「はい」
「ご、め……」
「いいから。顔真っ青だよー」
ビルの外、駅前通に並ぶベンチに座らされたなと思っていたら眼の前にペットボトルが差し出された。青いパッケージ、水だ。ありがたく受け取って蓋に指をかけるが、力が入らない。焦って爪を立てようとすると、小さな白い手が上から被せられた。俺の手ごとぎゅっと握り込む。華奢な作りに似合わない、しっかりとした力だった。
「ぇ、ぁ……」
「ちょっと失礼しまーす」
戸惑いは、ぱき、という軽快な音で霧散した。
「はい、どうぞ」
見かねて手伝ってくれたらしかった。促されるまま蓋を回す。今度は簡単に回りすぎて、膝に落とす。谷間から地面に落ちようとする蓋を、隣から手が伸びてきて回収してくれた。申し訳なさと恥ずかしさで汗が吹き出す。
「……っごめ……ごめん、ごめんね……ごめん……」
「めっちゃ謝るじゃん」
僕も、ちょっとごめんねー。
今の俺には少し重いペットボトルを支えて、飲み口を唇に寄せられる。俺の手の甲を包む手のひらは少し冷えて、湿っていた。優しい肌触りに焦りが引いていく。促されるまま、ひと口、ふた口、と冷えた水を喉に通しはじめた。
横っ面に視線を感じるが、彼女の眼差しのようにべたついた感触はなかった。
「落ち着いた?」
「……もう、だいじょうぶ……ありがとう」
「よかったー」
ゆっくりと、痛む肺が驚かないように呼吸しながら、救世主の顔を改めて確認する。やはり、話したことはないが、知っている顔だった。
「……四組の花村さん、で、よかった……?」
花村さんは何かと目立つ存在だった。小柄でかわいくて、明るくて社交的。学年で顔を知らない人はいない、絵に描いたような主人公キャラだ。今しがた颯爽と助けてくれたのも、らしすぎる振る舞いだった。
とはいえ、一方的に認知しているだけのやつが馴れ馴れしく呼ぶのもどうかと思い、確認から入ったのだが。
「あれ、僕のこと覚えててくれたの?」
眼を丸くするものだから、俺のほうこそ驚いてしまう。
「え? いや、花村さん目立つし……あれ? えーと、話したことあったっけ……ごめん……」
まったく記憶にない。
「ん? んーん、一回だけ、挨拶くらいの感じだったから、覚えてなくてもおかしくないよ」
釈然としない。社交界から距離のある俺が、社交界の華と挨拶を交わすようなイベントを忘れるなんてことがありうるのだろうか。
疑問は残るが、恩人の証言をわざわざ否定するほど重要なことでもない。
「そ、っか。あ、俺……」
「五組のゆーきくん、でしょ?」
「……やっぱり話したことある?」
「挨拶を一回ね」
「それで花村さんが俺のこと覚えてるなんてありえないでしょ」
「ちょっとお、ゆーきくんのなかで僕ってどんな人になってるの?」
「圧倒的主人公」
「どんな人なのそれ」
「それか、アイドル?」
「謎深まってるんだけど」
あはは。
俺の頓珍漢な回答に、花村さんは破顔した。軽快な笑い声が耳に心地いい。釣られるようにして口許をゆるめると、花村さんは唇を閉じて俺を見つめた。
馴れ馴れしかったか、嫌みな笑い方をしてしまったのか。不安が胸を突き上げて咄嗟に口許を手で覆う。
しかし花村さんは、穏やかに微笑んだ。
「よかった、本当にもう大丈夫そうだね」
俺に注がれる眼差しは、はっとするほど優しい。秋空の青を拾って不思議な色を帯びた瞳をぽかんと見つめ返す。満足げに笑みが深くなる。その顔を見ていたら、忙しかった頭がやっと「もう大丈夫だ」と理解できたようだった。今度は隠さず、自分の意思で笑って見せた。笑い返せた。
「……うん。心配してくれて、助けてくれてありがとう」
改めて頭を下げると、花村さんは大袈裟にため息をついて空を仰いだ。
「ほんっと、びっくりしたよー。知ってる人が人気のないところで今にも倒れそうにしてるんだもん。カツアゲでもされてるのかと思っちゃった」
「いや、あれは俺が悪かったんだ。あの人は全然悪くない」
