ぼうっとした頭の片隅で、荒々しく近づいてくる足音を聞いた。
「花村……っ」
机を頓着なく蹴飛ばす騒音に紛れて草原くんが低く唸る。俺を閉じ込める逞しい腕にいっそうの力がこもった。
「はーい花村でーす」
しかし瞬きのあとには小作りな手が俺たちの肩を鷲掴み、ひと息に引きはがしていた。されるがままによろめいた身体を温かい腕が受け止める。服越しに伝わってくる他人の鼓動が途切れて、呼吸が一気に楽になった。
軽快な返事とは裏腹に、花村さんの眼は剣呑な光を帯びていた。形だけはいつもの人好きのする笑みを象っているが、茶色の瞳は見たことがないほど苛烈に、ぎらぎらと煌めいている。
「は……ッ……」
言いたいことはあるのに吐き気が引いてくれず、何度も唾液を飲み下す。喉元に爪を立てる俺の手に柔らかい手のひらが重なった。
「大丈夫?」
とん、と背中を叩く手。耳許で囁くさらりとした声。半身に寄り添う温度。
「っぃ……じょ、ぶ……」
「いいよ、無理しないで」
ほのかなせっけんの香り。
「——……」
がちがちに固まっていた四肢が勝手にゆるんだ。丸い肩は難なく支えてくれることを俺は知っている。音もなく笑うかすかな息遣いも知っている。この落ち着かなさも、よく知っている。
「花村、さん……なんで……」
間近で微笑む顔は、たった数日見なかっただけなのにずいぶん懐かしく感じた。
「穏って呼んでよお」
「………」
呼ぶわけがない。前に一度呼んでしまったのだって事故のようなものだった。
「ごめん、冗談」
もう、こんな距離で言葉を交わすつもりすらなかった。冗談だと言われても笑みのひとつも返せない。逃げ出したくても疲れ切った心身が離れようとしてくれない。ほの甘い声が煩わしいのに、触れたところから伝わってくる熱さに泣きたいくらい安心してしまっていた。
「……しってる……けど……」
心がゆるむ一方で、頭は混乱している。
場所にしろ時間帯にしろ、ぶらぶらしていてたまたま出くわしたとは思えない。授業をサボって探し回った上で介入してきたと考えるべきだ。だがなぜ。
俺の疑問などお見通しのようで、花村さんはふっと眼を細めた。耳元に唇を寄せられる。
「……今は何も考えないで、僕に任せて」
「——……」
余計にわけがわからない。思考停止してしまいたいのは山々だったが、それが許される状況ではないのは明らかだ。
どうにかぐらつく頭をもたげると、草原くんと眼が合った。
「ぁ……」
暗い瞳だった。俺がそうさせていた。しぶとくまとわりつく不快感を押し流す勢いで、冷や汗がどっと吹き出す。
草原くんの腕から解放されて、あからさまに安心してしまった。
「っごめ、俺……そうじゃなくて……!」
「いいよ」
草原くんに向けた言葉なのはわかりきっていただろうに、返事をしたのは花村さんだった。大慌てで体勢を立て直そうとする俺を、細っこい腕が止める。やんわりと肩を抱く。草原くんの眼が尖る。
「好きでもないやつのハグとか最悪でしょ。いいんだよ、正直に言ってやれば」
「ちが……!」
「じゃないと、優しさにつけ込んで黙らせるクズみたいになっちゃうじゃん」
信じられない思いで見下ろした俺の眼の前で、花村さんは鼻で笑った。その眼差しは俺ではなく正面に向けられている。
「——」
時々乾いた眼をするのは知っていた。
「だよねえ、草原くん?」
でも、こんなに直球で他人を攻撃するところは、見たことがなかった。
俺には花村さんに同意することも草原くんを庇うこともできなくて、立ち尽くしてしまう。花村さんの鋭い舌鋒をまともに受けた草原くんは、一瞬だけ怒りを露わにしたが、それでも歯を食いしばって耐えたようだ。空になった両手を惜しむように握って、俺に小さく頭を下げる。
「……ごめん、薮雨」
「あ……や……全然、俺のほうこそ、ごめん」
反射で謝ってしまったが、草原くんは返ってつらそうな顔をした。笑って見せた唇の端が強張っている。
「なんで。薮雨は本当に悪くないだろ」
「——」
「ほんとにね」
俺が返事する前に花村さんが答えてしまう。花村さんが先回りするたび、肌がひりつく。花村さんの怒りはひどく乾いていて鋭いのだと、初めて知った。
どう接すればいいのかわからなくなった俺をちらとも見ずに、花村さんは軽く首をかしげる。
「話戻すけどさあ、おまじないとかかわいこぶってないで、『呪い』解いてもらっていい?」
一手で本題に切り込まれ、抱かれたままの肩が跳ねた。どうやら話はほとんど聞かれてしまっていたようだ。だとすれば、理不尽に巻き込まれてしまった花村さんが怒るのもわかる。
「……立ち聞きはまあいい。割り込んできたのも……俺が勝手に盛り上がっちゃったせいだから、いいよ。けど、『おまじない』の話はお前関係ないだろ」
初手から喧嘩腰にぶつかってこられた草原くんが和やかに話せないのだってわかる。
そしてこのまま花村さんに「任せる」のがまずいことも、揉めごとを避けつづけてきた俺にはよくわかる。
「っ……あの、ごめん……」
