夏より重い。

「そんなもの、明日初手で謝れば解決だろ」
 日曜日の朝っぱらから憂鬱な顔の男の面を見せられても、穂波先輩の態度は変わらない。
 細長い店舗の二階、窓から一番遠い席。ファストフード店のがたつく机の向こうに身体を押し込んだ穂波先輩は、紙コップのコーヒーを啜りつつ鼻を鳴らした。このあと彼女さんと予定があるそうだが、服装は俺と出かけるときと同じ、動きやすさ重視の野外撮影スタイルだ。
 対する俺は昨日と打って変わり、腑抜けた部屋着のような格好で寝不足の身体をくしゃりと丸める。
「いや、でも……ひどいことをしたのに、逆に駅まで送らせてしまって……」
 昨日、花村さんの手を払いのけたあとの記憶はちゃんと残ってはいるものの、ニュース映像のように現実味がない。
 譫言のように「ごめん」と繰り返すだけになった俺に、花村さんは都度都度「大丈夫だよ」と返してくれた。それどころか呆けてろくに動けない俺を支えながら最寄り駅まで連れていき、一緒に電車に乗り込もうとすらした。
 守ろうとした手を敵のように扱った俺に。
 腑抜けていてもさすがに遠慮したし自力で帰宅もできたが、それが何かの救いになることはない。家の玄関をまたいだときには消えてなくなりたくなっていた。帰ってきた俺はこの世の終わりのような顔をしていただろうに、それでも姉は何も聞かずに風呂を勧めてくれた。おそらく振られたのだと思っただろう。状況はもっと悪い。
 ここまで直球で他人を攻撃したことなんてなかった。
 俺にとっては一夜明けた今になっても途方に暮れているほどの大事故なのだが、穂波先輩はひととおり話を聞かされても顔色ひとつ変えない。涼しい顔で氷水とコーヒーを撹拌している。
「状況を聞く限り、俺でも花村穏と同じことをする。というかだな」
 ひと口、薄くなったコーヒーを含む。
「疲労困憊のお前が混乱して手を払いのけた程度のことを問題にするようなやつなら、友だちでいるのをやめたほうがいい」
「そんな人ではないです」
 反射的に否定していた。穂波先輩はだろうな、とばかりに頷く。
「なら初手謝罪で済む話だ。ごめん。いいよ。それ以上何をしようっていうんだ」
 穂波先輩が言うならそうなのかもしれない、という気がしてくる。しかし、釈然としない。本当にそんな簡単に片づけてしまっていい事故なのだろうか。
「……はい……ありがとうございます……」
 返した頷きはどこか鈍い。俺が半信半疑なことは筒抜けのようで、穂波先輩は大袈裟なくらいのため息をついた。紙コップを机に置き、丸い指先をぴっと俺に向けてくる。
「そんなことより、お前にはもっと気にすべきことがあるだろうが」
「……っ」
 ぎくりと肩が跳ねてしまった。穂波先輩が怪訝に眉根を寄せる。
「なんだ。呪いのほう、何かあったのか?」
「あ、ああ……」
 一瞬、「考えないようにしていること」について言われたのかと思った。穂波先輩には話していないのだから指摘されるわけがない。
 俺が混乱する直前の、花村さんの言葉、声、眼差し——
「——……」
 瞼を閉じる。勝手に浮かびかけた昨日の記憶を無理やり意識の底に沈めつつ、呪いについてわかったことに思考をめぐらせた。
「……見た感じ、たぶん男でした。それから、昨日の作戦中、どうも怒らせてしまったみたいで……」
 半ばごまかすようなつもりで口に出したものの、考えてみればどちらも重要な情報に思える。前者は容疑者を絞り込む上で、後者は今後の対応を考える上で。個人的には危険度に直結しそうな後者のほうが気になる。これまでも呪いの攻撃性は常に一定というわけではなく、波があった。
「逃げたのが気に入らなかったのか、俺が踏んづけたのが普通にまずかったのか……そもそも昨日は最初からなんとなく乱暴で」
「殺しにきてたか?」
「ころ……っ!? いや、そんな感じでは……すぐ消えるのは変わりないですし、怒らせてからも死ぬほどのことは特に……」
 突然強い言葉が飛び出してきたので声が上ずってしまった。慌てて周囲に視線をやるが、誰もこちらを見てはいない。二席隣の青年たちが賑やかなおかげだろう。
 目立たずに済んだことに息をつきかけ、飲み込んだ。
「……呪いは花村さんを、その……殺す、つもり、なんでしょうか?」
 殺す、なんて。本気の、呪うほどの「殺す」なんて、これまでの人生で口にするどころか耳にしたこともない。恐々と口に出したが、穂波先輩は軽い仕草で首を傾げた。
「俺はそうは思わん。が、そのぶん狙いもよくわからん」
「……と、おっしゃいますと?」
 重ねて問うと、穂波先輩はいっそう深く首をひねり、コップの蓋を苛立ち混じりに弾いた。
「どうも、これまでの経過を説明できそうな目的が見当たらないんだよ」
 鋭い眼がコーヒーから俺に向けられた。いいか、と身を乗り出してくる。探偵の推理を聞くような態勢になっていた俺も、慌てて当事者の顔で身体を前に倒した。
