夏より重い。

「………え?」
 思わず顔を上げてしまった。草原くんは途方に暮れたように俺を見下ろしている。わけがわからないと言いたげだが、俺もわけがわからない。緊張の糸を思わぬ形で切られ、おぼつかなくなった足が机の脚を蹴る。
「で、も……心当たり……」
「いや、ちょっ……と、待て、待ってくれ……呪い……呪いって……」
 身を乗り出そうとした俺の眼前に大きな手が広げられた。指の間をすり抜けて視線が交わる。どこか怯えをはらんだ眼とぶつかる。
「もしかして、薮雨……っ俺が、お前のこと恨んでるとか、思ってる……?」
「ゃ、え……」
 直球の問いに喉が詰まってしまう。これは肯定していい質問なのか。草原くんを貶すことになってしまうのではないか。ならないか。悪いのはそもそも俺だ。
「いや、そこまでとは……思って、ない……なかった……けど……」
 それでも真っ向から頷くのは憚られて中途半端に応じると、日に焼けた顔がみるみる青ざめていった。強張った肩が震え出す。
「草原くん……?」
 思わぬ反応にこちらが動揺してしまう。泣かれることも怒られることも想定していたが、怯えさせることになるとは思わなかった。
「や、ぶさめ……お前……ッ」
 草原くんは胸を喘がせ、助けを求めるように腕を伸べてくる。尋常な態度ではない。ためらいつつも支えようと差し出した手をすり抜けて、大きな手はがっちりと俺の肩を掴んだ。
「っ——」
 ぐんと引き寄せられる。必死な瞳が眼前に迫り、射止められたように動けなくなる。
「誤解してるよ!」
 悲痛な叫びが耳を打った。
「いや確かにショックだったよ! なんでって思ったよ! なんで、あんな眼で見たんだよって!」
「……ッ」
 何も誤解なんてないじゃないか。
 わかってはいたが改めて本人の口から聞かされると罪悪感が腹の底を炙ってくる。草原くんは俺の眼を真っ向から覗き込み、逃してくれない。
「ご、め……っ」
「聞けよ! そうじゃなくて——」
 逃げ腰の謝罪など跳ね除けて直に胸を打つような声に、息を詰めた。勝手に全身が硬くなり、決定打を受ける準備をする。
「——俺が先に薮雨を傷つけたんだろッ!」
「は……」
 何を言ってるんだ。
「俺が! 傷つけて、怖がらせたから……っていうか、今も、ずっと、傷つけて怖がらせてるから! だから友だちでいられなくなったんだろ!」
「それは……そんなの……」
 俺のほうだ。俺が変な体質のせいで勝手に気持ち悪がって、拒絶して、傷つけた。草原くんはおかしなことなど何ひとつしていなかった。ただ、俺なんかに恋をしてしまっただけだった。悪いところがあるとしたら好みだけだ。
 それだけなのに、草原くんはまるで恐ろしい罪を告白するようにざらついた声で続ける。
「認めるのしんどかったけど、でも本当は最初からわかってたんだよ……じゃなきゃ、薮雨があんな顔するわけないだろ……」
 真っ直ぐに俺を見ていた瞳が揺れた。熱い手のひらがぎゅっと肩を締めつける。身体中にべたついた感触がまとわりつく。
「とにかく……俺は恨んでないし、呪ってない。絶対に」
「——……」
 疑いようがなかった。俺に向けられているのが恨みなら、こんなに気持ち悪く感じるはずがない。皮肉なことに俺のろくでもない体質が証明していた。
 草原くんは、本気でまだ俺を好きでいてくれている。
 だからこそ、わからない。
「じゃ、あ……心当たりって……」
 からからに渇いた喉から絞り出す。
 俺は最初に「足を引っ張られる件だ」と確認して、草原くんは頷いた。そこに誤解はない。だけど「呪っていない」というなら、これまでの騒動は何だったのか。
 肩に食い込んだ指から、草原くんの緊張が伝わってきた。黒い瞳が下へと逃げる。不快感が和らぎ、呼吸が少し楽になる。
「………おまじないだよ……」
「おまじない……?」