「全然ってことはなくない? ゆーきくん、顔真っ青だったのに、恋する乙女は盲目っていうかさあ」
「……傍から見ても恋する感じだった?」
「どう見てもそうでしょ。近くに友だちっぽい子たち隠れてたし」
「ええ……?」
「いつも図書館で見かけるかっこいい人に意を決して声をかけにいく友だちを見守ってます! みたいな感じの子たちが」
「ああ……」
俺の勘違いではなかったらしい。
あの女の子は、客観的に見ても俺に恋愛感情を向けていたのだ。
「………」
思い出すと、背中にじっとりと汗が滲んだ。不快感が戻ってきそうで、外の空気に雪がれた腕をさする。
「ゆーきくんがあんなひどい顔してなかったら、邪魔するのやめとこうかと思ったんだけどね。すっごいかわいい子だったし」
「いや、来てくれて本当によかった」
でないと、何を言ってしまうかわからないところだった。言葉は飲み込めても、ひどい眼で睨みつけてしまうのは止められなかっただろう。自分が過去にしてきたことが甦ってきて、胸の奥が暗く濁る。
花村さんがひょいと首を傾げて俺の顔を覗き込む。
「ラッキーって思わなかったの?」
「俺みたいなのを選ぶ悪趣味な人は生理的に無理」
気がつけば吐き捨てていた。即座に後悔する。いくら弱っているにしても、他人にぶつけていい声音ではなかった。謝るために向き直ろうとした背中に、温かいものが触れた。
「どういうことか、聞いてもいい?」
花村さんは、項垂れた俺の背中を図書館でしてくれたようにさすってくれていた。横眼に見上げると、興味と心配が入り混じった瞳が受け止める。直前に想像したような眼はしていなかった。変人を揶揄ってやろうというのでも、救ってやろうというのでもなかった。
眼の前の俺と話すために感覚を共有したい、という以外の意図を、見つけられなかった。
「……たとえばなんだけど」
だとしても、突っ込んだ話をする間柄ではない。たまたま助けてくれただけの人に話すには気持ちの悪い内容だ。軽い話で誤魔化すほうが互いの負担は少ない。ちゃんとわかっていた。
だけど、花村さんの眼を見たら、誘われるように舌が動き出していた。
「……排泄物に興奮する人いるだろ。それは各自の自由なんだけど、それに俺がつき合えるかっていうと無理っていうか……」
家族にも友人にも言えていない、誰が聞いても反応に困るだろう話が口からこぼれる。
きちんと言葉にすることすら初めての、感覚の話が。
「恋愛感情を向けられると、すごく、気持ち悪くなるんだ」
もはや恋愛観とは呼べない。意味がわからない自分の体質のことを、なぜか花村さんには話してしまえた。助けてくれた人だったからなのかもしれないし、住む世界のちがう相手だったからかもしれない。自分でも理解不能だった。
だけど、穴倉に秘密を吐き出したような解放感があった。
花村さんには一日で二度も救われてしまった。大きな息が漏れる。いつにも増して呼吸が楽だ。
「だからさっきのことも、さっぱりラッキーじゃなかったんだ。カツアゲの方がまだましだったかも」
本当にありがとう、と続けたかったのだが、顔の前にずいと手のひらが差し出されて、口をつぐむ。
「待って。ゆーきくん目線だと『ゆーきくんが好き』っていうのはスカトロレベルの特殊性癖なの」
丸っこい指先越しに、花村さんが真剣な眼差しを寄越してくる。ずいぶん深刻に受け取らせてしまったようで、勝手に気楽になってしまった身としては申し訳なくなった。つい苦笑してしまう。
「そう。ど変態。申し訳ないけど絶対に無理」
「相手のことをゆーきくんが好きになれないからとかじゃなくて?」
「片想いの相手が答えてくれたことあるけど、気持ち悪すぎてだめだった。っていうか、両想いになった瞬間だめになったっていうか……」
「好きな人だったんだよね?」
「すごく好きだった。自分でもショックだった」
どんなにいい人でも、仲が良くても、俺のほうから恋をしていても「俺という人間に恋愛感情を抱いている」という一点のみで、一気に嫌悪の対象になってしまう。
