花村穏(はなむら のどか)は引くほどかわいい。
かわいいの概念を練り固めたらきっとこうなるんだろうな、といつも思う。
だからこそ、ずっと疑問だった。
「ゆーきくん!」
耳慣れた声を背中に受けて、今日も思った。
この人なんで俺と遊んでくれてるのかなあ、と。
弾んだ声は俺が教室を出てすぐ、部室とは逆方向へとつま先を向けた途端に飛んできた。俺が振り向くのを待たず、背後から身を乗り出すようにして顔をのぞき込んでくる。
「もしかして今日、部活ないの?」
不安になるほどの至近距離で瞳がきらきらと瞬いた。
「じゃ、僕と遊んでくれない?」
名前を表すように穏やかで柔らかい顔いっぱいにかわいらしい笑みを乗せ、俺をまっすぐに見つめてくる。花村さんがこんな眼で見てくれる理由なんて、何ひとつ思いつかない。つまらない俺のどこを見ればこんなにも輝くのだろう。まばゆさのあまり腰が引ける。背中が廊下のぬるい壁に当たる。花村さんはいつも距離が近く、いつまで経っても慣れない俺はつい逃げてしまう。
「駅で……ちょっと……」
見つめあっているとうまく話せないのに眼が逸せない。口から勝手に言い訳じみた単語がむにゃむにゃと洩れて溶けていく。本当はこのあとに続く予定だった「用事があるけどそれでもよければ遊んでください」という部分が大事なのだが、辿り着けずに断っているような響きになってしまう。頭が悪すぎる。
どうにか言葉を足そうとするが、それより早く花村さんはくるりと丸い眼をいっそう輝かせた。ぴょんと跳ねるように俺の正面に回る。
「駅ビル? 定番だね! どこ寄るの?」
こうして当然のように、俺が言葉にできなかった部分を汲み取ってくれる。今日も一緒に行く体で話が進んだ。こんなコストを払ってまで俺と話すメリットがわからない。わからないのが不安なのに、心は勝手に浮き立つ。自分の失言でこわばった肩がほどける。
「……新刊を買いに」
「了解了解! 本屋って上のとこだよね? じゃあそこスタートで下に向かって攻めてこうよ。だらーっとさ」
いいでしょ?
甘く微笑んでくる。当然、いいに決まっている。することはいつも似たようなものなのに、花村さんが一緒だと思うといつも胸が弾む。自分の臓器とは思えないようなかわいい音で心臓が鳴る。何度繰り返しても、新鮮に嬉しい。
「ありがとう。悪いね」
新鮮味どころかろくな返事も提供できない俺は、とりあえず謝ってしまう。花村さんは不思議そうに首を傾げた。
「? 何が?」
「……俺の用事につき合わせて、とかかな」
本当は、いつも、何もかもに対して「悪いなあ」と思っている。邪な眼で見ててごめんね、とか、うまく話せなくてごめんね、とか。だけど花村さんはそんなことに気づかない。ひょっとしたら気づかないふりをしてくれているのかもしれない。小さな頭をことんと反対に傾ける。
「えぇ? 本当になんで? あっ、もしかして本当は僕が一緒に行くとまずいやつだった?」
花村さんが気づいていなくても、気づいた上で気にしていなかったとしても、悪いものは悪いと思う。
「いや、嬉しいよ。俺は楽しいから」
だけどそこまで言葉にして困らせるのは本意ではない。下手くそに笑ってみせると、まっすぐ見上げてくる丸い瞳も柔らかく弧を描いた。
「よかっ……」
「のどちゃんよかったねえ」
「優木(ゆうき)に甘えすぎんなよー」
横をすり抜ける級友が笑いまじりに声をかけてくる。どいつもこいつも誤解している。花村さんがちょっと強引なくらいの勢いで誘ってくれるのは、おそらく俺が常に及び腰だからだ。咄嗟に反論しようとするが、やはり、花村さんのほうが一歩速い。
「いや、俺が……」
「いーや甘えるよ! どこまでも甘えるね!」
勢いよく身を翻し、胸を張った。からかってきた二人は大袈裟に笑って去っていく。その背をぼおっと見送っていると、花村さんは小柄な身体をぐぅっと伸ばして、なだらかな肩を俺の肩にぶつけた。視線を向けると、いたずらっぽく微笑む。明るい色の瞳に影が差す。
「いいよね? 今日はゆーきくんが僕を甘やかす日ってことで」
ね?
