好きになれない

「おはようございます」
 傘を閉じて玄関わきの傘立てに入れる。予備の傘のほかに入っている傘は四本。
 ――あ。
 見覚えのあるピンクの傘の柄にあった名前シールに、日和は目元を笑ませた。凛音だ。教育実習を終えてつぼみにやってきたとき、凛音は不参加だったから、会うのは実に一ヶ月ぶりだ。
「おはよう」
 和室に顔を出すと、珍しく暁斗まで恵麻や雪人といった女の子たちに混ざって、机の周りに集まっていた。その中心にいるのは凛音だ。ひさしぶりに彼女が顔を出したことが、うれしかったのだろう。
「ぴよちゃん、おはよう」
 日和に気がついた凛音が、ぱっと顔を上げる。ひさしぶりだねと言ったほうが自然なのだろうかと悩みつつも、「今日は雨降りだったね」という無難な台詞を日和は選んだ。笑いかけると、緊張の混ざっていた瞳がどこかほっとしたものに変わる。
 その顔に浮かんだはにかんだ笑みに、日和も心底ほっとした。ぎこちなくても笑おうという気力があるのなら十分だと思う。去年の今ごろに比べて随分と伸びた髪を、今日は高いところでひとつにくくっている。その毛先を指先でいじりながら、凛音が軽く唇を尖らせた。
「おかげでね、髪型がちっとも決まらなかったの」
「そう? かわいいよ」
「ぴよちゃんに言われても、なんか素直に喜べない」
 純粋に褒めたはずが恨みがましい瞳を向けられて、日和は頭上に疑問符を飛ばした。
「なんで?」
「なんでってー……」
 理由はわからないけれど、なんだか本格的に拗ねさせてしまったような。
 凛音の情緒が不安定なのか、それとも自分の発言によほどの不備でもあったのか。立ったまま固まっていると、背後の襖ががらりと開いた。
「日和みたいになんでも揃ってるやつから言われたら、むくれたくもなるよな」
 真木の声は笑っていたが、理不尽極まりない。真実を探るべく凛音に視線を移せば、むすっと頬を膨らませられてしまった。
 逸らされた視線に図星だったらしいと察して、なんとも言えない苦笑いになる。女の子の扱いは難しいなぁと思っているうちに、凛音が真木に絡み出した。
「というか、まきちゃんだって直毛じゃない。梅雨の湿気に苦労したことなんてないでしょ」
「凛音と違って気にしてないからな。凛音だって、俺が鏡ばっかり見てたら嫌だろ」
「……それはそうかも」
 堪え切れなかったように笑ったのを皮切りに、機嫌を直すことにしたらしい。その空気を察知したのか、安心したふうに雪人が笑う。
「小山内さんも嫌だな。ぴよちゃんならいいけど」
「こら。ついでみたいにしてディスるな。小山内くんもかわいい顔してるだろ」
「いいですよ、真木さん。そんなに無理にフォローしていただかなくても。日和さんが別次元なんです、大丈夫です、わかってます」
 玄関先から届いた声に、日和はそうだったと思い出した。そうだ、今日はもうひとりスタッフがいるのだった。雨の音が強まって、またすぐにくぐもった音に変わる。
「ごめん、ごめん、小山内さん。嘘、冗談」
 彼からは、慌てて顔の前で両手を振る雪人の姿は見えていないだろうが、明るい笑い声が返ってきただけだった。
「ごめんね、雨なのに」
 廊下に戻る真木の背中越しに雨に濡れたスーパーのビニル袋がふたつ見えて、思わず首を傾げる。その日和に、恵麻が察し良く口を開いた。
「そっか。先週、小山内さんお休みだったもんね。あのね、ぴよちゃん。最近の火曜日のお昼ごはん担当は小山内さんなの」
「え……」
 なんとも言えないショックに、呆然と呟く。
「真木さん。俺には一回もごはんつくれるとか聞かなかったくせに」
「気にするところ、そこなんだ。ぴよちゃん」
 おかしそうに笑った恵麻が、廊下に向かって声を張り上げた。