 苦しげな沈黙を挟んで差し出されたのは、場違いに可愛らしい単語だった。受け取り方がわからず鸚鵡返しすると広い肩が居心地悪げに縮む。
「最初は気持ちの整理つけるためっていうか……神社とか寺とか回ってて……んで、だんだん、ネットのおまじないとか、思いつくことぜんぶやるようになって……正直、効果とか期待してたわけじゃなかったんだけど……」
 本当におまじないとしか言いようがない。話している本人もちょっと恥ずかしそうですらある。
 もしやこれは、草原くんの勘違いなのではないか。俺が責めるようなことを言ったから、深刻に捉えてしまったのではないか。
 疑念を抱きはじめたとき、伏し目がちに彷徨っていた瞳に暗い光が灯った。
「……花村見てたら、効果出てんのがわかって、やめられなくなって……」
 出てきた名前に背筋が凍った。やり場なく浮かせていた両手が草原くんの腕を掴む。
「効果って、何……何、お願いしたの……?」
 俺の手のなかで筋肉がわずかに盛り上がった。同時に肩に鈍い痛みが走る。視界の中心で、瞳が再び俺を映す。
「……もう、俺みたいなやつ現れるな、傷つけたり、苦しめたりするな……っ」
 泣き出しそうな眼だった。
「薮雨を苦しめるやつみんな、薮雨に近寄るなって、本気で祈ったんだよ……!」
「——……」
 血の気が引いた。
 花村さんや隣席の友人と、穂波先輩のちがいは「そこ」だったのか。「俺と恋愛関係に見えるかどうか」ではなく、「俺が嫌悪感を覚えるかどうか」。嫌な感情から俺を守るための祈りで——
「嘘、だろ……」
 ——俺の体質が、がむしゃらで優しい「おまじない」を「呪い」にしてしまったということか。
「ごめんけど、嘘じゃない」
 俺はどんな顔をしていたのか、草原くんは笑みを浮かべた。似合わなくて、いっそ現実味がないほど、卑屈な笑い方だった。
「ぶっちゃけ、自分でもキモいよ……未練がましくて……だから、今日は、そういう話、されんのかと思って……」
「っしない!」
 咄嗟に首を何度も横に振る。いくつ認識がひっくり返されても、俺が悪いことだけは疑いようもない。
 途端、足許で嫌な感触がじわりととぐろを巻いた。
「……ッそれは、まず、絶対にないよ……」
 草原くんの「好意」は、すっかりお馴染みとなった「呪い」の温度、肌触りと同じだった。呪いとして現れたときとはちがって今は引っ張るべき「相手」がいないせいか、黒い手は見えない。
 俺が呪いを感知することについて花村さんはいろいろと穿った見方をしていたが、蓋を開ければいつもどおりだったわけだ。俺は自分に向けられた好意を感じ取り、勝手に気持ち悪くなっていただけだった。
「……ぶっちゃけ、そっちのほうがましだったくらいだわ」
 広い肩が大きく上下して、笑みが崩れた。草原くんが顔を隠すようにうつむく。追いかけるように見下ろすと、光るものが床に落ちるのが眼に入った。一瞬遅れて、涙だと気づいた。
「薮雨に、恨んでるとか傷つけたがってるとか、そんなふうに思われるくらいなら、キモがられてるほうがましだった」
 さっぱりわからなかった。そこまでする理由も、涙を流す理由も、何も。
「今でも、お前が好きなんだよ……」
 何の面白みもない、話ひとつうまくできない、真心すら最悪の方向へ捻じ曲げてしまうような俺の何を見れば、こんなに好きになってくれるんだ。
 知りたいことはまるでわからないのに、眼の前の現実はただ胸を締めつけてくる。
「………ありがとう、草原くん」
 眼の前でうつむく首筋も広い背中も、記憶のなかのままだった。人通りの多い道を歩くとき、いつも先に立ってくれていた。あんなに頼もしく見えていたのに、俺なんかに心を寄せたばっかりに、今はひどく頼りなげだ。「呪い」なんて濡れ衣を着せられたというのに、怒るより先に傷ついている。
 友だちだったころと、何にも変わっていなかった。