我ながら意味不明で呪わしい感覚だった。
本人ですらそうなのだから、他人である花村さんにはいっそうわけがわからなかったことだろう。唖然として俺の顔をまじまじと見つめてくる。
「……それじゃずっと片想いじゃん」
「そう。鳴かぬ蛍は身を焦がして孤独に死ぬの」
「なにそれ……」
開き直って吐いた冗談はいまいち受けなかった。通じなかったのか、それ以前の問題か。いずれにせよ、話したことを後悔するには十分な反応だ。せっかく助けてくれた人に、反応に困るような話を聞かせてしまった。すまないことをした。
勝手に話して楽になって、その上萎れて慰めさせるなんて最悪だ。努めて軽く肩をすくめて見せた。
「頭おかしいでしょ。変な話してごめんね」
「ううん」
その肩を温かい手が包んだ。
「聞けてよかった。ありがとね」
思わず眼を向ける。大きな瞳が柔らかくたわむ。不意打ちでも喰らったように、身動きが取れなくなる。
花村さんは、心から嬉しそうに笑っていた。
花が咲くみたいに、日が昇るみたいに、魔法でもかけるみたいに。
その顔を見たときに、俺の片想いは始まっていたのだと思う。
◯
あのあと、例の女の子を避けるために図書館通いを控えようとしたが、なぜか花村さんは付き添いを買って出てくれた。彼女が俺のほうを見なくなってからもなぜかそばにいてくれた。自意識過剰な俺が具合を悪くするたびに、重苦しい不快感を追い払ってくれた。
そんなもの、好きにならないほうがおかしい。
出会いの時点であんなに鮮やかに救い出されてしまって、その上こんなふうに甘やかされつづけたら、のめり込むなと言われても無理がある。
話すようになって十ヶ月ほど、俺は転げ落ちるように片想いを募らせてしまっていた。
このまま、意味がわからない甘やかされ方をしながらぬくぬくと過ごし、誰かに横から掻っ攫われて枕を濡らすことになるだろうと思っていた。それでよかったし、それがよかった。
だが。
「ゆーきくん、意外に不器用だよね」
まただ。
放課後、寄り道の終着点に選んだファミレスで、口に入れる直前でパスタに逃げられた俺を見て、花村さんが微笑む。
背筋が微かにざわつくような、甘さを孕んだ瞳で俺を見つめる。
「……俺はいつも不器用だけど」
図書館で出会った彼女ほどではない。ほんのひととき、錯覚で片づけられるほどの微妙な肌触り。
最近薄っすらと感じるようになった、「疑問への答え」。
「イメージの話だよお。落ち着いててめっちゃ器用そうじゃん。指、細くて長いし」
向いから伸びてきた手が、皿に添えられた俺の手に触れる。人差し指を捕らえて、確かめるように握る。しっとりと柔らかい。
気持ち悪くない。
そのことに安心してしまう。だけど安心してしまうことが、苦しかった。
前は手が触れたら、ただ嬉しかったのに。
「花村さんは意外に力強いよね。こんな、ふにふにしてるのに」
「ちょいちょい、くすぐったいですー」
手を返して手のひらを軽く揉むと、大袈裟に逃げていく。前は追いたくなるのをこらえていたのに、今は少し安心してしまう。
最近、こんなことが増えていた。
「……ごめんね」
疑問を疑問のままにしてきたから、向き合わなかったから、一番嫌な答えにたどり着いてしまったんだろうか。
自分がされて嫌なことをしてきたから——花村さんに恋愛感情を向けてきたから、罰が当たったんだろうか。
花村さんが俺と遊んでくれるのは、俺のことが好きだからかもしれない、なんて。
「………」
思えば最初から距離が近すぎた。花村さんのパーソナルスペースが狭いからというだけでなく、俺がふらふらしていたせいで花村さんが支えてくれていたのも大きい。初期値が近すぎたから、仲良くなった分、友人の距離感を超えてしまったんだろう。
花村さんの感覚も道連れにして狂わせてしまったのかもしれない。
誤解かもしれない。それならそれでいい。俺の問題だから、それでいい。それでも。
