普通修行は前途多難

 師匠を辞めたいと言わなきゃいけないのに、二人になるのを避けるように逃げ出す。
 神崎くんと離れなきゃいけないのはわかっているのに、言葉にすることができなかった。
 水曜日の帰りのHR後、神崎くんと目が合ってすぐに逸らしてしまう。
 小さく手を振った気がしたけれど、僕は気付かないふりをした。
 胸がキシリと痛む。まともに目を合わせたら、きっと心が揺れてしまう。
 俯いてリュックの中に荷物を詰め込んだ。
 木曜日の朝、外周を走るバスケ部を見かけた。人混みに紛れる。
 自然と神崎くんへ、目が吸い寄せられた。
 いつも通り周りからの視線を集めていて、僕に気付かず走り去った。
 遠ざかる後ろ姿にホッとするとともに、一抹の寂しさを覚える。
 自分で隠れたくせに身勝手だ。
 リュックの肩紐をギュッと握りしめて、息を吐く。
 金曜日はどうしても避けられないことがあった。
 日直で職員室に呼ばれ、プリントを配るように頼まれた。
 順番に手渡して、神崎くんの席に近付くにつれ、心臓が破裂しそうなほど激しく動く。
 神崎くんはイスに深く座り、僕を待ち構えていた。

「あのさ、明日なんだけど……」
「はい、神崎くんの分」

 神崎くんの言葉を遮って、机にプリントを置く。
 僕はすぐに別の人にプリントを配る。

「ああ、ありがとう……」

 背中に届いた声はいつになく沈んでいて、とっさに振り返った。
 神崎くんが口角を下げて目を伏せるのに気付いても、どうしようもできない。
 すぐに前へ向き直り、順番にプリントを配って、神崎くんの席から離れていく。
 罪悪感で、喉の奥がヒリヒリと痛んだ。




 その日の夜に、神崎くんからメッセージが届いた。

『明日の約束、覚えてる?』

 明日は練習試合の日だ。もちろん、覚えている。
 行って神崎くんの勇姿を見て、より彼にハマってしまうのではないかと恐ろしくなった。
 既読のままぼうっと画面を眺めていると、またメッセージが届く。

『待ってるから』

 重いため息を吐き、『九時過ぎに行くね』と返信した。
 この気持ちが留めていられないほど育って溢れてしまう前に、神崎くんと距離を置かなきゃ。
 明日が最後、と自分に言い聞かせる。




 土曜日の朝は、重たい雲に覆われたどんよりとした空だった。
 空と同じくらい暗い気持ちで、身支度を整える。
 天気予報を確認すると、夕方から雷雨になるということだった。昼間は降らないと分かり、自転車で学校に向かう。




 九時過ぎに学校に着くと、体育館から黄色い声が響いていた。
 体育館を覗く。試合が始まったようだ。
 女子ばかりの観覧席に行く気になれず、入り口から応援することに決めた。
 ボールが弾む音と、バッシュが床をキュッと鳴らす音で、強制的に試合に注目させられる。
 神崎くんはすぐにわかった。
 彼は自分より大きな相手にマークされて、パスコースを塞がれている。必死に動いて振り切ろうとしているが、相手も食らいついていた。
 相手チームのパスを自チームがカットし、全員が加速する。
 相手のディフェンスにシュートコースを塞がれ、たまらずパスを出す。
 神崎くんは手を伸ばしてキャッチすると、すぐにシュート体勢に入った。
 でも目の前に立ちはだかる相手が、両手を上げて圧をかける。
 神崎くんは相手と視線を交えたまま、横にワンバウンドのパスを出した。
 そこに走り込んできた味方が受け取ると、スピードを落とすことなく突っ込んで、レイアップシュートを決める。
 鮮やかなチームプレイに、会場の熱気が上がった。
 僕は神崎くんばかりを、目で追ってしまう。
 ボールがゴールに弾かれた音で、そちらに目を向けた。相手の放ったシュートだ。それを空中で奪い合うように、ゴール下で飛ぶ。
 相手の指先がボールに触れて、ゴールに向かって押した。バックボードに当たって、ゴールにスッと落ちていく。
 相手チームも負けじと得点を入れた。
 力は拮抗しているようで、入れると入れ返されるを繰り返す。
 こちらの攻撃で、神崎くんにパスが回った。切り込んで行こうとして、相手が大きく一歩を踏み出す。神崎くんはピタリと止まって、間髪入れずにシュートを放った。
 スリーポイントラインの外側だ。
 相手が慌てて伸ばした手を軽やかにかわし、高い弧を描いてボールは飛んでいく。
 スッとネットを揺らす小気味いい音が耳に届いた。
 三点が入る。
 乱れた前髪から覗く瞳は、いつもの天真爛漫さはなりを顰め、無自覚に色気を振り撒くこともしない。
 獲物を狙うような、剥き出しの熱量から目が離せない。
 心臓の音がうるさい。
 神崎くんしか見えない。
 神崎くんはディフェンスに戻る際、入り口に立つ僕の方を見た。
 視線が交わったのは一瞬だ。
 でも神崎くんが満足そうに、口角を上げたのがわかった。
 



