普通修行は前途多難

 翌月曜日、神崎くんのスクールバッグにメロンパンのストラップが付いていた。
 朝から学校中に拡散されて、第一次メロンパンブームが到来。
 購買では、メロンパンがあっという間に完売した。買えなかった敗者は、近所のコンビニに走る。
 みんながメロンパンで一喜一憂するなか、神崎くんはお母さんのお手製弁当を、美味しそうに平らげていた。
 僕はそんなメロンパン騒動になんて、関わっていられない。
 今日はテスト週間初日でもあるから。
 来週から始まる中間テストが終わるまで、部活も委員会も停止する。
 月曜日だけれど、早く帰られる。
 放課後になり、リュックに荷物を詰めていると、神崎くんが僕の席の前に立つ。

「ししょ……伊藤、テスト勉強を一緒にやらないか?」

 無意識に師匠と出てしまうのか、名前を言い直す。図書委員ということもあり、周りには司書と変換されているようだ。
 師匠よりはいいかな? なんの師匠か聞かれても困るし。
 一緒に教室を出て、自転車を押しながら校門を出る。

「俺の家でやろ」

 そう言った神崎くんは、笑みを引っ込めた。
 まさか、と思って振り返る。
 電柱の影から、こちらをじっと見つめる女子がいた。
 スクールバッグをカゴに入れさせ、走る神崎くんの後を自転車で追いかける。
 距離は詰めてこないけれど、いつもじっと見られるのは落ち着かないよな。




 神崎くんの家に上がり、部屋に通される。
 家具の配置が、前回来た時と変わっていた。というより、学習デスクとベッドが、僕の部屋と同じ場所に移動している。

「模様替えをしたの?」

 昨日別れてから、頑張って動かしたんだろうな。

「したけど、やっぱり戻すよ」
「どうして?」
「夜中にトイレに行きたくて目覚めたんだけどさ、寝ぼけながら歩いてるから、戻ってくる時にベッドに足を引っ掛けてつまずいたんだよね」

 神崎くんは荷物を置きながら、首をすくめる。

「慣れている方が楽。家具を動かしてよかったことなんて、家具の後ろに溜まった埃を掃除できたことくらい」

 僕も慣れている方が楽だから、親が置いた家具を動かしていないだけ。
 同じ気持ちなんだな、と少し浮ついた気持ちになったのはなんでだろう。
 折りたたみテーブルに、数学のワークを広げた。
 シャーペンを走らせる音が、静かな部屋に響く。
 神崎くんの手元に目を向けた。僕と同じシャーペンを使っている。
 首を振って、自分の勉強に集中する。

「うーん……」

 神崎くんから唸り声が聞こえて、視線を上げる。
 頬杖をついて、眉を寄せていた。伏せた目を囲うまつ毛が、フルフルと震えている。

「わからないところあった?」
「ああ、ちょっと」

 腰を浮かせて身を乗りだす。

「こうすればいいんだよ」

 僕が解くと神崎くんは「なるほど」と頷いた。
 同じような隣の問題を一人で解く。

「そうそう!」

 ちょっと教えただけで、すぐに自分のものにしていく。飲み込みが早い。

「師匠って頭いいんだね」
「そうでもないよ。大体平均点くらいだし。神崎くんは?」
「俺もそこそこ。赤点取ったら追試まで部活ができなくなるから、赤点だけは絶対に取らないようにはしてる」

 部活のために勉強を頑張っているのか。
 神崎くんは真剣な瞳で、問題を解いている。もう僕のことは、視界に入っていないみたいだ。
 僕も手元に視線を落とす。
 カリカリと書く音しか聞こえない。
 友達と勉強をすると、ついつい喋ったりゲームをしたりと遊んでしまう。
 でも神崎くんとは無言でも心地よくて、驚くほど勉強が捗った。




