大学の図書館の一角で、目当ての教育委員会のサイトをリロードして、一次試験の受験番号を探す。ゆっくりと目を動かして、日和はほっと表情を緩めた。
受けた試験は、これでふたつとも無事に通過したことになる。安堵しているのに、どこかで素直に喜び切れない。その原因を重々承知している日和は、頭を抱えて机に突っ伏した。
落ちたのか、あいつ、という同情の視線が斜め前から送られてきたが、もうなんでもいい。
――あれだけ水原に言われたのに、俺、結局、真木さんに一度も言ってない。
相談というかたちを取れた時期は、もう過ぎ去っている。いや、でも、と思う。真木さんも、俺になにも聞かなかったしなぁ。
ぐしゃと髪を掻き混ぜて、日和はのろのろと頭を上げた。聞かないということは興味がないということなのかもしれない、なんて。浮かんだマイナス思考をどうにか振り切る。ここまできたら、試験対策あるのみだ。
二次でどちらも落ちた日には、目も当てられないだろう。そう言い聞かせてペンを握る。
――親には、言えたのにな。
地元も受けるけど、こっちも受ける。どっちも受かったら、地元には帰らないと思う。どこを受けるつもりなんだと聞かれたとき、日和はそう伝えた。父も母も残念そうな表情は見せたけれど、日和自身が決めたことならと反対はしなかった。
おまえの人生だから、とも言われた。そうだと思う。それなのに。
知らず溜息がこぼれ落ちていく。いつまでも悩んでいることはできないとわかっているのに、どうにも勇気が出なかった。
「そういえば、そろそろ一次の合格発表だったんじゃないの」
不意にそう問われて、日和は固まった。大学の定期試験が終わった、八月の頭である。試験は終わったとばかりに真木の家に一週間ぶりに顔を出したのが、つい三十分前のこと。
蒸し暑い夏の夜道をふらふらと自転車でやってきて、水を飲んでようやく人心地ついたところに飛んできたそれに、嫌な汗がにじむ。
開け放たれた窓からは、よくわからない虫の声が響いていて、なんだかいやにのどかだ。現実逃避のような思考を脇に置いて、ぎこちなく日和は頷いた。
「あ、はい。一応、受かりました。おかげさまで」
「おかげさまって、なにもしてないけど」
また真木の視線がパソコンに落ちる。キャンプの準備で通常の仕事が圧迫されているのか、暑さが増してきたころから真木は一段と忙しそうだ。
――手伝えるなら手伝いたいけど。そもそも、俺、今年はキャンプにも行けないしな……。
二次試験の日程と被りそうだと申告した瞬間に、来るなと留守番を命じられている。
「いや、あの。真木さんの家でもやらせてもらったんで。ひとりより集中できたし」
「雑音あるほうが集中できるタイプ?」
「そうかも。あの、それで」
「ん?」
「地元と、ここも、受かりました」
キーボードを打っていた音が止まる。
「日和、地元を専願で受けてたんじゃなかったのか」
非難されていると感じるのは、自分の心の持ちようの問題なのだろうか。つい「併願の子も多いし」と言い訳を口にする。その答えに、真木はひとまず納得したようだった。
「併願できる日程だったら、そんなもんか」
「え、……と。まぁ、そんな感じで」
「それで? どっちも受かったら、どうするの」
じっと見つめてくる視線に耐えかねて、手のひらをぎゅっと握り込む。
「こっちに残ろうかなって思ってます、けど」
なにを言われるだろうかと心臓が脈打つ。けれど、真木は静かに瞬いただけだった。ふっと視線が手元に落ちて、またすぐこちらに戻ってくる。
「日和は」
「……はい」
「なんで、教師になろうと思ったんだっけ」
説教されているようで胃が痛い。恋人ではなく、保護者の声。とは言え、ここで逆切れをしても、きっと話は進まない。そう観念して、日和は口を開いた。
「身近な家族がみんな教師なんで、漠然と俺もなるんだろうなとは思ってましたけど」
「うん」
「主体的になりたいって考え始めたのは、つぼみで真木さんやみんなと関わるようになってからで」
子どもたちとしっかり向き合い成長させていく真木の姿に、こんな先生になりたいと夢見ていた幼少期を思い出した、ということでもあった。恵麻や雪人、凛音たちと接する中で、子どもたちと関わる仕事の意義や熱量を体感できたから、ということでもあった。
すべて、この場所で、この人たちと出逢って、与えられたものだ。
「だから、場所はどこでもよくて。むしろ、つぼみのあるここがいいと思って」
なにひとつ嘘は言っていないはずなのに、練り上げた志望動機は、なぜかやたらとたどたどしい。真木が相手だから、過剰に緊張しているのだろうか。
余計な口を挟むことなく話を聞いていた真木が、そこでようやく反応を示した。
「そう」
良いも悪いもない、ただの相槌。
まただ、と思った。怒りたいのか、泣きたいのかもわからないまま。この人は、またこうしてなにも言ってくれないのか。その事実は、反対されるよりもずっと堪える気がした。覚えた痛みを誤魔化すように、日和は問いかける。
「真木さんは、どうしてつぼみで働こうと思ったんですか。教免も取ったんですよね」
「俺?」
そう応じた真木の声はわずかに億劫そうだった。あれ、と思う間もなく、彼の視線が手元に落ちる。
「教免取ったのは、優海さんが取れるものは取っておけって引かなかったから、しかたなく取っただけ」
「優海さんが……」
「つぼみが嫌になったときに、逃げ道がないとやばいって思ってくれたんだろ。でも、俺は公教育そのものがあまり好きじゃなくて」
大学も教育学部だったけど学科は心理だったし。学校の先生になるつもりなんて、いっさいなかったんだよ。でも、心理は大学を出ただけじゃ資格すら取れないしね。