「仮に呪いが花村穏を殺そうとしているとすれば、時間経過で激しくなるのは納得できるだろ」
「……仕留めきれないから、攻めの手を強めている、とか……?」
「そうだ。対抗作戦を開始したせいで悪化するのもそれなら説明がつくな。正体を見破られる前にけりをつけようとしているわけだ」
 だが。
「実際は……殺す気はなさそうなのに、激しくなっている……」
 呪いは半年間、ただ足を引っ張るだけだった。作戦を始めてから激しくはなったがそれでも直接危害を加えるようなものではない。乱暴になったとはいえ、それでも足を引っ張るだけ。まるで子どものいたずらだ。
 俺の出した結論を受けて、穂波先輩が満足そうに頷いた。
「だから殺す気はなさそうだが、だからこそ狙いはわからん、というわけだ。ただ恨んでいるにしても、好いているにしても悪化するには何かしら理由があるはずだろ」
「なるほど」
 ひょっとしたら怒ったように見えた理由も、「踏まれたから」なんて単純な話ではないのかもしれない。もっと何か、呪いの主を怒らせるようなことを無意識にしていた可能性がある。
 と、そこで穂波先輩はコーヒーを飲み干して肩をすくめた。
「正直、俺はお前の視点での話しか聞けないからこれ以上のことはさっぱりだ。現場にいたお前が、記憶を探って整理しろ」
 これからというところでぶん投げてくるところを見るに、どうやら時間切れらしい。彼女さんのもとに向かう穂波先輩は誰がすがりついても絶対に止まらない。椅子を引く音に被せて、大慌てで質問を滑り込ませる。
「整理といっても何をすれば……!」
「作戦開始の前後で明らかに変わったんだろ? なら変わったことを検討すればいい」
「変わったことって……」
「増えたもの、減ったもの。習慣、環境、人間、何でもいい」
 それはどう考えても。
「俺じゃないですか……!」
「そう、お前だな」
 穂波先輩は意地悪く笑って席を立った。足取り軽く立ち去る背を、礼を言うのも忘れて見送る。
 たった今示された視点は、冗談で流していいものじゃなかった。
 急ぎ足に帰宅してすぐ、机の上にノートを広げた。容疑者名簿の、一番上にある名前を見る。
 俺の手でつけ足した、俺自身の名前を。
「………」
 もちろん俺は呪っていない。所謂「生霊」というやつでもないだろう。逃げるときに見た腕の逞しさは、俺とは似ても似つかない。犯人は俺ではない。
 だけど、「原因」は俺にあるとしたら。
 そう考えれば、いろいろなことが噛み合ってしまう。
 まず経過。半年ほど前から緩やかに始まって、ここひと月で頻度が増し、作戦開始から苛烈さを極めている——俺を軸に見てみれば、花村さんと俺が近づくとともに始まって、距離が縮むごとに激しさを増している、と言い換えられる。俺と花村さんが話すようになったのは十ヶ月ほど前だから時期は多少ずれるが、『犯人の目につくようになったのが半年前だった』と考えれば他の友だちには反応していない説明にもなる気がする。
 つまり呪いは、花村さんに他人を寄せつけたくない人間の施したものなんじゃないか。
 であれば「足を引っ張る」なんて子どもじみたことしかしないのも頷ける。「構ってほしい」とか「他人のところにいかないでほしい」とか、言葉にすればいじらしい願いの結果だろう。花村さんを傷つけたいわけではなく、好きな気持ちが暴走しているわけだ。
 視点を俺に据えただけで、不可解な点に怖いほど説明がついてしまった。容疑者名簿もだいぶすっきりさせられる。
 まず呪いの見た目から女子は削除。これで半分以上が減る。残ったうちから花村さんを嫌っていそうなやつも消せば、人数は片手の指に余るくらいになった。そこで、手が止まる。
 一番上の名前を、俺の名前をどうするか。仮説のとおりなら、消してもいいはずだ。
「………」
 だけど消せない。花村さんにこの名簿を見せるとしたら、消すわけにはいかない。
 だって俺には、犯人の気持ちが痛いほどにわかる。一緒に並んでいる名前のうち、誰かと俺は思いを同じくしている。犯人自身が伝える前に、ひょっとしたら今後も伝える気なんてないのに、「あいつ、花村さんのことめちゃくちゃ好きなんだよ」なんて示されたら、きっと死にたくなる。わかる。
 俺の名前を消さなかったからといってやっていることの下衆さがましになるかといえばそういうわけでもないのだが、せめて、道連れになるくらいのことはするべきなんじゃないだろうか。
 そもそも見せないという選択肢も頭に浮かんだが、即座に却下する。これ以上作戦を長引かせるのは怖い。
 散々消しゴムを手のなかで弄び、結局自分の名前は消さずに、ノートを鞄に詰め直した。花村さんに謝罪を受け入れてもらえたら、このまま見せてみると決めた。
 自分だけ安全圏に置くのは、良心が許してくれなかった。
