けた相談について相談するために、俺が呼んだからだ。
「先輩が言うと驚くほど説得力がないですけど……」
「失礼なやつだな。これでも恋はしてるし、されてもいるよ」
花村さんのことで許容量超えしたときに頼れる相手はこの人しかいない。俺が花村さんを好きなことと恋愛に及び腰だということを知っているのは穂波先輩だけだ。
もうひとつ、何より重要な条件がある。
「めちゃくちゃかわいい彼女さんがいるのに、先輩はいつも賢明じゃないですかって言ってるんですよ……」
この人は何があろうと、どれほどふたりきりで過ごそうと、絶対俺に恋愛感情を抱かない。男女問わず、気を許すたびに事故ってきた俺にとっては外せない条件だった。
「……とにかく、急にこんな話されて困ると思うんですけど、俺、穂波先輩以外に頼れる人いなくて」
俺には大きすぎる問題を一晩中こねくり回した結果、真っ白になった頭はいつの間にやら穂波先輩に連絡を入れていた。「了解」の返信に我に返って時計を見ると、朝の五時だった。
「それで、お前はどう思ってるんだ」
そんな経緯で呼び出されたにもかかわらず、穂波先輩は話を打ち切らずにいてくれる。内容も加味すれば、呆れを滲ませるだけで済ませてくれているのは仏の振る舞いといえた。
「俺もまだ本気で呪いだとは……生きた人間の嫌がらせの可能性は否定できないですし。ただ、いずれにしても犯人がいることは間違いなさそうだな、と」
「つまり、解決してやりたいんだな?」
「あ、はい」
「やめとけ」
「えっ」
相談の根幹から覆されてしまった。唖然としている俺をよそに、先輩は煮豆をひょいひょいと口に放り込んでいく。話は終わりと言わんばかりだ。慌てて身を乗り出す。
「や、たしかに冗談みたいな話ではあるんですが、本当に困ってそうで……」
「だからこそ、首突っ込むのはやめろと言ってるんだよ」
太い眉の下、鋭い眼が俺を見据えた。ぎくりと背が跳ねてしまう。煮豆を摘んでいた箸が、引けてしまった俺の腰を指し示す。
「呪いにしろ嫌がらせにしろ、そんなこと実行するやつは多少どうかしてるし、とんでもなく感情的なやつだ。お前にはかなりきついぞ」
あまりに耳に痛い。うつむいて唸る。
「それは……仰るとおり……なんです、が……」
「やめる気はないと」
「…………はい」
穂波先輩がため息をつく。
「お前は人がよすぎるんだよ。ゾンビになった友だちを見捨てられずに序盤で死ぬタイプ」
本当は、俺だってやりたくない。それは穂波先輩の言うような理由ではなく、もっと自分本位な理由で断りたかった。
引き受ければ花村さんとの距離が縮んでしまいそうで、怖かった。
現実に、もう毎日一緒に帰る約束をしてしまっている。この上協力して調査なんてしていれば接触が増えてしまうのは間違いないだろう。現状維持どころか、今以上に近づいてしまう恐れがあった。
それでも、俺には引き受けるしかなかった。
「……お人好しで引き受けたわけじゃないです」
「じゃあなんだ」
穂波先輩がじっと俺を見つめているのが見なくてもわかった。べたついたところのない、鋭い視線だ。ただ俺を心配している、真摯な眼差し。
「……怖かったんです」
ぽつ、とこぼした。
花村さんと近づきすぎるのが怖い。今まで通りでいられなくなるのが怖い。恋愛感情を向けられるのが怖い。ふとしたときに、しっとりと俺を見つめる花村さんの眼差しを思い出すだけで、胸の奥が暗く濁るほど、怖くてたまらない。
だけどそれ以上に。
「花村さんが誰かに嫌なことをされているのを無視するのも、取り返しのつかないことになるのも、すごく、怖くて」
昨日、花村さんと別れてからずっと、一晩中考えた。花村さんに送るメッセージを練りに練った。「やっぱり力になれない」と、どう伝えよう。どう断ろう、どう逃げよう。
どう伝えたところで、花村さんは許してくれるだろう。
だから、何も送れなかった。
「………」
「ひとりに、できなかったんです……」