淡々とした説明に、どう言えばいいのかわからないまま小さく頷く。もう一年以上一緒にいたのに、こういったことを聞くこともはじめてだった。
「俺は日和みたいないい子じゃなかったから。画一的な教育と反りが合わなかったクチなの。学校っていう箱が苦手だった。……まぁ、だから、同じように感じる子どもたちの受け皿をつくりたかったのかもしれない」
それは、この人の言う「普通」の枠組みから、彼自身が外れていたからなのだろうか。
「なんてことも、最初は考えてたんだけど」
ふっと日和を見ようともしない横顔が笑う。
「いざ関わってみたら、かわいくて、かわいくて。その子たちが出て行っても、またべつの子たちが入ってくるし。その子たちもまたかわいくて。この子たちが過ごしやすい場所をって。そう思ってやってるうちに、ここまで来ちゃったんだよね。ただそれだけ」
「そうなんですか」
なんだかそれは、いかにも日和の知る真木らしい理由だった。そうやって、この人はつぼみに来る子どもたちをずっと大切にしてきたのだろう。
「それで、俺も正規スタッフになって、今年で四年目。関わり出してからなら、八年目になるんだけど」
「そんなに」
「そう。そんなに。それでも、優海さんにはよく怒られる」
あの人には敵う気がしないんだよなぁ、というのは、いつだったか羽山が言っていた台詞だ。
自分が真木に影響を受けたように、真木も彼女に影響を受けて道を決めたのだろうか。容易いはずの想像は、けれど、うまくできなかった。
「子どもたちの今に寄り添うのもいいけど、それだけじゃなく、もっと将来に向けても考えてやれって」
将来。たとえば、紺が、通信制ではない全日の公立高校に進学し、休まず通学を続けていること。恵麻と雪人が、通信制の学校で、レポートの提出に追われながらもがんばっていること。香穂子が、ちゃんと三月いっぱいでつぼみを卒業したこと。
たとえば、俺が――学生でなくなること。
ようやく真木の視線が日和のほうを向く。その瞳はどこまでも静かだった。
「それで、俺は、ついでに日和の将来も考えてみたんだけど。おまえ、いつまでもこんなことしてていいの」
こんなこと。こんなことってなんだ。その言い草に、身体の芯が冷えた気がした。
自分が好かれているのかわからなくて、不安で。でも、それ以上に傍にいたくて、いつか不安がなくなればいいと願って。けれど、たとえ不安があっても、隣にいれば、ただ幸せで。だから、ずっとこうしていたいと思っていた。
その時間が「こんなこと」なのか。絞り出した声はかすかに震えていた。
「なに言ってるんですか、俺は……」
「だから。いつまでも子どもみたいなことを言うなって言ってるんだ。おまえも、ちょうど今が将来を見据える良いタイミングだろ」
「子どもでいろって言ったのは、あんただろ」
八つ当たりのような、あるいは、駄々のようなそれを、あっさりと真木は笑い飛ばした。
「もう少しって言っただろ。いつまでもそのままでいられないことくらい、誰だってわかる」
春になる、ほんの少し前のことだ。もめごとに巻き込まれるなんて絶対に嫌だし、自分が首を突っ込んだほうが面倒になるとわかっていたのに、この人がいたから無視できなくて踏み出したことがある。そのときに、たしかに言われた。
あのときから、この人には終わりが見えていたのだろうか。日和が悩みながらも進めてきた日々は、終わりへのカウントダウンと大差なかったのだろうか。
暑いくらいだったはずなのに、いつのまにか指先は冷たくて、隠すように握りしめた。
「それで、その期限がきたってだけの話だ。さっきも言ったけど、ちょうどいい区切りだろ。おまえは地元に帰る。教師になる。まぁ、良い教師になると思うよ、おまえは。その顔があったら、母親受けも良さそうだしな」
日和が嫌がると知っていて、さらりと容貌を揶揄してみせる。この人の拒絶は、本当にどこまでも受動的だ。ずるい。日和が主体的に嫌いになればいいと思っている。見切りをつければいいと勝手に考えている。
「俺はここにいる。今までどおり」
「真木さん」
「おまえは、ちゃんと先に進めばいい」
「……真木さん」
意識すらできないまま、祈るような声になっていた。届いてほしい。知ってほしい。認めてほしい。思えば、もうずっと、自分はそんなことばかりを願っている。
「好きです」
一度も好きだと言ってもらったことがない。たったの一度も。そう理解してなお、諦め切れなかったことと、きっと同じで。
「俺は好きです」
藍色のカーテンが、かすかに風に揺れていた。夏の夜の音がする。その動きを追うように、真木の視線が逸れる。返ってきたのは、溜息まじりの声だった。
「もう、何回も聞いたよ、それは。一生分、聞いた。この一年で。だから、もういい」
「っ、なんで」
「おまえのそれは『恋』でもなんでもないから忘れろって、また言われたいのか」
唇を噛みしめる。泣き落とすわけにはいかないと思ったのだ。同情をされたいわけではない。けれど、このまま流されたくもなかった。
それとも、いっそ、すべてをなかったことにしたほうが幸せなのだろうか。この人の言うとおり。脳裏を掠めた囁きに、日和は視線をテーブルに落とした。
今まで一度も考えなかったと言えば、きっとそれは嘘になる。
姉に、あるいは母に。付き合っている人がいるなら連れて帰ってきたらと言われても、曖昧に濁すことしかできなかったとき。付き合っている誰かが女性であるという前提を強要されていると感じてしまったとき。
水原が、当然のように付き合い出した彼女の写真を見せてきたとき。おまえもいいかげんに見せろよと強請られても、断る以外に道がなかったとき。