つま先がざわつくような、心の底をくすぐるような、親しげな笑みだった。
「………」
甘やかされているのは俺のほうだ。
一緒に遊んで楽しいのは俺だけだろうに、この人はどうして俺に構ってくれるんだろうか。
俺よりもっと親しい友だちがいるだろうに、どうして俺に毎日時間を割いてくれるんだろうか。
毎日毎晩、疑問は深くなっていく。
「……うん。がんばります」
考えすぎて、最近はちょっと怖くなってきていた。
ずっと抱えてきた疑問に答えが出そうで——最悪の答えが出そうで、怖かった。
◯
花村さんと話すようになったのは、一年のころ——去年の秋からだ。
場所は学校ではなく、駅前の図書館だった。五階建てのビルの上から三フロアを占める市立図書館は県内でも大きいほうらしい。空調が効いていることもあって、いつ行っても静かに賑わっている。平日の夕方は俺のような学生の姿が増えるが、それでも騒々しくはならない。書架の間を埋める呼吸の数が増えるだけで、喧騒が苦手な俺にはありがたい居場所だった。
その日、俺はひとりだった。友人に誘われない限り、図書館へはひとりで行くことにしている。入館してすぐに返却手続きを済ませ、イヤホンを耳に詰め直しながら、文学の棚に向かった。
人が来たら隣の棚に移り、詩集の並びまではみ出したら最初の棚に戻り、と繰り返しながら背表紙を流し見ていく。気になる題名があれば片っ端から引き抜く。本を手放して身軽になったばかりの腕に、またいくつも本を積む。
持ち帰りが憂鬱にならない程度の量で狩りを切り上げ、エスカレーターで最上階まで上がった。洋書や郷土資料の集められているこの階にはいつもあまり人がいない。俺の定位置は更に奥まった場所に設置されたソファだ。壁際のそこは捨てられたようにほの暗い。当然のように人影もない。腰を落ち着けて耳からイヤホンを抜いても、低い空調の音以外に聞こえる音はなかった。そうしてようやく息をつく。
人嫌いのつもりはないが、気配が多いと落ち着かない。
残暑に火照った身体も歩き回るうちにちょうどよく冷めてきていた。ソファとセットになった小机に本を積み、脚の間に鞄を下ろす。呼吸を整えて最初の一冊を開いた。
「……——?」
読み始めてすぐだったように思う。まだ十分に本にのめり込めていないころだった。
異音が聞こえた。
下の階であれば気づかなかったかもしれないほど、微かな音だ。近くで絨毯を踏む音に重なって、軽くて乾いた音が耳を打った。眼を上げると、灰色の絨毯の上にハンカチが落ちている。さっきまでなかった、こっくりとした色のチェックのハンカチ。通り過ぎていった靴音の方へさっと視線を転じると、他校の制服を着た女の子の背中があった。ハンカチを落としたことに気づいた様子はなく、立ち去ろうとしている。
反射的に腰を上げ、ハンカチを拾い上げた。
「あの——」
瞬間、背筋を悪寒が駆け上がった。
「………」
俺が声を出すか否かのうちに、落とし主が足を止めた。ひたりとローファーの踵が揃った。
まるで、拾われるのを待ち構えていたかのように。
「……っす、みません……」
考えすぎだばか。
理性が即座に自意識過剰を咎めてくれる。それでも詰まってしまった喉から絞り出すようにして呼びかけを続けると、膝をついた眼の前でスカートが柔らかく翻った。
「はい?」
振り向いた顔に覚えはない。美しく整えられた前髪は靡きもせず、その下で茶色い瞳が甘く潤んでいた。緊張しているのか警戒しているのか、頬のあたりが少し硬い。
ほら見ろ、怖がってるじゃないか。そもそもこんなかわいい子が、俺相手に妙な小細工をするわけがない。恥ずかしすぎる勘違いだ。