あの手に触れたいと思っていたころに戻りたい。
どうにかして、花村さんの眼をよそに向ける必要があった。ほかの友人と同じように扱ってもらえるように、一度距離を取りたい。
そのための言葉は用意していた。「部活が忙しくなりそうなんだ」と嘘をつくつもりだった。ずっとただの友だちづらをしてきたくせに、はっきり嘘をつくのは息苦しかった。
それでも、今正さなければ手遅れになる。距離を取り直さなくては、友だちでいられなくなる。
指の感触が残る手を握り込んで、顔を上げた。
「——……どうしたの?」
用意していた言葉は、言えなかった。花村さんはもう俺を見てはいなかった。机の上で組んだ指に視線を落としている。柔らかい前髪に透けて、眉が下がっているのが見えた。
初めて見る心細げな表情に、思わず身を乗り出す。この人にこんな顔をさせるなんて、何ごとがあったのか。
「……あのね……えっと……」
花村さんは珍しく言い澱んだ。視線をよろよろと彷徨わせたかと思うと、淡い唇をきゅっと結び、俺に目配せする。
「……今日、甘やかしてって言ったよね」
「う? うん……」
一瞬「間に合わなかったのか」と思ったが、ちがう。こちらに向けられた眼差しは不安げに揺れていて、まとわりつくというよりも縋るといったほうがしっくりくる。小さな肩が閉じ込められているように縮んで、ひどく頼りなく映る。ただただ、心配に胸を突かれた。
「……大丈夫、今日は俺が甘やかす日だ。何でもするよ」
突かれるままに、固めていた決意とは裏腹の言葉が飛び出していく。白い首にほんのりと浮かんだ喉仏が上下するのをじっと見守る。
「じつは、聞いてほしいことがあって。変な話でごめんなんだけど……」
「変なことなら俺は毎日言ってる。どうしたの」
そこまで言ってようやく、花村さんの肩から力が抜けた。不安げだった瞳に真剣な光が宿る。まっすぐ俺を見る。答えるように背筋を伸ばすと、いつもは軽快な声が重みを帯びて告げた。
「僕、呪われてるみたいなんだ」
「ご、め……」
「いいから。顔真っ青だよー」
ビルの外、駅前通に並ぶベンチに座らされたなと思っていたら眼の前にペットボトルが差し出された。青いパッケージ、水だ。ありがたく受け取って蓋に指をかけるが、力が入らない。焦って爪を立てようとすると、小さな白い手が上から被せられた。俺の手ごとぎゅっと握り込む。華奢な作りに似合わない、しっかりとした力だった。
「ぇ、ぁ……」
「ちょっと失礼しまーす」
戸惑いは、ぱき、という軽快な音で霧散した。
「はい、どうぞ」
見かねて手伝ってくれたらしかった。促されるまま蓋を回す。今度は簡単に回りすぎて、膝に落とす。谷間から地面に落ちようとする蓋を、隣から手が伸びてきて回収してくれた。申し訳なさと恥ずかしさで汗が吹き出す。
「……っごめ……ごめん、ごめんね……ごめん……」
「めっちゃ謝るじゃん」
僕も、ちょっとごめんねー。
今の俺には少し重いペットボトルを支えて、飲み口を唇に寄せられる。俺の手の甲を包む手のひらは少し冷えて、湿っていた。優しい肌触りに焦りが引いていく。促されるまま、ひと口、ふた口、と冷えた水を喉に通しはじめた。
横っ面に視線を感じるが、彼女の眼差しのようにべたついた感触はなかった。
「落ち着いた?」
「……もう、だいじょうぶ……ありがとう」
「よかったー」
ゆっくりと、痛む肺が驚かないように呼吸しながら、救世主の顔を改めて確認する。やはり、話したことはないが、知っている顔だった。
「……四組の花村さん、で、よかった……?」
花村さんは何かと目立つ存在だった。小柄でかわいくて、明るくて社交的。学年で顔を知らない人はいない、絵に描いたような主人公キャラだ。今しがた颯爽と助けてくれたのも、らしすぎる振る舞いだった。
とはいえ、一方的に認知しているだけのやつが馴れ馴れしく呼ぶのもどうかと思い、確認から入ったのだが。
「あれ、僕のこと覚えててくれたの?」
眼を丸くするものだから、俺のほうこそ驚いてしまう。
