「靴はあるのに姿が見えないから、『ひとりでなんかしてるな』って思ったんだ」
床に座り込んだままの俺に水を差し出しつつ、花村さんが言った。
場所は変わらず空き教室だ。草原くんとの話が終わったあと、どっと疲れが押し寄せてきた。ほとんど右往左往していただけだというのに、情けない。まだ腰が抜けていたのもあって、花村さんには先に教室に戻ってほしいと伝えたのだが、出ていっていくらもしないうちにペットボトル片手に戻ってきてくれた。嬉しい反面、今は気まずさのほうが勝る。教室の隅の隅、壁際で身を丸めているのを見つかったときは、なんとなく追い詰められた気がしてしまった。
落ち着かなさを隠して水を受け取ると、花村さんはそのまま正面に座り込んだ。
「それで授業サボって薮雨くんを探してたんだ」
どうも、俺の当初の疑問について説明してくれているようだ。「なぜ、今、ここに来たのか」。靴箱を確認されていたのも衝撃だったが、まさか本当に授業をサボって探してくれていたとは。
「で、昼休み終わるころに捕まって」
「捕まる?」
「ほなみ先輩」
「——……」
思わぬ名前が出て、固まった。
「『暇なら力を貸してやってくれ』ってさ。初めて話したけど、かっこいいねえ。あれはちょっと、勝てないなー」
花村さんは笑ったが、俺は笑えない。いつものことながら穂波先輩は冷静で的確だ。悔しいような嬉しいような複雑な気持ちで、ペットボトルを握りしめたまま膝に顔を埋める。
「……それで、助けにきてくれたんだ……」
ありがとう、という前に柔らかい手が俺の手に重なった。
「ちがうよ」
ぱき、という音とともに心臓が跳ねた。
顔を上げると、花村さんがペットボトルの蓋を開けてくれたようだった。
初めて図書館で助けてくれたときのように。
重なったままの両手の向こうでは、茶色の瞳が真っ直ぐに俺を見つめている。話はまだ終わっていないのだとわかった。
「ごめんね、僕、嘘ついてた」
「——……」
捕まった、と思った。
花村さんが先に教室に戻ってくれれば、草原くんとの話し合いで感じた好意らしきものの数々を流せる気がしていた。なかったことにできるような気がしていた。だけど花村さんの誠実さは、俺の狡さを見逃してはくれなかった。
「さっきも言ったけど、呪いなんか怖くなかった。あんな弱虫のやっかみ、全然気にしてなかった。足なんか好きなだけ引っ張ればいいと思ってたし、むしろ引っ張られた分だけ薮雨くんに気持ちが伝わってるんだなってちょっとにやにやしちゃってたくらい」
じわりと背中に汗が滲む。
「薮雨くんに相談したのはね、薮雨くんが僕と距離を取ろうとしてたからだよ」
喉が渇く。
「き、づいてたの……」
「もちろん。どんだけ薮雨くんのこと見てたと思ってんのー」
花村さんがひと言発するたび、身動きが取れなくなっていく。
「僕が困ってるって言ったら、薮雨くんは助けずにはいられないってわかってたんだ」
俺の手が強張っていることなど伝わっているだろうに、まだ——もう、友だちの顔に戻ってくれない。
「解決なんてしなくてもよかった。ぶっちゃけ解決しないほうがよかったくらい」
冗談めかして笑う顔に収まる瞳は、怖いくらいに真剣だった。決定的な言葉をぶつけられる気配に身構える。
「………なのに、薮雨くん、ぜんっぜん予想つかない動きするんだもんなあ」
想像に反して花村さんは軽く肩をすくめて見せた。いたずらっぽく首を傾げる。
「だから、主導権を取り返すために来たんだ。せっかく託してくれたほなみ先輩には怒られちゃいそうだけどね」
「………」
「あ、ごめん。水、飲んで飲んで」
促されるまま水を口に運ぶが、飲んだそばから喉が渇く。冷たい感触だけが腹の底に降り積もっていった。
俺はどんな顔をしていたのか、花村さんが苦笑した。
「ごめんね。きっと僕のこと、まっすぐでめっちゃいいやつだと思ってくれてたんでしょ? 全然ちがくて、ごめん」
「そんなことない……ちがわない」
