師匠を辞めたいと言わなきゃいけないのに、二人になるのを避けるように逃げ出す。
神崎くんと離れなきゃいけないのはわかっているのに、言葉にすることができなかった。
水曜日の帰りのHR後、神崎くんと目が合ってすぐに逸らしてしまう。
小さく手を振った気がしたけれど、僕は気付かないふりをした。
胸がキシリと痛む。まともに目を合わせたら、きっと心が揺れてしまう。
俯いてリュックの中に荷物を詰め込んだ。
木曜日の朝、外周を走るバスケ部を見かけた。人混みに紛れる。
自然と神崎くんへ、目が吸い寄せられた。
いつも通り周りからの視線を集めていて、僕に気付かず走り去った。
遠ざかる後ろ姿にホッとするとともに、一抹の寂しさを覚える。
自分で隠れたくせに身勝手だ。
リュックの肩紐をギュッと握りしめて、息を吐く。
金曜日はどうしても避けられないことがあった。
日直で職員室に呼ばれ、プリントを配るように頼まれた。
順番に手渡して、神崎くんの席に近付くにつれ、心臓が破裂しそうなほど激しく動く。
神崎くんはイスに深く座り、僕を待ち構えていた。
「あのさ、明日なんだけど……」
「はい、神崎くんの分」
神崎くんの言葉を遮って、机にプリントを置く。
僕はすぐに別の人にプリントを配る。
「ああ、ありがとう……」
背中に届いた声はいつになく沈んでいて、とっさに振り返った。
神崎くんが口角を下げて目を伏せるのに気付いても、どうしようもできない。
すぐに前へ向き直り、順番にプリントを配って、神崎くんの席から離れていく。
罪悪感で、喉の奥がヒリヒリと痛んだ。
その日の夜に、神崎くんからメッセージが届いた。
『明日の約束、覚えてる?』
明日は練習試合の日だ。もちろん、覚えている。
行って神崎くんの勇姿を見て、より彼にハマってしまうのではないかと恐ろしくなった。
既読のままぼうっと画面を眺めていると、またメッセージが届く。
『待ってるから』
重いため息を吐き、『九時過ぎに行くね』と返信した。
この気持ちが留めていられないほど育って溢れてしまう前に、神崎くんと距離を置かなきゃ。
明日が最後、と自分に言い聞かせる。
土曜日の朝は、重たい雲に覆われたどんよりとした空だった。
空と同じくらい暗い気持ちで、身支度を整える。
天気予報を確認すると、夕方から雷雨になるということだった。昼間は降らないと分かり、自転車で学校に向かう。
九時過ぎに学校に着くと、体育館から黄色い声が響いていた。
体育館を覗く。試合が始まったようだ。
女子ばかりの観覧席に行く気になれず、入り口から応援することに決めた。
ボールが弾む音と、バッシュが床をキュッと鳴らす音で、強制的に試合に注目させられる。
神崎くんはすぐにわかった。
彼は自分より大きな相手にマークされて、パスコースを塞がれている。必死に動いて振り切ろうとしているが、相手も食らいついていた。
相手チームのパスを自チームがカットし、全員が加速する。
相手のディフェンスにシュートコースを塞がれ、たまらずパスを出す。
神崎くんは手を伸ばしてキャッチすると、すぐにシュート体勢に入った。
でも目の前に立ちはだかる相手が、両手を上げて圧をかける。
神崎くんは相手と視線を交えたまま、横にワンバウンドのパスを出した。
そこに走り込んできた味方が受け取ると、スピードを落とすことなく突っ込んで、レイアップシュートを決める。
鮮やかなチームプレイに、会場の熱気が上がった。
僕は神崎くんばかりを、目で追ってしまう。
ボールがゴールに弾かれた音で、そちらに目を向けた。相手の放ったシュートだ。それを空中で奪い合うように、ゴール下で飛ぶ。
相手の指先がボールに触れて、ゴールに向かって押した。バックボードに当たって、ゴールにスッと落ちていく。
相手チームも負けじと得点を入れた。
力は拮抗しているようで、入れると入れ返されるを繰り返す。
こちらの攻撃で、神崎くんにパスが回った。切り込んで行こうとして、相手が大きく一歩を踏み出す。神崎くんはピタリと止まって、間髪入れずにシュートを放った。
