少子化のせいだろうか。二棟ある校舎には、ぽつぽつと使われていない部屋が点在している。渡り廊下のない二階の端っこにある教室はいつも誰かしらの密談会場になっていた。
放課後、花村さんと訪れてみると幸いなことに先客はいなかった。廊下から離れた窓際の机を挟んで向き合う。
「見てほしいものっていうのが、これなんだけど……」
いつも使っているノートの、一番後ろの頁を机上に広げた。俺の汚い字がびっしりと並んでいる。半分以上歯抜けになった名簿を、花村さんが不思議そうに見つめた。並んでいる名前にはどれも見覚えがあるだろう。
小さな頭がことりと傾いた。
「なんのリスト?」
「えっと……」
落ち着いているふりをしても、気を抜くと頁を押さえる手が震えそうになる。
「……俺の独断と偏見で作った、容疑者名簿」
「へえ! 詳しく!」
丸い眼が興味津々に瞬いた。ぐっと身を乗り出してきたぶんだけ、俺は身を引いてしまう。
「……あ、悪化の経過とか……引っ張られるタイミングとかから、犯人らしき人、絞り込んでみたんだけど……」
「うんうん!」
一度言葉を切ってみたが、続きを促されてしまった。音にならないよう、深呼吸する。
「……犯人は、花村さんのこと、めっちゃ好きな人、かな……と……」
言ってしまった。心臓がずきずきしてくる。向かいで名簿を見下ろす眼を注意深く窺う。
「なーるほどねえ! つまりこれは『僕のこと好きそうな人リスト』なわけだ!」
相槌は常のとおり軽快だ。感心してすらいるように聞こえる。今のところ、想定していたような負の反応はない。
だけどその眼が一番目立つところに書かれた名前を見ているのがわかる。
机の下で手のひらを何度もズボンに擦りつけるが、冷や汗はあとからあとから滲んできた。夜どおし考えても「どう好きか」を伏せる以外の対策しか思いつかなかったのが悔やまれる。
土曜日の告白も相まって、どう受け取られるのか想像もつかない。ただただ恐ろしい。
「……ここ」
情けなく身を縮めて沙汰を待っていると、細い指が一点を指した。全身の筋肉が強張る。
「一番上、ゆーきくんの名前になってるけど……」
「……っ」
「下の名前、なんて読むの?」
そこか。
「………」
「ずーっと気になってたんだよねえ」
あはは。
処刑前もかくやというほど緊張していたぶん、妙な角度からコメントされて気が抜けてしまった。運動したわけでもないのに急激に酷使した筋肉が痛い。寝不足も手伝って鈍く痛み出した頭に指を当てつつ、ため息を飲み込んだ。
「……やぶさめ、だよ。優木、薮雨」
「やぶさめ! かっこいいねえ!」
弾んだ声を受けて、逆さになった自分の名前を見下ろす。見慣れすぎて、画数が多い以上の感想が浮かばない。
「四字熟語みたいだろ。よく大喜利のネタにされるよ」
「嘘でしょ。漢字も響きもかっこいいよ」
「……いやでも、なんか、鳥の名前で……」
「ほらかっこいい!」
「鶯の仲間」
「かわいっ」
早速端末で調べて、かわいいかわいいと繰り返している。俺の名前ひとつでここまで盛り上がられるとは思っていなかった。本当に、俺の覚悟は一体なんだったんだ。というか、これでいいのか。
わざわざ墓穴を掘ることはないと承知の上で、口を開いてしまう。
「……もっとこう……俺の名前が一番上に書かれてることに、なんかないの……?」
「それは当然じゃない?」
花村さんはひょいと首を傾げた。本気でなんの疑問も感じていないようで、逆に不安になった。俺が花村さんを「そういう意味で」好きだってことを、知っているんじゃないか、と。確信を持っていて、その上で今まで一緒にいたんじゃないか。だとしたら土曜日の告白は。
「っ当、然……かな……」
先走る思考を打ち切って、探るように尋ねる。小さな頭はさらに傾いだ。
「だって一番仲いいし、一番一緒にいるでしょ?」
「——……」
「だから、当然じゃない?」
