夏より重い。

 遠くで運動部の掛け声が聞こえる。心臓が痛いくらいの沈黙だった。
「……どういう意味?」
 花村さんの声は怖いほど落ち着いていた。責める口ぶりではないのに喉に鉛を詰められるような息苦しさを覚える。今ならまだ、ごまかせる。
「……こんなやばいものに立ち向かうのは無理、っていうこと」
 それでも、ごまかさない。苦しさを押して吐き出した。ゆっくりと息継ぎして、正面を見上げる。俺を見下ろす花村さんの顔は、窓いっぱいに差す光を背負って濃い影になっていた。うす青い影の底で瞳が瞬く。
 ごまかしようもなく、眼差しがまとわりついてくる。
 眼をそらすついでのように、机の上に広げたままのノートを示した。
「……この名簿、どういう目線で作ったと思う?」
 声が震えないよう喉に力を込めたせいか、吐き出す音は自分の耳にも低く暗く響いた。
「僕のことめっちゃ好きな子、でしょ?」
 花村さんの相槌は言葉だけ見れば常のとおり砕けたものだったが、声はどこか硬い。いつもの弾むような軽やかさはなく、冷めている。そんな声を聞くのは初めてで、自分でふっかけたくせに耳を塞ぎたくなってしまう。
「花村さんのこと、好きな人はたくさんいる。それをどういう目線で絞り込んだと思う?」
「それは……」
 花村さんが言いよどむ。言ってないのだからわかるはずがない。詳しく説明しなかった俺の逃げがここに来て役に立ったようだ。自嘲で唇が歪むのが自分でもわかった。
 うすら笑いを消さないまま向き直る。
「花村さんに、直接本音を言えなさそうな人間、ていう目線だよ」
「——」
 かすかに息をのむ音が耳に届いた。かすれた、小さな呻きの混じった、傷ついたのがわかる音。大きな瞳が揺らぐ。
「意味、が、わかんないんだけど……?」
 つぶやきと呼ぶにも密やかな問いかけだった。懸命に何かをこらえているようだったが、絡んだ指から伝わる震えは隠せない。傷つけていることが苦しい一方で、どこか安心しているのも無視できなかった。
 花村さんが、俺から拒絶されて、見たこともないほど動揺している。
 本当に心を寄せてくれていたのを眼に見て確かめられて、言えなかった本音に答えをもらえた気がした。
「……最初から、花村さんにつき合うの、ちょっと怖いと思ってた」
 俺とは住む世界が全然ちがうから、意図がわからなくて怖かった。退屈させてるんじゃないかといつも不安だった。
「呪いの相談に乗るのも、気が進まなかった」
 関係を保つために、距離をとりたかった。友だちでいられなくなりそうで、嫌だった。
「でも言えなかった」
 好きだから、本当のことは何ひとつ言えなかった。
「それでも、ここまでやばいもの見せられたら、そんなこと言ってられない」
 好きだから、本当のことは言わないと決めた。
 俺との距離が縮むにつれて呪いがひどくなるとか。花村さんにこんなひどい痕が残るような状態、耐えられないとか。言ったら、花村さんは「気にするな」と答えるだろうし、俺はきっとそれに流される。不安を抱えたまま、日常に戻っていくに決まっている。花村さんにつけを払わせていることからすらも眼を逸らして。
「俺には、できない。ごめん」
 だったらそんな本音、言うだけ無駄だ。嘘になろうと、嫌われるぐらいの言い方をしないと効果がない。
 痛いくらいに拒絶しないと、意味がない。
 声はずいぶん震えてしまったが、ちょうどよかっただろう。ずっと言えなかった本音をやっと言えたみたいに聞こえただろう。
 その証拠に、空気はすっかり冷え切っていた。蝉の音も、夏空も、弱い空調でぬるい部屋も、重苦しい沈黙に潰されて硬く凍えている。
「……何、それ……」
 沈黙を破ったのはいつものとおり、花村さんだった。俺が言葉を見つけられないとき、花村さんはいつも話を繋いでくれる。だけど今、いつもの軽やかさはない。強張った低い声が俺の肩を押さえつけてくる。
 うなだれたのか、頭を下げたのか。自分でもよくわからなかった。