両足を踏ん張って花村さんの腕から離れた。よたよたと無様ではあったが、両者のちょうど間に進み出る。さすがに堂々と立つことはできず猫背になりつつもふたりをその場に留めるように両腕を広げた。
「上手く言えないんだけど、ちょっと誤解というか……行き違いがあって……」
怒気に挟まれて冷や汗が止まらない。シャツの背中をぐっしょり濡らしながらもなんとか笑って見せる。
「草原くんは情けない俺のこと心配してくれて、それでおまじないかけてくれてただけなんだ」
花村さんに眼を向けると、不安になるほど薄い笑みで俺と草原くんを見比べていた。窓からの光を明るい色の瞳が硝子玉のように返す。見ていられずに視線を反対側に転じた。
「でも、俺がびびってばっかだから、花村さんは構ってくれてただけなのに、足引っ張られて、ひどい痣とかできちゃってて……」
草原くんは拳を硬く握りしめて敵意を押し留めているようだった。逆光のなかでもぎらつく瞳が怒りの深さを物語っている。思わず逃げるようにうつむいて、そのまま深く頭を下げた。
「……ふたりとも、本当にごめんなさい」
顔を見れば俺の言葉など何も響いていないのはわかったが、どうにか矛を納めてほしかった。この騒動の原因が俺である以上、喧嘩などさせられない。ふたりが険悪になる理由がない。むしろ俺がこのまま両方から嫌われてしまうのがいい。それで全て解決する。
重苦しい沈黙のなか、みっともなく震える膝を祈るような気持ちで見つめていると、左側から大きな手が俺の肩を掴んだ。確かな力が軽々と上体を引き上げる。
「お前まだそんなこと言ってんのか……っ!」
顔を上げると、真っ向から熱のこもった眼差しに炙られた。息が詰まる。
「いいか薮雨。お前が謝んなきゃいけないことなんて何もない。悪いのはこいつだ」
「ぃ、や……!」
反論しようとするが、俺の掠れた声など草原くんには聞こえていない。有無を言わさぬ手つきで俺を机に寄りかからせ、じろりと花村さんを睨みつけた。
「花村……いい機会だから言っとくけど、引っ張られるのが嫌なら薮雨のことは諦めろ」
胸を反らすと草原くんの身体は威圧的なほどに大きく見える。いつもなら頼りになるはずの恵まれた体躯を使って、花村さんを圧倒しようとしていた。
「お前が薮雨のことを苦しめつづける限り、お前のいうところの『呪い』からは逃げらんねえよ」
太い声はそのまま小柄な花村さんを押しつぶしてしまいそうで、思わず身を乗り出す。
「ま、待って草原くん……」
「僕がどうこうって話じゃなくてさあ」
背後から俺の言葉を遮る声は、どことなくねばついていた。草原くんの眉間に深くしわが刻まれる。
「君のおまじない、優しい薮雨くんにはつらいだけだからやめろ、って話をしてるんだよねえ」
肩越しに振り向くと、花村さんが背伸びしてにやついた顔を草原くんに見せつけていた。煽っているのが丸わかりの、うすら笑いだった。言っていることは俺の認識にかなり近いのだが、この伝え方はどう考えても逆効果だ。やめる気どころか話し合う気も失せるだろう。
「や……あの……」
「薮雨くんがモテるのはご存知のとおりでしょ? その上奥手でちょっと怖がり。いちいち言い寄るやつ攻撃してたらキリなくない?」
とめたいのに、花村さんは混乱する俺を待ってはくれない。
「草原くんだって、好きな子を歩く呪い発生機にしたいわけじゃないよねえ」
「誰も彼も攻撃してるわけじゃねえよ……お前が特別害悪なんだ腹黒野郎……! 薮雨が断れないからって引っ張り回してあっちこっちでべたべたべたべた……だから足引っ張られるんだろうが!」
「ちょ……そんなことは……」
「あっははは! 言われちゃったなあ!」
大袈裟な笑い声がかぶさってくる。思わず身をすくめて振り向くと、丸い眼が冷ややかに弧を描いた。
「でも、引き際はわかってるつもりだよ」
ねえ。
同意を求められるが、返事ができない。
「ぁ……えっと……」
花村さんはいつも「気持ち悪い」「逃げたい」と思った瞬間には友人の顔に戻っていた。俺の勘違いだったのかもしれない、と思わせるぎりぎりでいつも引いてくれていた。偶然だと言い聞かせてきたが、この口ぶりは。
「振られたくせに無理やり抱きしめちゃう君とはちがうんだよね」
つい記憶に沈みそうになってしまったが、草原くんへの追撃で我に返った。花村さんは俺の返事など期待していなかったようだ。繰り出される言葉は弁明でも説得でもなく、ただ草原くんの怒りを煽るためだけの嘲笑だった。
「こざかしいんだよ! お前がそういうふうだからおまじないを解くわけにいかないんだろうが!」
案の定、草原くんはもう怒りを抑えるどころではなくなっていた。眼の前に立っている俺を素通りして花村さんを睨みつけている。
「薮雨、やっぱだめだ……こいつ、おまじないを解いたらマジで碌でもないことしかねない。結局こいつは薮雨の気持ちをダシにして邪魔を排除したいだけなんだよ!」
俺がどれだけ花村さんを庇っても、もはや無駄どころか逆効果になるとしか思えなかった。事態の原因は俺なのに、蚊帳の外に置かれた感さえある。丸く収める道がもう見えない。