「拾わせるためにわざと落としたのかもしれない」なんて。
わかっている。
「……ええ、と……」
わかっているのに、向けられた眼差しが熱っぽく感じて、全身に鳥肌が立った。
いや待て。わざと落としたにしたって、陰キャを揶揄うためとか罰ゲームとかに決まっている。思い上がるな。
自己嫌悪で生理的な拒否反応を押し殺し、立ち上がった。
「…………落としましたよ」
「あっ、ありがとうございます」
ハンカチを見るよりもお礼が早かった気がして、肩が跳ねそうになる。気のせいだ。仕草が乱暴にならないように細心の注意を払って、落とし物を差し出した。小さな手が受け取ろうと伸びてくる。
「よかったあ、お気に入りなんです。本当にありがとうございます」
「っ、いえ」
指が触れ合いそうになり、咄嗟に手を引っ込めてしまう。相手は少し驚いた顔をしていた。視線が重なると、照れたように微笑んでくる。引き攣る頬に慌てて愛想笑いを浮かべ、ソファに戻ろうと踵を引いた。
「それじゃ……」
「あの、北高の人ですよね」
遮られた。いや、俺が蚊の鳴くような声で喋るから聞こえなかっただけだろう。足をもとの位置に戻す。
「ああ……はい……」
「やっぱり。よくここ、来てますよね」
同年代だ、世間話くらいするだろう。制服には校章が刺繍されているから、通っている高校だって詳しい人ならすぐにわかる。何らおかしいことなどない。おかしいのは俺だ。
こんなちょっとしたやり取りを深読みしている俺がおかしいんだ。
「……うちの、学校の人は……だいたい来てるんじゃないかな……」
「近くの高校生大集合って感じですよね。席取るの大変で」
「そうですね」
「でも、不思議だな」
「……何がですか?」
問い返すと、女の子が甘く微笑んだ。
「よく来る人は他にもいっぱいいるのに、振り返ったとき『いつもの人だ』って思っちゃって」
「——っ」
気持ちが悪い。
理性を働かせる隙などなかった。胃が腸に埋もれるように沈み、すぐさま口から飛び出しそうなほど浮き上がる。肌の一枚下で不快感がちくちくと刺してくる。腕を掻きむしって、やめてくれと喚き散らしたくなる。その暑苦しい眼差しも、ねばついた声も——
「どきっとしちゃいました……なんて」
そんな感情を俺に向けないでくれ、と、叫びたくなる。
「ッぁ、あ……そう、ですか……?」
喘ぐついでのように相槌を打つ。
「はい。優しそうな人だなーって見てたんですけど、やっぱり優しい人なんだって嬉しくて」
打てば即座に返ってくる。
この人は悪くない。変じゃない。ちょっと親しみを向けられているだけだ。身体的に距離を詰めてくるわけでもない。俺がおかしい。俺が悪い。
わかっているのに、どうしても過剰反応してしまう。
鳥肌が立つ。顔が引きつる。喉が締まる。耳鳴りがする。手足が暴れようとするのを懸命に抑える。
ささやかな好意を跳ね除けないように、自分を抑える。
「いや……普通、です……」
冷たくしてしまうのが怖くて、もうこの場から離れたかった。
「そんなことないですよ。絶対、優しいです」
傷ついた顔をさせるのが怖くてたまらなかった。
「ぇ、と……ぁ……」
もうまともに言葉が出てこない。ひどい台詞を飲み込むのに精いっぱいで何も言えない。すくみ上がった俺に彼女は気づかない。
「あの、よかったらお名前……」
もうだめだ、と思ったとき。
「こんなとこにいたぁ」
軽やかな声が空気を入れ替えた。
「借りる本決まったの?」
声は意外なほど近くから聞こえた。全然気づかなかった。あまりに親しげなので知り合いかと思ったが、聞き覚えはない。しかしさらりと柔らかい囁きは、肌にまとわりついていた不快な感触をひと息に引き剥がしてくれた。