 西陽が部屋をオレンジ色に染める。
 時計に目を向けると、すでに一時間半経っていた。

「もうこんな時間なんだね」
「気付かなかった。すげー勉強した」

 神崎くんはグッと伸びをする。

「そろそろ帰るね」

 テーブルの上を片付ける。

「ねぇ、テスト前に勉強してるのに『全然勉強してないわー』って言うのが普通なんだよね?」
「普通かはわからないけど、テスト前の風物詩みたいなものだよね」

 この一週間、学校内で何度か聞くセリフだろう。

「よし! 中間の目標はそれを言うことにしよう」
「テストの点数じゃなくて?」
「ちゃんと勉強してれば赤点は取らないだろうから、それは大丈夫!」

 一風変わった目標にツッコミを入れるが、神崎くんは得意げに笑う。
 やる気満々だし、「頑張って」と告げて家を後にした。




 次の日の昼休み、僕は教室の端で友達とお弁当を食べていた。
 教室の真ん中あたりで友達とお弁当を食べている神崎くんが、こちらをチラチラ見てくる。
 わかりやすい合図を送ってくるな、と苦笑して、頑張れと込めて頷いた。
 神崎くんが咳払いをする。

「……全然勉強してないわー」

 その言葉に、ガタリとイスを鳴らして数人の女子が立ち上がり、神崎くんに詰め寄った。

「英語なら任せて。私は一歳までアメリカに住んでいた、帰国子女だから」
「私は数学。円周率を百桁暗記しているわ」
「私は古文は常にトップ。前世は平安時代の女流作家だったような気がするの」
「私は日本語ならネイティブよ」

 得意科目だけで、微妙な付加情報はいらないんじゃないだろうか。
 最後の人なんて、得意科目がないのなら、名乗りでなくてもいいのに。
 日本語なら、神崎くんだってネイティブだよ。
 圧がすごくて、神崎くんは隣で食べている友達に体を寄せた。
 モヤっとしたものが胸に広がる。首を傾げてさすった。
 なんだろう? お弁当は胸焼けするほど重くないし。
 神崎くんは、放課後にみんなで勉強をする約束をさせられていた。
 こちらを振り返って、雨に濡れたマルのような顔をしてくる。
 助けを求められても、これはどうしようもない。

『僕も付き合うよ』

 そうメッセージを送る。
 神崎くんは胸を撫で下ろして、安心しきった顔になった。その顔を見たらなぜかモヤモヤはスッキリ消えて、軽やかになった。




 テスト期間の放課後の教室は、いつもなら残る生徒なんて少ない。今日はほぼ全員が残っている。
 理由なんてわかりきっている。『神崎十和・中間テスト特別対策合宿』が始まったからだ。
 神崎くんと一緒に勉強がしたい。それにあやかりたい。思惑はそれぞれだろうが、普通の授業とあまり変わらない。
 教壇に立つのが教師ではなく、自称前世が平安時代の女流作家だということを除けば。
 神崎くんの席を挟んで、マンツーマンで教える気満々だった女流作家。期待に沿わないこの状況がよっぽど悔しかったのか、かなりのスパルタだった。
 女流作家は黒板に大きく『をかし』と書く。彼女が黒板を叩くと、ピンと空気が張り詰めた。全員が居住まいを正す。

「この『をかし』は、現代で言えば『エモい』に近いです。神崎くんが部活で汗を滴らせながら、ゴールを睨みつける様。これこそが『をかし』です。趣があって、とっても素晴らしいですね」

 女流作家が教室に目を走らせる。
 いい例文だ、とでもいうように、大勢のクラスメイトが大きく頷いていた。
 さらに『あはれ』と書く。情趣がある、と添えられた。

「その後、神崎くんがシュートを決めた時の、全てのものを浄化するような溢れんばかりの笑顔。これこそがあはれの極致!」

 女流作家の解説は主観にまみれているが、クラスメイトはその例文で、この言葉を生涯忘れることはないだろう。
 神崎くんを盗み見る。
 キョトンとした瞳が、いとをかし。