スリーポイントラインの外側だ。
相手が慌てて伸ばした手を軽やかにかわし、高い弧を描いてボールは飛んでいく。
スッとネットを揺らす小気味いい音が耳に届いた。
三点が入る。
乱れた前髪から覗く瞳は、いつもの天真爛漫さはなりを顰め、無自覚に色気を振り撒くこともしない。
獲物を狙うような、剥き出しの熱量から目が離せない。
心臓の音がうるさい。
神崎くんしか見えない。
神崎くんはディフェンスに戻る際、入り口に立つ僕の方を見た。
視線が交わったのは一瞬だ。
でも神崎くんが満足そうに、口角を上げたのがわかった。
夢中になって観戦し、残すところあと一分。
こちらが一点負けている。
相手は守れば勝てるから、死に物狂いで止めてくる。
神崎くんたちは、パスを回して攻めあぐねいていた。
「神崎くん、頑張って!」
神崎くんがボールを受け取ると同時に叫んでいた。
僕の声なんて、会場の声援にかき消されているだろう。
神崎くんは相手に背を向けて、くるりと回って抜いた。
進行方向を塞ぐ相手を交わすため、同時に走り出した味方にパスを出す。神崎くんはスピードを落とさない。味方はすぐに神崎くんにボールを戻した。
受け取るとシュートを放つ。ボールがネットをくぐると、終了のブザーが鳴った。
神崎くんは味方に飛びかかり、満面の笑みで勝利を喜んでいる。
手に汗握る試合に興奮して、落ち着こうと胸をさすった。
周りから拍手が送られる。僕も倣った。
選手たちの整列が終わると、僕はそっと体育館を離れた。
自転車に乗る前に、スマホを確認する。
『終わったら待ってて』
神崎くんからメッセージが届いていた。試合の前に送られていたようだ。
『自転車置き場にいる』
そう返信した。
奥歯に力を込めて、拳をギュッと握る。
試合を観戦したことで、決意はより強くなった。今日で終わりにしよう。
もう神崎くんの隣で、気持ちを隠すことなんてできそうにない。
自転車置き場の側に立つ大きな木の枝を風が揺らす。葉がザッザッと擦れるような音が続いた。
湿った空気がまとわりつく。夕方から雷雨になるという天気予報を思い出して、空を見上げた。
雨が今にも降り出しそうなほど、分厚い雲が空を覆い尽くしている。
スマホを握りしめたまま、息を吐いた。
体育館から校門に向かう生徒が、ゾロゾロ歩いているのが見える。
神崎くんは今ごろ、片付けでもしているのだろうか。
離れたくない。一緒にいたい。
心の中でそう叫んでいる自分を、グッと押さえつける。
しばらくすると、弾むような足取りで神崎くんが駆けてくる。
頬を上気させ、満面の笑みを浮かべていた。
「師匠、お待たせ」
勝利の余韻で少し上擦った声は、僕の心を容赦なく揺さぶる。
顔から視線を少し下げ、「お疲れ様」と伝えた。
自転車を押しながら、並んで歩く。
「来てくれて、ありがとう」
「ううん、勝ったね。すごかったよ」
自分の気持ちに気付く前なら自然に言えていたであろう『かっこよかった』という言葉は、喉につっかえて出てこなかった。
「ずっと応援してくれてた?」
「もちろん」
ずっと神崎くんを目で追っていた。
シュートを決めた時は、自分のことのように喜んだ。止められたときは、真剣な顔でボールを追いかける神崎くんの代わりに、奥歯をギリギリと噛み締めて悔しがった。
神崎くんは満足そうに目を細める。
「最後さ、師匠の声が聞こえたんだ」
「あんなに騒がしかったのに?」
「うん、『頑張って』って声が聞こえた」
神崎くんは当然のことのように頷いた。
……そんなの、反則だ。
たくさんの声援の中から、僕の声だけを拾い上げたみたいな言い方をする。
苦しくなって、下唇を噛んで視線を下げた。
「師匠」
神崎くんは足を止めた。声のトーンが落ちる。悲しそうな響きだった。
とっさにそちらに顔を向けると、辛そうに眉を下げ、切なく揺れる瞳とかち合う。
「最近さ、俺のことを避けてるよね」
僕は奥歯に力を込めて口を閉ざす。
「なんで? 俺がなにかしちゃった?」
