夏より重い。

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 彼を好きになるのは、ごく自然なことだったように思う。
 最初に見たときは「冷たそうだ」と思った。涼しげに整った横顔は感情が薄く、周囲の友人に対して言葉少なく応じる様はひどく酷薄に映った。
 話してみると、「存外臆病な人だな」という印象に変わった。伏目がちにそっと話す様子は、自分が無害であることを示そうとしているようにも、無力だから攻撃しないでくれと訴えているようにも見えた。
 しかしそばにいるうちに、どちらも間違っていたのだと気づいた。
 冷たいのでも臆病なのでもなく、ただ優しかった。
 相槌が少ないのは、真剣にこちらの話を聞いて、考えてくれているからだった。
 遠慮がちなのは、こちらを傷つけない、喜ばせる言葉を一生懸命選んでいるからだった。
 優木薮雨はひどく甘ったるい男だった。
 だからこそ、彼から鋭い眼差しを向けられたときは、胸を貫かれたような衝撃が走った。

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 相手は先に来ていた。
 放課後には密会場となる教室は、午後の授業中ともあれば当然誰も寄りつかない。花村さんと決別することになった場所で、彼はひとり、うつむき加減に立っていた。窓から差し込む光に縁取られて逞しい身体の線がくっきりと浮かんでいる。去年の夏までは、よく見ていた光景だった。過去に引き戻されたような、別の世界に押し込まれたような、奇妙な感覚に囚われる。怖気づいた足が教室の入り口で勝手に止まってしまって、このまま逃げ出してしまいそうな気がした。気持ちの準備など、いくらしても足りやしない。
「待たせてごめん——」
 逃げ道を断つつもりで、一歩踏み込んだ。小さな俺の声に厚い肩がびくりと揺れ、顔がゆっくりとこちらを向く。逃げずに見据える。
「——草原、くん」
 久しぶりに名前を呼んだ声は発音がぎこちなく、震えてしまった。
「——……いや、全然。待ってない」
 元友人——草原くんは眼が合うといつものとおり、少し痛そうに笑った。
 自分に向けられた声を聞くのすら久々で、彼の前でどう振る舞っていたのかなどまるで思い出せない。机の合間を進む足取りは笑ってしまいそうなほど不器用なものになった。
「来てくれてありがとう……あと、ごめん、授業サボらせて……」
 草原くんは窓際から動かずに待っていた。眼差しだけが俺の輪郭をたどるのを肌で感じる。背中に滲んでくる汗が緊張からくるのか不快感からくるのかわからない。
「いいけど、薮雨が俺に用事なんて珍しいよな。話すのいつぶりだっけ」
 軽い調子を装っているが、視線は事故のように交わっては離れた。千切れたものを無理やりくっつけ直そうとしているようで、互いに無理しているのを感じる。白々しい空気が息苦しい。
 こんな嘘くさいやり取り、意味がない。
 俺は質問には答えず、彼の二歩手前で足を止めた。
「単刀直入に言うんだけど」
 友人というには少し遠い距離で、ひととき見つめ合う。今も傷ついているのがわかる瞳に勝手に怯んで、視線を一度下に逃がした。
 足を踏ん張り直して、真っ向から双眸を見据える。
「俺になんか、したよね」
 草原くんはわずかに唇を歪め、だけど今日は眼を逸らさなかった。優しい顔が苦笑する。
「なんか、か……まあ、心当たりはある……かな」
 ぎくり、と肩が跳ねてしまった。視線を逸らさず瞳の底を探る。
「心当たり、って……?」
「………」
 口をつぐんでしまった。彼に言わせるのはずるい気がして、俺のほうから口を開く。
「俺の……友だち、がね……足を引っ張られるんだよ」
「……うん」
「ちょっと、友だちとしては距離が近いかな、ってときに、つまずくみたいで」
「うん」
「俺は、その件の話をしてるんだけど……草原くんの心当たりもおんなじかな」