 翌水曜日は円周率暗記女子による数学。その次の木曜日は帰国子女による英語をクラス一丸となって学んで、合宿は幕を閉じた。
 金曜日の放課後、僕は神崎くんの部屋に来ていた。始めて訪れた時のように、家具は配置し直されている。

「勉強会も楽しかったね」

 先生とは違い、クラスメイトの授業は個性的で覚えやすかった。

「俺は自分が例文にされるの、むず痒かった」
「そうかもね。でも、おかげでみんなはテストで出たら、絶対に正解できると思うよ。忘れられないもん」
「師匠も?」
「うん、僕もだよ」
「そっか。それならいいや」

 神崎くんは魔性を感じさせる笑みを浮かべる。顔に熱が集まった。
 いとあはれなり。すぐに言葉が出てきた。
 下を向いて、化学の教科書を読み込んでいく。
 みんなで勉強も楽しいけれど、神崎くんとの静かな時間がすごく居心地がいい。
 この日も陽が傾くまで勉強をして、家に帰った。




 土日は一人で勉強をした。
 息抜きのために、マルを連れて散歩に出かける。

「今日は少し遠くまで、散歩に行こうか」

 マルは「ワン」と吠えた。伝わったのだろうか。尻尾が暴れ回っている。
 外に出ると、眩しい西陽に目を細めながら、のんびり歩く。

「はあー、明日はテストか」

 ため息が漏れる。
 しばらく歩いていると、マルが突然走り出した。油断していて、僕は一足遅れる。リードが限界まで伸びた。

「待って、止まって」

 マルは公園のフェンスに向かって尻尾をブンブン振り回した。
 ダンダンとフェンスの向こうから音が響いている。そちらに目を向けた。
 バスケットゴールに向かって、神崎くんがシュートを放つ。放物線を描いて、ゴールに吸い込まれるようにボールはスッと落ちた。
 すぐにボールを取りに行き、ドリブルしてまたシュート。
 汗が垂れて息は上がっているのに、神崎くんはそれを何度も繰り返している。
 見た目がかっこいいだけじゃないんだよな。
 ちょっと変わっているところもあるけれど、優しいし素直だし一生懸命だし。
 真剣にバスケに打ち込む姿を、時が止まったようにしばらく眺めた。
 神崎くんが息を整えるように、その場でドリブルをする。
 ハッと我に返り、マルを抱える。

「邪魔しちゃ悪いし、帰ろうか」

 小さな声で言い聞かせる。
 マルから神崎くんに視線を移すと、Tシャツの裾を捲り上げて、顔の汗を拭いていた。
 腹筋の凹凸が目に焼き付く。
 ……無意識に学校でもやってるんだろうな。ギャラリーのボルテージは最高潮だろう。
 タオルで拭くように勧めなきゃ。
 マルを連れて家に戻る。
 自室に入って、服の裾を上げた。ペタンコのお腹を見て、神崎くんとの違いに肩を落とす。
 鍛えてないから当然なんだけど、あの腹筋は憧れる。
 寝る前にプランクをしてみたけれど、ずっとプルプルしているのに、マルが胸の下に潜り込んできた。新しい遊びだとでも思っているのだろう。
 力尽きたらマルを潰してしまう。その緊張感があったおかげか、耐えられた。




 無事にテストを終えて、一週間後に結果が返ってきた。
 神崎くんと見せ合う。

「神崎くんは勉強もできるんだね」

 赤点を取りたくない、と言っていたのに、全て平均点より高かった。

「今回はいつもよりできた。きっと師匠と一緒に勉強したからだね」

 神崎くんが艶やかに目を細める。
 勘違いさせるようなセリフに、無表情を貫こうと試みても、口元がむずむず動いてしまう。
 なんでこんなに浮き足立ってしまうのだろうか。
 ソワソワしながら視線を走らせると、自分のリュックが目についた。引き寄せてファスナーを開ける。