「違う。神崎くんはなにもしてないよ。本当に全然悪くないよ」
だから困るんだ。
優しくて真っすぐで、少し変わっていて。無防備に距離を詰めてくる。
好きになってしまった。
震える手を固く握りしめる。大きく深呼吸をして、動きの悪い口を開いた。
「僕は師匠やめたい。もう神崎くんとは一緒にいられない」
神崎くんは目を大きく見開き、ヒュッと喉を鳴らす。
「なんで急に、そんなこと言うんだ?」
神崎くんの声は掠れていた。
好きだから。なんて言えない。この想いは、絶対に表に出してはいけない。
「ストーカーが解決したんだから、もうつけられるって心配もないでしょ」
無理やり声を高くする。口角を引き上げるけれど、上手く笑えているだろうか。
「でも俺は普通になりたい」
「神崎くんは、ありのままでいいんだよ」
だってそのままの神崎くんが、一番魅力的だから。
僕が好きになった神崎くん。
見た目が整っているだけじゃない。中身も素敵だから、みんなだって惹かれるんだ。
「もう僕は、師匠でいられない。ごめんね」
「待って!」
肩をグッと掴まれてた。神崎くんの胸に手を置いて突っぱねる。
「近いのダメって言ったよね」
神崎くんの腕は力をなくし、ダランと垂れ下がった。俯いて、表情は見えない。
「僕、帰るね」
神崎くんから返事はない。
自転車にまたがって、ペダルを踏み出す。
鼻の奥がツンと痛み、誤魔化すようにひたすらペダルを漕いだ。
家の近くでポツポツと雨が降り出す。すぐに雨足は強くなった。
遠くで稲光が黒い空を裂く。遅れて雷鳴が空気を震わせた。
雷雨は夕方を待たずに訪れる。
家に入る頃には、髪から雫がポタポタと落ちるほど濡れていた。
目の前が滲む。頬をいくつもの雫が伝った。
髪から垂れているのか、目からこぼれ落ちたのか、自分でも分からなかった。
月曜日になり、憂鬱な気分で学校に向かう。
朝のHRで、神崎くんが風邪で休むと担任が言っていた。
神崎くんを心配するあまり、学校全体が静かだった。
もしかして、土曜日に雨に濡れたのだろうか。神崎くんの家の近くで別れたから、濡れる前に家に帰ったとばかり思っていたけれど。
放課後に図書委員の当番を終えて、職員室に鍵を返しに行く。
「伊藤」
担任に呼び止められた。
「お前、神崎の家を知ってるか?」
「あっ、はい」
神崎くんの名前を出されて動揺し、反射的に頷いていた。
「それならプリントを届けてくれないか?」
今日配られた、三者面談の希望日の調査書だった。
「……わかりました」
断れなくて、プリントを受け取る。
学校を出ると、コンビニに寄った。
ノートをコピーして、みかんゼリーを買う。
神崎くんの家に着き、プリントと一緒にノートのコピーをクリアファイルに挟んだ。ゼリーの入ったビニール袋にそれを入れる。
インターホンを鳴らすことができず、どうしようか途方に暮れていると、目の前に車が止まった。
すっと車庫入れをして降りてきたのは、背の高いかっこいい女の人だ。神崎くんのお母さんだろうか。
「十和の友達?」
「えっ、あの、僕はクラスメイトで……。プリントを届けに来ました」
お母さんにビニール袋を渡すと「ありがとう」と微笑まれる。笑った顔が神崎くんとそっくりで、彼の笑顔が脳裏に浮かんだ。胸が締め付けられる。
「早くよくなってとお伝えください」
ペコリと頭を下げると、逃げるように自転車を漕いだ。
名乗らなかったから、神崎くんには僕だってバレないよね。
印象に残らないような容姿に、感謝する日が来るとは思わなかった。
自室で宿題をしているときに、ハッとして口元を押さえた。カレーのお礼を言えばよかった、と後悔する。
早く離れることばかりに気が急いて、頭から抜け落ちていた。
「いや、でもそれを言ったら、神崎くんに僕だってバレるし」
自分を納得させるように、言い訳じみた言葉を漏らした。
スマホが震え、画面に目を落とす。神崎くんだ。
『ノートのコピー助かる。ゼリー美味しかった。ありがとう』
なぜか僕だとバレている。
部屋から見ていたのだろうか?