けれど、それでも、捨てられなかった。楽かもしれないと考えたことはあっても、その天秤にかけて捨てようと思ったことは一度もない。ゆっくりと顔を上げる。
「俺は……」
言いたいことが身体中を巡っているみたいで、なにを言えばいいのかわからなくなった。俺は。あなたは。
急かすこともなく、真木はただ日和を見ている。ただ、静かに。つぼみにいるときと、変わらないそれで。
――嘘なんて。
嘘なんて吐きませんという顔で、平然と嘘を吐く。子どもたちはなにをしても守るくせに、俺のことは平然と傷つける。それでも、好きだった。気づいたときには、手放せなくなっていた。
なにがよかったのかと問われても、思いつくものは、すべて後付けの理由になってしまう。
優しいところ、だとか。仕事に熱心なところ、だとか。なんでもできるように見えて、自分のことには死ぬほど鈍感そうなところ、だとか。いくらでもある。けれど、気がつけば視線で追って、隣にいたいと願うようになった。それが、すべてだ。
隣にいたい。できれば、これからも、ずっと。優しくされたくないわけではない。でも、それ以上に優しくしたい。せめて、俺だけでも誠実でいたい。
この気持ちが恋ではなかったら、なんだというのだ。
「真木さんに、否定されるようなものじゃない」
否定されたからといって、変わるものでもない。これは俺の感情だ。この人と出逢って、ずっとずっと育ててきた俺の感情。
「なかったことにしようとしても、俺は……、俺の気持ちは、変わらないし。ずっと好きだし、今までだって、好きだったし」
一度も視線を外さないまま言い切って、その先も続けた。ほんの少し、迷ったけれど。
「真木さんだって、そうじゃないんですか」
でも、きっと、そうだと日和は思う。そうでなければ、この人が、一時でも受け入れるはずがない。
それに、もし。もし、本当にその気がなかったら、もっと上手に振っていたはずだ。一番、最初に。深入りする前に。もっと、早く。
「おまえさ、実際、この半年か。どうだった? 少しも後悔しなかった? 誰にも言えない、女の子とやってたみたいな普通のこともできない、親兄弟にも言えない。楽しいか」
日和の問いの答えだとは到底思えない台詞を、淡々と真木が口にする。
「一時だったら、その秘匿感も刺激になるのかもしれないけどな。延々と続くとなったら、また違うだろ」
それこそ、そういう問題じゃないと言いたかった。そうじゃない。男同士だからどうだという話をしていたのではない。日和と真木の話を、ずっとしていたつもりだ。つもりだった。
「あなたの隣はあたたかいのに、寂しい」
ぽつりとこぼれたそれは、ほとんど無意識だった。驚いたように、真木が日和を見る。ずっと視線は合っていたはずなのに、ようやく目が合った気がした。
「俺の好きばかりがあふれ返っていて、ずっと不安だった」
「……嫌いだった、わけじゃないよ」
声に感情が混ざったと思ったら、これだ。泣き笑いのような微笑が唇に張り付く。日和を見つめたまま、真木が繰り返した。
「嫌いだった、わけじゃない」
それなら好きだと言ってほしかった。その言葉があったら、寂しくなんてないのに。寒くなんてないのに。
「さっきの質問ですけど」
頭はごちゃごちゃだったけれど、ひどいことを言いたくはなくて。努めて小さく息を吐く。そうしてから、日和はゆっくりと切り出した。
「俺は、あなたとの付き合いに、女の子としてきたような付き合いを求めたつもりはいっさいないし、秘密の恋愛に酔ってたつもりもない。ただ、一緒にいたくて、好きだから傍にいたくて。それだけで」
この家で夜を過ごすことが好きだった。直接的な触れ合いがなくても構わなかった。自分は問題集を開いて、この人はずっと仕事をしていても。それでも幸せだった。
同じ夜を共有できるだけで、本当に十分だったのだ。俺はなにも必要以上に求めていないつもりだ。けれど、そのささやかな幸せも、この人は過分だと言うのだろうか。
「べつに、みんなから祝福されたいとも思ってないし。あなたが許してくれるなら、それで」
よかった。好きだったから。好きだから。ほかのなにがなくても、それだけで。自分の想いをしっかりと伝えることができているのかもわからないまま、一息に振り絞る。
「それで、よかったんです」
沈黙が苦しかった。虫の細い声と、通りを行く人の笑い声がかすかに響いて、また遠くなる。心臓の音さえ聞こえそうな夜の中、吐息のような声が笑った。
「本当に、おまえは馬鹿だな」
いつもの軽口のはずなのに、泣いているように聞こえて、下がりかけていた視線が止まる。
「今なら、離してやるつもりだったのに」
「え……」
「俺がどれだけ必死で、大人として振る舞ってやってたと思ってんだ」
瞳を瞬かせた日和に、目を伏せたまま真木が苦笑をこぼした。
「たかだが数年先に生まれただけで、そんなに立派な人間なわけがないだろ。それなのに、会ったころからずっとおまえが過大評価してくるから」
「そんなこと……」
「あるんだよ。今は、おまえは学生だから、俺がすごいふうに見えてるのかもしれないけど。働き出したら、こんなものだったのかって思うようになるよ。わかるようになる」
俺が教師になって。この人がつぼみで働いたのと同じだけの経験を積めば、この人に追いつくことができるのだろうか。日和にはわからない。わからないけれど、もし、この人が、俺が追いついたと感じてくれる日が来たとしたら。
「そうなったら、俺に甘えてくれますか」
そうなれば、世界は変わるのだろうか。この人との付き合い方は変わるのだろうか。わからない可能性に縋りつくことの無意味さも理解しているのに、言葉が止まらなかった。
「俺に本心で向き合ってくれますか」