「任せろ」と言ったのはなんだったのか。
途方に暮れて花村さんを見る。冷ややかな眼が俺を見た一瞬だけ、和らいだ。
「——………」
そういうことか。
ようやく花村さんの意図に気づき、割って入ろうとすくんだ足に力を込めたときだった。
「彼氏どころか家族ヅラするじゃん」
遮るように花村さんが前に出た。視線は合わない。だけど死角で指が絡められ、後ろに引かれる。
「もう友だちですらないくせにねえ」
やはり、花村さんは俺の心中などすっかりお見通しだ。
おまじないが「俺のためのもの」である以上、俺が草原くんに強く出られないことまで見透かされてしまっていた。確かに、抱きしめられても「嫌だ」のひと言も言えない俺が、「迷惑だからやめろ」なんて言えるわけがない。またあの愛情深い眼で見られたら、「お詫びも込みで草原くんとつき合って解決しよう」なんて人でなしじみた手を打つ可能性もないとはいえない。
だから、花村さんは草原くんをとことん煽って引き受けて、ひとりで喧嘩することを選んだ。
気づいてしまえば何も意外なことはなかった。いつもどおりだ。花村さんは俺が言葉にできないことまで汲んで先回りしてくれる。困ったとき、動けなくなったとき、声すら出てこないとき、いつでも助けてくれる。それがずっと不思議で、申し訳なくて、ありがたかった。
「——待って」
だけど、今回は甘えようとは思えなかった。
離れていこうとした手を今度は俺から捕まえる。茶色の瞳がわずかに見開かれ、ようやくこちらを振り向いた。
「俺が、ちゃんと説明しなきゃ……だめだと思う」
草原くんが守りたいのは俺で、やめてほしいのも俺だ。対立が怖いからといって、このまま花村さんに任せていいとはどうしても思えない。
「これは俺の問題だから——」
傷つける役割を他人に押しつけるわけにはいかない。
たしかに、これまでの人生、まともに嫌だと言えたためしがない。今みたいになあなあにしようとして、返って状況を悪くしてばかりだった。覚悟を決めたところで急にちゃんと話せるわけがない。だけど、それでも。
——いいとこ見せたいって気持ち、わかるでしょ?
「——俺に、譲って」
好きな人に守られてばかりではいたくない。
双眸を真っ直ぐ見つめると大きな瞳の縁がじわりと滲んだ。何か言おうと薄く開いた唇が音もなく空気を食むが、待たない。話を打ち切るつもりで草原くんに向き直った。
いつも痛そうに笑う顔が、今ははっきりと傷ついていた。「お前を守ろうとしたのになぜ」と。不快感とともに刺すような痛みが胸を満たす。
相変わらず膝は笑ってしまっていたが、一歩前に出る。
「——だめ」
「っ⁉︎」
解こうとした手が、痛いほどの力で握り直された。そのまま引き寄せられる。耳許に柔らかいものが触れた。
「薮雨くんには、やらせてあげない」
囁く声があまりに甘くて、首筋がぞわりと粟立った。呪いなど比ではない、呼吸を奪うようなべたついた感触に手足を絡め取られ、膝が崩れる。
「は……」
転ぶ前にしなやかな腕が抱きとめてくれた。しかし支えてはくれず、優しく促されるままに床にへたり込んでしまう。激しく脈打つ胸を押さえ、信じられない思いで見上げると、炯々と光る眼が俺を見下ろしていた。
「僕ちょっと……いや嘘。めちゃくちゃ怒ってるから」
教室に入ってきたときと同じ、苛烈な眼だった。
「草原くんにも、自分にもね」
すっかり腰の抜けてしまった俺に、花村さんは満足そうに微笑んだ。小さな手が安心させるように俺の骨ばった手を握り直し、離れていく。
「なん……」
「なんの話だよ…ッ!」
問い返そうとした俺の声は刺々しい唸りに遮られた。草原くんの眼は俺たち二人を映している。怒りは花村さんだけでなく、真心を裏切った俺にも向けられているのがわかった。
身を固くした俺の前で、花村さんは眉根を寄せた。小さな唇がつまらなそうに尖り、ふっとため息をこぼす。
「……君がもうちょっと薮雨くんの気持ちを考えてくれてたら、黙っててあげてもよかったんだけどね」
かと思うと、ゆっくりと横に引き伸ばされ、笑みを象った。皮肉げで攻撃的な笑い方だった。
「何が言いたいんだよ……」
草原くんが睨みつけるが、花村さんは意にも介さない。軽やかな仕草で身を翻し、自分に怒りを向けてくる相手と対峙した。
「薮雨くんが傷ついたり苦しんだりしないように守ってるんだっけ?」
「くどい。何回同じこと言わせるんだよ」
「ふうん。じゃあさ——」
ズボンの裾を捲くってみせた。
「これ、どう説明してくれるの?」
そこにあるのは、手形ではなかった。
「ひ……ッ」
引き攣った悲鳴をあげたのは、俺だったのか草原くんだったのか。花村さんだけは涼しい顔をして自分の足許を見下ろした。
「弱った薮雨くんがちょーっと他人にくっついたくらいでこのざまだよ。心が狭いったらないよねえ」
どす黒い手が何本も絡みついて、素肌も見えないほどだった。人目に晒されて歯止めを失ったのか、手はみるみる数を増し、ズボンの裾からこぼれ落ち、机の影から湧き上がり集まって上履きすらも覆い隠していく。追い払おうと咄嗟に腰を浮かせた俺を白い手が制止した。