確かに、主観的にも、おそらく客観的にも、俺にとって一番仲がよくて一番一緒にいる相手は間違いなく花村さんだ。
だが。
「……それは……その……」
「えっちがう? 僕の勘違い!?」
「いや、ちがわない……っていうか、俺にとっては、そう……そうなんだけど……」
「だよね!? 焦った……僕の一方通行かと思ったあ……」
俺にとって、というだけではないのだと、その笑顔を見て理解した。
こそばゆさがじわりとこみ上げてきて、身じろぎしてしまう。
「僕をめっちゃ好きな人ってなったら、やっぱりゆーきくんは外せないでしょ!」
小説でたまに見る「一番の友だち」とか「親友」とか、そういう言葉は気恥ずかしくて使えないものの、そういう場所に収まりたいとはずっと思っていた。恋人にはなれなくても、せめてそういう人になりたい。たとえば結婚式で友人代表を任されるような存在になりたい。
「……うん」
そういう存在になれているのかもしれない。
花村さんの息をするような反応は、俺を期待させるには十分だった。
土曜日の告白も、言葉以上の意味を持たないのかもしれない。友人として、本当に対等な友人として「いいとこ見せたかった」と、それだけの話だったのかもしれない。
あまりに衒いなく「好き」なんて言葉を使ってくれるから、温かい期待が不安を押し流そうとしていた。
「俺も、そう思う」
噛み締めるように頷くと、花村さんが満足げに笑った。しかしその笑みにふと苦いものが混ざる。
「とか言ってる割に、名前の読み方知らなかったんだけどねー」
「まあ、あんまり呼ぶやつもいないし……」
家族と、友人のなかでも片手で足りる程度の人数、それから元友人。耳にする機会などほとんどないだろう。しかし、花村さんは不服げだ。
「ゆーきくんが僕のこと名前で呼んでくれたらさりげなーく聞く予定だったんですけど?」
「花村さんは花村さんだから……」
呼ぶ機会はおそらく一生来ない。そんな勇気は一生出ない。ゆるくかわすつもりだったのだが。
「……さては僕の下の名前、知らないな?」
じとりと半眼に睨まれる。あまりに恨めしそうで、慌ててしまう。
「いや、や、それはさすがに知ってるよ——」
のどか。
三文字を声に出した瞬間、失敗を悟った。空気が妙な湿り気を帯びて、胸が詰まる。迂闊だった。
「……さん、です、よね?」
慌てて冗談めかすが、花村さんは逃してくれない。
「正解。穏さんです」
満足げに、しっとりと微笑む。眼差しがじわりと肌にまとわりつく。
「僕も呼んでもいい?」
「俺の呼び方なんて何でもよくない?」
意図せずひやりとした声が出てしまった。名前で呼ばれるのが嫌なわけではない。突き放して聞こえたのではないかと不安がよぎったが、花村さんは俺の冷ややかな反応など気にもしていないようだった。言質を取ったとばかりに笑みを深くする。
「なら、名前でもいいってことだ」
ね、やぶさめくん。
俺の名が音になった瞬間、嫌な感触が足許を駆け抜けた。
「ッ!」
呪いだ、と気づいたときには顔がひきつっていた。
俺のではなく、花村さんの顔が。
「花村さん……?」
「ごめん、なんでもないよ。ちょっと足引っ張られちゃっただけ」
「ちょっと、って……」
軽く流していいような反応ではなかった。それに、呪いの目的が「花村さんを独り占めすること」なら、名前で呼び合うことを見逃すわけがない。
「……ちょっとごめんね」
「え、ちょ……!」
椅子を弾いて立ち上がると、花村さんがぎょっとした。反射のように小柄な身を引いたが、後ろは窓、前にはすぐに俺が回る。居心地悪げにさまよう足を跪いて捕まえ、有無を言わさずズボンの裾を引き上げた。
「——……」
いつも掴まれているという場所。
「こ、れ……」
足首には、びっしりと赤黒い指の痕が残っていた。
あまりの数に言葉を失う。花村さんはごまかしようがないと悟ったのか、俺の手のなかで細い足から力が抜けた。