いつだって日和が聞きたいのは、それだけだった。握った拳の中で指先が震える。再び生じた沈黙のあとで、真木が口を開いた。
「自分で言うのもなんだけど。面倒だと思うよ、俺」
自嘲を多分に含んだ声に、知ってます、と応じる。
以前、似たようなことを羽山も言っていた。泣かせないと思うけど、泣かせるなよ。そうも言われた。
「よく言われるんだけど、誠実でもなんでもないし」
「誠実だから、好きになったわけじゃないですよ」
だからと言って、誠実でないとも思わないけれど。
「どちらかと言わなくても、臆病だと思うし。諦めも早いしな」
「はい」
「未来のある誰かを自分の傍に引き留めておくのは、怖いと思うし」
真木の口から怖いという言葉を聞いたのは、はじめてだった。
「それが幸せになってほしい誰かなら、なおさら」
「幸せ……」
「いつか、見切りをつけられることも怖いと思うし」
なんで、この人は過分を求めないのだろう。ずっと、日和は不思議に思っていた。なんで、そんなふうに、すべてを諦めた顔で、すべてを失うことが前提の顔で笑うのだろう、と。
「真木さん」
呼びかけに、伏せていた視線が上がる。机上に置かれていた真木の手に、そっと日和は手を伸ばした。夏なのに、冷たかった。自分と同じ。
「身近な約束を積み重ねさせてください」
笑えているかどうかの自信はなかった。できるだけ重くならない調子で言い募る。
「明日の朝、一緒に起きるでしょ。たまにはしっかり朝も食べて、良い天気だったら、どこかに出かけてもいい」
「どうすんだよ、勉強は」
「昼間やらなかったら、夜にやります。大切な人のために多少の時間を割いても、落ちません」
歯の浮くような台詞だと自分でも思った。でも、すべて事実なのだ。この人と会う前の自分には、信じられないことだろうけれど。
誠実にありたいと思っていることも、流されることなく自分の意志で未来を決めたいと思っていることも、自分以上に大切な誰かができることも、ぜんぶ。
かつて面倒だと切って捨てたすべてが、なんだか無性に愛おしかった。
「採用試験は受かるようにがんばります。ここに」
それが絶対に正しい選択なのかはわからないけれど、今の日和にとって一番重要だったのは、真木の傍にいることだったのだ。この人の傍で仕事をして、生きていきたい。
「四月からも、またこうして俺と時間を過ごしてください。最初のうちは、へろへろになってるかもしれないし、文字どおりこの部屋で寝るだけになってるかもしれないけど」
「……それはちょっと想像がつくな」
ほんの少し応じる声が和らいで、指先からじんわりとした熱が伝わる。目の奥が熱くなりそうになって、誤魔化すようにぎゅっと指先に力を強めた。
「そうやってるうちに、俺が隣にいるのが、きっとあたりまえになるから」
伝わってほしくて、ただ必死だった。いつか、そうやって信じてもらえるようになりたい、と。切実に願っている。
「ずっと傍にいるって、思えるようになる」
「それって、恋か?」
呆れたふうでしかない言い方だったのに、少しほっとしてしまった。いつもの真木だ。
いつもどおりでなくていいし、弱いところも見せてほしいと本当に思っているけれど、それはそれというやつなのかもしれない。力の抜けた気分で、へにゃりとほほえむ。
「恋でしょ。少なくとも、俺はそのつもりですけど、もうずっと」
おまえのそれは恋じゃない、と。何度否定されたかわからない。それでも、俺は、刷り込みでもなんでもなく恋だと思うし、この人もそうだと思っている。
「というか、さっきも言いましたけど。真木さんも、ちゃんと俺のこと好きでしょう」
強がって断定したくせに、緊張で今にも声は震えそうだった。
数秒待っても、違うという答えは返ってこなかった。その代わりのように、真木の視線が伏せられる。うつむき加減の表情は、日和からはよく見えなかった。
それでもじっと見つめていると、会ったばかりのころに聞いた恵麻の声をなぜか思い出した。全幅の信頼を置いているのだとすぐにわかった、甘えを含んだ調子。
――まきちゃんは、嘘は吐かない、か。
たしかに、俺のことを嫌いだって言ったことは一度もないんだよな、この人。
気づいてしまえば、馬鹿だな、としか思えなかった。不器用で、そのくせ、変に頑なで。まっすぐで。弱いのに、強い。嫌になるほどに。
「だって、俺のこと好きじゃなかったら、こんなことになってないでしょ」
「こんなことって、おまえね」
「嫌味です。言葉尻に引っかかるくらいなら、最初から真木さんも言わないでください」
「……なんか急に図太くなったな、おまえ」
憮然とした声に、つい笑ってしまった。
「開き直ったんです。それに」
「それに?」
「俺が振られても泣かないようになったら弱音も吐いてくれるって、そう言ったでしょ」
いつか。泣きながら縋りついた瞬間が、笑い話になる日まで。自分は絶対に傍にいる。
「だから」
だから、好きになってほしい。好きだと認めてほしい。自分を求めてほしい。欲求なんていくらでも湧いてくる。だって、生まれてはじめて、すべてをほしいと思った人なのだ。
だから、真木にも、同じように手を伸ばしてほしかった。諦めたりせずに。
「本当に、馬鹿で真面目だね、おまえは」
「……え」
戸惑いたくなるほど、優しい声だった。
「困る」
柔らかい瞳が、自分だけを映している。目の当たりにした現実に、泣かないと決めた端から泣きそうになって、どうにか日和は呑み込んだ。ずっと好きで、でも、どこか遠くて。手を伸ばしても届かなかったものに、ようやく指先が触れた気がしたのだ。
つくりものの笑顔でも、強固な偽りでもない、自然な感情。たぶん、自分は、これがずっとほしかったのだと思う。