どうしよう、と冷や汗が滲む。
ドッドッと轟く胸を押さえながら、大きく深呼吸をした。
「クラスメイトの心配をするのは、普通のことだよ。僕の気持ちを知られるわけじゃない」
大丈夫だと言い聞かせる。
『お大事に』
それだけ送って、宿題を続ける。
でもチラチラとスマホを気にしてしまい、全然集中ができなかった。
僕から離れたのに、メッセージが届いて浮き足立ってしまう。
しばらくするとまた震えて、すぐに画面を確認した。
別の友達から、ソシャゲのマルチプレイの誘いだった。
肩を落とす。
やる気になれなくて、眠いからと断った。
その後も、スマホばかり気にしてしまう。でも神崎くんから、メッセージは届かなかった。
神崎くんが学校に来たのは、翌々日の水曜日だった。
顔色はいつもと変わらず、安堵の息を吐く。治ってよかった。
周りの女子たちが心配そうに駆け寄るが、神崎くんは力なく微笑んで、自分の席に座った。
口に拳を当てながら咳払いすると、神崎くんの机にのど飴が集まる。呆気に取られながら「ありがとう」と受け取っていた。
その儚げな表情に、周りはノックアウト。
「艶かしい」
「憂いを帯びた顔も天才的」
「今日を国民の祝日にするべき!」
はしゃぐ声があちこちから聞こえ、いつもの活気が戻ってきた。
僕はそれを、教室の端からこっそり眺めることしかできない。
次の日の放課後、自転車置き場で体操服を忘れたことに気付いた。
ジメジメと湿度が高く、汗をたくさん吸っているはずだ。臭ったら嫌だな、と面倒だけど教室へ取りに戻る。
教室が近付くと、話し声が聞こえた。
扉の前で、神崎くんと彼の友達だとわかる。
扉を開けるか迷っていると、神崎くんが「なぁ」と話しかけた。
「どうやったら、普通になれると思う?」
神崎くんの言葉に、心臓を針で刺されたような痛みを伴った。
僕じゃなくてもいいんだ。
師匠を辞めると言いながら、他の人が神崎くんのそのポジションに座ることは、受け入れられそうにない。
「そうだなー……。土曜日にオレと合コンに行けば、わかるかもよ」
友達は揶揄うように笑う。
「部活があるから、行かない」
神崎くんのそっけない返事に、ひどく安心した。
「部活も普通の青春だけどさ、可愛い子と遊ぶのも普通の青春だと思うぞ」
「普通の青春……」
神崎くんが興味深そうな声を漏らした。
え? 合コンに行っちゃうの?
友達にそそのかされないで、断って欲しいと胸の前で手を組んで祈る。
「……合コンは行かないけど、普通の青春はしたい」
「じゃあ好きな子でも誘えば」
「好きな子?」
神崎くんは困惑したような声で聞き返した。
「好きな子、いねーの?」
「いない」
はっきりした口調に胸を撫で下ろす。ここで神崎くんの想い人なんて知ったら、しばらく立ち直れなかっただろう。
はっきりと自分に望みがないことがわかり、心はスッと冷えていく。
「まじ? 今まで一度も?」
「……ないと思う。どうしたら、好きってわかるんだ?」
「そこから? そうだなー、特定の誰かの笑った顔が見たいとか、喜んで欲しいとか、そんなこと思ったら好きの始まりなんじゃねーか? ……恥ずかしいこと語らせんなよ」
バシッと大きな音が鳴り、神崎くんが「うっ」と呻く。友達が照れ隠しから、神崎くんの背中を思いっきり叩いたらしい。
「俺、それならある」
「そうか! よかったな!」
それ以上聞いていられなくて、足音を立てないように離れる。
しばらく図書室で時間を潰し、教室に誰もいないことを確認して、体操服をリュックに詰めた。
神崎くんが誰かを好きになるのは喜ばしいことだ。その気持ちを大事にして欲しいと頭では理解しているが、心は拒絶していた。
週が明けて月曜日。
いつものように放課後は図書当番の仕事をして、施錠すると鍵を返す。
昇降口に向かって歩き、角を曲がると神崎くんが足を伸ばしながら座っているのが見えた。
そっと戻って角に身を隠す。コソッと顔を半分出して様子を伺った。
神崎くんはぼうっと斜め上を見上げている。
僕を待っているのだろうか。
この時間に残っている生徒は少ない。
落ち着きなく視線を彷徨わせるが、ただ時間が過ぎるだけ。
強張った体をほぐすように、深呼吸を繰り返す。意を決して、足を進めた。
足音でこちらに目を向ける神崎くん。目が合うと立ち上がって、お尻をパンパンと払った。