 夢中になって観戦し、残すところあと一分。
 こちらが一点負けている。
 相手は守れば勝てるから、死に物狂いで止めてくる。
 神崎くんたちは、パスを回して攻めあぐねいていた。

「神崎くん、頑張って!」

 神崎くんがボールを受け取ると同時に叫んでいた。
 僕の声なんて、会場の声援にかき消されているだろう。
 神崎くんは相手に背を向けて、くるりと回って抜いた。
 進行方向を塞ぐ相手を交わすため、同時に走り出した味方にパスを出す。神崎くんはスピードを落とさない。味方はすぐに神崎くんにボールを戻した。
 受け取るとシュートを放つ。ボールがネットをくぐると、終了のブザーが鳴った。
 神崎くんは味方に飛びかかり、満面の笑みで勝利を喜んでいる。
 手に汗握る試合に興奮して、落ち着こうと胸をさすった。
 周りから拍手が送られる。僕も倣った。
 選手たちの整列が終わると、僕はそっと体育館を離れた。
 自転車に乗る前に、スマホを確認する。

『終わったら待ってて』

 神崎くんからメッセージが届いていた。試合の前に送られていたようだ。

『自転車置き場にいる』

 そう返信した。
 奥歯に力を込めて、拳をギュッと握る。
 試合を観戦したことで、決意はより強くなった。今日で終わりにしよう。
 もう神崎くんの隣で、気持ちを隠すことなんてできそうにない。




 自転車置き場の側に立つ大きな木の枝を風が揺らす。葉がザッザッと擦れるような音が続いた。
 湿った空気がまとわりつく。夕方から雷雨になるという天気予報を思い出して、空を見上げた。
 雨が今にも降り出しそうなほど、分厚い雲が空を覆い尽くしている。
 スマホを握りしめたまま、息を吐いた。
 体育館から校門に向かう生徒が、ゾロゾロ歩いているのが見える。
 神崎くんは今ごろ、片付けでもしているのだろうか。
 離れたくない。一緒にいたい。
 心の中でそう叫んでいる自分を、グッと押さえつける。




 しばらくすると、弾むような足取りで神崎くんが駆けてくる。
 頬を上気させ、満面の笑みを浮かべていた。

「師匠、お待たせ」

 勝利の余韻で少し上擦った声は、僕の心を容赦なく揺さぶる。
 顔から視線を少し下げ、「お疲れ様」と伝えた。
 自転車を押しながら、並んで歩く。

「来てくれて、ありがとう」
「ううん、勝ったね。すごかったよ」

自分の気持ちに気付く前なら自然に言えていたであろう『かっこよかった』という言葉は、喉につっかえて出てこなかった。

「ずっと応援してくれてた?」
「もちろん」

 ずっと神崎くんを目で追っていた。
 シュートを決めた時は、自分のことのように喜んだ。止められたときは、真剣な顔でボールを追いかける神崎くんの代わりに、奥歯をギリギリと噛み締めて悔しがった。
 神崎くんは満足そうに目を細める。

「最後さ、師匠の声が聞こえたんだ」
「あんなに騒がしかったのに?」
「うん、『頑張って』って声が聞こえた」

 神崎くんは当然のことのように頷いた。
 ……そんなの、反則だ。
 たくさんの声援の中から、僕の声だけを拾い上げたみたいな言い方をする。
 苦しくなって、下唇を噛んで視線を下げた。

「師匠」

 神崎くんは足を止めた。声のトーンが落ちる。悲しそうな響きだった。
 とっさにそちらに顔を向けると、辛そうに眉を下げ、切なく揺れる瞳とかち合う。

「最近さ、俺のことを避けてるよね」

 僕は奥歯に力を込めて口を閉ざす。

「なんで? 俺がなにかしちゃった?」
「違う。神崎くんはなにもしてないよ。本当に全然悪くないよ」

 だから困るんだ。
 優しくて真っすぐで、少し変わっていて。無防備に距離を詰めてくる。
 好きになってしまった。 
 震える手を固く握りしめる。大きく深呼吸をして、動きの悪い口を開いた。