「かわいくて、本当に困る」
ここまで絆されるつもりはなかったのだと、彼は言った。
受けた試験は、これでふたつとも無事に通過したことになる。安堵しているのに、どこかで素直に喜び切れない。その原因を重々承知している日和は、頭を抱えて机に突っ伏した。
落ちたのか、あいつ、という同情の視線が斜め前から送られてきたが、もうなんでもいい。
――あれだけ水原に言われたのに、俺、結局、真木さんに一度も言ってない。
相談というかたちを取れた時期は、もう過ぎ去っている。いや、でも、と思う。真木さんも、俺になにも聞かなかったしなぁ。
ぐしゃと髪を掻き混ぜて、日和はのろのろと頭を上げた。聞かないということは興味がないということなのかもしれない、なんて。浮かんだマイナス思考をどうにか振り切る。ここまできたら、試験対策あるのみだ。
二次でどちらも落ちた日には、目も当てられないだろう。そう言い聞かせてペンを握る。
――親には、言えたのにな。
地元も受けるけど、こっちも受ける。どっちも受かったら、地元には帰らないと思う。どこを受けるつもりなんだと聞かれたとき、日和はそう伝えた。父も母も残念そうな表情は見せたけれど、日和自身が決めたことならと反対はしなかった。
おまえの人生だから、とも言われた。そうだと思う。それなのに。
知らず溜息がこぼれ落ちていく。いつまでも悩んでいることはできないとわかっているのに、どうにも勇気が出なかった。
「そういえば、そろそろ一次の合格発表だったんじゃないの」
不意にそう問われて、日和は固まった。大学の定期試験が終わった、八月の頭である。試験は終わったとばかりに真木の家に一週間ぶりに顔を出したのが、つい三十分前のこと。
蒸し暑い夏の夜道をふらふらと自転車でやってきて、水を飲んでようやく人心地ついたところに飛んできたそれに、嫌な汗がにじむ。
開け放たれた窓からは、よくわからない虫の声が響いていて、なんだかいやにのどかだ。現実逃避のような思考を脇に置いて、ぎこちなく日和は頷いた。
「あ、はい。一応、受かりました。おかげさまで」
「おかげさまって、なにもしてないけど」
また真木の視線がパソコンに落ちる。キャンプの準備で通常の仕事が圧迫されているのか、暑さが増してきたころから真木は一段と忙しそうだ。
――手伝えるなら手伝いたいけど。そもそも、俺、今年はキャンプにも行けないしな……。
二次試験の日程と被りそうだと申告した瞬間に、来るなと留守番を命じられている。
「いや、あの。真木さんの家でもやらせてもらったんで。ひとりより集中できたし」
「雑音あるほうが集中できるタイプ?」
「そうかも。あの、それで」
「ん?」
「地元と、ここも、受かりました」
キーボードを打っていた音が止まる。
「日和、地元を専願で受けてたんじゃなかったのか」
非難されていると感じるのは、自分の心の持ちようの問題なのだろうか。つい「併願の子も多いし」と言い訳を口にする。その答えに、真木はひとまず納得したようだった。
「併願できる日程だったら、そんなもんか」
「え、……と。まぁ、そんな感じで」
「それで? どっちも受かったら、どうするの」
じっと見つめてくる視線に耐えかねて、手のひらをぎゅっと握り込む。
「こっちに残ろうかなって思ってます、けど」
なにを言われるだろうかと心臓が脈打つ。けれど、真木は静かに瞬いただけだった。ふっと視線が手元に落ちて、またすぐこちらに戻ってくる。
「日和は」
「……はい」
「なんで、教師になろうと思ったんだっけ」
説教されているようで胃が痛い。恋人ではなく、保護者の声。とは言え、ここで逆切れをしても、きっと話は進まない。そう観念して、日和は口を開いた。
「身近な家族がみんな教師なんで、漠然と俺もなるんだろうなとは思ってましたけど」
「うん」
「主体的になりたいって考え始めたのは、つぼみで真木さんやみんなと関わるようになってからで」
子どもたちとしっかり向き合い成長させていく真木の姿に、こんな先生になりたいと夢見ていた幼少期を思い出した、ということでもあった。恵麻や雪人、凛音たちと接する中で、子どもたちと関わる仕事の意義や熱量を体感できたから、ということでもあった。
すべて、この場所で、この人たちと出逢って、与えられたものだ。
「だから、場所はどこでもよくて。むしろ、つぼみのあるここがいいと思って」
なにひとつ嘘は言っていないはずなのに、練り上げた志望動機は、なぜかやたらとたどたどしい。真木が相手だから、過剰に緊張しているのだろうか。
余計な口を挟むことなく話を聞いていた真木が、そこでようやく反応を示した。
「そう」
良いも悪いもない、ただの相槌。
まただ、と思った。怒りたいのか、泣きたいのかもわからないまま。この人は、またこうしてなにも言ってくれないのか。その事実は、反対されるよりもずっと堪える気がした。覚えた痛みを誤魔化すように、日和は問いかける。
「真木さんは、どうしてつぼみで働こうと思ったんですか。教免も取ったんですよね」
「俺?」
そう応じた真木の声はわずかに億劫そうだった。あれ、と思う間もなく、彼の視線が手元に落ちる。
「教免取ったのは、優海さんが取れるものは取っておけって引かなかったから、しかたなく取っただけ」
「優海さんが……」
「つぼみが嫌になったときに、逃げ道がないとやばいって思ってくれたんだろ。でも、俺は公教育そのものがあまり好きじゃなくて」
大学も教育学部だったけど学科は心理だったし。学校の先生になるつもりなんて、いっさいなかったんだよ。でも、心理は大学を出ただけじゃ資格すら取れないしね。
淡々とした説明に、どう言えばいいのかわからないまま小さく頷く。もう一年以上一緒にいたのに、こういったことを聞くこともはじめてだった。