「触んないでいいよ、こんなの」
痛くないわけがないのに、まるで何も感じていないかのように花村さんは落ち着き払っていた。
「こんな悍ましいもの飛ばしておいて、好きだからとか守りたいからとかきれいな言葉並べたって無駄だよ」
ひと山の枷になったおまじないの下で、両足がぐっと踏み締められた。食い込む指を無理やり剥がして、脚を振り上げる。
「『薮雨くんに近づけるやつが妬ましくて仕方ない』」
重たい音と共に、踏み潰す。
「『気を許してるとこ見ると割り込んで引き裂きたくなる』」
何度も、何度も踏み躙る。
「『そこに収まってるのは自分じゃなきゃ嫌だ』」
降り積もった草原くんの気持ちを、躊躇なく叩き潰していく。草原くんの顔から血の気が引いていく。
上履きの底と柔らかなものが擦れ合う湿った音が響いた。
「本音はこんなとこでしょ? わかるよ。僕もおんなじ」
「ちが、ちがう! お前と一緒に——」
「だ、け、ど、さあ!」
黒い手は、草原くんのおまじないは諦めずに花村さんの白い脚に縋りついた。どれだけ蹴られても踏まれても、いじらしいほど必死に花村さんを俺からひきはがそうともがく。間から覗く瞳が悲しげに俺を見ている。助けを求められているのがわかるのに、粘る眼差しが気持ち悪くて、身がすくんで、手を差し伸べることなどできなかった。
「嫌われる気概もないくせに未練がましくまとわりつくの、やめてくれる?」
「——ッ!」
その手が、ぐにゃりと力を失った。骨を抜かれたように頽れて、足許に折り重なる。
「情けないなあ。ちょっと図星突かれただけでこれ?」
花村さんはぼろ切れのように足に絡む「呪い」を見下ろして、勝負はついたとばかりに鼻で笑った。もう振り払う気にもならないようで、黒い手をまとわりつかせたまま草原くん本人に向き直る。厚い肩が跳ねて、頼りなげに揺らいだ。
「気づいてたよ、最初から。草原くんが薮雨くんのこと好きなことなんて。薮雨くんと眼が合うたびすっごいいじらしい顔してたもんね。『今でも健気に想ってます』みたいな。それだけ好きなくせにさ」
嘲るように弾んでいた声から、不意に力が抜けた。
「傷ついた顔されて薮雨くんがどれだけ傷つくか、わかんないの?」
煽ったり打ちのめしたりする意図はもう感じられない。
「わかんないんなら、そもそも僕と張り合う余地ないし、わかっててやってるんなら——」
ただただ静かな怒りが滲み出していた。
「——嫌がらせ以外の何物でもないよね」
草原くんが息をのんだ。花村さんが一歩踏み出すと気圧されたように足を引く。
「それとも傷つけたかった? 優しい薮雨くんに『自分のせいで』って思わせてずううううっと自分のこと気にかけててほしかった?」
小柄な身体は容赦なく距離を詰めていき、ふたつの影がひと塊になる。
「どっちでもいいけどさ」
揺らいで、離れる。
「そんなの、おまじないでもなんでもない。本当に、ただの呪いなんだよ」
草原くんは崩れるようにしゃがみ込んだ。窓の下、薄暗がりで膝を抱え、肩を震わせている。腹の底がひんやりとする光景だったが、俺がかけていい言葉なんてないように思われた。
やるせなく見つめていると、大きな手が硬く握りしめられた。
「………お前は……どう、なんだよ……」
細い、本当に小さな声だった。
「おまじないが……呪い、が……足引っ張るってことは、お前……薮雨に、嫌がられてんだぞ……」
「………!」
草原くんの呼吸は潤んでいて、ただ寄る辺を求めているだけのようだった。思わず息を詰めて、花村さんの背中を見つめる。
「………」
花村さんは一度だけ、自分の手を見た。俺が払い除けた手。拒絶した手。一緒に出かけた日の記憶が甦り、心臓が早鐘を打つ。
ふっと、かすかにうつむいた顔が傾いた。俺に一瞥くれて、甘く微笑む。
「僕は傷つかないよ」
「——……」
小さな手が拳を作り、解ける。
「薮雨くんを守るためなら、薮雨くんにだって傷つけられてあげない。君の呪い如きに傷つけられるわけない」
草原くんに答えているようで、俺に向けられた言葉だった。
「だから正直、僕は呪いなんか解いてくれなくてもよかったんだよ。好きなだけ邪魔してもらって結構。邪魔にもなんないから」
勝手に考えて勝手に拒絶した俺への答えだ、とわかった。
「でも、薮雨くんが傷つくなら、話は別」
すっかり力をなくした呪いを乱暴に蹴散らした。
「こんなしょうもない嫌がらせでも薮雨くんが悲しくなるならもう無視しない。自分が平気だからって放置してたことだって本気で許せない。もう全力で叩き潰す」
唖然とする草原くんの眼前へ、腰を折って顔を寄せた。
「おまじない、解いて。僕が邪魔だっていうなら薮雨くんを挟まないで僕を直接呪ってよ。それなら喜んで受けて立つから」
「花村さん……!」
予想外の方向へ話を向けられて飛び上がる。腰が抜けているのも忘れて身を乗り出すと、花村さんが肩越しに振り返った。
「大丈夫。なんてことない」
俺の好きな、軽やかな笑い方だった。
「呪いより僕のがずっと怖いから、安心して」