「……もう、ここまでにしてほしい、ってこと」
「——ッ」
 注がれる眼差しがどろりと湿度を持った。怒りとはちがう、何か執着じみたものがまとわりついてきて、花村さんが言った「一番仲いい」がやはり嘘ではなかったらしいことをまた実感した。その執着が俺の期待した「友人」としてか、何より恐れていた「恋愛感情」かは、もうどちらでも構わなかった。
 まとわりつくものを引き剥がすように腰を上げる。手足が重く、立ち上がるのにはかなりの労力が要った。繋いでいた指をほどいて一歩下がると、明るい色の瞳が苛烈に燃えているのがわかった。その眼に映る自分がどんな顔をしているのかはわからない。
 ひととき見つめあって、顔を背けた。
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃなくて……っ!」
 身を翻すと、がたんという大きな音が空の教室に響き渡った。肩越しに振り向けば花村さんが椅子の前で膝をついている。立ち上がろうとした拍子に足を引っ張られたらしい。駆け寄りたくなるのをこらえて見下ろすと、呆然と俺を見上げてくる。意識して唇の端を上げてみせた。
「……ね、やっぱり、無理だよ」
 もう立ちあがろうとはしない花村さんを残して、教室を出た。



 花村さんから逃げて、三日が経った。
 俺の観測する範囲では、つまずいている様子はない。話しついでに共通の友人に聞いてみたが、転んだという話もなかった。それでもしばらくは変わらず神経を張っていたが、呪いの気配を感じることもない。
 呪いは鎮まった。少なくとも、作戦を開始してからのような苛烈さは鳴りを潜めているようだった。
 仮説は正しかった、といっていい結果だ。
 確信を持ってすぐ、穂波先輩に報告した。ずいぶん迷惑をかけたし、落ち着いて見えても心配してくれているのはわかっていた。きっと呆れたため息とともに慰めてくれるだろう、と思ったのだが。
「お前、それでいいのか?」
 穂波先輩はいつもとちがって少し困ったような顔をした。
「優木薮雨原因説を言い出したのは俺だが、何も縁切りじみた真似することないだろう」
「や、もともと距離を取るつもりでしたし」
 そういうことが言いたいのではないことくらいわかっていたが、知らないふりをした。白々しく苦笑して見せると、穂波先輩は今度こそ俺の想像していたような呆れたため息をついた。
「……別の対処を考えるなら協力するぞ」
「大丈夫です。相談に乗っていただいて、ありがとうございます」
 正直なところ穂波先輩の提案に縋りつきたい気持ちはあった。胸はずっと棘のあるものを飲み込んでいるように痛かったし、花村さんと一緒の教室は居心地が悪い。だけどそれ以上に、安心もしていた。
 毒々しい、痛々しい手形の数々が脳裏にべったりとこびりついて離れない。自分があれを作る原因になっていたのかと思うと、頭を掻きむしりたくなる。しかも俺を怖がらせまいと振る舞っている花村さんの隣で、花村さんとの距離感のことをごちゃごちゃこねくり回していたときた。
 我ながら救いようがない。
 自分の失態を思い返して憂鬱になるのはいつものことだが、間抜けさという意味でも被害の大きさという観点でも、これまでの上位三位には入る大失態だ。別の手を打とうとしてもう一度同じことを引き起こすことになったら目も当てられない。だったらこのままでいい。
 濁った空気を机に向けて吐き出す。じっとりと肌にまとわりつくものを感じて、眼を上げる。
「……——」
 花村さんが友人たちの肩越しに俺を見ていた。視線が一瞬交わり、慌ててこちらから切る。
 俺が暇さえあれば花村さんを見ているせいで、しょっちゅう眼が合ってしまう。花村さんはいつも、そこにいろ、逃げるな、とでも言いたげな強い眼差しを向けてくる。肌を刺すような、絡みつくような眼差しだ。すぐに眼をそらしても肌触りは消えない。いつまでも背筋がざわついて仕方ない。そして皮肉なことに、花村さんがずっとそんな調子でいてくれるからこそ、避けるのは簡単だった。