「僕は師匠やめたい。もう神崎くんとは一緒にいられない」

 神崎くんは目を大きく見開き、ヒュッと喉を鳴らす。

「なんで急に、そんなこと言うんだ?」

 神崎くんの声は掠れていた。
 好きだから。なんて言えない。この想いは、絶対に表に出してはいけない。

「ストーカーが解決したんだから、もうつけられるって心配もないでしょ」

 無理やり声を高くする。口角を引き上げるけれど、上手く笑えているだろうか。

「でも俺は普通になりたい」
「神崎くんは、ありのままでいいんだよ」

 だってそのままの神崎くんが、一番魅力的だから。
 僕が好きになった神崎くん。
 見た目が整っているだけじゃない。中身も素敵だから、みんなだって惹かれるんだ。

「もう僕は、師匠でいられない。ごめんね」
「待って!」

 肩をグッと掴まれてた。神崎くんの胸に手を置いて突っぱねる。

「近いのダメって言ったよね」

 神崎くんの腕は力をなくし、ダランと垂れ下がった。俯いて、表情は見えない。

「僕、帰るね」

 神崎くんから返事はない。
 自転車にまたがって、ペダルを踏み出す。
 鼻の奥がツンと痛み、誤魔化すようにひたすらペダルを漕いだ。
 家の近くでポツポツと雨が降り出す。すぐに雨足は強くなった。
 遠くで稲光が黒い空を裂く。遅れて雷鳴が空気を震わせた。
 雷雨は夕方を待たずに訪れる。
 家に入る頃には、髪から雫がポタポタと落ちるほど濡れていた。
 目の前が滲む。頬をいくつもの雫が伝った。
 髪から垂れているのか、目からこぼれ落ちたのか、自分でも分からなかった。




 月曜日になり、憂鬱な気分で学校に向かう。
 朝のHRで、神崎くんが風邪で休むと担任が言っていた。
 神崎くんを心配するあまり、学校全体が静かだった。
 もしかして、土曜日に雨に濡れたのだろうか。神崎くんの家の近くで別れたから、濡れる前に家に帰ったとばかり思っていたけれど。
 放課後に図書委員の当番を終えて、職員室に鍵を返しに行く。

「伊藤」

 担任に呼び止められた。

「お前、神崎の家を知ってるか?」
「あっ、はい」

 神崎くんの名前を出されて動揺し、反射的に頷いていた。

「それならプリントを届けてくれないか?」

 今日配られた、三者面談の希望日の調査書だった。

「……わかりました」

 断れなくて、プリントを受け取る。
 学校を出ると、コンビニに寄った。
 ノートをコピーして、みかんゼリーを買う。
 神崎くんの家に着き、プリントと一緒にノートのコピーをクリアファイルに挟んだ。ゼリーの入ったビニール袋にそれを入れる。
 インターホンを鳴らすことができず、どうしようか途方に暮れていると、目の前に車が止まった。
 すっと車庫入れをして降りてきたのは、背の高いかっこいい女の人だ。神崎くんのお母さんだろうか。

「十和の友達?」
「えっ、あの、僕はクラスメイトで……。プリントを届けに来ました」

 お母さんにビニール袋を渡すと「ありがとう」と微笑まれる。笑った顔が神崎くんとそっくりで、彼の笑顔が脳裏に浮かんだ。胸が締め付けられる。

「早くよくなってとお伝えください」

 ペコリと頭を下げると、逃げるように自転車を漕いだ。
 名乗らなかったから、神崎くんには僕だってバレないよね。
 印象に残らないような容姿に、感謝する日が来るとは思わなかった。




 自室で宿題をしているときに、ハッとして口元を押さえた。カレーのお礼を言えばよかった、と後悔する。
 早く離れることばかりに気が急いて、頭から抜け落ちていた。

「いや、でもそれを言ったら、神崎くんに僕だってバレるし」

 自分を納得させるように、言い訳じみた言葉を漏らした。
 スマホが震え、画面に目を落とす。神崎くんだ。

『ノートのコピー助かる。ゼリー美味しかった。ありがとう』

 なぜか僕だとバレている。
 部屋から見ていたのだろうか?
 どうしよう、と冷や汗が滲む。
 ドッドッと轟く胸を押さえながら、大きく深呼吸をした。

「クラスメイトの心配をするのは、普通のことだよ。僕の気持ちを知られるわけじゃない」

 大丈夫だと言い聞かせる。

『お大事に』

 それだけ送って、宿題を続ける。
 でもチラチラとスマホを気にしてしまい、全然集中ができなかった。
 僕から離れたのに、メッセージが届いて浮き足立ってしまう。
 しばらくするとまた震えて、すぐに画面を確認した。
 別の友達から、ソシャゲのマルチプレイの誘いだった。
 肩を落とす。
 やる気になれなくて、眠いからと断った。
 その後も、スマホばかり気にしてしまう。でも神崎くんから、メッセージは届かなかった。