「ああー……ははは。痛くはないんだけどね。呪い、結構力強いからさ。痕になっちゃって」
「でも……っ」
昨日今日でできる数ではない。
白い肌に悪趣味な刺青でも入れたような有様だった。濃く、薄く重なり合っても指の形がはっきりわかる。それほどの強さで掴まれてきたのだとわかってしまう。俺の腕の引っかき傷など、比較にならない。
「ずっと、隠して……?」
痛くなかったはずがない。
どうしても釘づけになってしまう視線を引き剥がして、花村さんの顔を見上げた。いたずらがばれたような、ちょっとばつの悪そうな笑みとぶつかる。丸っこい肩がひょいとすくめられた。
「あははー……怖がらせちゃうかなーって……ほんとに大したことないのにさ。……でも」
優しげな相貌が、なんてことないように、軽やかに笑ってみせる。
「びっくりさせたよね。ごめん」
「——っ」
ばかだ、俺は。
ややこしく考えすぎていた。全部思いどおりにしようと足掻きすぎていた。
関係が変わっても、もう元に戻れなくても、それがなんだというのか。
俺をどう思われようが、花村さんが俺を好きだろうが嫌いだろうが、関係ない。
ほんとうはそんなこと、ぜんぶどうでもよかった。
この人が無事なことより大切なことなんか、なかったはずだ。
「——花村さん」
ぽつ、と名前を呼んで、足を解放した。
「なあに」
降ってくる声はやわらかい。撫でるように響いて、俺の動揺を宥めてくれる。
すぐ眼の前の小さな手に触れる。形を確かめるように指に力を込める。手のなかにくるんだ丸い指先は少し戸惑うように震えたあと、俺の指の間に潜り込んできた。骨が皮膚越しに擦れ合う。甘ったるく絡む。自分から触れたくせに肌が粟立った。構わず、きゅ、と握り返す。
深く息を吸う。
「さすがにこれはつき合いきれない」
ごめん。
酸素は十分に取り込んだのに、出てきた声はひどく小さかった。下げた頭の上で、鋭く息をのむ音がした。
俺から手に触れたのは初めてだったことに、あとで気づいた。
放課後、花村さんと訪れてみると幸いなことに先客はいなかった。廊下から離れた窓際の机を挟んで向き合う。
「見てほしいものっていうのが、これなんだけど……」
いつも使っているノートの、一番後ろの頁を机上に広げた。俺の汚い字がびっしりと並んでいる。半分以上歯抜けになった名簿を、花村さんが不思議そうに見つめた。並んでいる名前にはどれも見覚えがあるだろう。
小さな頭がことりと傾いた。
「なんのリスト?」
「えっと……」
落ち着いているふりをしても、気を抜くと頁を押さえる手が震えそうになる。
「……俺の独断と偏見で作った、容疑者名簿」
「へえ! 詳しく!」
丸い眼が興味津々に瞬いた。ぐっと身を乗り出してきたぶんだけ、俺は身を引いてしまう。
「……あ、悪化の経過とか……引っ張られるタイミングとかから、犯人らしき人、絞り込んでみたんだけど……」
「うんうん!」
一度言葉を切ってみたが、続きを促されてしまった。音にならないよう、深呼吸する。
「……犯人は、花村さんのこと、めっちゃ好きな人、かな……と……」
言ってしまった。心臓がずきずきしてくる。向かいで名簿を見下ろす眼を注意深く窺う。
「なーるほどねえ! つまりこれは『僕のこと好きそうな人リスト』なわけだ!」
相槌は常のとおり軽快だ。感心してすらいるように聞こえる。今のところ、想定していたような負の反応はない。
だけどその眼が一番目立つところに書かれた名前を見ているのがわかる。
机の下で手のひらを何度もズボンに擦りつけるが、冷や汗はあとからあとから滲んできた。夜どおし考えても「どう好きか」を伏せる以外の対策しか思いつかなかったのが悔やまれる。
土曜日の告白も相まって、どう受け取られるのか想像もつかない。ただただ恐ろしい。
「……ここ」
情けなく身を縮めて沙汰を待っていると、細い指が一点を指した。全身の筋肉が強張る。