やっぱり僕を待っていたのか。
「図書委員って、結構遅いんだな」
「そうかも。下校時刻まで、図書室は開放されているから」
そこから誰もいないことを確認して施錠するため、帰るのは一番最後かもしれない。
久しぶりに話すのに、俯いてボソボソと聞き取りにくい声になってしまった。
「これ、渡したかった」
差し出されたのは、手のひらに収まるくらいの紙袋。
「ん」
ジッと見つめていると、受け取れと催促される。
「あ、ありがとう」
わけもわからず手に取った。
少し弾力のある物が触れる。
戸惑いながら神崎くんに視線を送ると「開けないの?」と聞かれた。
テープを丁寧に剥がして紙袋を覗く。
「え?」
驚いて声を上げていた。
片手を皿のようにして、その上で袋を逆さまにする。
コロンと転がり落ちてきたのは、チョココロネのストラップだった。
神崎くんと離れなきゃいけないのはわかっているのに、言葉にすることができなかった。
水曜日の帰りのHR後、神崎くんと目が合ってすぐに逸らしてしまう。
小さく手を振った気がしたけれど、僕は気付かないふりをした。
胸がキシリと痛む。まともに目を合わせたら、きっと心が揺れてしまう。
俯いてリュックの中に荷物を詰め込んだ。
木曜日の朝、外周を走るバスケ部を見かけた。人混みに紛れる。
自然と神崎くんへ、目が吸い寄せられた。
いつも通り周りからの視線を集めていて、僕に気付かず走り去った。
遠ざかる後ろ姿にホッとするとともに、一抹の寂しさを覚える。
自分で隠れたくせに身勝手だ。
リュックの肩紐をギュッと握りしめて、息を吐く。
金曜日はどうしても避けられないことがあった。
日直で職員室に呼ばれ、プリントを配るように頼まれた。
順番に手渡して、神崎くんの席に近付くにつれ、心臓が破裂しそうなほど激しく動く。
神崎くんはイスに深く座り、僕を待ち構えていた。
「あのさ、明日なんだけど……」
「はい、神崎くんの分」
神崎くんの言葉を遮って、机にプリントを置く。
僕はすぐに別の人にプリントを配る。
「ああ、ありがとう……」
背中に届いた声はいつになく沈んでいて、とっさに振り返った。
神崎くんが口角を下げて目を伏せるのに気付いても、どうしようもできない。
すぐに前へ向き直り、順番にプリントを配って、神崎くんの席から離れていく。
罪悪感で、喉の奥がヒリヒリと痛んだ。
その日の夜に、神崎くんからメッセージが届いた。
『明日の約束、覚えてる?』
明日は練習試合の日だ。もちろん、覚えている。
行って神崎くんの勇姿を見て、より彼にハマってしまうのではないかと恐ろしくなった。
既読のままぼうっと画面を眺めていると、またメッセージが届く。
『待ってるから』
重いため息を吐き、『九時過ぎに行くね』と返信した。
この気持ちが留めていられないほど育って溢れてしまう前に、神崎くんと距離を置かなきゃ。
明日が最後、と自分に言い聞かせる。
土曜日の朝は、重たい雲に覆われたどんよりとした空だった。
空と同じくらい暗い気持ちで、身支度を整える。
天気予報を確認すると、夕方から雷雨になるということだった。昼間は降らないと分かり、自転車で学校に向かう。
九時過ぎに学校に着くと、体育館から黄色い声が響いていた。
体育館を覗く。試合が始まったようだ。
女子ばかりの観覧席に行く気になれず、入り口から応援することに決めた。
ボールが弾む音と、バッシュが床をキュッと鳴らす音で、強制的に試合に注目させられる。
神崎くんはすぐにわかった。
彼は自分より大きな相手にマークされて、パスコースを塞がれている。必死に動いて振り切ろうとしているが、相手も食らいついていた。
相手チームのパスを自チームがカットし、全員が加速する。
相手のディフェンスにシュートコースを塞がれ、たまらずパスを出す。
神崎くんは手を伸ばしてキャッチすると、すぐにシュート体勢に入った。
でも目の前に立ちはだかる相手が、両手を上げて圧をかける。
神崎くんは相手と視線を交えたまま、横にワンバウンドのパスを出した。
そこに走り込んできた味方が受け取ると、スピードを落とすことなく突っ込んで、レイアップシュートを決める。
鮮やかなチームプレイに、会場の熱気が上がった。
僕は神崎くんばかりを、目で追ってしまう。