 呪いもこれくらいわかりやすく現れてくれれば毎度捕まる前に逃げられただろうにな。
 もうひとつため息をついて、ふと別の視線に気づいた。恐る恐る見てみれば、元友人だった。俺と花村さんを見比べている。花村さんは見向きもしないが、俺とは眼が合ってしまった。
「………」
 お互い気まずく凍りつき、ほとんど同時に視線を逸らした。胸の痛みがひどくなる。作戦を開始した日。元友人と視線を重ねてすぐに切ったとき、過去の失敗を繰り返すまいと決意を固めたはずだった。そのために足掻いたはずだった。なのに結果はこうだ。花村さんとも、元友人と似たような関係に収まってしまっている。
「……はは」
 唇が歪むのを、深くうつむいて隠した。
「お前ら喧嘩でもしたのか?」
 不意に声をかけられて、のろのろと顔を上げる。隣席の友人だ。
 返事をする前にそろりと「お前ら」の片割れの存在を確認すると、花村さんの姿はなくなっていた。購買にでも連れ出されたのだろう。細く息をつく。
「音楽性のちがいにより解散しました……」
 感度を通常運転に戻したおかげで、冗談で返す余裕も戻ってきていた。なんてことないふうを装って肩をすくめたつもりだったが、友人は苦笑する。
「んなこと言って、どーせまた再結成するんだろ」
 俺の眼が花村さんの席に向かったのはばればれのようだった。他人の眼には「仲直りしたいのにごめんを言い出せないやつ」として映ったのかもしれない。俺の気持ちだけを見れば、確かに近いものはある。
「……しないよ」
 だけど、謝るつもりも元通りになるつもりもなかった。
 すべてがうまく回りだしている。花村さんから離れることが最適解だったという証明だ。ただ、呪いが解決したわけではないだろうから、花村さんが俺との関係修復を諦めて別の人間と関係を深めればまた足を引っ張られる可能性は十分にある。怪我の心配がない今のうちに気持ちを立て直して、また調査を始めるつもりだった。
 ただし、今度はひとりで。
「俺は、気ままなソロプレイヤーに戻ったんだ」
 決意を込めて宣言すると、いつもからかってくる友人たちがひょいと顔を覗かせた。
「カワイソ。優木見捨てられちゃったの?」
「ダンスパーティー、本番近かったのに?」
「過去の冗談覚えてんのやめろよ……」
 作戦を開始した日、花村さんとふたりで転んだとき、確かにそんな冗談を言った。思い出すと、ぶつかった胸が熱かったこと、身体の重みが甦ってくる。本当に勘弁してほしかった。冗談抜きのうめきが洩れてしまう。
「……マジの傷心か」
「ごめんごめん。からかって悪かったわ……」
 首を突っ込んできた二人が労わるように背中を撫でてきて鬱陶しい。もう一度、今度はちょっと本気で噛みついてやろうと顔を上げると、隣席の友人と眼が合った。見慣れた顔が、歯を見せて笑う。
「ほんじゃ、今日は俺につき合えよ」



 誘われるまま、放課後は一緒に教室を出た。授業が終われば花村さんが仕掛けてくるのはわかっていたから逃げるような段取りになってしまったが、友人は何も聞かず、ただ笑いながら俺につき合ってくれた。
 ほとんど走るようにやってきた橋のなかほどで、やっと足をゆるめる。
「なんか……夏って膨らむよなあ……」
 大した距離でもないのにすっかり汗みずくだ。花村さんを振り切って安心した身体は芯を抜かれたようにへたれた。
 俺のくだらないぼやきを拾って、隣を歩く友人が笑う。
「なんぞそれ」
「世界中みっちり夏で……もう、かき分けて進むので、精いっぱいっていうか……」
 太陽は背後にあるのに眼の前の空はまだ青く眩しい。橋の上を渡る風は熱く、煽られるままに足許がふらついた。
「あ、ごめん」
 ぶつかっても怖くない。変に体温が上がることもない。湿ったシャツがくっついて気持ち悪かっただろうな、程度の申し訳なさだけがある。
 俺の簡潔な謝罪に友人が苦笑した。
「お前なあ……相手が俺だと雑すぎんだろって」
「でかくてごついから安心ですねえ」