「一番上、ゆーきくんの名前になってるけど……」
「……っ」
「下の名前、なんて読むの?」
そこか。
「………」
「ずーっと気になってたんだよねえ」
あはは。
処刑前もかくやというほど緊張していたぶん、妙な角度からコメントされて気が抜けてしまった。運動したわけでもないのに急激に酷使した筋肉が痛い。寝不足も手伝って鈍く痛み出した頭に指を当てつつ、ため息を飲み込んだ。
「……やぶさめ、だよ。優木、薮雨」
「やぶさめ! かっこいいねえ!」
弾んだ声を受けて、逆さになった自分の名前を見下ろす。見慣れすぎて、画数が多い以上の感想が浮かばない。
「四字熟語みたいだろ。よく大喜利のネタにされるよ」
「嘘でしょ。漢字も響きもかっこいいよ」
「……いやでも、なんか、鳥の名前で……」
「ほらかっこいい!」
「鶯の仲間」
「かわいっ」
早速端末で調べて、かわいいかわいいと繰り返している。俺の名前ひとつでここまで盛り上がられるとは思っていなかった。本当に、俺の覚悟は一体なんだったんだ。というか、これでいいのか。
わざわざ墓穴を掘ることはないと承知の上で、口を開いてしまう。
「……もっとこう……俺の名前が一番上に書かれてることに、なんかないの……?」
「それは当然じゃない?」
花村さんはひょいと首を傾げた。本気でなんの疑問も感じていないようで、逆に不安になった。俺が花村さんを「そういう意味で」好きだってことを、知っているんじゃないか、と。確信を持っていて、その上で今まで一緒にいたんじゃないか。だとしたら土曜日の告白は。
「っ当、然……かな……」
先走る思考を打ち切って、探るように尋ねる。小さな頭はさらに傾いだ。
「だって一番仲いいし、一番一緒にいるでしょ?」
「——……」
「だから、当然じゃない?」
確かに、主観的にも、おそらく客観的にも、俺にとって一番仲がよくて一番一緒にいる相手は間違いなく花村さんだ。
だが。
「……それは……その……」
「えっちがう? 僕の勘違い!?」
「いや、ちがわない……っていうか、俺にとっては、そう……そうなんだけど……」
「だよね!? 焦った……僕の一方通行かと思ったあ……」
俺にとって、というだけではないのだと、その笑顔を見て理解した。
こそばゆさがじわりとこみ上げてきて、身じろぎしてしまう。
「僕をめっちゃ好きな人ってなったら、やっぱりゆーきくんは外せないでしょ!」
小説でたまに見る「一番の友だち」とか「親友」とか、そういう言葉は気恥ずかしくて使えないものの、そういう場所に収まりたいとはずっと思っていた。恋人にはなれなくても、せめてそういう人になりたい。たとえば結婚式で友人代表を任されるような存在になりたい。
「……うん」
そういう存在になれているのかもしれない。
花村さんの息をするような反応は、俺を期待させるには十分だった。
土曜日の告白も、言葉以上の意味を持たないのかもしれない。友人として、本当に対等な友人として「いいとこ見せたかった」と、それだけの話だったのかもしれない。
あまりに衒いなく「好き」なんて言葉を使ってくれるから、温かい期待が不安を押し流そうとしていた。
「俺も、そう思う」
噛み締めるように頷くと、花村さんが満足げに笑った。しかしその笑みにふと苦いものが混ざる。
「とか言ってる割に、名前の読み方知らなかったんだけどねー」
「まあ、あんまり呼ぶやつもいないし……」
家族と、友人のなかでも片手で足りる程度の人数、それから元友人。耳にする機会などほとんどないだろう。しかし、花村さんは不服げだ。
「ゆーきくんが僕のこと名前で呼んでくれたらさりげなーく聞く予定だったんですけど?」
「花村さんは花村さんだから……」
呼ぶ機会はおそらく一生来ない。そんな勇気は一生出ない。ゆるくかわすつもりだったのだが。
「……さては僕の下の名前、知らないな?」