ボールがゴールに弾かれた音で、そちらに目を向けた。相手の放ったシュートだ。それを空中で奪い合うように、ゴール下で飛ぶ。
相手の指先がボールに触れて、ゴールに向かって押した。バックボードに当たって、ゴールにスッと落ちていく。
相手チームも負けじと得点を入れた。
力は拮抗しているようで、入れると入れ返されるを繰り返す。
こちらの攻撃で、神崎くんにパスが回った。切り込んで行こうとして、相手が大きく一歩を踏み出す。神崎くんはピタリと止まって、間髪入れずにシュートを放った。
スリーポイントラインの外側だ。
相手が慌てて伸ばした手を軽やかにかわし、高い弧を描いてボールは飛んでいく。
スッとネットを揺らす小気味いい音が耳に届いた。
三点が入る。
乱れた前髪から覗く瞳は、いつもの天真爛漫さはなりを顰め、無自覚に色気を振り撒くこともしない。
獲物を狙うような、剥き出しの熱量から目が離せない。
心臓の音がうるさい。
神崎くんしか見えない。
神崎くんはディフェンスに戻る際、入り口に立つ僕の方を見た。
視線が交わったのは一瞬だ。
でも神崎くんが満足そうに、口角を上げたのがわかった。
夢中になって観戦し、残すところあと一分。
こちらが一点負けている。
相手は守れば勝てるから、死に物狂いで止めてくる。
神崎くんたちは、パスを回して攻めあぐねいていた。
「神崎くん、頑張って!」
神崎くんがボールを受け取ると同時に叫んでいた。
僕の声なんて、会場の声援にかき消されているだろう。
神崎くんは相手に背を向けて、くるりと回って抜いた。
進行方向を塞ぐ相手を交わすため、同時に走り出した味方にパスを出す。神崎くんはスピードを落とさない。味方はすぐに神崎くんにボールを戻した。
受け取るとシュートを放つ。ボールがネットをくぐると、終了のブザーが鳴った。
神崎くんは味方に飛びかかり、満面の笑みで勝利を喜んでいる。
手に汗握る試合に興奮して、落ち着こうと胸をさすった。
周りから拍手が送られる。僕も倣った。
選手たちの整列が終わると、僕はそっと体育館を離れた。
自転車に乗る前に、スマホを確認する。
『終わったら待ってて』
神崎くんからメッセージが届いていた。試合の前に送られていたようだ。
『自転車置き場にいる』
そう返信した。
奥歯に力を込めて、拳をギュッと握る。
試合を観戦したことで、決意はより強くなった。今日で終わりにしよう。
もう神崎くんの隣で、気持ちを隠すことなんてできそうにない。
自転車置き場の側に立つ大きな木の枝を風が揺らす。葉がザッザッと擦れるような音が続いた。
湿った空気がまとわりつく。夕方から雷雨になるという天気予報を思い出して、空を見上げた。
雨が今にも降り出しそうなほど、分厚い雲が空を覆い尽くしている。
スマホを握りしめたまま、息を吐いた。
体育館から校門に向かう生徒が、ゾロゾロ歩いているのが見える。
神崎くんは今ごろ、片付けでもしているのだろうか。
離れたくない。一緒にいたい。
心の中でそう叫んでいる自分を、グッと押さえつける。
しばらくすると、弾むような足取りで神崎くんが駆けてくる。
頬を上気させ、満面の笑みを浮かべていた。
「師匠、お待たせ」
勝利の余韻で少し上擦った声は、僕の心を容赦なく揺さぶる。
顔から視線を少し下げ、「お疲れ様」と伝えた。
自転車を押しながら、並んで歩く。
「来てくれて、ありがとう」
「ううん、勝ったね。すごかったよ」
自分の気持ちに気付く前なら自然に言えていたであろう『かっこよかった』という言葉は、喉につっかえて出てこなかった。
「ずっと応援してくれてた?」
「もちろん」
ずっと神崎くんを目で追っていた。
シュートを決めた時は、自分のことのように喜んだ。止められたときは、真剣な顔でボールを追いかける神崎くんの代わりに、奥歯をギリギリと噛み締めて悔しがった。
神崎くんは満足そうに目を細める。
「最後さ、師匠の声が聞こえたんだ」
「あんなに騒がしかったのに?」
「うん、『頑張って』って声が聞こえた」
神崎くんは当然のことのように頷いた。
……そんなの、反則だ。
たくさんの声援の中から、僕の声だけを拾い上げたみたいな言い方をする。
苦しくなって、下唇を噛んで視線を下げた。
「師匠」
神崎くんは足を止めた。声のトーンが落ちる。悲しそうな響きだった。