「俺は日和みたいないい子じゃなかったから。画一的な教育と反りが合わなかったクチなの。学校っていう箱が苦手だった。……まぁ、だから、同じように感じる子どもたちの受け皿をつくりたかったのかもしれない」
それは、この人の言う「普通」の枠組みから、彼自身が外れていたからなのだろうか。
「なんてことも、最初は考えてたんだけど」
ふっと日和を見ようともしない横顔が笑う。
「いざ関わってみたら、かわいくて、かわいくて。その子たちが出て行っても、またべつの子たちが入ってくるし。その子たちもまたかわいくて。この子たちが過ごしやすい場所をって。そう思ってやってるうちに、ここまで来ちゃったんだよね。ただそれだけ」
「そうなんですか」
なんだかそれは、いかにも日和の知る真木らしい理由だった。そうやって、この人はつぼみに来る子どもたちをずっと大切にしてきたのだろう。
「それで、俺も正規スタッフになって、今年で四年目。関わり出してからなら、八年目になるんだけど」
「そんなに」
「そう。そんなに。それでも、優海さんにはよく怒られる」
あの人には敵う気がしないんだよなぁ、というのは、いつだったか羽山が言っていた台詞だ。
自分が真木に影響を受けたように、真木も彼女に影響を受けて道を決めたのだろうか。容易いはずの想像は、けれど、うまくできなかった。
「子どもたちの今に寄り添うのもいいけど、それだけじゃなく、もっと将来に向けても考えてやれって」
将来。たとえば、紺が、通信制ではない全日の公立高校に進学し、休まず通学を続けていること。恵麻と雪人が、通信制の学校で、レポートの提出に追われながらもがんばっていること。香穂子が、ちゃんと三月いっぱいでつぼみを卒業したこと。
たとえば、俺が――学生でなくなること。
ようやく真木の視線が日和のほうを向く。その瞳はどこまでも静かだった。
「それで、俺は、ついでに日和の将来も考えてみたんだけど。おまえ、いつまでもこんなことしてていいの」
こんなこと。こんなことってなんだ。その言い草に、身体の芯が冷えた気がした。
自分が好かれているのかわからなくて、不安で。でも、それ以上に傍にいたくて、いつか不安がなくなればいいと願って。けれど、たとえ不安があっても、隣にいれば、ただ幸せで。だから、ずっとこうしていたいと思っていた。
その時間が「こんなこと」なのか。絞り出した声はかすかに震えていた。
「なに言ってるんですか、俺は……」
「だから。いつまでも子どもみたいなことを言うなって言ってるんだ。おまえも、ちょうど今が将来を見据える良いタイミングだろ」
「子どもでいろって言ったのは、あんただろ」
八つ当たりのような、あるいは、駄々のようなそれを、あっさりと真木は笑い飛ばした。
「もう少しって言っただろ。いつまでもそのままでいられないことくらい、誰だってわかる」
春になる、ほんの少し前のことだ。もめごとに巻き込まれるなんて絶対に嫌だし、自分が首を突っ込んだほうが面倒になるとわかっていたのに、この人がいたから無視できなくて踏み出したことがある。そのときに、たしかに言われた。
あのときから、この人には終わりが見えていたのだろうか。日和が悩みながらも進めてきた日々は、終わりへのカウントダウンと大差なかったのだろうか。
暑いくらいだったはずなのに、いつのまにか指先は冷たくて、隠すように握りしめた。
「それで、その期限がきたってだけの話だ。さっきも言ったけど、ちょうどいい区切りだろ。おまえは地元に帰る。教師になる。まぁ、良い教師になると思うよ、おまえは。その顔があったら、母親受けも良さそうだしな」
日和が嫌がると知っていて、さらりと容貌を揶揄してみせる。この人の拒絶は、本当にどこまでも受動的だ。ずるい。日和が主体的に嫌いになればいいと思っている。見切りをつければいいと勝手に考えている。
「俺はここにいる。今までどおり」
「真木さん」
「おまえは、ちゃんと先に進めばいい」
「……真木さん」
意識すらできないまま、祈るような声になっていた。届いてほしい。知ってほしい。認めてほしい。思えば、もうずっと、自分はそんなことばかりを願っている。
「好きです」
一度も好きだと言ってもらったことがない。たったの一度も。そう理解してなお、諦め切れなかったことと、きっと同じで。
「俺は好きです」
藍色のカーテンが、かすかに風に揺れていた。夏の夜の音がする。その動きを追うように、真木の視線が逸れる。返ってきたのは、溜息まじりの声だった。
「もう、何回も聞いたよ、それは。一生分、聞いた。この一年で。だから、もういい」
「っ、なんで」
「おまえのそれは『恋』でもなんでもないから忘れろって、また言われたいのか」
唇を噛みしめる。泣き落とすわけにはいかないと思ったのだ。同情をされたいわけではない。けれど、このまま流されたくもなかった。
それとも、いっそ、すべてをなかったことにしたほうが幸せなのだろうか。この人の言うとおり。脳裏を掠めた囁きに、日和は視線をテーブルに落とした。
今まで一度も考えなかったと言えば、きっとそれは嘘になる。
姉に、あるいは母に。付き合っている人がいるなら連れて帰ってきたらと言われても、曖昧に濁すことしかできなかったとき。付き合っている誰かが女性であるという前提を強要されていると感じてしまったとき。
水原が、当然のように付き合い出した彼女の写真を見せてきたとき。おまえもいいかげんに見せろよと強請られても、断る以外に道がなかったとき。
けれど、それでも、捨てられなかった。楽かもしれないと考えたことはあっても、その天秤にかけて捨てようと思ったことは一度もない。ゆっくりと顔を上げる。