「ぁ——っ」
突然全身を押さえつけていた緊張が緩み、足許がふらつく。眼の前で、ハンカチを握ったままの手がこちらに伸びる。
「だいじょ……!」
「ちょっと、大丈夫?」
彼女の声は耳許で発された声に遮られた。小作りな手は俺に触れることなく静止している。追って、背中を何か温かいものが支えてくれていることに気づいた。温もりはそのまま半身に寄り添ってくる。
この感触は嫌じゃない。
思わず縋るように身を寄せると、首筋にひっそりと笑う吐息がかかった。
「だからまっすぐ帰ろうって言ったじゃん……って、あれ、お取り込み中だった? あ、もしや彼女?」
「彼女」という単語にぎくりと全身が引き攣った。
「ッち、が……」
「だよねー、知ってる知ってる。僕たち寂しい一人者だもんね」
掠れた声を絞り出すと、背中に回ったものが上下した。腕と、手のひら。宥めるように撫でてくれている。解像度が上がるほどに呼吸が楽になって、じわりと血が巡りだした。薄暗くなっていた世界が徐々に色を取り戻していく。視界の端で柔らかそうな栗色の髪が揺れた。
「話してたのに邪魔してごめんね」
どうも、女の子に話しかけているらしい。
「あ、いえ……?」
突然の闖入者に驚いたのか、彼女の反応は鈍い。一方、割って入った側は用意していた台詞を読み上げるように淀みなく話を進めた。
「調子悪いのに図書館行くって聞かないから一緒にきたんだけど、この子、限界みたい。悪いけど、お話はまた今度に」
言うや否や、彼は俺の荷物をまとめ、手早く貸出手続きを済ませて図書館をあとにした。俺にも彼女にも有無を言わせない鮮やかな振る舞いだった。
かわいいの概念を練り固めたらきっとこうなるんだろうな、といつも思う。
だからこそ、ずっと疑問だった。
「ゆーきくん!」
耳慣れた声を背中に受けて、今日も思った。
この人なんで俺と遊んでくれてるのかなあ、と。
弾んだ声は俺が教室を出てすぐ、部室とは逆方向へとつま先を向けた途端に飛んできた。俺が振り向くのを待たず、背後から身を乗り出すようにして顔をのぞき込んでくる。
「もしかして今日、部活ないの?」
不安になるほどの至近距離で瞳がきらきらと瞬いた。
「じゃ、僕と遊んでくれない?」
名前を表すように穏やかで柔らかい顔いっぱいにかわいらしい笑みを乗せ、俺をまっすぐに見つめてくる。花村さんがこんな眼で見てくれる理由なんて、何ひとつ思いつかない。つまらない俺のどこを見ればこんなにも輝くのだろう。まばゆさのあまり腰が引ける。背中が廊下のぬるい壁に当たる。花村さんはいつも距離が近く、いつまで経っても慣れない俺はつい逃げてしまう。
「駅で……ちょっと……」
見つめあっているとうまく話せないのに眼が逸せない。口から勝手に言い訳じみた単語がむにゃむにゃと洩れて溶けていく。本当はこのあとに続く予定だった「用事があるけどそれでもよければ遊んでください」という部分が大事なのだが、辿り着けずに断っているような響きになってしまう。頭が悪すぎる。
どうにか言葉を足そうとするが、それより早く花村さんはくるりと丸い眼をいっそう輝かせた。ぴょんと跳ねるように俺の正面に回る。
「駅ビル? 定番だね! どこ寄るの?」
こうして当然のように、俺が言葉にできなかった部分を汲み取ってくれる。今日も一緒に行く体で話が進んだ。こんなコストを払ってまで俺と話すメリットがわからない。わからないのが不安なのに、心は勝手に浮き立つ。自分の失言でこわばった肩がほどける。
「……新刊を買いに」
「了解了解! 本屋って上のとこだよね? じゃあそこスタートで下に向かって攻めてこうよ。だらーっとさ」
いいでしょ?