花村さんがまっすぐで優しいのは変わりない。突然こうして冗談めかしたのは、ひょっとしたら最後のチャンスをくれたのかもしれない。ここで俺が話を逸らしたら、また「ちょっと距離の近い友だち」のふりを続けてくれるつもりなのかもしれない。
選択を俺に任せてくれたのかもしれない。
「ない……けど……」
だけど、もう限界がきていた。「明言されないうちはわからない」なんて言い訳、とっくの昔に通用しなくなっている。本当はずっと、わかっていた。このまま続けていくのは無理だ。
なのに、言い淀んでしまう。
「花村さんは、俺のこと……その……」
どうしても受け止めきれない。中途半端に話を続けたきり、逃げ道を探して舌が惑う。
もたもたしている間に、花村さんが口を開いた。
「好き」
「………っ」
とどめを刺された。
手のなかで汗をかいたペットボトルが形を変え、滑る。
「ほんとはもうちょっと伏せときたかったけど、やっぱ、もうさすがにごまかせないよね。お互い」
いくらも中身の減っていないペットボトルを花村さんが攫っていった。空になった手のひらには代わりに小さな手が握らされる。べたりと肌が絡みつく。冷えた汗が混ざり合う。
「去年の春、助けてくれたときから好き。あれからずっと、どんどん好きになってる」
ど真ん中をぶち抜かれた衝撃で停止した頭が、ゆっくりと言葉を飲み込んでいく。息が詰まる。熱を孕んだ瞳に炙られて鳥肌が立つ。
「今日もまた、好きになった」
こらえきれずに眼を逸らした。
口をついて出そうになる戯言を吐き気とともに飲み下す。腹の底でぐるぐると回る。言われたことを何度も曲解しようとして失敗した。「友だちとして」、「恩人として」。隠さず差し出される熱量が、必死のごまかしを片っ端から焼き捨てていった。
花村さんの「好き」は、俺の「好き」と同じだ。
「………っ」
認めてしまうと、理不尽な怒りがあとからあとから湧いてきた。なんで好きになっちゃったの。どうしてこんなに好きにさせたの。今まで俺のだめなところを散々見てきたくせに、どうして今も好きなままでいるの。
俺が恋愛感情を向けられるの苦手だって、知ってるくせに。
「………」
どれも言えるわけがなかった。ごまかすのを先に諦めたのは俺の方なのに、もう後悔している。だけどどうすればよかったのか、どうすればいいのか、わからない。
沈黙が続いても、花村さんはいつものように空気を変えてはくれなかった。静かに俺の返事を待っている。
「………もっと、まともな人と恋してよ……」
どうにか一番マシな恨み言を絞り出すと、返ってきたのはかすかな笑いだった。
「薮雨くんだって、僕がまともじゃないってわかってもまだ恋してくれてるくせに」
「っな! んで……っいや、そう……そっ……か……」
そこまで、気づかれていたのか。
考えてみれば当然だ。俺の気持ちに気づいていなければ、優しい花村さんが逃げる俺を強引につなぎとめようとするはずがない。俺が「両想いになるのは嫌なのに好き」だなんて矛盾を抱えていることを知っていたから、強気の手に出た。最初から好きだったと言う割に最近まで嫌な感じがしなかったのは自制してくれていたわけだ。最初からこんな眼で見られていたら、俺はきっと花村さんを好きにはなれなかった。
本当に、何から何まで先回りされていた。
逃げる道はもうない。ずっと友だちでいたいなんて、生ぬるい願いは終わりにしなければならない。最初から、そんな道はありえなかった。
花村さんは俺を友だちとして見てはいないし、俺だって同じなのだから。
「………」
鐘の音が聞こえる。次の授業が始まったらしい。尾を引く余韻が沈黙を埋めるが、時間稼ぎにもならない速さで消えていった。
締めつけられる胸を無理やり膨らませる。「お断り」の言葉を伝えるだけの空気を取り込む。顔を見て伝えるべきなのはわかっていた。
「……ごめん……俺……」
それでも顔を見られないまま、こわばった口を開くと、すぐに少し冷えた指で唇を押さえられた。