じとりと半眼に睨まれる。あまりに恨めしそうで、慌ててしまう。
「いや、や、それはさすがに知ってるよ——」
のどか。
三文字を声に出した瞬間、失敗を悟った。空気が妙な湿り気を帯びて、胸が詰まる。迂闊だった。
「……さん、です、よね?」
慌てて冗談めかすが、花村さんは逃してくれない。
「正解。穏さんです」
満足げに、しっとりと微笑む。眼差しがじわりと肌にまとわりつく。
「僕も呼んでもいい?」
「俺の呼び方なんて何でもよくない?」
意図せずひやりとした声が出てしまった。名前で呼ばれるのが嫌なわけではない。突き放して聞こえたのではないかと不安がよぎったが、花村さんは俺の冷ややかな反応など気にもしていないようだった。言質を取ったとばかりに笑みを深くする。
「なら、名前でもいいってことだ」
ね、やぶさめくん。
俺の名が音になった瞬間、嫌な感触が足許を駆け抜けた。
「ッ!」
呪いだ、と気づいたときには顔がひきつっていた。
俺のではなく、花村さんの顔が。
「花村さん……?」
「ごめん、なんでもないよ。ちょっと足引っ張られちゃっただけ」
「ちょっと、って……」
軽く流していいような反応ではなかった。それに、呪いの目的が「花村さんを独り占めすること」なら、名前で呼び合うことを見逃すわけがない。
「……ちょっとごめんね」
「え、ちょ……!」
椅子を弾いて立ち上がると、花村さんがぎょっとした。反射のように小柄な身を引いたが、後ろは窓、前にはすぐに俺が回る。居心地悪げにさまよう足を跪いて捕まえ、有無を言わさずズボンの裾を引き上げた。
「——……」
いつも掴まれているという場所。
「こ、れ……」
足首には、びっしりと赤黒い指の痕が残っていた。
あまりの数に言葉を失う。花村さんはごまかしようがないと悟ったのか、俺の手のなかで細い足から力が抜けた。
「ああー……ははは。痛くはないんだけどね。呪い、結構力強いからさ。痕になっちゃって」
「でも……っ」
昨日今日でできる数ではない。
白い肌に悪趣味な刺青でも入れたような有様だった。濃く、薄く重なり合っても指の形がはっきりわかる。それほどの強さで掴まれてきたのだとわかってしまう。俺の腕の引っかき傷など、比較にならない。
「ずっと、隠して……?」
痛くなかったはずがない。
どうしても釘づけになってしまう視線を引き剥がして、花村さんの顔を見上げた。いたずらがばれたような、ちょっとばつの悪そうな笑みとぶつかる。丸っこい肩がひょいとすくめられた。
「あははー……怖がらせちゃうかなーって……ほんとに大したことないのにさ。……でも」
優しげな相貌が、なんてことないように、軽やかに笑ってみせる。
「びっくりさせたよね。ごめん」
「——っ」
ばかだ、俺は。
ややこしく考えすぎていた。全部思いどおりにしようと足掻きすぎていた。
関係が変わっても、もう元に戻れなくても、それがなんだというのか。
俺をどう思われようが、花村さんが俺を好きだろうが嫌いだろうが、関係ない。
ほんとうはそんなこと、ぜんぶどうでもよかった。
この人が無事なことより大切なことなんか、なかったはずだ。
「——花村さん」
ぽつ、と名前を呼んで、足を解放した。
「なあに」
降ってくる声はやわらかい。撫でるように響いて、俺の動揺を宥めてくれる。
すぐ眼の前の小さな手に触れる。形を確かめるように指に力を込める。手のなかにくるんだ丸い指先は少し戸惑うように震えたあと、俺の指の間に潜り込んできた。骨が皮膚越しに擦れ合う。甘ったるく絡む。自分から触れたくせに肌が粟立った。構わず、きゅ、と握り返す。
深く息を吸う。
「さすがにこれはつき合いきれない」
ごめん。
酸素は十分に取り込んだのに、出てきた声はひどく小さかった。下げた頭の上で、鋭く息をのむ音がした。
俺から手に触れたのは初めてだったことに、あとで気づいた。