草原くんはもう、反論しなかった。
「花村……っ」
机を頓着なく蹴飛ばす騒音に紛れて草原くんが低く唸る。俺を閉じ込める逞しい腕にいっそうの力がこもった。
「はーい花村でーす」
しかし瞬きのあとには小作りな手が俺たちの肩を鷲掴み、ひと息に引きはがしていた。されるがままによろめいた身体を温かい腕が受け止める。服越しに伝わってくる他人の鼓動が途切れて、呼吸が一気に楽になった。
軽快な返事とは裏腹に、花村さんの眼は剣呑な光を帯びていた。形だけはいつもの人好きのする笑みを象っているが、茶色の瞳は見たことがないほど苛烈に、ぎらぎらと煌めいている。
「は……ッ……」
言いたいことはあるのに吐き気が引いてくれず、何度も唾液を飲み下す。喉元に爪を立てる俺の手に柔らかい手のひらが重なった。
「大丈夫?」
とん、と背中を叩く手。耳許で囁くさらりとした声。半身に寄り添う温度。
「っぃ……じょ、ぶ……」
「いいよ、無理しないで」
ほのかなせっけんの香り。
「——……」
がちがちに固まっていた四肢が勝手にゆるんだ。丸い肩は難なく支えてくれることを俺は知っている。音もなく笑うかすかな息遣いも知っている。この落ち着かなさも、よく知っている。
「花村、さん……なんで……」
間近で微笑む顔は、たった数日見なかっただけなのにずいぶん懐かしく感じた。
「穏って呼んでよお」
「………」
呼ぶわけがない。前に一度呼んでしまったのだって事故のようなものだった。
「ごめん、冗談」
もう、こんな距離で言葉を交わすつもりすらなかった。冗談だと言われても笑みのひとつも返せない。逃げ出したくても疲れ切った心身が離れようとしてくれない。ほの甘い声が煩わしいのに、触れたところから伝わってくる熱さに泣きたいくらい安心してしまっていた。
「……しってる……けど……」
心がゆるむ一方で、頭は混乱している。
場所にしろ時間帯にしろ、ぶらぶらしていてたまたま出くわしたとは思えない。授業をサボって探し回った上で介入してきたと考えるべきだ。だがなぜ。
俺の疑問などお見通しのようで、花村さんはふっと眼を細めた。耳元に唇を寄せられる。
「……今は何も考えないで、僕に任せて」
「——……」
余計にわけがわからない。思考停止してしまいたいのは山々だったが、それが許される状況ではないのは明らかだ。
どうにかぐらつく頭をもたげると、草原くんと眼が合った。
「ぁ……」
暗い瞳だった。俺がそうさせていた。しぶとくまとわりつく不快感を押し流す勢いで、冷や汗がどっと吹き出す。
草原くんの腕から解放されて、あからさまに安心してしまった。
「っごめ、俺……そうじゃなくて……!」
「いいよ」
草原くんに向けた言葉なのはわかりきっていただろうに、返事をしたのは花村さんだった。大慌てで体勢を立て直そうとする俺を、細っこい腕が止める。やんわりと肩を抱く。草原くんの眼が尖る。
「好きでもないやつのハグとか最悪でしょ。いいんだよ、正直に言ってやれば」
「ちが……!」
「じゃないと、優しさにつけ込んで黙らせるクズみたいになっちゃうじゃん」
信じられない思いで見下ろした俺の眼の前で、花村さんは鼻で笑った。その眼差しは俺ではなく正面に向けられている。
「——」
時々乾いた眼をするのは知っていた。
「だよねえ、草原くん?」
でも、こんなに直球で他人を攻撃するところは、見たことがなかった。
俺には花村さんに同意することも草原くんを庇うこともできなくて、立ち尽くしてしまう。花村さんの鋭い舌鋒をまともに受けた草原くんは、一瞬だけ怒りを露わにしたが、それでも歯を食いしばって耐えたようだ。空になった両手を惜しむように握って、俺に小さく頭を下げる。
「……ごめん、薮雨」
「あ……や……全然、俺のほうこそ、ごめん」
反射で謝ってしまったが、草原くんは返ってつらそうな顔をした。笑って見せた唇の端が強張っている。
「なんで。薮雨は本当に悪くないだろ」
「——」
「ほんとにね」
俺が返事する前に花村さんが答えてしまう。花村さんが先回りするたび、肌がひりつく。花村さんの怒りはひどく乾いていて鋭いのだと、初めて知った。
どう接すればいいのかわからなくなった俺をちらとも見ずに、花村さんは軽く首をかしげる。
「話戻すけどさあ、おまじないとかかわいこぶってないで、『呪い』解いてもらっていい?」
一手で本題に切り込まれ、抱かれたままの肩が跳ねた。どうやら話はほとんど聞かれてしまっていたようだ。だとすれば、理不尽に巻き込まれてしまった花村さんが怒るのもわかる。
「……立ち聞きはまあいい。割り込んできたのも……俺が勝手に盛り上がっちゃったせいだから、いいよ。けど、『おまじない』の話はお前関係ないだろ」
初手から喧嘩腰にぶつかってこられた草原くんが和やかに話せないのだってわかる。
そしてこのまま花村さんに「任せる」のがまずいことも、揉めごとを避けつづけてきた俺にはよくわかる。
「っ……あの、ごめん……」
両足を踏ん張って花村さんの腕から離れた。よたよたと無様ではあったが、両者のちょうど間に進み出る。さすがに堂々と立つことはできず猫背になりつつもふたりをその場に留めるように両腕を広げた。