「——」
瞬間、胸が浮き立つ。
まさか、ここでも俺を守ってくれるつもりなのだろうか。断りの言葉も何も、俺には言わせずに終わりにしてくれるつもりなのだろうか。
ずるい期待を持って視線を上げた。
「薮雨くんはね」
愚かだった。
「僕を気持ち悪がっていいんだよ」
甘やかされすぎて、頭がすっかり馬鹿になっていた。花村さんの顔を見れば終わりにするつもりがないことは明らかだった。
全部答え合わせが済んで、もうあとは行き止まりでも、やめる気はさらさらない。
そういう顔をしていた。
「気持ち悪がって、拒絶して、引っ叩いて怒って傷つけていいんだよ」
「そんな、こと……!」
「して」
正面から向かってくる。草原くんに向けた眼差しとはちがって棘はないのに、深く射止めて放してくれない。
「僕は傷つかないし、薮雨くんが僕を好きでいてくれる限り、何されても諦めないから」
誠実で、切実で——
「僕にだけは、嫌なとき『嫌』って教えて」
「——」
どこまでも優しい刃だった。
そんなものを正面から向けられて、かわせるわけがない。拒絶なんてもっとできない。
まともに受けてしまえば、平静でなどいられない。
「………やり、たく……ない……できない……」
胸に深く食い込んで、押し留めていた気持ちが漏れ出す。
「させないでくれ……っ!」
ほとんど悲鳴のようだった。花村さんが眼を見開く。
一度こぼれてしまったものはもう止まらない。ずっと隠してきたものが堰を切って溢れ出る。
「俺は花村さんに触れたいし、触れられたい。ぎゅってしたいし、されたい。名前で呼んで、呼ばれたい」
全部、いつも嬉しかった。やってみたかった。どこまで許してもらえるのか考えただけで、期待と不安で足が震えた。受け入れてもらえるたびに、笑顔が返ってくるたびに、生きててよかったと思った。
「このまま、ずっと、そういう気持ちでいたい……」
それが、花村さんの気持ちを疑った途端、枷に変わった。
今までなら宝物になっていたはずのひとつひとつが疑惑の種になった。気持ち悪さを覚えるたびに怖くなった。花村さんではなく、花村さんを嫌いになってしまうことが怖くてたまらなかった。
「俺は、ずっと……ずっと穏さんのこと、好きでいたいんだ……っ!」
拒絶したら、恐怖が現実になってしまう。花村さんがたとえ傷つかなかったとしても、不快感を言葉にするたびに花村さんへの嫌悪感が積み上がってしまう。想像するだけで恐ろしい。
こんなに好きな人を嫌いになるなんて、たえられない。
「だから、お願い……」
溺れるように喘ぐ。喉が引き攣って痛かった。胸が引き絞られるように痛かった。逃げ惑う心臓を針で突き回されるようで、苦しかった。
鎧うように、両手で顔を覆った。
「俺のこと……好きでいるの、やめて……」
べたべたと塩気を帯びた体液が、あとからあとから瞼を転げ出て手のひらを濡らす。気持ち悪い。自分勝手で、汚らしくて、恥ずかしい。こんな俺を嫌いになってほしい。
息を殺しても、静かな教室では無駄だった。俺がみっともなくしゃくりあげる音がぽつぽつと沈黙を揺らす。空気は妙に凪いでいて、花村さんがどんな顔をしているのか察するすべはなかった。
優しさでも幻滅でもいいから、このまま、何も言わずに出ていってほしい。
俺を嫌いになった花村さんを見たくない。
いっそう強く手のひらを顔に押しつけると、その上から、温かいものが包んできた。手ではない。もっと広いものが覆い被さって、ぎゅっと押さえ込んでくる。
せっけんと、汗の香りがする。
「……気持ち悪くて仕方ないのに、まだ僕のこと好きなんだ」
触れている場所から甘ったるい声が伝わってきて、吐き気が込み上げた。
抱きしめられている。
理解した瞬間、押し除けようと腕を伸ばした。
「ゃ、め……ッ!」
なのに全然、びくともしない。背中に熱い腕が回って、壁にぎゅうと押しつけられて、抵抗ごと閉じ込められる。
「そんなに僕のこと、好きになってくれてたんだね」