甘く微笑んでくる。当然、いいに決まっている。することはいつも似たようなものなのに、花村さんが一緒だと思うといつも胸が弾む。自分の臓器とは思えないようなかわいい音で心臓が鳴る。何度繰り返しても、新鮮に嬉しい。
「ありがとう。悪いね」
新鮮味どころかろくな返事も提供できない俺は、とりあえず謝ってしまう。花村さんは不思議そうに首を傾げた。
「? 何が?」
「……俺の用事につき合わせて、とかかな」
本当は、いつも、何もかもに対して「悪いなあ」と思っている。邪な眼で見ててごめんね、とか、うまく話せなくてごめんね、とか。だけど花村さんはそんなことに気づかない。ひょっとしたら気づかないふりをしてくれているのかもしれない。小さな頭をことんと反対に傾ける。
「えぇ? 本当になんで? あっ、もしかして本当は僕が一緒に行くとまずいやつだった?」
花村さんが気づいていなくても、気づいた上で気にしていなかったとしても、悪いものは悪いと思う。
「いや、嬉しいよ。俺は楽しいから」
だけどそこまで言葉にして困らせるのは本意ではない。下手くそに笑ってみせると、まっすぐ見上げてくる丸い瞳も柔らかく弧を描いた。
「よかっ……」
「のどちゃんよかったねえ」
「優木(ゆうき)に甘えすぎんなよー」
横をすり抜ける級友が笑いまじりに声をかけてくる。どいつもこいつも誤解している。花村さんがちょっと強引なくらいの勢いで誘ってくれるのは、おそらく俺が常に及び腰だからだ。咄嗟に反論しようとするが、やはり、花村さんのほうが一歩速い。
「いや、俺が……」
「いーや甘えるよ! どこまでも甘えるね!」
勢いよく身を翻し、胸を張った。からかってきた二人は大袈裟に笑って去っていく。その背をぼおっと見送っていると、花村さんは小柄な身体をぐぅっと伸ばして、なだらかな肩を俺の肩にぶつけた。視線を向けると、いたずらっぽく微笑む。明るい色の瞳に影が差す。
「いいよね? 今日はゆーきくんが僕を甘やかす日ってことで」
ね?
つま先がざわつくような、心の底をくすぐるような、親しげな笑みだった。
「………」
甘やかされているのは俺のほうだ。
一緒に遊んで楽しいのは俺だけだろうに、この人はどうして俺に構ってくれるんだろうか。
俺よりもっと親しい友だちがいるだろうに、どうして俺に毎日時間を割いてくれるんだろうか。
毎日毎晩、疑問は深くなっていく。
「……うん。がんばります」
考えすぎて、最近はちょっと怖くなってきていた。
ずっと抱えてきた疑問に答えが出そうで——最悪の答えが出そうで、怖かった。
◯
花村さんと話すようになったのは、一年のころ——去年の秋からだ。
場所は学校ではなく、駅前の図書館だった。五階建てのビルの上から三フロアを占める市立図書館は県内でも大きいほうらしい。空調が効いていることもあって、いつ行っても静かに賑わっている。平日の夕方は俺のような学生の姿が増えるが、それでも騒々しくはならない。書架の間を埋める呼吸の数が増えるだけで、喧騒が苦手な俺にはありがたい居場所だった。
その日、俺はひとりだった。友人に誘われない限り、図書館へはひとりで行くことにしている。入館してすぐに返却手続きを済ませ、イヤホンを耳に詰め直しながら、文学の棚に向かった。
人が来たら隣の棚に移り、詩集の並びまではみ出したら最初の棚に戻り、と繰り返しながら背表紙を流し見ていく。気になる題名があれば片っ端から引き抜く。本を手放して身軽になったばかりの腕に、またいくつも本を積む。