「上手く言えないんだけど、ちょっと誤解というか……行き違いがあって……」
怒気に挟まれて冷や汗が止まらない。シャツの背中をぐっしょり濡らしながらもなんとか笑って見せる。
「草原くんは情けない俺のこと心配してくれて、それでおまじないかけてくれてただけなんだ」
花村さんに眼を向けると、不安になるほど薄い笑みで俺と草原くんを見比べていた。窓からの光を明るい色の瞳が硝子玉のように返す。見ていられずに視線を反対側に転じた。
「でも、俺がびびってばっかだから、花村さんは構ってくれてただけなのに、足引っ張られて、ひどい痣とかできちゃってて……」
草原くんは拳を硬く握りしめて敵意を押し留めているようだった。逆光のなかでもぎらつく瞳が怒りの深さを物語っている。思わず逃げるようにうつむいて、そのまま深く頭を下げた。
「……ふたりとも、本当にごめんなさい」
顔を見れば俺の言葉など何も響いていないのはわかったが、どうにか矛を納めてほしかった。この騒動の原因が俺である以上、喧嘩などさせられない。ふたりが険悪になる理由がない。むしろ俺がこのまま両方から嫌われてしまうのがいい。それで全て解決する。
重苦しい沈黙のなか、みっともなく震える膝を祈るような気持ちで見つめていると、左側から大きな手が俺の肩を掴んだ。確かな力が軽々と上体を引き上げる。
「お前まだそんなこと言ってんのか……っ!」
顔を上げると、真っ向から熱のこもった眼差しに炙られた。息が詰まる。
「いいか薮雨。お前が謝んなきゃいけないことなんて何もない。悪いのはこいつだ」
「ぃ、や……!」
反論しようとするが、俺の掠れた声など草原くんには聞こえていない。有無を言わさぬ手つきで俺を机に寄りかからせ、じろりと花村さんを睨みつけた。
「花村……いい機会だから言っとくけど、引っ張られるのが嫌なら薮雨のことは諦めろ」
胸を反らすと草原くんの身体は威圧的なほどに大きく見える。いつもなら頼りになるはずの恵まれた体躯を使って、花村さんを圧倒しようとしていた。
「お前が薮雨のことを苦しめつづける限り、お前のいうところの『呪い』からは逃げらんねえよ」
太い声はそのまま小柄な花村さんを押しつぶしてしまいそうで、思わず身を乗り出す。
「ま、待って草原くん……」
「僕がどうこうって話じゃなくてさあ」
背後から俺の言葉を遮る声は、どことなくねばついていた。草原くんの眉間に深くしわが刻まれる。
「君のおまじない、優しい薮雨くんにはつらいだけだからやめろ、って話をしてるんだよねえ」
肩越しに振り向くと、花村さんが背伸びしてにやついた顔を草原くんに見せつけていた。煽っているのが丸わかりの、うすら笑いだった。言っていることは俺の認識にかなり近いのだが、この伝え方はどう考えても逆効果だ。やめる気どころか話し合う気も失せるだろう。
「や……あの……」
「薮雨くんがモテるのはご存知のとおりでしょ? その上奥手でちょっと怖がり。いちいち言い寄るやつ攻撃してたらキリなくない?」
とめたいのに、花村さんは混乱する俺を待ってはくれない。
「草原くんだって、好きな子を歩く呪い発生機にしたいわけじゃないよねえ」
「誰も彼も攻撃してるわけじゃねえよ……お前が特別害悪なんだ腹黒野郎……! 薮雨が断れないからって引っ張り回してあっちこっちでべたべたべたべた……だから足引っ張られるんだろうが!」
「ちょ……そんなことは……」
「あっははは! 言われちゃったなあ!」
大袈裟な笑い声がかぶさってくる。思わず身をすくめて振り向くと、丸い眼が冷ややかに弧を描いた。
「でも、引き際はわかってるつもりだよ」
ねえ。
同意を求められるが、返事ができない。
「ぁ……えっと……」
花村さんはいつも「気持ち悪い」「逃げたい」と思った瞬間には友人の顔に戻っていた。俺の勘違いだったのかもしれない、と思わせるぎりぎりでいつも引いてくれていた。偶然だと言い聞かせてきたが、この口ぶりは。
「振られたくせに無理やり抱きしめちゃう君とはちがうんだよね」
つい記憶に沈みそうになってしまったが、草原くんへの追撃で我に返った。花村さんは俺の返事など期待していなかったようだ。繰り出される言葉は弁明でも説得でもなく、ただ草原くんの怒りを煽るためだけの嘲笑だった。
「こざかしいんだよ! お前がそういうふうだからおまじないを解くわけにいかないんだろうが!」
案の定、草原くんはもう怒りを抑えるどころではなくなっていた。眼の前に立っている俺を素通りして花村さんを睨みつけている。
「薮雨、やっぱだめだ……こいつ、おまじないを解いたらマジで碌でもないことしかねない。結局こいつは薮雨の気持ちをダシにして邪魔を排除したいだけなんだよ!」
俺がどれだけ花村さんを庇っても、もはや無駄どころか逆効果になるとしか思えなかった。事態の原因は俺なのに、蚊帳の外に置かれた感さえある。丸く収める道がもう見えない。
「任せろ」と言ったのはなんだったのか。