とっさにそちらに顔を向けると、辛そうに眉を下げ、切なく揺れる瞳とかち合う。
「最近さ、俺のことを避けてるよね」
僕は奥歯に力を込めて口を閉ざす。
「なんで? 俺がなにかしちゃった?」
「違う。神崎くんはなにもしてないよ。本当に全然悪くないよ」
だから困るんだ。
優しくて真っすぐで、少し変わっていて。無防備に距離を詰めてくる。
好きになってしまった。
震える手を固く握りしめる。大きく深呼吸をして、動きの悪い口を開いた。
「僕は師匠やめたい。もう神崎くんとは一緒にいられない」
神崎くんは目を大きく見開き、ヒュッと喉を鳴らす。
「なんで急に、そんなこと言うんだ?」
神崎くんの声は掠れていた。
好きだから。なんて言えない。この想いは、絶対に表に出してはいけない。
「ストーカーが解決したんだから、もうつけられるって心配もないでしょ」
無理やり声を高くする。口角を引き上げるけれど、上手く笑えているだろうか。
「でも俺は普通になりたい」
「神崎くんは、ありのままでいいんだよ」
だってそのままの神崎くんが、一番魅力的だから。
僕が好きになった神崎くん。
見た目が整っているだけじゃない。中身も素敵だから、みんなだって惹かれるんだ。
「もう僕は、師匠でいられない。ごめんね」
「待って!」
肩をグッと掴まれてた。神崎くんの胸に手を置いて突っぱねる。
「近いのダメって言ったよね」
神崎くんの腕は力をなくし、ダランと垂れ下がった。俯いて、表情は見えない。
「僕、帰るね」
神崎くんから返事はない。
自転車にまたがって、ペダルを踏み出す。
鼻の奥がツンと痛み、誤魔化すようにひたすらペダルを漕いだ。
家の近くでポツポツと雨が降り出す。すぐに雨足は強くなった。
遠くで稲光が黒い空を裂く。遅れて雷鳴が空気を震わせた。
雷雨は夕方を待たずに訪れる。
家に入る頃には、髪から雫がポタポタと落ちるほど濡れていた。
目の前が滲む。頬をいくつもの雫が伝った。
髪から垂れているのか、目からこぼれ落ちたのか、自分でも分からなかった。
月曜日になり、憂鬱な気分で学校に向かう。
朝のHRで、神崎くんが風邪で休むと担任が言っていた。
神崎くんを心配するあまり、学校全体が静かだった。
もしかして、土曜日に雨に濡れたのだろうか。神崎くんの家の近くで別れたから、濡れる前に家に帰ったとばかり思っていたけれど。
放課後に図書委員の当番を終えて、職員室に鍵を返しに行く。
「伊藤」
担任に呼び止められた。
「お前、神崎の家を知ってるか?」
「あっ、はい」
神崎くんの名前を出されて動揺し、反射的に頷いていた。
「それならプリントを届けてくれないか?」
今日配られた、三者面談の希望日の調査書だった。
「……わかりました」
断れなくて、プリントを受け取る。
学校を出ると、コンビニに寄った。
ノートをコピーして、みかんゼリーを買う。
神崎くんの家に着き、プリントと一緒にノートのコピーをクリアファイルに挟んだ。ゼリーの入ったビニール袋にそれを入れる。
インターホンを鳴らすことができず、どうしようか途方に暮れていると、目の前に車が止まった。
すっと車庫入れをして降りてきたのは、背の高いかっこいい女の人だ。神崎くんのお母さんだろうか。
「十和の友達?」
「えっ、あの、僕はクラスメイトで……。プリントを届けに来ました」
お母さんにビニール袋を渡すと「ありがとう」と微笑まれる。笑った顔が神崎くんとそっくりで、彼の笑顔が脳裏に浮かんだ。胸が締め付けられる。
「早くよくなってとお伝えください」
ペコリと頭を下げると、逃げるように自転車を漕いだ。
名乗らなかったから、神崎くんには僕だってバレないよね。
印象に残らないような容姿に、感謝する日が来るとは思わなかった。
自室で宿題をしているときに、ハッとして口元を押さえた。カレーのお礼を言えばよかった、と後悔する。
早く離れることばかりに気が急いて、頭から抜け落ちていた。
「いや、でもそれを言ったら、神崎くんに僕だってバレるし」
自分を納得させるように、言い訳じみた言葉を漏らした。
スマホが震え、画面に目を落とす。神崎くんだ。
『ノートのコピー助かる。ゼリー美味しかった。ありがとう』
なぜか僕だとバレている。
部屋から見ていたのだろうか?