持ち帰りが憂鬱にならない程度の量で狩りを切り上げ、エスカレーターで最上階まで上がった。洋書や郷土資料の集められているこの階にはいつもあまり人がいない。俺の定位置は更に奥まった場所に設置されたソファだ。壁際のそこは捨てられたようにほの暗い。当然のように人影もない。腰を落ち着けて耳からイヤホンを抜いても、低い空調の音以外に聞こえる音はなかった。そうしてようやく息をつく。
人嫌いのつもりはないが、気配が多いと落ち着かない。
残暑に火照った身体も歩き回るうちにちょうどよく冷めてきていた。ソファとセットになった小机に本を積み、脚の間に鞄を下ろす。呼吸を整えて最初の一冊を開いた。
「……——?」
読み始めてすぐだったように思う。まだ十分に本にのめり込めていないころだった。
異音が聞こえた。
下の階であれば気づかなかったかもしれないほど、微かな音だ。近くで絨毯を踏む音に重なって、軽くて乾いた音が耳を打った。眼を上げると、灰色の絨毯の上にハンカチが落ちている。さっきまでなかった、こっくりとした色のチェックのハンカチ。通り過ぎていった靴音の方へさっと視線を転じると、他校の制服を着た女の子の背中があった。ハンカチを落としたことに気づいた様子はなく、立ち去ろうとしている。
反射的に腰を上げ、ハンカチを拾い上げた。
「あの——」
瞬間、背筋を悪寒が駆け上がった。
「………」
俺が声を出すか否かのうちに、落とし主が足を止めた。ひたりとローファーの踵が揃った。
まるで、拾われるのを待ち構えていたかのように。
「……っす、みません……」
考えすぎだばか。
理性が即座に自意識過剰を咎めてくれる。それでも詰まってしまった喉から絞り出すようにして呼びかけを続けると、膝をついた眼の前でスカートが柔らかく翻った。
「はい?」
振り向いた顔に覚えはない。美しく整えられた前髪は靡きもせず、その下で茶色い瞳が甘く潤んでいた。緊張しているのか警戒しているのか、頬のあたりが少し硬い。
ほら見ろ、怖がってるじゃないか。そもそもこんなかわいい子が、俺相手に妙な小細工をするわけがない。恥ずかしすぎる勘違いだ。
「拾わせるためにわざと落としたのかもしれない」なんて。
わかっている。
「……ええ、と……」
わかっているのに、向けられた眼差しが熱っぽく感じて、全身に鳥肌が立った。
いや待て。わざと落としたにしたって、陰キャを揶揄うためとか罰ゲームとかに決まっている。思い上がるな。
自己嫌悪で生理的な拒否反応を押し殺し、立ち上がった。
「…………落としましたよ」
「あっ、ありがとうございます」
ハンカチを見るよりもお礼が早かった気がして、肩が跳ねそうになる。気のせいだ。仕草が乱暴にならないように細心の注意を払って、落とし物を差し出した。小さな手が受け取ろうと伸びてくる。
「よかったあ、お気に入りなんです。本当にありがとうございます」
「っ、いえ」
指が触れ合いそうになり、咄嗟に手を引っ込めてしまう。相手は少し驚いた顔をしていた。視線が重なると、照れたように微笑んでくる。引き攣る頬に慌てて愛想笑いを浮かべ、ソファに戻ろうと踵を引いた。
「それじゃ……」
「あの、北高の人ですよね」
遮られた。いや、俺が蚊の鳴くような声で喋るから聞こえなかっただけだろう。足をもとの位置に戻す。
「ああ……はい……」
「やっぱり。よくここ、来てますよね」
同年代だ、世間話くらいするだろう。制服には校章が刺繍されているから、通っている高校だって詳しい人ならすぐにわかる。何らおかしいことなどない。おかしいのは俺だ。
こんなちょっとしたやり取りを深読みしている俺がおかしいんだ。
「……うちの、学校の人は……だいたい来てるんじゃないかな……」
「近くの高校生大集合って感じですよね。席取るの大変で」
「そうですね」
「でも、不思議だな」