途方に暮れて花村さんを見る。冷ややかな眼が俺を見た一瞬だけ、和らいだ。
「——………」
そういうことか。
ようやく花村さんの意図に気づき、割って入ろうとすくんだ足に力を込めたときだった。
「彼氏どころか家族ヅラするじゃん」
遮るように花村さんが前に出た。視線は合わない。だけど死角で指が絡められ、後ろに引かれる。
「もう友だちですらないくせにねえ」
やはり、花村さんは俺の心中などすっかりお見通しだ。
おまじないが「俺のためのもの」である以上、俺が草原くんに強く出られないことまで見透かされてしまっていた。確かに、抱きしめられても「嫌だ」のひと言も言えない俺が、「迷惑だからやめろ」なんて言えるわけがない。またあの愛情深い眼で見られたら、「お詫びも込みで草原くんとつき合って解決しよう」なんて人でなしじみた手を打つ可能性もないとはいえない。
だから、花村さんは草原くんをとことん煽って引き受けて、ひとりで喧嘩することを選んだ。
気づいてしまえば何も意外なことはなかった。いつもどおりだ。花村さんは俺が言葉にできないことまで汲んで先回りしてくれる。困ったとき、動けなくなったとき、声すら出てこないとき、いつでも助けてくれる。それがずっと不思議で、申し訳なくて、ありがたかった。
「——待って」
だけど、今回は甘えようとは思えなかった。
離れていこうとした手を今度は俺から捕まえる。茶色の瞳がわずかに見開かれ、ようやくこちらを振り向いた。
「俺が、ちゃんと説明しなきゃ……だめだと思う」
草原くんが守りたいのは俺で、やめてほしいのも俺だ。対立が怖いからといって、このまま花村さんに任せていいとはどうしても思えない。
「これは俺の問題だから——」
傷つける役割を他人に押しつけるわけにはいかない。
たしかに、これまでの人生、まともに嫌だと言えたためしがない。今みたいになあなあにしようとして、返って状況を悪くしてばかりだった。覚悟を決めたところで急にちゃんと話せるわけがない。だけど、それでも。
——いいとこ見せたいって気持ち、わかるでしょ?
「——俺に、譲って」
好きな人に守られてばかりではいたくない。
双眸を真っ直ぐ見つめると大きな瞳の縁がじわりと滲んだ。何か言おうと薄く開いた唇が音もなく空気を食むが、待たない。話を打ち切るつもりで草原くんに向き直った。
いつも痛そうに笑う顔が、今ははっきりと傷ついていた。「お前を守ろうとしたのになぜ」と。不快感とともに刺すような痛みが胸を満たす。
相変わらず膝は笑ってしまっていたが、一歩前に出る。
「——だめ」
「っ⁉︎」
解こうとした手が、痛いほどの力で握り直された。そのまま引き寄せられる。耳許に柔らかいものが触れた。
「薮雨くんには、やらせてあげない」
囁く声があまりに甘くて、首筋がぞわりと粟立った。呪いなど比ではない、呼吸を奪うようなべたついた感触に手足を絡め取られ、膝が崩れる。
「は……」
転ぶ前にしなやかな腕が抱きとめてくれた。しかし支えてはくれず、優しく促されるままに床にへたり込んでしまう。激しく脈打つ胸を押さえ、信じられない思いで見上げると、炯々と光る眼が俺を見下ろしていた。
「僕ちょっと……いや嘘。めちゃくちゃ怒ってるから」
教室に入ってきたときと同じ、苛烈な眼だった。
「草原くんにも、自分にもね」
すっかり腰の抜けてしまった俺に、花村さんは満足そうに微笑んだ。小さな手が安心させるように俺の骨ばった手を握り直し、離れていく。
「なん……」
「なんの話だよ…ッ!」
問い返そうとした俺の声は刺々しい唸りに遮られた。草原くんの眼は俺たち二人を映している。怒りは花村さんだけでなく、真心を裏切った俺にも向けられているのがわかった。
身を固くした俺の前で、花村さんは眉根を寄せた。小さな唇がつまらなそうに尖り、ふっとため息をこぼす。
「……君がもうちょっと薮雨くんの気持ちを考えてくれてたら、黙っててあげてもよかったんだけどね」
かと思うと、ゆっくりと横に引き伸ばされ、笑みを象った。皮肉げで攻撃的な笑い方だった。
「何が言いたいんだよ……」
草原くんが睨みつけるが、花村さんは意にも介さない。軽やかな仕草で身を翻し、自分に怒りを向けてくる相手と対峙した。
「薮雨くんが傷ついたり苦しんだりしないように守ってるんだっけ?」
「くどい。何回同じこと言わせるんだよ」
「ふうん。じゃあさ——」
ズボンの裾を捲くってみせた。
「これ、どう説明してくれるの?」
そこにあるのは、手形ではなかった。
「ひ……ッ」
引き攣った悲鳴をあげたのは、俺だったのか草原くんだったのか。花村さんだけは涼しい顔をして自分の足許を見下ろした。
「弱った薮雨くんがちょーっと他人にくっついたくらいでこのざまだよ。心が狭いったらないよねえ」
どす黒い手が何本も絡みついて、素肌も見えないほどだった。人目に晒されて歯止めを失ったのか、手はみるみる数を増し、ズボンの裾からこぼれ落ち、机の影から湧き上がり集まって上履きすらも覆い隠していく。追い払おうと咄嗟に腰を浮かせた俺を白い手が制止した。