「あのさ、これ使って」

 簡素なラッピング袋を渡す。

「俺は早生まれだから、誕生日はまだまだ先だけど?」

 神崎くんは首を捻りながら受け取る。

「誕生日プレゼントとかじゃなくて、神崎くんに使って欲しくて。高いものでもないし」

 神崎くんは袋を開ける。中身は無地のスポーツタオルだ。
 肌を晒させないために。……年頃の娘を持った父親みたいだな、と苦笑する。

「本当になにもない日なのに、もらっていいの?」
「うん、部活で絶対に使って欲しい」

 絶対に、を強調する。無意識に服を捲りそうだから。

「ありがとう。すげー頑張れそう。ボロボロになっても使う!」
「ボロボロになったら、捨てようよ」

 そこまで使ってもらえたら、タオルも本望だろう。

「師匠は? なんか欲しいものないの?」
「僕はいいよ。カレーパンのストラップをもらったし」
「あれは交換だろ」
「でも、僕が欲しかったものだから」

 神崎くんは口を尖らせて、不満を表している。
 その顔がなんだか可愛らしいな、と思ってしまった。
 ん? 可愛い? 神崎くんが?
 神崎くんを見つめる。彼は視線が交わると目を瞬かせた。
 くっきりとした二重の瞳に形のいい眉、スッと通った鼻筋とシャープなフェイスライン。三百六十度死角なし。どの角度から見ても、可愛いよりかっこいい顔立ちだ。
 なんで可愛いと思ったんだろ?




 木曜日の放課後、いつものように神崎くんが「一緒に帰ろう」と誘ってくれる。

「ごめんね。今日は髪を切りにいくんだ」

 髪が耳にかかると、そろそろ切らなきゃなと思う。
 神崎くんが目をキラッキラに輝かせ、興味を示した。

「どこで切ってんの?」
「普通に千円カットのお店だよ」
「へー、普通なのか」

 頬骨も上がる。
 無意識に神崎くんを夢中にさせるワードを口にしてしまった。

「俺も行きたい! 普通のところで髪を切りたい」
「シャンプーとかないよ? 本当に切るだけなんだよ? いいの?」
「全然いいよ」

 ノリノリの神崎くんと、髪を切りに行くことが決まった。




 お店に着くと、すぐに案内される。

「どうしますか?」
「後ろを刈り上げて、全体的に短くしてください」
「わかりました」

 隣の神崎くんも「今のまま短くする感じでお願いします」と告げた。
 バリカンで襟足を刈られる。これはこそばゆくて、口がムニムニと動いてしまう。手際よくハサミでカットされ、あっという間に終わった。
 お店を出ると「早いな」と神崎くんは感心していた。

「どう? 俺は普通になった?」
「うーん……。かっこいいよ」

 髪型を変えたり、劇的に短くなったわけじゃないから、普段とあまり変わらない。

「そっか。師匠は短いの似合うな。この手触りはクセになる」

 刈り上げた襟足を下から上に撫でられる。

「ひゃっ!」

 体が跳ね、甲高い声が出て驚く。慌てて口を塞いだ。
 神崎くんは目を瞬かせ、僕の後頭部を触った手のひらをじっと見つめていた。
 恥ずかしすぎる。




 翌日、神崎くんが髪を切った、ということが学校中に広まった。少ししか切っていないのによくわかるな、と目を見張る。

「全人類への慈善事業!」
「美の供給過多で、三日三晩活動できる!」
「神崎くんの後頭部の丸みが愛おしすぎる!」

 相変わらず神崎くんへの評価が、みんな独特だ。




 六月になって梅雨入りしたせいか、雨の日が続く。
 朝起きると、ザーザーと雨の音が聞こえるほどだった。
 カーテンを開けて外に目を向けると、分厚い雲で覆われた空から、叩きつけるような雨が降っていた。
 扉が開いて、そちらに顔を向ける。