こんなに小さな身体なのに、あまりに重い。
空が落ちてきたみたいに重くて、動けない。
「………ッ」
胸に押し当てた手のひらを驚くほど速い鼓動が打ちつける。反対側では同じ速さで俺の心臓が骨を叩いていた。息をするのもやっとで、涙が視界を曇らせる。
「もっと、いっぱい好きになってもらうから。どれだけ気持ち悪くなっちゃっても、それよりもっと好きになってもらえるように頑張るから。鳥肌立っても吐き気がしても、こんなに嫌なのになんでってくらい、なんで嫌いになれないのってくらい、すっごいめちゃくちゃ死ぬほど、僕のこと好きにさせるから……だから、お願い……っ」
こめかみがぶつかり、額が重ねられる。まつげが絡んでしまいそうな距離で視線がぶつかった。大きな瞳の境界が滲んで、揺れて、逃げられない。
「薮雨くんのこと、好きでいさせて」
囁く吐息が唇を掠める。涙で濡れた皮膚がひやりとして、だけどすぐに柔らかいものが温めた。一瞬だけ触れたそれが何だったのかなんて、考えるまでもない。身体の奥からこみ上げて頭を芯まで痺れさせるのが不快感なのか嬉しさなのか、もうわからない。
「そ、んなの……壊れる……」
やっとの思いで絞り出した抵抗は、本当になんの効果もなかった。いつもの軽やかな、だけど少し下手くそな笑みで簡単にいなされてしまう。
「壊れて、おかしくなって、それが普通になっちゃうくらい、好きにさせるよ」
自信しか感じられない、疑う気も起きない笑顔だった。
「——……」
四肢から力が抜けていく。隙間なく触れ合っている花村さんには丸わかりだっただろう。逃げる力を失って見上げると、柔らかな髪が夏空を透かして、満足げに弧を描く瞳をきらきらと光らせた。
「だから、慣れて諦めるまでは、僕といっしょに、片想いして」
これからの日々が怖くてたまらないのに、心臓が他人の臓器みたいにかわいらしい音で鳴る。
「なれて、あきらめたら……どう、なるの……?」
花村さんは甘やかに笑った。
「どうなると思う?」
了
床に座り込んだままの俺に水を差し出しつつ、花村さんが言った。
場所は変わらず空き教室だ。草原くんとの話が終わったあと、どっと疲れが押し寄せてきた。ほとんど右往左往していただけだというのに、情けない。まだ腰が抜けていたのもあって、花村さんには先に教室に戻ってほしいと伝えたのだが、出ていっていくらもしないうちにペットボトル片手に戻ってきてくれた。嬉しい反面、今は気まずさのほうが勝る。教室の隅の隅、壁際で身を丸めているのを見つかったときは、なんとなく追い詰められた気がしてしまった。
落ち着かなさを隠して水を受け取ると、花村さんはそのまま正面に座り込んだ。
「それで授業サボって薮雨くんを探してたんだ」
どうも、俺の当初の疑問について説明してくれているようだ。「なぜ、今、ここに来たのか」。靴箱を確認されていたのも衝撃だったが、まさか本当に授業をサボって探してくれていたとは。
「で、昼休み終わるころに捕まって」
「捕まる?」
「ほなみ先輩」
「——……」
思わぬ名前が出て、固まった。
「『暇なら力を貸してやってくれ』ってさ。初めて話したけど、かっこいいねえ。あれはちょっと、勝てないなー」
花村さんは笑ったが、俺は笑えない。いつものことながら穂波先輩は冷静で的確だ。悔しいような嬉しいような複雑な気持ちで、ペットボトルを握りしめたまま膝に顔を埋める。
「……それで、助けにきてくれたんだ……」
ありがとう、という前に柔らかい手が俺の手に重なった。
「ちがうよ」
ぱき、という音とともに心臓が跳ねた。
顔を上げると、花村さんがペットボトルの蓋を開けてくれたようだった。
初めて図書館で助けてくれたときのように。
重なったままの両手の向こうでは、茶色の瞳が真っ直ぐに俺を見つめている。話はまだ終わっていないのだとわかった。
「ごめんね、僕、嘘ついてた」
「——……」
捕まった、と思った。