「まきちゃーん。ぴよちゃんがショック受けてるけど。教えてあげてなかったの?」
「教えるって」
 呆れた声が返ってくる。
「直接、日和に関係ないだろ」
 そりゃ関係ないけど。内心で不貞腐れていると、「まきちゃんは年々、ぴよちゃんの扱いが雑になってるねぇ」と訳知り顔で凛音が頷いている。完全にご機嫌は直ったようだ。
 台所では和気あいあいとしたやりとりが交わされていて、なんだかそれが妙に面白くない。無論、顔に出す気はないが。
「掃除しよ」
 ついでに、心も綺麗さっぱりしてしまいたいと、ひとりごちて立ち上がる。
「ひさしぶりだね、ぴよちゃんのお掃除タイム。手伝ってあげようか」
「いいの?」
「うん」
 もしかして先ほどのお詫びのつもりなのだろうか。せっかくの凛音の提案を無下にすることも気が引けて、「じゃあ、一緒にしようか」と笑いかける。横に並ぶと、身長も去年の今ごろに比べて伸びていることがよくわかった。
 ――一年経てば、この年頃の子は見違えるよな。
 喜ばしいことではあるが、どこかもの悲しい。
 子どもを持つ親になれば、誰しもがこんな感覚に陥るのだろうか。いや、親でなくとも、教師になって学級担任を持つようになれば、三月末には同じような感慨を得るのかもしれない。
 廊下の突き当たりにある洗面所で洗った雑巾の水気を絞りながら、凛音がすぐ隣にある台所に向かって声をかけた。恵麻との会話が気になっていたらしい。
「ねぇ、まきちゃん。まきちゃんは、ぴよちゃんがお料理できないって知ってたの?」
「できるの? おまえ」
「できませんけど」
 正直に告げてから、日和は付け足す。
「最低限はできます」
「まぁ、ひとり暮らしだもんな。最低限もできなかったら問題だ」
 おざなりな返答に、日和は無言で凛音から渡された雑巾を絞った。必要以上に固く絞ってしまった気がしないでもないが問題はない。
「ぴよちゃん、大丈夫だよ。小山内さんのお昼ごはん、まきちゃんがつくるよりおいしいよ」
「いや……」
 そういう心配をしていたわけではないとの否定が、小山内の声でかき消える。
「真木さんのもおいしいですよ。僕、地元がもっと西なんで、こっちの味も知れてうれしいです」
「そういや、小山内くん、広島だっけ。あんまり方言でないよね」
「敬語だとでないですね。でも発音がちょっと訛ってませんか」
「ちょっとはね。でも、かわいいよ。なんだっけ。広島弁って、女の子が使ったらかわいい方言なんだっけ」
「そういえばそんなランキングありましたね。よく知ってますね」
「恵麻が言ってた」
「なるほどー。恵麻ちゃんか」
「日和?」
 口を挟まない日和を不審に思ったのか、呼びかけられてしまった。きょとんと見上げてくる凛音の瞳に我に返る。
「……え? いや、はい」
「採用試験の準備で疲れてるんだったら、休んでもいいよ。大丈夫か」
「大丈夫、です」
「じゃ、掃除終わったら、勉強よろしく。凛音もな」
 ぴよちゃんと凛音に袖を引かれて腰を屈める。やばい。俺、今、絶対、無だった。
「なに? 凛音ちゃん」
「んー、やっぱり、なんでもない。あたし、お勉強部屋の机を拭いてくるね。ついでに、そのままお勉強の準備する」
「あ……うん。ありがとう。じゃ、俺が向こうの和室をやるね。恵麻ちゃんたちにも声かけておくから」
 掃除をしたら、心も綺麗になるとか言ったのは、誰だ。俺か。まったくすっきりなんてしないじゃないか。自分自身に辟易しながら、無心で机を磨く。
 ――この場所に、私的な感情を持ち込むようじゃ末期だ。
 重々にわかっているつもりだったのに、やりそうになってしまった。自己嫌悪を呑み込んで、どうにか感情を整える。それができなければ、来るなと言われてもなにも言えなくなってしまう。
 そうなってしまうことは、絶対に嫌だった。