「え? いや、花村さん目立つし……あれ? えーと、話したことあったっけ……ごめん……」
まったく記憶にない。
「ん? んーん、一回だけ、挨拶くらいの感じだったから、覚えてなくてもおかしくないよ」
釈然としない。社交界から距離のある俺が、社交界の華と挨拶を交わすようなイベントを忘れるなんてことがありうるのだろうか。
疑問は残るが、恩人の証言をわざわざ否定するほど重要なことでもない。
「そ、っか。あ、俺……」
「五組のゆーきくん、でしょ?」
「……やっぱり話したことある?」
「挨拶を一回ね」
「それで花村さんが俺のこと覚えてるなんてありえないでしょ」
「ちょっとお、ゆーきくんのなかで僕ってどんな人になってるの?」
「圧倒的主人公」
「どんな人なのそれ」
「それか、アイドル?」
「謎深まってるんだけど」
あはは。
俺の頓珍漢な回答に、花村さんは破顔した。軽快な笑い声が耳に心地いい。釣られるようにして口許をゆるめると、花村さんは唇を閉じて俺を見つめた。
馴れ馴れしかったか、嫌みな笑い方をしてしまったのか。不安が胸を突き上げて咄嗟に口許を手で覆う。
しかし花村さんは、穏やかに微笑んだ。
「よかった、本当にもう大丈夫そうだね」
俺に注がれる眼差しは、はっとするほど優しい。秋空の青を拾って不思議な色を帯びた瞳をぽかんと見つめ返す。満足げに笑みが深くなる。その顔を見ていたら、忙しかった頭がやっと「もう大丈夫だ」と理解できたようだった。今度は隠さず、自分の意思で笑って見せた。笑い返せた。
「……うん。心配してくれて、助けてくれてありがとう」
改めて頭を下げると、花村さんは大袈裟にため息をついて空を仰いだ。
「ほんっと、びっくりしたよー。知ってる人が人気のないところで今にも倒れそうにしてるんだもん。カツアゲでもされてるのかと思っちゃった」
「いや、あれは俺が悪かったんだ。あの人は全然悪くない」
「全然ってことはなくない? ゆーきくん、顔真っ青だったのに、恋する乙女は盲目っていうかさあ」
「……傍から見ても恋する感じだった?」
「どう見てもそうでしょ。近くに友だちっぽい子たち隠れてたし」
「ええ……?」
「いつも図書館で見かけるかっこいい人に意を決して声をかけにいく友だちを見守ってます! みたいな感じの子たちが」
「ああ……」
俺の勘違いではなかったらしい。
あの女の子は、客観的に見ても俺に恋愛感情を向けていたのだ。
「………」
思い出すと、背中にじっとりと汗が滲んだ。不快感が戻ってきそうで、外の空気に雪がれた腕をさする。
「ゆーきくんがあんなひどい顔してなかったら、邪魔するのやめとこうかと思ったんだけどね。すっごいかわいい子だったし」
「いや、来てくれて本当によかった」
でないと、何を言ってしまうかわからないところだった。言葉は飲み込めても、ひどい眼で睨みつけてしまうのは止められなかっただろう。自分が過去にしてきたことが甦ってきて、胸の奥が暗く濁る。
花村さんがひょいと首を傾げて俺の顔を覗き込む。
「ラッキーって思わなかったの?」
「俺みたいなのを選ぶ悪趣味な人は生理的に無理」
気がつけば吐き捨てていた。即座に後悔する。いくら弱っているにしても、他人にぶつけていい声音ではなかった。謝るために向き直ろうとした背中に、温かいものが触れた。
「どういうことか、聞いてもいい?」
花村さんは、項垂れた俺の背中を図書館でしてくれたようにさすってくれていた。横眼に見上げると、興味と心配が入り混じった瞳が受け止める。直前に想像したような眼はしていなかった。変人を揶揄ってやろうというのでも、救ってやろうというのでもなかった。
眼の前の俺と話すために感覚を共有したい、という以外の意図を、見つけられなかった。
「……たとえばなんだけど」
だとしても、突っ込んだ話をする間柄ではない。たまたま助けてくれただけの人に話すには気持ちの悪い内容だ。軽い話で誤魔化すほうが互いの負担は少ない。ちゃんとわかっていた。