「呪いじゃないのも、恨んでないのも、信じるよ」
「はは、よかった……」
 返事は涙まじりだった。日に焼けた腕で何度も眼を擦って顔をあげる。
「よかったよ、ほんと」
 笑って見せてくれた顔は、拭いきれなかったもので湿っていたし眉は苦しげに寄っていたが、やっぱり俺の知っている優しいものだった。
 最悪の勘違いと最悪の真相が暴かれて淀み切った胸が軋むように痛む。
 昨夜、俺が自分の残酷さにもっとちゃんと向き合っていたら、草原くんのことを信じていたら、もう少しちがった形で話をできただろうか。
 頭をよぎった後悔を振り払い、ゆっくりと口を開いた。
「……おまじない、解いてくれるかな」
「解く必要、あるか?」
 草原くんは心底不思議そうに首を傾げた。
 背中がひんやりする。掠れて低い声に胃の底を揺さぶられる。まじまじと見つめてくる眼に冷や汗が滲む。
 返事に惑っていると、草原くんが、はっと息をのんだ。
「っ呪いと間違えるってことは……まさか薮雨にもなんか……!」
「……っいや、俺には、何も……ただ、俺と近づいた人が……っ」
 慌てて首を振ると、盛り上がった肩が安心したようにゆるんだ。
「それはそいつらが悪いだろ」
 ちがう。
「薮雨が嫌がること、したってことだろ? 花村が強引に距離詰めてくの、見てたし」
 ちがう。
「や、悪いのは、俺のほうで……俺が悪くて……」
 俺が変な体質だから。普通嫌じゃないような好意でも、本当なら受け取って嬉しい気持ちでも、勝手に気持ち悪くなる気持ち悪いやつだから。
「悪くない」
 でもそれを言ったら、聞かれたくないことを聞かれる予感があった。
 「体質がなかったら、草原くんの好意を喜べたか」と聞かれたら、俺には答えられない。
 こんな俺のことをこんなに必死に好きでいてくれる人に、「それでも好きじゃない」なんて言えない。
 今だって草原くんは、寒気がするほど優しい眼で見てくれている。肩を掴んでいた指がゆるんで、吐き気がするほど柔らかく撫でてくれる。心臓が嫌な跳ね方をしている。
「っとにかく、俺が悪いんだよ……上手く、言えないけど……」
 頭がとっ散らかって適当な言い訳が出てこない。ただ、首を振るしかない。
 こんな言い方で伝わるわけがなく、草原くんは俺を労わるように微笑む。
「もう、いいから」
 ぎゅっと抱きすくめられた。薄布越しに他人の肌を生々しく感じて鳥肌が立つ。
「——っ」
 知らない体温と、知らない香りだった。
「薮雨は絶対、悪くないよ」
 違和感が不快感を加速させて身体をがんじがらめにする。すぐそばで、すぅ、と呼吸音がした。首筋がひやりとして、掻きむしりたくなる。こらえる。叫び出したいのを、突き放したいのをこらえる。
 こんなに真剣に俺を思ってくれる人に、これ以上ひどいことはできない。
 眩暈と吐き気で立っていられないのに、寄りかかりたい壁はない。俺がふらつくと、草原くんは優しく自分の肩にもたれさせてくれた。息苦しいほど嫌だった。
「は……っ……ぅ……」
 何度も息を止めた。瞼を閉ざした。本当は耳も塞ぎたかった。
「ごめんな……こんなことして、嫌だよな……」
「……っぅ……」
 彼の全身が愛おしいと伝えてくれていて、身体がばらばらになりそうなほど気持ち悪かった。
「これっきりだから。これからは嫌なことぜんぶから、絶対守ってみせるから、今だけ許してくれ……」
「それ、どうちがうの?」
 頭のなかまでどろっとした不快感でいっぱいになったとき、冷ややかな問いが切り込んできた。俺を抱く腕が硬く張り詰める一方で、俺の肺は呼吸をやっと思い出したように下手くそに膨らむ。
「お……前……なんで……」
 くっついた胸が喘ぐ。動けない俺は闖入者の顔を見ることができない。
「呪いと、何がちがうわけ?」
 だけど、この声を聞き間違えるはずがなかった。