「触んないでいいよ、こんなの」
痛くないわけがないのに、まるで何も感じていないかのように花村さんは落ち着き払っていた。
「こんな悍ましいもの飛ばしておいて、好きだからとか守りたいからとかきれいな言葉並べたって無駄だよ」
ひと山の枷になったおまじないの下で、両足がぐっと踏み締められた。食い込む指を無理やり剥がして、脚を振り上げる。
「『薮雨くんに近づけるやつが妬ましくて仕方ない』」
重たい音と共に、踏み潰す。
「『気を許してるとこ見ると割り込んで引き裂きたくなる』」
何度も、何度も踏み躙る。
「『そこに収まってるのは自分じゃなきゃ嫌だ』」
降り積もった草原くんの気持ちを、躊躇なく叩き潰していく。草原くんの顔から血の気が引いていく。
上履きの底と柔らかなものが擦れ合う湿った音が響いた。
「本音はこんなとこでしょ? わかるよ。僕もおんなじ」
「ちが、ちがう! お前と一緒に——」
「だ、け、ど、さあ!」
黒い手は、草原くんのおまじないは諦めずに花村さんの白い脚に縋りついた。どれだけ蹴られても踏まれても、いじらしいほど必死に花村さんを俺からひきはがそうともがく。間から覗く瞳が悲しげに俺を見ている。助けを求められているのがわかるのに、粘る眼差しが気持ち悪くて、身がすくんで、手を差し伸べることなどできなかった。
「嫌われる気概もないくせに未練がましくまとわりつくの、やめてくれる?」
「——ッ!」
その手が、ぐにゃりと力を失った。骨を抜かれたように頽れて、足許に折り重なる。
「情けないなあ。ちょっと図星突かれただけでこれ?」
花村さんはぼろ切れのように足に絡む「呪い」を見下ろして、勝負はついたとばかりに鼻で笑った。もう振り払う気にもならないようで、黒い手をまとわりつかせたまま草原くん本人に向き直る。厚い肩が跳ねて、頼りなげに揺らいだ。
「気づいてたよ、最初から。草原くんが薮雨くんのこと好きなことなんて。薮雨くんと眼が合うたびすっごいいじらしい顔してたもんね。『今でも健気に想ってます』みたいな。それだけ好きなくせにさ」
嘲るように弾んでいた声から、不意に力が抜けた。
「傷ついた顔されて薮雨くんがどれだけ傷つくか、わかんないの?」
煽ったり打ちのめしたりする意図はもう感じられない。
「わかんないんなら、そもそも僕と張り合う余地ないし、わかっててやってるんなら——」
ただただ静かな怒りが滲み出していた。
「——嫌がらせ以外の何物でもないよね」
草原くんが息をのんだ。花村さんが一歩踏み出すと気圧されたように足を引く。
「それとも傷つけたかった? 優しい薮雨くんに『自分のせいで』って思わせてずううううっと自分のこと気にかけててほしかった?」
小柄な身体は容赦なく距離を詰めていき、ふたつの影がひと塊になる。
「どっちでもいいけどさ」
揺らいで、離れる。
「そんなの、おまじないでもなんでもない。本当に、ただの呪いなんだよ」
草原くんは崩れるようにしゃがみ込んだ。窓の下、薄暗がりで膝を抱え、肩を震わせている。腹の底がひんやりとする光景だったが、俺がかけていい言葉なんてないように思われた。
やるせなく見つめていると、大きな手が硬く握りしめられた。
「………お前は……どう、なんだよ……」
細い、本当に小さな声だった。
「おまじないが……呪い、が……足引っ張るってことは、お前……薮雨に、嫌がられてんだぞ……」
「………!」
草原くんの呼吸は潤んでいて、ただ寄る辺を求めているだけのようだった。思わず息を詰めて、花村さんの背中を見つめる。
「………」
花村さんは一度だけ、自分の手を見た。俺が払い除けた手。拒絶した手。一緒に出かけた日の記憶が甦り、心臓が早鐘を打つ。
ふっと、かすかにうつむいた顔が傾いた。俺に一瞥くれて、甘く微笑む。
「僕は傷つかないよ」
「——……」
小さな手が拳を作り、解ける。
「薮雨くんを守るためなら、薮雨くんにだって傷つけられてあげない。君の呪い如きに傷つけられるわけない」
草原くんに答えているようで、俺に向けられた言葉だった。
「だから正直、僕は呪いなんか解いてくれなくてもよかったんだよ。好きなだけ邪魔してもらって結構。邪魔にもなんないから」
勝手に考えて勝手に拒絶した俺への答えだ、とわかった。
「でも、薮雨くんが傷つくなら、話は別」
すっかり力をなくした呪いを乱暴に蹴散らした。
「こんなしょうもない嫌がらせでも薮雨くんが悲しくなるならもう無視しない。自分が平気だからって放置してたことだって本気で許せない。もう全力で叩き潰す」
唖然とする草原くんの眼前へ、腰を折って顔を寄せた。
「おまじない、解いて。僕が邪魔だっていうなら薮雨くんを挟まないで僕を直接呪ってよ。それなら喜んで受けて立つから」
「花村さん……!」
予想外の方向へ話を向けられて飛び上がる。腰が抜けているのも忘れて身を乗り出すと、花村さんが肩越しに振り返った。
「大丈夫。なんてことない」
俺の好きな、軽やかな笑い方だった。
「呪いより僕のがずっと怖いから、安心して」
草原くんはもう、反論しなかった。