だけど、花村さんの眼を見たら、誘われるように舌が動き出していた。
「……排泄物に興奮する人いるだろ。それは各自の自由なんだけど、それに俺がつき合えるかっていうと無理っていうか……」
家族にも友人にも言えていない、誰が聞いても反応に困るだろう話が口からこぼれる。
きちんと言葉にすることすら初めての、感覚の話が。
「恋愛感情を向けられると、すごく、気持ち悪くなるんだ」
もはや恋愛観とは呼べない。意味がわからない自分の体質のことを、なぜか花村さんには話してしまえた。助けてくれた人だったからなのかもしれないし、住む世界のちがう相手だったからかもしれない。自分でも理解不能だった。
だけど、穴倉に秘密を吐き出したような解放感があった。
花村さんには一日で二度も救われてしまった。大きな息が漏れる。いつにも増して呼吸が楽だ。
「だからさっきのことも、さっぱりラッキーじゃなかったんだ。カツアゲの方がまだましだったかも」
本当にありがとう、と続けたかったのだが、顔の前にずいと手のひらが差し出されて、口をつぐむ。
「待って。ゆーきくん目線だと『ゆーきくんが好き』っていうのはスカトロレベルの特殊性癖なの」
丸っこい指先越しに、花村さんが真剣な眼差しを寄越してくる。ずいぶん深刻に受け取らせてしまったようで、勝手に気楽になってしまった身としては申し訳なくなった。つい苦笑してしまう。
「そう。ど変態。申し訳ないけど絶対に無理」
「相手のことをゆーきくんが好きになれないからとかじゃなくて?」
「片想いの相手が答えてくれたことあるけど、気持ち悪すぎてだめだった。っていうか、両想いになった瞬間だめになったっていうか……」
「好きな人だったんだよね?」
「すごく好きだった。自分でもショックだった」
どんなにいい人でも、仲が良くても、俺のほうから恋をしていても「俺という人間に恋愛感情を抱いている」という一点のみで、一気に嫌悪の対象になってしまう。
我ながら意味不明で呪わしい感覚だった。
本人ですらそうなのだから、他人である花村さんにはいっそうわけがわからなかったことだろう。唖然として俺の顔をまじまじと見つめてくる。
「……それじゃずっと片想いじゃん」
「そう。鳴かぬ蛍は身を焦がして孤独に死ぬの」
「なにそれ……」
開き直って吐いた冗談はいまいち受けなかった。通じなかったのか、それ以前の問題か。いずれにせよ、話したことを後悔するには十分な反応だ。せっかく助けてくれた人に、反応に困るような話を聞かせてしまった。すまないことをした。
勝手に話して楽になって、その上萎れて慰めさせるなんて最悪だ。努めて軽く肩をすくめて見せた。
「頭おかしいでしょ。変な話してごめんね」
「ううん」
その肩を温かい手が包んだ。
「聞けてよかった。ありがとね」
思わず眼を向ける。大きな瞳が柔らかくたわむ。不意打ちでも喰らったように、身動きが取れなくなる。
花村さんは、心から嬉しそうに笑っていた。
花が咲くみたいに、日が昇るみたいに、魔法でもかけるみたいに。
その顔を見たときに、俺の片想いは始まっていたのだと思う。
◯
あのあと、例の女の子を避けるために図書館通いを控えようとしたが、なぜか花村さんは付き添いを買って出てくれた。彼女が俺のほうを見なくなってからもなぜかそばにいてくれた。自意識過剰な俺が具合を悪くするたびに、重苦しい不快感を追い払ってくれた。
そんなもの、好きにならないほうがおかしい。
出会いの時点であんなに鮮やかに救い出されてしまって、その上こんなふうに甘やかされつづけたら、のめり込むなと言われても無理がある。
話すようになって十ヶ月ほど、俺は転げ落ちるように片想いを募らせてしまっていた。
このまま、意味がわからない甘やかされ方をしながらぬくぬくと過ごし、誰かに横から掻っ攫われて枕を濡らすことになるだろうと思っていた。それでよかったし、それがよかった。
だが。