花村さんが先に教室に戻ってくれれば、草原くんとの話し合いで感じた好意らしきものの数々を流せる気がしていた。なかったことにできるような気がしていた。だけど花村さんの誠実さは、俺の狡さを見逃してはくれなかった。
「さっきも言ったけど、呪いなんか怖くなかった。あんな弱虫のやっかみ、全然気にしてなかった。足なんか好きなだけ引っ張ればいいと思ってたし、むしろ引っ張られた分だけ薮雨くんに気持ちが伝わってるんだなってちょっとにやにやしちゃってたくらい」
じわりと背中に汗が滲む。
「薮雨くんに相談したのはね、薮雨くんが僕と距離を取ろうとしてたからだよ」
喉が渇く。
「き、づいてたの……」
「もちろん。どんだけ薮雨くんのこと見てたと思ってんのー」
花村さんがひと言発するたび、身動きが取れなくなっていく。
「僕が困ってるって言ったら、薮雨くんは助けずにはいられないってわかってたんだ」
俺の手が強張っていることなど伝わっているだろうに、まだ——もう、友だちの顔に戻ってくれない。
「解決なんてしなくてもよかった。ぶっちゃけ解決しないほうがよかったくらい」
冗談めかして笑う顔に収まる瞳は、怖いくらいに真剣だった。決定的な言葉をぶつけられる気配に身構える。
「………なのに、薮雨くん、ぜんっぜん予想つかない動きするんだもんなあ」
想像に反して花村さんは軽く肩をすくめて見せた。いたずらっぽく首を傾げる。
「だから、主導権を取り返すために来たんだ。せっかく託してくれたほなみ先輩には怒られちゃいそうだけどね」
「………」
「あ、ごめん。水、飲んで飲んで」
促されるまま水を口に運ぶが、飲んだそばから喉が渇く。冷たい感触だけが腹の底に降り積もっていった。
俺はどんな顔をしていたのか、花村さんが苦笑した。
「ごめんね。きっと僕のこと、まっすぐでめっちゃいいやつだと思ってくれてたんでしょ? 全然ちがくて、ごめん」
「そんなことない……ちがわない」
花村さんがまっすぐで優しいのは変わりない。突然こうして冗談めかしたのは、ひょっとしたら最後のチャンスをくれたのかもしれない。ここで俺が話を逸らしたら、また「ちょっと距離の近い友だち」のふりを続けてくれるつもりなのかもしれない。
選択を俺に任せてくれたのかもしれない。
「ない……けど……」
だけど、もう限界がきていた。「明言されないうちはわからない」なんて言い訳、とっくの昔に通用しなくなっている。本当はずっと、わかっていた。このまま続けていくのは無理だ。
なのに、言い淀んでしまう。
「花村さんは、俺のこと……その……」
どうしても受け止めきれない。中途半端に話を続けたきり、逃げ道を探して舌が惑う。
もたもたしている間に、花村さんが口を開いた。
「好き」
「………っ」
とどめを刺された。
手のなかで汗をかいたペットボトルが形を変え、滑る。
「ほんとはもうちょっと伏せときたかったけど、やっぱ、もうさすがにごまかせないよね。お互い」
いくらも中身の減っていないペットボトルを花村さんが攫っていった。空になった手のひらには代わりに小さな手が握らされる。べたりと肌が絡みつく。冷えた汗が混ざり合う。
「去年の春、助けてくれたときから好き。あれからずっと、どんどん好きになってる」
ど真ん中をぶち抜かれた衝撃で停止した頭が、ゆっくりと言葉を飲み込んでいく。息が詰まる。熱を孕んだ瞳に炙られて鳥肌が立つ。
「今日もまた、好きになった」
こらえきれずに眼を逸らした。
口をついて出そうになる戯言を吐き気とともに飲み下す。腹の底でぐるぐると回る。言われたことを何度も曲解しようとして失敗した。「友だちとして」、「恩人として」。隠さず差し出される熱量が、必死のごまかしを片っ端から焼き捨てていった。
花村さんの「好き」は、俺の「好き」と同じだ。
「………っ」
認めてしまうと、理不尽な怒りがあとからあとから湧いてきた。なんで好きになっちゃったの。どうしてこんなに好きにさせたの。今まで俺のだめなところを散々見てきたくせに、どうして今も好きなままでいるの。