「俺は……」
言いたいことが身体中を巡っているみたいで、なにを言えばいいのかわからなくなった。俺は。あなたは。
急かすこともなく、真木はただ日和を見ている。ただ、静かに。つぼみにいるときと、変わらないそれで。
――嘘なんて。
嘘なんて吐きませんという顔で、平然と嘘を吐く。子どもたちはなにをしても守るくせに、俺のことは平然と傷つける。それでも、好きだった。気づいたときには、手放せなくなっていた。
なにがよかったのかと問われても、思いつくものは、すべて後付けの理由になってしまう。
優しいところ、だとか。仕事に熱心なところ、だとか。なんでもできるように見えて、自分のことには死ぬほど鈍感そうなところ、だとか。いくらでもある。けれど、気がつけば視線で追って、隣にいたいと願うようになった。それが、すべてだ。
隣にいたい。できれば、これからも、ずっと。優しくされたくないわけではない。でも、それ以上に優しくしたい。せめて、俺だけでも誠実でいたい。
この気持ちが恋ではなかったら、なんだというのだ。
「真木さんに、否定されるようなものじゃない」
否定されたからといって、変わるものでもない。これは俺の感情だ。この人と出逢って、ずっとずっと育ててきた俺の感情。
「なかったことにしようとしても、俺は……、俺の気持ちは、変わらないし。ずっと好きだし、今までだって、好きだったし」
一度も視線を外さないまま言い切って、その先も続けた。ほんの少し、迷ったけれど。
「真木さんだって、そうじゃないんですか」
でも、きっと、そうだと日和は思う。そうでなければ、この人が、一時でも受け入れるはずがない。
それに、もし。もし、本当にその気がなかったら、もっと上手に振っていたはずだ。一番、最初に。深入りする前に。もっと、早く。
「おまえさ、実際、この半年か。どうだった? 少しも後悔しなかった? 誰にも言えない、女の子とやってたみたいな普通のこともできない、親兄弟にも言えない。楽しいか」
日和の問いの答えだとは到底思えない台詞を、淡々と真木が口にする。
「一時だったら、その秘匿感も刺激になるのかもしれないけどな。延々と続くとなったら、また違うだろ」
それこそ、そういう問題じゃないと言いたかった。そうじゃない。男同士だからどうだという話をしていたのではない。日和と真木の話を、ずっとしていたつもりだ。つもりだった。
「あなたの隣はあたたかいのに、寂しい」
ぽつりとこぼれたそれは、ほとんど無意識だった。驚いたように、真木が日和を見る。ずっと視線は合っていたはずなのに、ようやく目が合った気がした。
「俺の好きばかりがあふれ返っていて、ずっと不安だった」
「……嫌いだった、わけじゃないよ」
声に感情が混ざったと思ったら、これだ。泣き笑いのような微笑が唇に張り付く。日和を見つめたまま、真木が繰り返した。
「嫌いだった、わけじゃない」
それなら好きだと言ってほしかった。その言葉があったら、寂しくなんてないのに。寒くなんてないのに。
「さっきの質問ですけど」
頭はごちゃごちゃだったけれど、ひどいことを言いたくはなくて。努めて小さく息を吐く。そうしてから、日和はゆっくりと切り出した。
「俺は、あなたとの付き合いに、女の子としてきたような付き合いを求めたつもりはいっさいないし、秘密の恋愛に酔ってたつもりもない。ただ、一緒にいたくて、好きだから傍にいたくて。それだけで」
この家で夜を過ごすことが好きだった。直接的な触れ合いがなくても構わなかった。自分は問題集を開いて、この人はずっと仕事をしていても。それでも幸せだった。
同じ夜を共有できるだけで、本当に十分だったのだ。俺はなにも必要以上に求めていないつもりだ。けれど、そのささやかな幸せも、この人は過分だと言うのだろうか。
「べつに、みんなから祝福されたいとも思ってないし。あなたが許してくれるなら、それで」
よかった。好きだったから。好きだから。ほかのなにがなくても、それだけで。自分の想いをしっかりと伝えることができているのかもわからないまま、一息に振り絞る。
「それで、よかったんです」
沈黙が苦しかった。虫の細い声と、通りを行く人の笑い声がかすかに響いて、また遠くなる。心臓の音さえ聞こえそうな夜の中、吐息のような声が笑った。
「本当に、おまえは馬鹿だな」
いつもの軽口のはずなのに、泣いているように聞こえて、下がりかけていた視線が止まる。
「今なら、離してやるつもりだったのに」
「え……」
「俺がどれだけ必死で、大人として振る舞ってやってたと思ってんだ」
瞳を瞬かせた日和に、目を伏せたまま真木が苦笑をこぼした。
「たかだが数年先に生まれただけで、そんなに立派な人間なわけがないだろ。それなのに、会ったころからずっとおまえが過大評価してくるから」
「そんなこと……」
「あるんだよ。今は、おまえは学生だから、俺がすごいふうに見えてるのかもしれないけど。働き出したら、こんなものだったのかって思うようになるよ。わかるようになる」
俺が教師になって。この人がつぼみで働いたのと同じだけの経験を積めば、この人に追いつくことができるのだろうか。日和にはわからない。わからないけれど、もし、この人が、俺が追いついたと感じてくれる日が来たとしたら。
「そうなったら、俺に甘えてくれますか」
そうなれば、世界は変わるのだろうか。この人との付き合い方は変わるのだろうか。わからない可能性に縋りつくことの無意味さも理解しているのに、言葉が止まらなかった。
「俺に本心で向き合ってくれますか」
いつだって日和が聞きたいのは、それだけだった。握った拳の中で指先が震える。再び生じた沈黙のあとで、真木が口を開いた。