「仕事に向かうから、今から出るなら送って行くけど、どうする?」

 自転車で行く気になれなくて、急いで支度をした。
 母さんの運転で、学校に向かう。

「帰りはバスで帰ってきなさいよ」
「わかったよ」

 今日は月曜日。図書委員の日だ。その頃には止んでいるといいな。




 放課後は図書室のカウンターに座り、本を読みながら過ごす。
 閉館時間になり、戸締りの確認をして鍵をかけた。それを職員室に返却して、靴を履き替える。
 神崎くんの靴箱に、目が吸い寄せられた。まだ靴がある。バスケ部は練習中なのだろう。
 空気はどんよりしていて、鈍色の空が広がっている。
 でも雨は止んでいて、水たまりを避けつつ歩き始めた。
 校門を出てバス停に向かっていると、隣にピッタリと並ばれた。歩調も合わせられる。
 知り合いかとそちらに目を向けた。相手は僕のことをじっと見上げている。視線が交わると、口角がゆっくり釣り上がった。
 ……この子、神崎くんをつけている子だ。
 背中を冷や汗が伝う。自分の心音が、ドッドッと響き渡った。
 今まで神崎くんのことを見ているだけだったのに、なんで僕の隣を歩いているんだろう。
 えも言われぬ恐怖が込み上げる。
 歩速を下げるけれど、彼女も同じようにゆったりと足を進める。

「ねぇ」

 話しかけられて、緊張は最高潮に達した。心臓が胸を突き破るかと思った。バクバクとうるさい胸を押さえる。
 返事をした方がいいのだろうか。
 黙ったままの僕を気にした様子もなく、彼女は再び口を開いた。

「いいなぁ、至近距離で神崎くんの生存を確認できるなんて。前世でどんな徳を積んだの? ってか、バスケしてる姿、最高じゃない? プレイ中の真剣な瞳に射抜かれる、バスケットゴールになりたくならない? 私はなりたい。水を飲む時に喉仏が上下運動するでしょ。あれは芸術よね。美術館に展示するべき!」

 急に早口で神崎くんへの想いを捲し立てられ、僕は曖昧に笑って手のひらに滲む汗をズボンで拭った。
 またまた口を開くと、神崎くんについてのマシンガントークが始まる。
 僕は刺激しないように、微かに相槌を打つに留めた。

「ずっと知りたかったことがあるんだけど、神崎くんはどんな朝食を食べているの?」

 ずっと知りたかったことがそんなこと?
 彼女の目はずっと僕を捉えている。逃がさない、とでもいうように。

「ごめん、わからない。朝ごはんを一緒に食べたことがないから」
「それなら、あなたしか知らない神崎くんを教えてよ。なんでも知りたいの」
「……僕を排除したいんじゃないの?」

 最近よく一緒にいるから、目をつけられたのかと思った。
 彼女はキョトンとして首を傾ける。

「排除? 私は同担拒否なんてしないわ。むしろ歓迎! 語り合いたいの。ねぇ、教えてよ」

 詰め寄られて、背を反らす。
 腕を思いっきり後ろから引っ張られた。彼女と距離が空き、間に誰かが割って入る。

「……俺のことは見ててもいいけど、師匠はやめて」

 神崎くんが僕を隠すように、両手を広げている。微かに体が震えていた。
 僕を庇ってくれたんだ。
 ホッとして肩の力が抜けるけれど、奥歯を噛み締めて神崎くんの前に立つ。

「師匠?」

 戸惑いに揺れる声で呼ばれた。

「あのね、神崎くんをつけるのやめて。僕でよければ話は聞くし」
「なに言ってんの?」

 神崎くんの硬い声に振り返る。

「彼女も悪気はなかったと思うんだ。ちょっといきすぎちゃっただけで。ちゃんとわかってくれると思うよ」

 彼女は口元を押さえて、俯く。
 泣かれてしまうだろうか、と不安に思っていると、彼女はキラキラと輝かせた顔を上げた。
 僕と神崎くんは顔を引きつらせて、一歩下がる。