俺が恋愛感情を向けられるの苦手だって、知ってるくせに。
「………」
どれも言えるわけがなかった。ごまかすのを先に諦めたのは俺の方なのに、もう後悔している。だけどどうすればよかったのか、どうすればいいのか、わからない。
沈黙が続いても、花村さんはいつものように空気を変えてはくれなかった。静かに俺の返事を待っている。
「………もっと、まともな人と恋してよ……」
どうにか一番マシな恨み言を絞り出すと、返ってきたのはかすかな笑いだった。
「薮雨くんだって、僕がまともじゃないってわかってもまだ恋してくれてるくせに」
「っな! んで……っいや、そう……そっ……か……」
そこまで、気づかれていたのか。
考えてみれば当然だ。俺の気持ちに気づいていなければ、優しい花村さんが逃げる俺を強引につなぎとめようとするはずがない。俺が「両想いになるのは嫌なのに好き」だなんて矛盾を抱えていることを知っていたから、強気の手に出た。最初から好きだったと言う割に最近まで嫌な感じがしなかったのは自制してくれていたわけだ。最初からこんな眼で見られていたら、俺はきっと花村さんを好きにはなれなかった。
本当に、何から何まで先回りされていた。
逃げる道はもうない。ずっと友だちでいたいなんて、生ぬるい願いは終わりにしなければならない。最初から、そんな道はありえなかった。
花村さんは俺を友だちとして見てはいないし、俺だって同じなのだから。
「………」
鐘の音が聞こえる。次の授業が始まったらしい。尾を引く余韻が沈黙を埋めるが、時間稼ぎにもならない速さで消えていった。
締めつけられる胸を無理やり膨らませる。「お断り」の言葉を伝えるだけの空気を取り込む。顔を見て伝えるべきなのはわかっていた。
「……ごめん……俺……」
それでも顔を見られないまま、こわばった口を開くと、すぐに少し冷えた指で唇を押さえられた。
「——」
瞬間、胸が浮き立つ。
まさか、ここでも俺を守ってくれるつもりなのだろうか。断りの言葉も何も、俺には言わせずに終わりにしてくれるつもりなのだろうか。
ずるい期待を持って視線を上げた。
「薮雨くんはね」
愚かだった。
「僕を気持ち悪がっていいんだよ」
甘やかされすぎて、頭がすっかり馬鹿になっていた。花村さんの顔を見れば終わりにするつもりがないことは明らかだった。
全部答え合わせが済んで、もうあとは行き止まりでも、やめる気はさらさらない。
そういう顔をしていた。
「気持ち悪がって、拒絶して、引っ叩いて怒って傷つけていいんだよ」
「そんな、こと……!」
「して」
正面から向かってくる。草原くんに向けた眼差しとはちがって棘はないのに、深く射止めて放してくれない。
「僕は傷つかないし、薮雨くんが僕を好きでいてくれる限り、何されても諦めないから」
誠実で、切実で——
「僕にだけは、嫌なとき『嫌』って教えて」
「——」
どこまでも優しい刃だった。
そんなものを正面から向けられて、かわせるわけがない。拒絶なんてもっとできない。
まともに受けてしまえば、平静でなどいられない。
「………やり、たく……ない……できない……」
胸に深く食い込んで、押し留めていた気持ちが漏れ出す。
「させないでくれ……っ!」
ほとんど悲鳴のようだった。花村さんが眼を見開く。
一度こぼれてしまったものはもう止まらない。ずっと隠してきたものが堰を切って溢れ出る。
「俺は花村さんに触れたいし、触れられたい。ぎゅってしたいし、されたい。名前で呼んで、呼ばれたい」
全部、いつも嬉しかった。やってみたかった。どこまで許してもらえるのか考えただけで、期待と不安で足が震えた。受け入れてもらえるたびに、笑顔が返ってくるたびに、生きててよかったと思った。
「このまま、ずっと、そういう気持ちでいたい……」
それが、花村さんの気持ちを疑った途端、枷に変わった。