 ネットの怪談みたいな馬鹿馬鹿しい話なのに、草原くんは茶化さなかった。返事をためらうように俺のこわばった顔をじっくりと眺め回して、諦めたように瞼を伏せた。
「——うん」
 何か、続く言葉があるかと待ってみたが、何もなかった。傍らの机に寄りかかり、かすかにうつむく。窓からの光を背負った顔は、それだけで暗く表情を隠してしまう。しかし、断罪を待っているような立ち姿がすべてを語っていた。
「そ……っか……」
 吐息のような相槌を打つので精いっぱいだった。
「そう、かぁ……」
 これが、本当の答え合わせになった。
 俺が呪われていることにはすぐ思い至った。問題は、「誰」が「なぜ」俺を呪ったのかだ。
 解明には呪いの条件が手がかりになった。俺と特に親しくなった人が足を引っ張られ、関係が深まるほどにひどくなる。しかし、全員ではない。特に親しいはずの穂波先輩が引っ張られていない。では、「花村さんや隣席の友人」と「穂波先輩」とのちがいは何か。
 ——恋愛関係に見えるか否か、だ。
 気づいた瞬間、草原くんの顔が浮かんだ。信じたくなくて、草原くんを中心に時系列を整理してみた。呪いが花村さんを襲いはじめたのは、この春から——草原くんの前で花村さんと一緒にいるようになってからだ。呪いが苛烈になる直前、拳をぶつけ合った教室にも、抱き合うようになった書店にも、草原くんの眼があった。花村さんと離れて友人とつるむようになったのだって、同じ教室にいる草原くんは当然知っている。逆に、俺と穂波先輩の間に恋愛感情が発生しようがないことも、彼は知っているはずだ。去年の夏まで毎日と言っていいほど話していたのだから。
 何より、「俺との恋愛」が条件なら、草原くんには動機があった。
 矛盾を探したが、見つからなかった。
「……何をしたかは、聞かない……し、責めたいわけでもないんだ……ただ……」
 硬く強張った腕を持ち上げ、ともすれば歪んでしまいそうになる顔に手のひらを押し当てた。苦みを拭い去るように撫で下ろす。俺の視界の中心で草原くんは眩しい夏空を背負い、濃い影法師になっていた。恵まれた体躯が今は頼りなげに映る。見つめてももう視線が合うことはない。俺がそうさせている。
 軋む胸を張り、正面から頭を下げた。
「ごめん」
 息をのむかすかな音がした。何か言われるのが怖くて、顔を見たら何も言えなくなってしまいそうで、床を見つめたまま、懺悔する。
「草原くんにひどいことした俺が、能天気に他人とつるんでいいわけなかったと思う」
 草原くんが犯人だと気づいたとき、愕然とした。彼を今でも傷つけているくせに、彼の前で浮かれた姿を晒しつづけていたことに今更思い至った。俺は、優しい草原くんが他人を攻撃してしまうほどのことを無自覚にやってのけたのだと知って、恐ろしくなった。
「もう、草原くんのこと傷つけないようにするから、他の誰も傷つけないようにするから……っ」
 それでも俺の頭に一番に浮かんできたのは花村さんの顔だった。俺のせいで花村さんを苦しめていたことが俺にとっては何より苦しかった。自分の無神経さよりも、草原くんを傷つけたことよりも、花村さんを巻き込んでしまったことが痛かった。
「俺にかけた呪い、解いてください……!」
 そんな俺に、恋に溺れる資格なんて、はじめからなかった。
「許してくれなんていえない……だけど、お願いします……っ」
 呪いつづけるというなら仕方がない。だけど、足を引っ張られるのは俺であってほしい。呪いは俺で完結してほしい。これ以上他人を巻き込むことには耐えられない。
 謝る以外、俺にできることなどなかった。重い沈黙のなか、一心に頭を下げつづける。
 やがて小さな息継ぎが聞こえた。全身に力がこもる。
「の、ろい……?」
 降ってきた声は、想像していたような険しいものではなかった。変な冗談でも言われたような、どこかふわふわしたものだ。
「俺……薮雨に呪いなんかかけてないよ」