 神崎くんが学校に来たのは、翌々日の水曜日だった。
 顔色はいつもと変わらず、安堵の息を吐く。治ってよかった。
 周りの女子たちが心配そうに駆け寄るが、神崎くんは力なく微笑んで、自分の席に座った。
 口に拳を当てながら咳払いすると、神崎くんの机にのど飴が集まる。呆気に取られながら「ありがとう」と受け取っていた。
 その儚げな表情に、周りはノックアウト。

「艶かしい」
「憂いを帯びた顔も天才的」
「今日を国民の祝日にするべき!」

 はしゃぐ声があちこちから聞こえ、いつもの活気が戻ってきた。
 僕はそれを、教室の端からこっそり眺めることしかできない。




 次の日の放課後、自転車置き場で体操服を忘れたことに気付いた。
 ジメジメと湿度が高く、汗をたくさん吸っているはずだ。臭ったら嫌だな、と面倒だけど教室へ取りに戻る。
 教室が近付くと、話し声が聞こえた。
 扉の前で、神崎くんと彼の友達だとわかる。
 扉を開けるか迷っていると、神崎くんが「なぁ」と話しかけた。

「どうやったら、普通になれると思う?」

 神崎くんの言葉に、心臓を針で刺されたような痛みを伴った。
 僕じゃなくてもいいんだ。
 師匠を辞めると言いながら、他の人が神崎くんのそのポジションに座ることは、受け入れられそうにない。

「そうだなー……。土曜日にオレと合コンに行けば、わかるかもよ」

 友達は揶揄うように笑う。

「部活があるから、行かない」

 神崎くんのそっけない返事に、ひどく安心した。

「部活も普通の青春だけどさ、可愛い子と遊ぶのも普通の青春だと思うぞ」
「普通の青春……」

 神崎くんが興味深そうな声を漏らした。
 え? 合コンに行っちゃうの?
 友達にそそのかされないで、断って欲しいと胸の前で手を組んで祈る。

「……合コンは行かないけど、普通の青春はしたい」
「じゃあ好きな子でも誘えば」
「好きな子?」

 神崎くんは困惑したような声で聞き返した。

「好きな子、いねーの?」
「いない」

 はっきりした口調に胸を撫で下ろす。ここで神崎くんの想い人なんて知ったら、しばらく立ち直れなかっただろう。
 はっきりと自分に望みがないことがわかり、心はスッと冷えていく。

「まじ? 今まで一度も?」
「……ないと思う。どうしたら、好きってわかるんだ?」
「そこから? そうだなー、特定の誰かの笑った顔が見たいとか、喜んで欲しいとか、そんなこと思ったら好きの始まりなんじゃねーか? ……恥ずかしいこと語らせんなよ」

 バシッと大きな音が鳴り、神崎くんが「うっ」と呻く。友達が照れ隠しから、神崎くんの背中を思いっきり叩いたらしい。

「俺、それならある」
「そうか! よかったな!」

 それ以上聞いていられなくて、足音を立てないように離れる。
 しばらく図書室で時間を潰し、教室に誰もいないことを確認して、体操服をリュックに詰めた。
 神崎くんが誰かを好きになるのは喜ばしいことだ。その気持ちを大事にして欲しいと頭では理解しているが、心は拒絶していた。




 週が明けて月曜日。
 いつものように放課後は図書当番の仕事をして、施錠すると鍵を返す。
 昇降口に向かって歩き、角を曲がると神崎くんが足を伸ばしながら座っているのが見えた。
 そっと戻って角に身を隠す。コソッと顔を半分出して様子を伺った。
 神崎くんはぼうっと斜め上を見上げている。
 僕を待っているのだろうか。
 この時間に残っている生徒は少ない。
 落ち着きなく視線を彷徨わせるが、ただ時間が過ぎるだけ。
 強張った体をほぐすように、深呼吸を繰り返す。意を決して、足を進めた。
 足音でこちらに目を向ける神崎くん。目が合うと立ち上がって、お尻をパンパンと払った。
 やっぱり僕を待っていたのか。

「図書委員って、結構遅いんだな」
「そうかも。下校時刻まで、図書室は開放されているから」

 そこから誰もいないことを確認して施錠するため、帰るのは一番最後かもしれない。
 久しぶりに話すのに、俯いてボソボソと聞き取りにくい声になってしまった。

「これ、渡したかった」

 差し出されたのは、手のひらに収まるくらいの紙袋。

「ん」

 ジッと見つめていると、受け取れと催促される。

「あ、ありがとう」

 わけもわからず手に取った。
 少し弾力のある物が触れる。
 戸惑いながら神崎くんに視線を送ると「開けないの?」と聞かれた。
 テープを丁寧に剥がして紙袋を覗く。

「え?」

 驚いて声を上げていた。
 片手を皿のようにして、その上で袋を逆さまにする。
 コロンと転がり落ちてきたのは、チョココロネのストラップだった。