俺は愚かだ。感情的に逃げ道を探し回り、感情に逃げ道を塞がれている。そうして子どものように優しい人に縋りついてしまった。
これ以上ないほど背中を丸めて沙汰を待つ。正面で重いため息が吐き出されるのを聞いて、硬く握った拳が震える。
「なら、早期解決するしかないな」
先輩の声は少し笑っていた。そろりと顔を上げると、苦笑が迎えてくれる。
「最小の手数で犯人を捕まえて、調査に時間を取られたぶん部活に集中して、放課後別々に過ごすうちにお前は花村穏にとって『他よりちょっと仲がいい友人』になる」
それでいいな。
何も言えずにいる俺に、先輩が鼻を鳴らした。返事を促されている。
今度はうつむくのではなく、頭を下げた。
「……はい。ありがとうございます」
「俺はまだ何もしてない」
感じ入っている俺を置き去りにして、穂波先輩はさっさと切り替えた。
「それで? 犯人の目星はついてるのか」
「それがさっぱり……花村さんも心当たりがないそうで」
呪いにしろ嫌がらせにしろ、花村さんにそんな強烈な悪感情を向ける人間がいるとは思えない。前提が理解不能だから、犯人探しなんてやりようがない。
手間取るほどに、近くで過ごす時間が増えてしまうのだと思うと焦りがじわりと背中を炙る。
「花村さんを嫌いな人……ならまだしも、呪ったり嫌がらせしたりするほどの人といわれると……あの花村さんですし」
一方の穂波先輩は俺の疑問が意外なようで、あっさりと答えた。
「人の気持ちなんてわからんものだろ。俺に彼女がいるくらいだ」
「それは何も意外性なくないですか」
穂波先輩はぬるい半笑いを浮かべた。
「お前に俺がどう見えてるのか知らんが、大半の人間は俺のことをチビでデブな不細工と評価する」
「…………嘘ですよね?」
先輩は黙殺した。
「それを恋人にしようってほど好きになる子がいる。花村くんの人間性を基準に考えても無駄だよ」
「つまり?」
「花村くん自体じゃなくて、近くにいる人間をよく見ろってことだ」
そう言われてみてもぴんとこない。思い返しても、花村さんの周りはいつも賑やかだな、くらいの感想しかない。
降参だ、と首を傾げて見せると、先輩はこちらへぐっと身を乗り出してきた。釣られて俺も前屈みになる。先輩はとっておきを教えてくれるときの笑みを浮かべた。
「いいか。他人に半年も嫌がらせを続けるっていうのは相当な根気がいる。原動力が好意でも悪意でも、供給がなければそこまで強烈な感情は保てない。……一応聞いておくが、花村くんは誰かの村を焼いたりはしてないんだろうな? それなら話は変わってくるが」
「ないと思います」
「なら、犯人は近くにいる人間だ。攻撃心が冷める間もないくらい、冷静になる隙がないくらい、いつも視界に入る人間。花村くんを好きでも嫌いでもいい。いつもそばで花村くんを見ている人間——」
穂波先輩は神妙な面持ちで人差し指の先を俺に向けた。
「ただの友だちみたいな顔をして強烈な感情を向けてるやつが犯人だ」
息をのんだ。
それはつまり。
「俺じゃないですか」
「そう、お前が第一容疑者だな」
穂波先輩の笑い声に、予鈴が重なった。弁当は半分も食べられなかった。
半年程前からだという。主に放課後、足が何かに引っかかる。机のそばを通ったとき、角を曲がったとき。く、と後ろに引かれる感覚がある。しかし足許を確認しても何もない。正直、俺にも思い当たる節はあった。最近よくつまづいているな、と。とはいえ派手に転ぶわけではないので、疲れているのかな、程度に考えていた。
しかし、ここひと月ほどで頻度も力も増しているのだという。それどころか、明らかに「掴まれている」感触まである。冷たくて柔らかい何かが足首に絡みつき、後ろに強く引っ張ってくる感覚が。
「それだけでも十分気味の悪い話ではあるんですが……見てしまったそうで」
つい先週、ひとりきりの夕方。誰もいない廊下の角を曲がった瞬間に足を引かれた。体勢が崩れ、前のめりに転びそうになったそのとき、足首にまとわりついたものの姿が一瞬だけ見えた。