「わかったわ。つけることはしない。ごめんなさい。同担として、遠くから見守るに留めるわ」

 手を合わせて拝まれた。
 怖いストーカーではなく、ルールの守れないオタクだった。でもこれで、神崎くんが後ろを気にすることがなくなればいい。

「あっ、神崎くんって朝ごはんはなにを食べた?」
「朝ごはん?」

 僕の言葉に、神崎くんは怪訝な顔をする。
 彼女はワクワクと神崎くんの口元を見つめていた。

「教えたら満足してくれるはずだから」

 神崎くんは顎に手を添えて、思い出そうと宙を睨む。

「えー、……納豆ご飯と味噌汁と卵焼きに切り干し大根」

 朝は和食なんだ。
 朝ごはんをずっと知りたかったと聞いた時は意味がわからなかったけれど、自分の知らない神崎くんのことを知って、僕も少しだけ嬉しい気持ちがわかった。
 彼女は「これでごはん一升食べられる!」とまた拝み、スキップをしながら離れていった。
 僕たちは彼女が見えなくなると、ふぅーと息を吐き出して肩の力を抜く。

「師匠、なにもされてない?」
「うん、あの子は大丈夫だよ」

 明日からは、ルールを守るオタクになっているはず。

「つけるのやめる約束はできたけどさ、自分を犠牲にするようなことは言わないでよ」
「……師匠があの子と一緒にいるのを見て、すげー怖かったんだ。無意識に出た言葉だった」
「もうやめてよ。僕も神崎くんになにかあったらって思うと、怖いよ」

 自分の気持ちを告げると、神崎くんは「ごめん」と漏らす。
 ゆっくりと足を進めた。

「部活が終わって昇降口で師匠の靴がまだあったからさ、一緒に帰れるかと思って図書室に行ったんだ。でも鍵が閉まってた」
「職員室に鍵を返しにいっている時だったんだね」
「師匠は自転車だし、追いつけないだろうから一人で帰ろうと思ったんだけど、師匠たち見つけて頭が真っ白になった」
「今日は雨がすごかったから、送ってもらったんだ。バス停に向かっていたら話しかけられて……」

 ハラハラしすぎて忘れていたけれど、神崎くんはずっと師匠って呼んでいたな。
 明日なんの師匠か、色んな人に聞かれるのではないかと憂鬱になる。
 隣に目を向けた。
 神崎くんの問題が解決したのだから瑣末なことか、と自分を納得させる。




 家に帰って夕飯とお風呂を済ませると、ベッドにダイブした。寝返りを打って、天井を見上げる。
 帰りのことを思い浮かべた。
 怖かったことよりも、僕を庇って前に出た神崎くんの背中ばかりが浮かぶ。

「かっこよかったよなー」

 神崎くんの方が怖い思いをしていたはずなのに。
 顔に熱が集まってくる。
 これは、もう誤魔化すことができない。

「好きになっちゃうよ」

 枕を抱えてのたうつ。

「今ごろ神崎くんは、なにをしているんだろう」

 好きだと気付いた途端、神崎くんが気になって仕方がない。
 メッセージを送ってみよう、とスマホに手を伸ばした。
 送る内容を考えていると、なにかが引っかかって動きを止める。
 額に手を当てて、記憶を遡った。
 神崎くんと百円ショップに行ったところが浮かぶと、顔から血の気が引いて行く。

『俺のこと好きだってグイグイ来られるのが怖いだけだから』

 神崎くんは確かにそう言っていた。

「え? これ、詰んでる?」

 スマホが手から滑り、ベッドにボフッと音を立てて落ちた。