 俺より少しだけ低い位置にある肩に乗り上げるようにして、ぐぐっと体重をかける。
「薄くて軽いから効きませんねえ」
 それ以上の力で押し返される。
「最新型ですよー。一台いかがですか?」
「いらねえよ。でかくて邪ー魔っ!」
「あいたっ」
 弾みをつけて押しのけられる。
 よろめきながら、自然と笑いがこぼれた。
「あんま、手荒にしないでくださいよ」
 二歩三歩と前に出たところで振り返ると、友人は珍しいものでも見るような眼をしていた。
「何?」
「いや、なんか優木のゆるーい顔、久々に見た気がするわ……」
「……だろうな」
 唇が歪むのがわかった。
「世の中にたえて桜のなかりせば、俺の心はのどけきもんなんだよ」
 自嘲だ。
 自分で自分の首を絞めつづけてきたことへの、自嘲。
 恋をしていなければ、こんなにも生きるのが楽だと思い出したがゆえの、自嘲。
 好きな人を巻き込んで自傷まがいの関係を続けて来てしまったことを自覚する。自分の至らないところを見つけるたび、皮肉な笑いが浮かんでしまう。夏の大気に押し込むように、深くため息をついた。
「出ーたよ、優木の文学オタク」
 俺が暗くなったことに気づいたのだろう。友人は少し大袈裟な仕草で呆れて見せた。気づかいに乗って、軽々しく応じる。
「今のは授業でやったやつ」
「お前、ほんと真面目だよなあ」
「古文と現国は好きなだけ」
 花村さんとも、こんなふうに話せる関係になれたらよかったのにな。深く考えずにいい加減な言葉を投げ合うのは久しぶりで、重ねるごとに頬の筋肉が緩むのを感じた。口も舌も、勝手に動く。
「読む本がないときは教科書とか便覧読んでる」
「ど変態じゃん」
「お前も真剣に読んだら面白くなるかもよ」
「ほんじゃ、図書館でも行くかあ?」
 じわりと背中に汗が滲んだ。暑さのせいではない、よく知っている種類の嫌なそれ。
「………」
 自由な夢から覚めたような心地で友人の顔を見つめると、親しみのこもった双眸がほの甘く微笑んだ。
「俺でも読めるもの、教えてくれよ。優木が勧めてくれたもんなら、読む」
 そうだ。
 作戦中、感じる「好意」があまりに多いから忘れていた。
 この友人の視線も、前からほんのりべたついていたんだった。
「……とびきり難解なやつ紹介するから、覚悟しとけ」
「俺でも読めるものっつってんだろ!」
 橋を転がっていく笑い声は友人らしい、わざとらしい恨めしさを孕んだものだった。絡みつく甘さは消え失せている。気づかれないように息をついた。
 これならまだ、大丈夫だろう。
 自分で恋を終わらせた痛みが過ぎるまで、ただ気楽につき合える、つき合ってくれる友人がほしかった。どれほど狡くても、友人をひとり失うことになっても、それでもっと自分を嫌いになる羽目になったとしても構わなかった。
 花村さんが俺に近づくのを諦めるまで、誰かに隣を埋めていてほしかった。
「……それじゃ、絵本から始めていこうか」
 友人の気持ちはうまくかわして、立ち直れたら距離を取ろう。
 などと人でなしじみたことを考えていたから、ばちが当たったのだろうか。
 友人に寄りかかるようなことを始めた週の、次の月曜日のことだった。
「うぉ……!」
 図書館で同じ本を覗き込んでいたら、友人が肩にぶつかってきた。
「図書館で踊るな」
 小さな声で叱責したが、まるで気にするそぶりを見せない。というより、何かで頭がいっぱいのようだった。虫でもいたのか、足許をばたばたと叩いている。
「びびった……」
「ゴキブリでもいたのか?」
「ちげえわやめろし」
 周囲を見回してみるが、不審な影はない。苦笑しつつ友人の顔を見ると頰のあたりがどこか青ざめて見えた。俺の肩を掴んで片足立ちになり、しきりに足首を撫で回している。
「なんか……変な感じしたんだよ」
「………変な感じ?」
 自分の声が硬くなるのがわかった。
 友人は俺の様子に気づいているのかいないのか、ふっと意地の悪い笑みを浮かべて横目に俺を見た。
「足掴まれたみたいな」