——黒い、人の手の形をしてた。
そう言ったときの花村さんは、俺の眼を真っ直ぐに見ていた。冗談にすることを許さない、真摯な眼だった。
「で、そのコピペみたいな怪談に乗せられて、毎日一緒に帰る約束をしてしまったってわけか」
「そうなんですよ……」
唐揚げにため息を落とす俺の前で、穂波(ほなみ)先輩は鼻を鳴らした。
「『恋すること』とはすなわち『愚かになること』だな」
返す言葉もない。俺が愚かなのはそのとおり、そもそも今は反論などできる立場にいなかった。
写真部の部室には窓がひとつもない。狭苦しくて黴臭い上にいつ設置されたのかもわからないゴキブリホイホイが今も片隅で熟成されつづけているため、食事会には当然向いていない。にも関わらず、穂波先輩は俺につき合って床に弁当を広げてくれている。
昨日、花村さんから受けた相談について相談するために、俺が呼んだからだ。
「先輩が言うと驚くほど説得力がないですけど……」
「失礼なやつだな。これでも恋はしてるし、されてもいるよ」
花村さんのことで許容量超えしたときに頼れる相手はこの人しかいない。俺が花村さんを好きなことと恋愛に及び腰だということを知っているのは穂波先輩だけだ。
もうひとつ、何より重要な条件がある。
「めちゃくちゃかわいい彼女さんがいるのに、先輩はいつも賢明じゃないですかって言ってるんですよ……」
この人は何があろうと、どれほどふたりきりで過ごそうと、絶対俺に恋愛感情を抱かない。男女問わず、気を許すたびに事故ってきた俺にとっては外せない条件だった。
「……とにかく、急にこんな話されて困ると思うんですけど、俺、穂波先輩以外に頼れる人いなくて」
俺には大きすぎる問題を一晩中こねくり回した結果、真っ白になった頭はいつの間にやら穂波先輩に連絡を入れていた。「了解」の返信に我に返って時計を見ると、朝の五時だった。
「それで、お前はどう思ってるんだ」
そんな経緯で呼び出されたにもかかわらず、穂波先輩は話を打ち切らずにいてくれる。内容も加味すれば、呆れを滲ませるだけで済ませてくれているのは仏の振る舞いといえた。
「俺もまだ本気で呪いだとは……生きた人間の嫌がらせの可能性は否定できないですし。ただ、いずれにしても犯人がいることは間違いなさそうだな、と」
「つまり、解決してやりたいんだな?」
「あ、はい」
「やめとけ」
「えっ」
相談の根幹から覆されてしまった。唖然としている俺をよそに、先輩は煮豆をひょいひょいと口に放り込んでいく。話は終わりと言わんばかりだ。慌てて身を乗り出す。
「や、たしかに冗談みたいな話ではあるんですが、本当に困ってそうで……」
「だからこそ、首突っ込むのはやめろと言ってるんだよ」
太い眉の下、鋭い眼が俺を見据えた。ぎくりと背が跳ねてしまう。煮豆を摘んでいた箸が、引けてしまった俺の腰を指し示す。
「呪いにしろ嫌がらせにしろ、そんなこと実行するやつは多少どうかしてるし、とんでもなく感情的なやつだ。お前にはかなりきついぞ」
あまりに耳に痛い。うつむいて唸る。
「それは……仰るとおり……なんです、が……」
「やめる気はないと」
「…………はい」
穂波先輩がため息をつく。
「お前は人がよすぎるんだよ。ゾンビになった友だちを見捨てられずに序盤で死ぬタイプ」
本当は、俺だってやりたくない。それは穂波先輩の言うような理由ではなく、もっと自分本位な理由で断りたかった。
引き受ければ花村さんとの距離が縮んでしまいそうで、怖かった。
現実に、もう毎日一緒に帰る約束をしてしまっている。この上協力して調査なんてしていれば接触が増えてしまうのは間違いないだろう。現状維持どころか、今以上に近づいてしまう恐れがあった。
それでも、俺には引き受けるしかなかった。
「……お人好しで引き受けたわけじゃないです」
「じゃあなんだ」
穂波先輩がじっと俺を見つめているのが見なくてもわかった。べたついたところのない、鋭い視線だ。ただ俺を心配している、真摯な眼差し。