 代わりに「好意」についてどうぼかして伝えようかと考えてしまって、よく眠れなかった。



そうして迎えた月曜日。
「おーっはよ!」
 花村さんは驚くほどいつもどおりだった。教室に入るなり俺の席までまっすぐにやってきて、明るい挨拶を降らせる。土曜日のことなどなかったかのように健やかだ。
「お……は、よう……」
 寝不足も相まって返す挨拶はぎこちない。俺の声が掠れてしまったせいで弾けんばかりの笑顔がふっと曇った。心配されたのがわかる。気づかわれる気配を察して、先手を打った。
「土曜日、本当にごめんね」
 うまく動かない顎で謝ると、花村さんは不意をつかれたように眼を瞬かせた。
「何が?」
「……手……」
「? ……ああ! ………ええ!?」
 一度は合点のいった顔をしたのに、それ以上の疑問符を浮かべて身を乗り出した。
「いや、何が? なんで? 謝ることなくない?」
「や、だって、あんな……ひどいことしたし……」
「いやいやいや! ゆーきくん、めっちゃくちゃ疲れてたじゃん! 歩き回って走り回って戦って僕のこと励まして……からの、あれでしょ? パニくって当然でしょ!」
「そう……なのか……?」
「そうだよ!」
 穂波先輩と同じことを言う。
「あのね、僕、感謝しかしてないからね? むしろ僕が役に立たなさすぎて割と凹んだくらいなんだから、謝られちゃったら埋まるしかないよ!」
「そこまで……?」
 どうやら、土曜日の夜、端末に届いたお礼の連絡が簡潔だったのも、余計なことを考えずにゆっくり休んでほしいという気づかいだったらしい。いつもの花村さんなら疑いようもないのだが、罪悪感が大きすぎて無駄に深読みしてしまっていたようだ。
「そっか……よかった……ありがとね……」
 やっと力が抜けた。机に肘をついて頭を支えていると、花村さんに片手を引かれる。
「それより、腕とか、大丈夫?」
「あ、うん……全然。大丈夫。そもそも自爆したようなもんだし……」
 赤みの残る腕をみて、花村さんが眉を下げる。ここで隠すのも「見せられないほどひどいです」というようで、なんだか気が引ける。
 花村さんは腕をまじまじと見つめながら、大袈裟なため息をついた。
「結局いいとこ見せらんなかったなー」
「俺としては最後の最後でいいとこ全部持っていかれた気がしてるけど……」
「いや当然のことしただけで全然いいとこじゃないし!」
 またしても穂波先輩と同じことを言う。誰も彼も志が高すぎる。
 花村さんは酸っぱい物で食べたように、眼も口もぎゅっとしてみせた。
「もっと、ゆーきくんが家に帰ってからも『今日の花村ハイライト』が脳内再生される感じのとこ見せたかったのになー!」
 ハイライト、と言われて、頭をよぎるものがあった。慌てて打ち消そうとするが、本人が目の前にいてはうまくいかない。本当はずっと、頭に心に居座っていたことが、意識に上ってくる。
「ま、伸び代十分ってことで、今後に期待してくれる?」
 日差しの角度が変わっても、瞳の輝きは変わりなく俺を射抜く。
「——ぁ……」
 あの真摯な瞳が、記憶の奥から立ち上がって目の前の花村さんのそれと重なる。首の後ろを逆なでされるような忌避感で胸が疼いた。
 罪悪感や呪いのことで頭をいっぱいにしているうちは忘れたふりをしていられたのに、無かったことにしていられたのに、もうできない。
 ——いいとこ見せたいって気持ち、わかるでしょ?
「……っあ、の……」
 だからつい、口が滑ってしまった。
「………」
 続けて転げ出ようとした問いを、咄嗟に飲み込む。
 ——昨日の告白は、なんだったの。
 ——どういうつもりで、「本当の最初」を教えてくれたの。
 本当はそれこそが、土曜日に起きた出来ごとのなかで一番の問題だった。花村さんに会いづらかったのも、作戦を長引かせるのが怖いのも、本音をいえばあの告白が原因だ。そんなに怖い話題ならわざわざ自分から触れなければいいのに、知らん顔しつづけるのもそれはそれで恐ろしい。
 俺の直感なんて間違いだと、花村さんの口から聞きたくてたまらない。
「それより……え、っと……」
 話を切り出したくせに口ごもる俺を茶色の瞳が覗き込む。
「なあに?」
 ——俺のこと、本当はどう思ってるの。
「そ……の……」
 聞きたいのに、聞くのが怖かった。
 もし返ってくるのが、俺の期待したような答えではなかったら、どうすればいいのか。考えようとすると思考が停止してしまって、なんの覚悟もできない。
 こればっかりは穂波先輩にも相談できなかった。万が一にも、たとえ他人の口からでも、軽口でも冗談でも、突きつけられるのが怖かった。
 「お前が好きなんだよ」と。
「……ちょっと、見てほしいものがあって」
 結局、逃げを打ってしまった。
「放課後、空いてる教室で話せないかな」
「作戦会議だね! もちろん大丈夫!」
 逃げた場所だって、行き止まりなのに。