「……何がですか?」
問い返すと、女の子が甘く微笑んだ。
「よく来る人は他にもいっぱいいるのに、振り返ったとき『いつもの人だ』って思っちゃって」
「——っ」
気持ちが悪い。
理性を働かせる隙などなかった。胃が腸に埋もれるように沈み、すぐさま口から飛び出しそうなほど浮き上がる。肌の一枚下で不快感がちくちくと刺してくる。腕を掻きむしって、やめてくれと喚き散らしたくなる。その暑苦しい眼差しも、ねばついた声も——
「どきっとしちゃいました……なんて」
そんな感情を俺に向けないでくれ、と、叫びたくなる。
「ッぁ、あ……そう、ですか……?」
喘ぐついでのように相槌を打つ。
「はい。優しそうな人だなーって見てたんですけど、やっぱり優しい人なんだって嬉しくて」
打てば即座に返ってくる。
この人は悪くない。変じゃない。ちょっと親しみを向けられているだけだ。身体的に距離を詰めてくるわけでもない。俺がおかしい。俺が悪い。
わかっているのに、どうしても過剰反応してしまう。
鳥肌が立つ。顔が引きつる。喉が締まる。耳鳴りがする。手足が暴れようとするのを懸命に抑える。
ささやかな好意を跳ね除けないように、自分を抑える。
「いや……普通、です……」
冷たくしてしまうのが怖くて、もうこの場から離れたかった。
「そんなことないですよ。絶対、優しいです」
傷ついた顔をさせるのが怖くてたまらなかった。
「ぇ、と……ぁ……」
もうまともに言葉が出てこない。ひどい台詞を飲み込むのに精いっぱいで何も言えない。すくみ上がった俺に彼女は気づかない。
「あの、よかったらお名前……」
もうだめだ、と思ったとき。
「こんなとこにいたぁ」
軽やかな声が空気を入れ替えた。
「借りる本決まったの?」
声は意外なほど近くから聞こえた。全然気づかなかった。あまりに親しげなので知り合いかと思ったが、聞き覚えはない。しかしさらりと柔らかい囁きは、肌にまとわりついていた不快な感触をひと息に引き剥がしてくれた。
「ぁ——っ」
突然全身を押さえつけていた緊張が緩み、足許がふらつく。眼の前で、ハンカチを握ったままの手がこちらに伸びる。
「だいじょ……!」
「ちょっと、大丈夫?」
彼女の声は耳許で発された声に遮られた。小作りな手は俺に触れることなく静止している。追って、背中を何か温かいものが支えてくれていることに気づいた。温もりはそのまま半身に寄り添ってくる。
この感触は嫌じゃない。
思わず縋るように身を寄せると、首筋にひっそりと笑う吐息がかかった。
「だからまっすぐ帰ろうって言ったじゃん……って、あれ、お取り込み中だった? あ、もしや彼女?」
「彼女」という単語にぎくりと全身が引き攣った。
「ッち、が……」
「だよねー、知ってる知ってる。僕たち寂しい一人者だもんね」
掠れた声を絞り出すと、背中に回ったものが上下した。腕と、手のひら。宥めるように撫でてくれている。解像度が上がるほどに呼吸が楽になって、じわりと血が巡りだした。薄暗くなっていた世界が徐々に色を取り戻していく。視界の端で柔らかそうな栗色の髪が揺れた。
「話してたのに邪魔してごめんね」
どうも、女の子に話しかけているらしい。
「あ、いえ……?」
突然の闖入者に驚いたのか、彼女の反応は鈍い。一方、割って入った側は用意していた台詞を読み上げるように淀みなく話を進めた。
「調子悪いのに図書館行くって聞かないから一緒にきたんだけど、この子、限界みたい。悪いけど、お話はまた今度に」
言うや否や、彼は俺の荷物をまとめ、手早く貸出手続きを済ませて図書館をあとにした。俺にも彼女にも有無を言わせない鮮やかな振る舞いだった。