どうしよう、と冷や汗が滲む。
ドッドッと轟く胸を押さえながら、大きく深呼吸をした。
「クラスメイトの心配をするのは、普通のことだよ。僕の気持ちを知られるわけじゃない」
大丈夫だと言い聞かせる。
『お大事に』
それだけ送って、宿題を続ける。
でもチラチラとスマホを気にしてしまい、全然集中ができなかった。
僕から離れたのに、メッセージが届いて浮き足立ってしまう。
しばらくするとまた震えて、すぐに画面を確認した。
別の友達から、ソシャゲのマルチプレイの誘いだった。
肩を落とす。
やる気になれなくて、眠いからと断った。
その後も、スマホばかり気にしてしまう。でも神崎くんから、メッセージは届かなかった。
神崎くんが学校に来たのは、翌々日の水曜日だった。
顔色はいつもと変わらず、安堵の息を吐く。治ってよかった。
周りの女子たちが心配そうに駆け寄るが、神崎くんは力なく微笑んで、自分の席に座った。
口に拳を当てながら咳払いすると、神崎くんの机にのど飴が集まる。呆気に取られながら「ありがとう」と受け取っていた。
その儚げな表情に、周りはノックアウト。
「艶かしい」
「憂いを帯びた顔も天才的」
「今日を国民の祝日にするべき!」
はしゃぐ声があちこちから聞こえ、いつもの活気が戻ってきた。
僕はそれを、教室の端からこっそり眺めることしかできない。
次の日の放課後、自転車置き場で体操服を忘れたことに気付いた。
ジメジメと湿度が高く、汗をたくさん吸っているはずだ。臭ったら嫌だな、と面倒だけど教室へ取りに戻る。
教室が近付くと、話し声が聞こえた。
扉の前で、神崎くんと彼の友達だとわかる。
扉を開けるか迷っていると、神崎くんが「なぁ」と話しかけた。
「どうやったら、普通になれると思う?」
神崎くんの言葉に、心臓を針で刺されたような痛みを伴った。
僕じゃなくてもいいんだ。
師匠を辞めると言いながら、他の人が神崎くんのそのポジションに座ることは、受け入れられそうにない。
「そうだなー……。土曜日にオレと合コンに行けば、わかるかもよ」
友達は揶揄うように笑う。
「部活があるから、行かない」
神崎くんのそっけない返事に、ひどく安心した。
「部活も普通の青春だけどさ、可愛い子と遊ぶのも普通の青春だと思うぞ」
「普通の青春……」
神崎くんが興味深そうな声を漏らした。
え? 合コンに行っちゃうの?
友達にそそのかされないで、断って欲しいと胸の前で手を組んで祈る。
「……合コンは行かないけど、普通の青春はしたい」
「じゃあ好きな子でも誘えば」
「好きな子?」
神崎くんは困惑したような声で聞き返した。
「好きな子、いねーの?」
「いない」
はっきりした口調に胸を撫で下ろす。ここで神崎くんの想い人なんて知ったら、しばらく立ち直れなかっただろう。
はっきりと自分に望みがないことがわかり、心はスッと冷えていく。
「まじ? 今まで一度も?」
「……ないと思う。どうしたら、好きってわかるんだ?」
「そこから? そうだなー、特定の誰かの笑った顔が見たいとか、喜んで欲しいとか、そんなこと思ったら好きの始まりなんじゃねーか? ……恥ずかしいこと語らせんなよ」
バシッと大きな音が鳴り、神崎くんが「うっ」と呻く。友達が照れ隠しから、神崎くんの背中を思いっきり叩いたらしい。
「俺、それならある」
「そうか! よかったな!」
それ以上聞いていられなくて、足音を立てないように離れる。
しばらく図書室で時間を潰し、教室に誰もいないことを確認して、体操服をリュックに詰めた。
神崎くんが誰かを好きになるのは喜ばしいことだ。その気持ちを大事にして欲しいと頭では理解しているが、心は拒絶していた。
週が明けて月曜日。
いつものように放課後は図書当番の仕事をして、施錠すると鍵を返す。
昇降口に向かって歩き、角を曲がると神崎くんが足を伸ばしながら座っているのが見えた。
そっと戻って角に身を隠す。コソッと顔を半分出して様子を伺った。
神崎くんはぼうっと斜め上を見上げている。
僕を待っているのだろうか。
この時間に残っている生徒は少ない。
落ち着きなく視線を彷徨わせるが、ただ時間が過ぎるだけ。
強張った体をほぐすように、深呼吸を繰り返す。意を決して、足を進めた。
足音でこちらに目を向ける神崎くん。目が合うと立ち上がって、お尻をパンパンと払った。
やっぱり僕を待っていたのか。
「図書委員って、結構遅いんだな」
「そうかも。下校時刻まで、図書室は開放されているから」
そこから誰もいないことを確認して施錠するため、帰るのは一番最後かもしれない。
久しぶりに話すのに、俯いてボソボソと聞き取りにくい声になってしまった。
「これ、渡したかった」
差し出されたのは、手のひらに収まるくらいの紙袋。
「ん」
ジッと見つめていると、受け取れと催促される。
「あ、ありがとう」
わけもわからず手に取った。
少し弾力のある物が触れる。
戸惑いながら神崎くんに視線を送ると「開けないの?」と聞かれた。
テープを丁寧に剥がして紙袋を覗く。
「え?」
驚いて声を上げていた。
片手を皿のようにして、その上で袋を逆さまにする。
コロンと転がり落ちてきたのは、チョココロネのストラップだった。