「自分で言うのもなんだけど。面倒だと思うよ、俺」
自嘲を多分に含んだ声に、知ってます、と応じる。
以前、似たようなことを羽山も言っていた。泣かせないと思うけど、泣かせるなよ。そうも言われた。
「よく言われるんだけど、誠実でもなんでもないし」
「誠実だから、好きになったわけじゃないですよ」
だからと言って、誠実でないとも思わないけれど。
「どちらかと言わなくても、臆病だと思うし。諦めも早いしな」
「はい」
「未来のある誰かを自分の傍に引き留めておくのは、怖いと思うし」
真木の口から怖いという言葉を聞いたのは、はじめてだった。
「それが幸せになってほしい誰かなら、なおさら」
「幸せ……」
「いつか、見切りをつけられることも怖いと思うし」
なんで、この人は過分を求めないのだろう。ずっと、日和は不思議に思っていた。なんで、そんなふうに、すべてを諦めた顔で、すべてを失うことが前提の顔で笑うのだろう、と。
「真木さん」
呼びかけに、伏せていた視線が上がる。机上に置かれていた真木の手に、そっと日和は手を伸ばした。夏なのに、冷たかった。自分と同じ。
「身近な約束を積み重ねさせてください」
笑えているかどうかの自信はなかった。できるだけ重くならない調子で言い募る。
「明日の朝、一緒に起きるでしょ。たまにはしっかり朝も食べて、良い天気だったら、どこかに出かけてもいい」
「どうすんだよ、勉強は」
「昼間やらなかったら、夜にやります。大切な人のために多少の時間を割いても、落ちません」
歯の浮くような台詞だと自分でも思った。でも、すべて事実なのだ。この人と会う前の自分には、信じられないことだろうけれど。
誠実にありたいと思っていることも、流されることなく自分の意志で未来を決めたいと思っていることも、自分以上に大切な誰かができることも、ぜんぶ。
かつて面倒だと切って捨てたすべてが、なんだか無性に愛おしかった。
「採用試験は受かるようにがんばります。ここに」
それが絶対に正しい選択なのかはわからないけれど、今の日和にとって一番重要だったのは、真木の傍にいることだったのだ。この人の傍で仕事をして、生きていきたい。
「四月からも、またこうして俺と時間を過ごしてください。最初のうちは、へろへろになってるかもしれないし、文字どおりこの部屋で寝るだけになってるかもしれないけど」
「……それはちょっと想像がつくな」
ほんの少し応じる声が和らいで、指先からじんわりとした熱が伝わる。目の奥が熱くなりそうになって、誤魔化すようにぎゅっと指先に力を強めた。
「そうやってるうちに、俺が隣にいるのが、きっとあたりまえになるから」
伝わってほしくて、ただ必死だった。いつか、そうやって信じてもらえるようになりたい、と。切実に願っている。
「ずっと傍にいるって、思えるようになる」
「それって、恋か?」
呆れたふうでしかない言い方だったのに、少しほっとしてしまった。いつもの真木だ。
いつもどおりでなくていいし、弱いところも見せてほしいと本当に思っているけれど、それはそれというやつなのかもしれない。力の抜けた気分で、へにゃりとほほえむ。
「恋でしょ。少なくとも、俺はそのつもりですけど、もうずっと」
おまえのそれは恋じゃない、と。何度否定されたかわからない。それでも、俺は、刷り込みでもなんでもなく恋だと思うし、この人もそうだと思っている。
「というか、さっきも言いましたけど。真木さんも、ちゃんと俺のこと好きでしょう」
強がって断定したくせに、緊張で今にも声は震えそうだった。
数秒待っても、違うという答えは返ってこなかった。その代わりのように、真木の視線が伏せられる。うつむき加減の表情は、日和からはよく見えなかった。
それでもじっと見つめていると、会ったばかりのころに聞いた恵麻の声をなぜか思い出した。全幅の信頼を置いているのだとすぐにわかった、甘えを含んだ調子。
――まきちゃんは、嘘は吐かない、か。
たしかに、俺のことを嫌いだって言ったことは一度もないんだよな、この人。
気づいてしまえば、馬鹿だな、としか思えなかった。不器用で、そのくせ、変に頑なで。まっすぐで。弱いのに、強い。嫌になるほどに。
「だって、俺のこと好きじゃなかったら、こんなことになってないでしょ」
「こんなことって、おまえね」
「嫌味です。言葉尻に引っかかるくらいなら、最初から真木さんも言わないでください」
「……なんか急に図太くなったな、おまえ」
憮然とした声に、つい笑ってしまった。
「開き直ったんです。それに」
「それに?」
「俺が振られても泣かないようになったら弱音も吐いてくれるって、そう言ったでしょ」
いつか。泣きながら縋りついた瞬間が、笑い話になる日まで。自分は絶対に傍にいる。
「だから」
だから、好きになってほしい。好きだと認めてほしい。自分を求めてほしい。欲求なんていくらでも湧いてくる。だって、生まれてはじめて、すべてをほしいと思った人なのだ。
だから、真木にも、同じように手を伸ばしてほしかった。諦めたりせずに。
「本当に、馬鹿で真面目だね、おまえは」
「……え」
戸惑いたくなるほど、優しい声だった。
「困る」
柔らかい瞳が、自分だけを映している。目の当たりにした現実に、泣かないと決めた端から泣きそうになって、どうにか日和は呑み込んだ。ずっと好きで、でも、どこか遠くて。手を伸ばしても届かなかったものに、ようやく指先が触れた気がしたのだ。
つくりものの笑顔でも、強固な偽りでもない、自然な感情。たぶん、自分は、これがずっとほしかったのだと思う。
「かわいくて、本当に困る」
ここまで絆されるつもりはなかったのだと、彼は言った。