「……怖かったんです」
ぽつ、とこぼした。
花村さんと近づきすぎるのが怖い。今まで通りでいられなくなるのが怖い。恋愛感情を向けられるのが怖い。ふとしたときに、しっとりと俺を見つめる花村さんの眼差しを思い出すだけで、胸の奥が暗く濁るほど、怖くてたまらない。
だけどそれ以上に。
「花村さんが誰かに嫌なことをされているのを無視するのも、取り返しのつかないことになるのも、すごく、怖くて」
昨日、花村さんと別れてからずっと、一晩中考えた。花村さんに送るメッセージを練りに練った。「やっぱり力になれない」と、どう伝えよう。どう断ろう、どう逃げよう。
どう伝えたところで、花村さんは許してくれるだろう。
だから、何も送れなかった。
「………」
「ひとりに、できなかったんです……」
俺は愚かだ。感情的に逃げ道を探し回り、感情に逃げ道を塞がれている。そうして子どものように優しい人に縋りついてしまった。
これ以上ないほど背中を丸めて沙汰を待つ。正面で重いため息が吐き出されるのを聞いて、硬く握った拳が震える。
「なら、早期解決するしかないな」
先輩の声は少し笑っていた。そろりと顔を上げると、苦笑が迎えてくれる。
「最小の手数で犯人を捕まえて、調査に時間を取られたぶん部活に集中して、放課後別々に過ごすうちにお前は花村穏にとって『他よりちょっと仲がいい友人』になる」
それでいいな。
何も言えずにいる俺に、先輩が鼻を鳴らした。返事を促されている。
今度はうつむくのではなく、頭を下げた。
「……はい。ありがとうございます」
「俺はまだ何もしてない」
感じ入っている俺を置き去りにして、穂波先輩はさっさと切り替えた。
「それで? 犯人の目星はついてるのか」
「それがさっぱり……花村さんも心当たりがないそうで」
呪いにしろ嫌がらせにしろ、花村さんにそんな強烈な悪感情を向ける人間がいるとは思えない。前提が理解不能だから、犯人探しなんてやりようがない。
手間取るほどに、近くで過ごす時間が増えてしまうのだと思うと焦りがじわりと背中を炙る。
「花村さんを嫌いな人……ならまだしも、呪ったり嫌がらせしたりするほどの人といわれると……あの花村さんですし」
一方の穂波先輩は俺の疑問が意外なようで、あっさりと答えた。
「人の気持ちなんてわからんものだろ。俺に彼女がいるくらいだ」
「それは何も意外性なくないですか」
穂波先輩はぬるい半笑いを浮かべた。
「お前に俺がどう見えてるのか知らんが、大半の人間は俺のことをチビでデブな不細工と評価する」
「…………嘘ですよね?」
先輩は黙殺した。
「それを恋人にしようってほど好きになる子がいる。花村くんの人間性を基準に考えても無駄だよ」
「つまり?」
「花村くん自体じゃなくて、近くにいる人間をよく見ろってことだ」
そう言われてみてもぴんとこない。思い返しても、花村さんの周りはいつも賑やかだな、くらいの感想しかない。
降参だ、と首を傾げて見せると、先輩はこちらへぐっと身を乗り出してきた。釣られて俺も前屈みになる。先輩はとっておきを教えてくれるときの笑みを浮かべた。
「いいか。他人に半年も嫌がらせを続けるっていうのは相当な根気がいる。原動力が好意でも悪意でも、供給がなければそこまで強烈な感情は保てない。……一応聞いておくが、花村くんは誰かの村を焼いたりはしてないんだろうな? それなら話は変わってくるが」
「ないと思います」
「なら、犯人は近くにいる人間だ。攻撃心が冷める間もないくらい、冷静になる隙がないくらい、いつも視界に入る人間。花村くんを好きでも嫌いでもいい。いつもそばで花村くんを見ている人間——」
穂波先輩は神妙な面持ちで人差し指の先を俺に向けた。
「ただの友だちみたいな顔をして強烈な感情を向けてるやつが犯人だ」
息をのんだ。
それはつまり。
「俺じゃないですか」
「そう、お前が第一容疑者だな」
穂波先輩の笑い声に、予鈴が重なった。弁当は半分も食べられなかった。