今までなら宝物になっていたはずのひとつひとつが疑惑の種になった。気持ち悪さを覚えるたびに怖くなった。花村さんではなく、花村さんを嫌いになってしまうことが怖くてたまらなかった。
「俺は、ずっと……ずっと穏さんのこと、好きでいたいんだ……っ!」
拒絶したら、恐怖が現実になってしまう。花村さんがたとえ傷つかなかったとしても、不快感を言葉にするたびに花村さんへの嫌悪感が積み上がってしまう。想像するだけで恐ろしい。
こんなに好きな人を嫌いになるなんて、たえられない。
「だから、お願い……」
溺れるように喘ぐ。喉が引き攣って痛かった。胸が引き絞られるように痛かった。逃げ惑う心臓を針で突き回されるようで、苦しかった。
鎧うように、両手で顔を覆った。
「俺のこと……好きでいるの、やめて……」
べたべたと塩気を帯びた体液が、あとからあとから瞼を転げ出て手のひらを濡らす。気持ち悪い。自分勝手で、汚らしくて、恥ずかしい。こんな俺を嫌いになってほしい。
息を殺しても、静かな教室では無駄だった。俺がみっともなくしゃくりあげる音がぽつぽつと沈黙を揺らす。空気は妙に凪いでいて、花村さんがどんな顔をしているのか察するすべはなかった。
優しさでも幻滅でもいいから、このまま、何も言わずに出ていってほしい。
俺を嫌いになった花村さんを見たくない。
いっそう強く手のひらを顔に押しつけると、その上から、温かいものが包んできた。手ではない。もっと広いものが覆い被さって、ぎゅっと押さえ込んでくる。
せっけんと、汗の香りがする。
「……気持ち悪くて仕方ないのに、まだ僕のこと好きなんだ」
触れている場所から甘ったるい声が伝わってきて、吐き気が込み上げた。
抱きしめられている。
理解した瞬間、押し除けようと腕を伸ばした。
「ゃ、め……ッ!」
なのに全然、びくともしない。背中に熱い腕が回って、壁にぎゅうと押しつけられて、抵抗ごと閉じ込められる。
「そんなに僕のこと、好きになってくれてたんだね」
こんなに小さな身体なのに、あまりに重い。
空が落ちてきたみたいに重くて、動けない。
「………ッ」
胸に押し当てた手のひらを驚くほど速い鼓動が打ちつける。反対側では同じ速さで俺の心臓が骨を叩いていた。息をするのもやっとで、涙が視界を曇らせる。
「もっと、いっぱい好きになってもらうから。どれだけ気持ち悪くなっちゃっても、それよりもっと好きになってもらえるように頑張るから。鳥肌立っても吐き気がしても、こんなに嫌なのになんでってくらい、なんで嫌いになれないのってくらい、すっごいめちゃくちゃ死ぬほど、僕のこと好きにさせるから……だから、お願い……っ」
こめかみがぶつかり、額が重ねられる。まつげが絡んでしまいそうな距離で視線がぶつかった。大きな瞳の境界が滲んで、揺れて、逃げられない。
「薮雨くんのこと、好きでいさせて」
囁く吐息が唇を掠める。涙で濡れた皮膚がひやりとして、だけどすぐに柔らかいものが温めた。一瞬だけ触れたそれが何だったのかなんて、考えるまでもない。身体の奥からこみ上げて頭を芯まで痺れさせるのが不快感なのか嬉しさなのか、もうわからない。
「そ、んなの……壊れる……」
やっとの思いで絞り出した抵抗は、本当になんの効果もなかった。いつもの軽やかな、だけど少し下手くそな笑みで簡単にいなされてしまう。
「壊れて、おかしくなって、それが普通になっちゃうくらい、好きにさせるよ」
自信しか感じられない、疑う気も起きない笑顔だった。
「——……」
四肢から力が抜けていく。隙間なく触れ合っている花村さんには丸わかりだっただろう。逃げる力を失って見上げると、柔らかな髪が夏空を透かして、満足げに弧を描く瞳をきらきらと光らせた。
「だから、慣れて諦めるまでは、僕といっしょに、片想いして」
これからの日々が怖くてたまらないのに、心臓が他人の臓器みたいにかわいらしい音で鳴る。
「なれて、あきらめたら……どう、なるの……?」
花村さんは甘やかに笑った。
「どうなると思う?」
了