「ゆーきくん、意外に不器用だよね」
まただ。
放課後、寄り道の終着点に選んだファミレスで、口に入れる直前でパスタに逃げられた俺を見て、花村さんが微笑む。
背筋が微かにざわつくような、甘さを孕んだ瞳で俺を見つめる。
「……俺はいつも不器用だけど」
図書館で出会った彼女ほどではない。ほんのひととき、錯覚で片づけられるほどの微妙な肌触り。
最近薄っすらと感じるようになった、「疑問への答え」。
「イメージの話だよお。落ち着いててめっちゃ器用そうじゃん。指、細くて長いし」
向いから伸びてきた手が、皿に添えられた俺の手に触れる。人差し指を捕らえて、確かめるように握る。しっとりと柔らかい。
気持ち悪くない。
そのことに安心してしまう。だけど安心してしまうことが、苦しかった。
前は手が触れたら、ただ嬉しかったのに。
「花村さんは意外に力強いよね。こんな、ふにふにしてるのに」
「ちょいちょい、くすぐったいですー」
手を返して手のひらを軽く揉むと、大袈裟に逃げていく。前は追いたくなるのをこらえていたのに、今は少し安心してしまう。
最近、こんなことが増えていた。
「……ごめんね」
疑問を疑問のままにしてきたから、向き合わなかったから、一番嫌な答えにたどり着いてしまったんだろうか。
自分がされて嫌なことをしてきたから——花村さんに恋愛感情を向けてきたから、罰が当たったんだろうか。
花村さんが俺と遊んでくれるのは、俺のことが好きだからかもしれない、なんて。
「………」
思えば最初から距離が近すぎた。花村さんのパーソナルスペースが狭いからというだけでなく、俺がふらふらしていたせいで花村さんが支えてくれていたのも大きい。初期値が近すぎたから、仲良くなった分、友人の距離感を超えてしまったんだろう。
花村さんの感覚も道連れにして狂わせてしまったのかもしれない。
誤解かもしれない。それならそれでいい。俺の問題だから、それでいい。それでも。
あの手に触れたいと思っていたころに戻りたい。
どうにかして、花村さんの眼をよそに向ける必要があった。ほかの友人と同じように扱ってもらえるように、一度距離を取りたい。
そのための言葉は用意していた。「部活が忙しくなりそうなんだ」と嘘をつくつもりだった。ずっとただの友だちづらをしてきたくせに、はっきり嘘をつくのは息苦しかった。
それでも、今正さなければ手遅れになる。距離を取り直さなくては、友だちでいられなくなる。
指の感触が残る手を握り込んで、顔を上げた。
「——……どうしたの?」
用意していた言葉は、言えなかった。花村さんはもう俺を見てはいなかった。机の上で組んだ指に視線を落としている。柔らかい前髪に透けて、眉が下がっているのが見えた。
初めて見る心細げな表情に、思わず身を乗り出す。この人にこんな顔をさせるなんて、何ごとがあったのか。
「……あのね……えっと……」
花村さんは珍しく言い澱んだ。視線をよろよろと彷徨わせたかと思うと、淡い唇をきゅっと結び、俺に目配せする。
「……今日、甘やかしてって言ったよね」
「う? うん……」
一瞬「間に合わなかったのか」と思ったが、ちがう。こちらに向けられた眼差しは不安げに揺れていて、まとわりつくというよりも縋るといったほうがしっくりくる。小さな肩が閉じ込められているように縮んで、ひどく頼りなく映る。ただただ、心配に胸を突かれた。
「……大丈夫、今日は俺が甘やかす日だ。何でもするよ」
突かれるままに、固めていた決意とは裏腹の言葉が飛び出していく。白い首にほんのりと浮かんだ喉仏が上下するのをじっと見守る。
「じつは、聞いてほしいことがあって。変な話でごめんなんだけど……」
「変なことなら俺は毎日言ってる。どうしたの」
そこまで言ってようやく、花村さんの肩から力が抜けた。不安げだった瞳に真剣な光が宿る。まっすぐ俺を見る。答えるように背筋を伸ばすと、いつもは軽快な声が重みを帯びて告げた。
「僕、呪われてるみたいなんだ」


